『鬼斬人』1 ― 『白』と『天』
「おい聞け白。お前は本当にめんどくせえ奴だな」
夜の道を切り裂くように、その声が背後から忍び寄った。
雲が薄くかかり、月はぼんやりと滲んでいる。道はその淡い光を受けて灰色に沈み、両脇の林は墨を流したような闇だ。
忠親は振り向かず、右肩を軽く揺らしただけで応えた。歩幅は変えない。
「どんな鬼がいるかも分かっちゃいねえんだ。待ってりゃそのうち気配がする」
背後の声は湿った風のように耳にまとわりつく。
忠親は額に垂れた髪を指で払うと、前を見据えたまま、かすかに口を歪めた。
「いやな予感がする」
その声には、体の奥で固まった何かが滲む。
「もし鬼が現れるなら、その瞬間を見たい。鬼はどうやって出てくる? 何か兆しがあるはずだ」
足元の砂利がしゃり、と鳴る。その乾いた音が夜気に刺さるように響き、すぐに吸い込まれて消えた。
「兆しなんてねえ」
酒呑童子は鼻で笑った。笑いは短く、低く、闇の中でくぐもる。
「鬼ってのは欲望に弱ぇ。どれだけ賢くても、最後は衝動に負ける。だから鬼なんだ」
忠親はその言葉にすぐ返さず、一歩、また一歩と歩を進めた。
林の向こう、黒い枝の隙間からわずかに星が覗く。
ひと呼吸置いてから、視線を酒呑童子の声が聞こえてくる方向へと向けた。
「衝動……本能か?」
「ああ、殺してえって本能と、鬼神になりてえって欲望だ」
夜風がふっと吹き、二人の間を割った。
枯れ葉が一枚、地面を擦るように滑り、石の上で止まる。
「鬼神になると、どうなる?」
忠親は問いかけながら歩幅を緩め、足先で転がった小石を軽く蹴った。
小石は路肩にぶつかり、乾いた音を立てて止まった。
遠くで犬の吠える声が短く響く。
「……知らねえ。俺は“頭領”までしか見ちゃいねえ。その先は闇だ」
その言葉の重さを受け、忠親はしばし黙った。
外から見れば、ただの男が独りで夜道に立ち、何事かを呟いているだけだ。
だが、その声は忠親の内に棲み、幼い頃から決して離れなかった。
心臓の鼓動と同じくらい、当たり前にそこにある存在だった。
「鬼は鬼を滅ぼせない」
酒呑童子の声が、湿った土と根の匂いを纏って届く。
「倒れても依り代があれば蘇る。依り代は……人間だ」
「なるほど、人間を依り代に……」
忠親は立ち止まり、闇に目を凝らした。
林の奥から夜鳥の声が一度だけ響き、また静寂が降りる。
「鬼に殺された魂は?」
「輪廻には戻れねえ。外の闇に沈むだけだ」
その言葉の後、空気が固まったような間が訪れた。
虫の鳴き声と、遠くで流れる川の音だけが世界を満たす。
「――あの飯屋には“餓鬼”がいるだろうな」
「餓鬼?」
忠親は眉を寄せた。
鼻先に、飯屋の方角から漂う油と香の匂いが届く。
だがその匂いは妙に重く、喉にざらつくような不快さを伴っていた。
「食っても満たされず、食えば食うほど渇くのさ」
「娘がバラバラにされたのも、それか?」
「馬鬼の線もあるが、あいつは荒っぽすぎる。厠まで壊してねえなら違ぇだろ」
忠親は黙ったまま数歩進み、左の林に目をやった。
月明かりに照らされ、一本の幹が不自然に白く浮かび上がっている。
近づくと、それは刃物でえぐられた生々しい傷だった。
「……天、あれを見ろ。刀傷だ」
「ああ、見えてる」
酒呑童子の声がわずかに愉快げになる。
忠親は幹に掌を置き、傷口を指先でなぞった。
ざらつく木肌、そこから滲む樹液が指を湿らせる。
鼻先に甘く青い香りが立ち昇った。
「おい白……死体がある」
酒呑童子の声と同時に、湿った血と腐臭が確かに鼻を打った。
忠親は息を止め、闇の奥へと足を踏み入れる。
落ち葉が靴底で潰れ、ぬかるみがじわりと沈む。
林の奥は、月明かりが届かず闇が濃い。
だが、その中に、不自然に白く浮かぶものがあった。
それは、うつ伏せの男の死体だった。
近づくほどに、匂いが濃くなる。血の鉄臭さ、腐りかけた肉の甘い匂い、湿った土の匂いが混じり、胃の奥を逆撫でする。
着物の柄に見覚えがある――あの飯屋の旦那だ。
仰向けに返すと、そこに顔と呼べるものはなかった。
舌の付け根から脳天まで皮膚が剥ぎ取られ、骨と赤黒い筋肉がむき出しになっている。
断面は月光を鈍く反射し、眼窩は空洞のまま、黒く固まった血が溜まっていた。
口の奥からは、まだぬめりを帯びた血がじわりと滲み出ている。
生温い風がそれを撫で、鉄の匂いをさらに拡散させた。
忠親は思わず顔を背け、唇の端で舌打ちした。
「くそっ……やはりか」
林を出て、彼は飯屋の方角を睨む。
そして駆け出した。
昨年の洗濯女殺し――あの時、もっと早く気づいていれば。
悔恨が胸を焼くが、足は止まらない。
暖簾をくぐると、油と血と焦げの匂いが一度に鼻を刺した。
厨房は荒れ果て、鍋や包丁は床に散らばり、調理台は食い散らかされた残骸で覆われている。
白飯は桶からこぼれ、床板にべったりと貼りつき、そこへ汁物が混じってどろりとした池を作っていた。
池の表面には、肉片――しかも動物ではないとわかる色と形――が浮かび、油膜と血がまだら模様を描いている。
箸は半分に折れ、椀は中身を残したまま倒れ、汁が台から滴って板間に染みを作っていた。
生臭さに鉄の匂いが混じる。
忠親は足音を殺して進み、足先で転がった大根の輪切りをそっと避けた。
輪切りの断面には、妙に深い歯形が残っている。人間の歯ではない。
「……奥だな」
酒呑童子の声が耳の奥でくぐもる。
忠親は視線だけを向け、ゆっくり奥戸へと歩み寄った。
奥戸は半ば開け放たれ、夜の空気がぬるく流れ込んでいる。
外からは虫の鳴き声がかすかに聞こえるが、それを打ち消すように――
ぐすっ、ぐすっ、と湿った嗚咽が近くで続いていた。
踏み込んだ先、土間の隅に、ひとりの老人がうずくまっていた。
背は高いが、痩せこけ、頭にはぼろぼろの手拭いを巻いている。
この店の男衆、「ねずみ」と呼ばれる老人だ。
だが今、その姿は異様だった。
彼は、自分の左腕――肘から先がごっそりと失われた、真新しい断面――を、まるで赤子を抱くように右腕で抱きしめていた。
切り口からはまだ血が滲み、土間に小さな赤黒い滴を点々と落としている。
老人の頬には涙と鼻水が筋を作り、口元は引きつって痙攣していた。
だが、その口から漏れる声は、泣き言とも呪いともつかない。
「……捨丸のやろう……捨丸のやろう……捨丸のやろう……」
ぶつぶつと、途切れることなく繰り返す。
声はかすれており、時折、喉の奥でくぐもった笑いのような音が混ざる。
その目は虚ろに奥戸の外を見つめ、焦点は合っていない。
握られた自分の片腕の指はまだ僅かに痙攣していて、爪先が老人の胸元をかすかに引っかいた。
忠親は足を止めた。
土間に漂う空気は、汗と血と生肉の匂いで重く、肺の奥を汚す。
酒呑童子が、低く、しかし愉快そうに呟いた。
「……面白え夜になりそうだな、白」
土間に蹲る「ねずみ」の嗚咽が、不意に途切れた。
外の闇の向こうから、何かが走る音――いや、這うような、しかし壁や床を選ばぬ動きが響いてくる。
湿った肉が床板に叩きつけられる音と、骨が軋む音が混じり、廊下の向こうから近づいてくる。
「……来やがったか」
酒呑童子が笑う。
忠親は廊下の暗がりに目を凝らす。
だが現れた影は、すぐに別の方向へ消えた。
その奥――屋敷の方から、女の悲鳴が上がる。
突如、悲鳴は鋭く途切れた。
代わりに、ぐちゃ、ぐちゃ、と何かを噛み千切る音が響き、廊下を濡らす液体の音が続く。
酒呑童子の声が、今度は冷ややかに囁く。
「…奴め、覚醒し始めているか…」
屋敷の中は混乱の渦だった。
廊下を駆ける足音、倒れる音、襖が破られる音が四方から響く。
捨丸は、すでに人の姿を保っていなかった。
皮膚は張り裂け、骨が突き出し、腹は異様に膨らみ、口は裂けて歯がむき出し。
その手には、人間の胴の一部――臍から下が握られている。
腸が長く垂れ下がり、廊下に引きずられて血の筋を残す。
それを引きずりながら、奴は階段をのぼる。
段板は血で滑り、足跡が真紅の斑点となって残る。
奴の口元は笑っていた。
笑いながら、誰かの腸を犬のように引きちぎっては噛み、嚙んでは呑み込み、また引きちぎる。
くちゃ、くちゃ、ぬちゅ、ぬちゅ――その咀嚼音は廊下全体にねっとりと響く。
「かあ……さま……」
捨丸は階段を上がりきり、奥の廊下を進む。
「銭こもっ……できた……」
言葉の端から血が滴り、顎を伝って胸へと垂れる。
吐息は荒く、腐った肉と血の匂いが廊下を満たす。
途中、逃げ惑う若い女中を見つけると、小型の蜘蛛を思わせるような脚力で飛びかかり、迷いもなく首筋へかぶりつき、喉笛を引き裂いた。
女の体は痙攣し、声にならない息が漏れ、床に崩れる。
捨丸は咀嚼しながら、それを一瞥もせず奥へと進んだ。
廊下の突き当たり、障子の向こうが母の部屋――床の間のある遊女の間だ。
灯りがぼんやりと漏れ、障子紙の向こうに、女の影が見える。
捨丸は腸を咥えたまま、その影に向かってゆっくり歩を進める。
足元で、引きずられた腸が廊下の木目に血の線を描いていった。
捨丸は障子の前で立ち止まり、口端から垂れる腸の端を犬のように噛み切った。
血が畳に散り、すぐに黒い染みとなる。
手の甲で口をぬぐい、骨ばった指で襖を引き開けた。
ふっと、部屋の中の匂いがあふれ出る。
鉄と脂と腐臭が混ざった重い空気。
灯りはぼんやりと揺れ、床の間の正面には一人の武士が仰向けに転がっていた。
無造作に切り裂かれ、腹からは内臓がこぼれ、顔は――
皮をすべて剥がされ、白く滑らかな頭蓋と歯がむき出しになっている。
まるで旦那や洗濯婆の時と同じ、顔を削ぎ取られた無惨な死体。
武士の両眼はすでに眼球すら抜かれ、空洞からぬめる液体が溢れていた。
捨丸は死体に目もくれなかった。
床に散らばる血と臓物を踏みしめながら、部屋の奥――
黒地の布団の上に座る女へ向かって歩み寄る。
「ガア……サマ……」
喉の奥でくぐもった声を漏らしながら。
その口は血と肉片で濡れ、目は光を飲み込むようにぎらついている。
女――母は、ゆっくりと顔を上げた。
白粉はすでに汗と血で流れ、髪は乱れて肩にかかっている。
しかし、その顔は恐れを見せず、むしろ美しく微笑んでいた。
唇の端を柔らかく吊り上げ、息を吐きながら囁く。
「おやぁ……銭を持って来たのかい、坊や」
言葉の響きは甘く、部屋の血の匂いを忘れさせるほど妖しい。
母は片手を伸ばし、捨丸を指さす。
爪の間には赤黒い血が固まっており、その温もりが餓鬼の皮膚に移る。
「いいや……私の可愛い、可愛い捨丸や」
その声には、我が子というより、獲物を労わる雌獣の響きがあった。
次の瞬間、母は襦袢の前をゆっくりと外し、肩から滑らせた。
薄布が畳に落ちる音が、妙に大きく響く。
露わになった肌は、ところどころ血の飛沫で斑に染まっていた。
母はそのまま全裸で血まみれの布団に背を預け、脚を広げた。
艶やかな曲線に、赤黒い布団が絡みつく。
その目は決して逸らさず、餓鬼と化した息子をじっと見据えている。
唇から、甘く、ねっとりとした声が零れた。
「おいで……捨丸……母者が、可愛がってあげようぞ」
灯りが揺れ、畳に映る二人の影が絡まり合った。
捨丸は、母の甘い声に吸い寄せられるように一歩、二歩と近づき――
そのまま血の匂いの中へ飛び込んだ。
まるで獲物へ襲いかかる獣のように、全身をしならせて。
だが次の瞬間、
「ドンッ!」
と腹に衝撃が走った。
母の片脚が、槍のように鋭く突き上がり、餓鬼の身体を容赦なく蹴り飛ばしたのだ。
捨丸は空中を回転しながら畳の上を転がり、部屋の隅へと叩きつけられた。
肋骨のあたりで、骨のきしむ音が小さく鳴った。
餓鬼は顔を上げた。
――そこにいたのは、先程までの母ではない。
その顔は完全に変わり果てていた。
白粉に覆われた柔らかな面影はどこにもなく、
頬骨が鋭く張り出し、目尻は裂け、口元は耳元まで吊り上がっている。
般若の面そのもの――いや、それ以上の生きた憎悪と狂気がそこにあった。
目の奥で金色の光がぎらつき、こちらを射抜く。
寝転がったままの鬼女は、骨の鳴るような音を響かせながら、
昆虫のような異様な動きで横へ這い寄った。
その先に転がるのは、先ほどの武士の死骸。
鬼女はその胸に突き立てられた出刃包丁の柄を、ゆっくりと、しかし確実に握りしめる。
血の膜に覆われた刃が、ずるりと胸から引き抜かれた瞬間、
刃先から滴った血が畳を焦がすような匂いを立ち上らせた。
鬼女は立ち上がった。
……高い。
いや、高いだけではない――全体が異様に長い。
四肢は人間離れして細く、背筋は弓のように反り、
その影は部屋の天井に届きそうなほど伸び上がっていた。
恐らく、二間(約二メートル)をゆうに超えている。
その長身がゆっくりと前へ傾き、
般若の顔が捨丸を覗き込んだ――。
般若の面と化した母が、動かぬ唇の奥から声を漏らした。
口は閉じたまま――だが、低く湿った響きが部屋の隅々まで染み渡っていく。
「くくく……我が子が……餓鬼に……」
音は腹の奥から湧き出すようで、床下から這い上がってくるかのようだ。
「オオオ……捨て……ステマルゥゥゥ……」
その呼び名が、何度も何度も軋むように繰り返される。
意味は支離滅裂だが、声色には怨嗟と愛情とが入り混じり、聞く者の神経を引き裂く。
その瞬間――金色に燃える両眼から、大粒の涙がぼたぼたと落ちた。
滂沱のごとく流れ落ちる涙は、頬の皺を伝って顎先から畳に落ち、
じゅっ……と小さく音を立てる。
「わたしの……かわいい子が……鬼にィィィィ……」
叫びと同時に、声が甲高く跳ね上がる。
「キィッ……キィッ……」
その甲高い響きは、まるで木の板を爪でひっかくような不快な金属音に変わっていった。
「うをぉぉぉ……私があああ……お前を食らえばああああッ!」
言葉は絶叫に溶け、意味を保たぬまま空気を切り裂く。
鬼女の身体がぎくしゃくと揺れ動く。
まるで壊れかけのからくり人形の歯車が軋んでいるかのように、
首と肩と腰が別々の方向へ、不自然にねじれる。
そして、その長い腕が閃く。
血で濡れた出刃包丁が振り上げられ、
振り下ろされるたびに、空気がびゅう、と裂ける音が耳を刺した。
「ステマルゥゥゥ!!!」
般若は狂ったように叫び、包丁の刃筋が乱れ飛ぶ。
刃先が障子を裂き、畳を抉り、壁に突き刺さっては赤黒い血を撒き散らす。
――それは、母と呼ぶにはあまりにも遠い存在だった。
鬼女が、全身を鞭のようにしならせて襲いかかってきた。
背骨が蛇のようにうねり、腕と脚が同時にしなる。
しなるたび、襖や柱が鳴き、部屋全体が生き物の体内のようにきしむ。
方や捨丸は、その動きは緩慢に見えるが、
ぴょん、ぴょん、と蜘蛛のように低く高く、四方へ跳び移る。
まるで間合いを計る蜘蛛の足音が畳に散らばるようだった。
刹那、空気を裂く音。
鬼女の出刃包丁がひらめき、捨丸の右手首から先を一息に飛ばした。
小さく乾いた音とともに、指先が畳を転がる。
しかし血は、一滴も出なかった。
捨丸は怯まず、むしろ喜悦のように目を細め、
そのまま母の胸へと突っ込む。
がぶり。
左の乳房が肉ごと食い千切られ、赤黒い汁が飛び散る。
「ガアサマ……ガアサマ……」
捨丸は低く、喉を鳴らしながら、肉と皮を貪り続ける。
鬼女が悲鳴を上げ、振り上げた包丁を胸の捨丸に叩きつける――はずだった。
だが刃は大きく逸れ、自らの左腿へ深々と突き立った。
肉を裂く生々しい音と共に、鬼女の絶叫が部屋を満たす。
痛みによろめき、壁際まで追い詰められた鬼女は、
なおも絶叫し続けながら、包丁を引き抜き、血の匂いを撒き散らす。
しかし、またも胸を刺そうとするも逸れ、自身の太ももを刺しぬいていた。
捨丸は母の腹に爪を立て、むしり取るようにあばら骨を割っていく。
骨が軋み、折れる音が響き、
その奥で、むき出しの心臓が小刻みに震えていた。
捨丸はそれを噛み砕こうと口を開き――
ふと、顔を上げた。
そこにあったのは、般若ではなかった。
あの、美しい母の顔。
血に濡れてなお、艶やかな瞳が捨丸を見つめ、
唇が静かにほころぶ。
「さあ……お食べ、可愛い坊や」
母はその美しい腕で、捨丸を優しく抱きしめた。
「母様……」
捨丸の瞳から、熱い涙がこぼれた。
涙を伝わせながら、彼は母の心臓に歯を立て――肉の温もりと血の甘みが舌に広がる。
その瞬間、鬼女の身体がガタガタと震えはじめた。
絶叫が喉を裂き、体内の何かが引き剥がされるような音が響く。
捨丸はさらに噛み締めようとした――が、口がうまく動かない。
唇の間から、冷たい何かが覗いている。
……いや、それは覗いているのではない。
背後から突き抜け、口から飛び出しているのだ。
童子切の刃――その冷たい鋼は、捨丸の頭蓋を貫き、
なおも奥へと進み、鬼女の心臓まで刺し貫いていた。
背後から、やわらかい声が降ってきた。
「やあ……捨丸殿」
刺し貫かれた鬼女と捨丸は、童子切が静かに引き抜かれると同時に、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
畳の上に倒れた捨丸は、もはや純粋な餓鬼ではなかった。
骨ばった顔は人の面影を残し、牙の奥にはまだ幼子の丸みが潜んでいる。
その混ざり合った姿は、見る者の胸にどうしようもない痛みを刻みつける。
「……せん……せい……」
かすれた声が、炎と血の匂いの中で漏れた。
「母様は……おいらを……抱いてくれたよ……」
ごぼ、ごぼ、と喉の奥で濁った音が鳴り、口から真っ黒な液体が流れ出す。
それは血とも膿ともつかぬ、死の色をしたものだった。
捨丸は仰向けに倒れ、薄く開いた唇から、かすかな笑みを浮かべた。
「母様は……おいらを……覚えていたんだ……ああ……幸せだ……やっぱり……夢で見た……とおり……」
白く濁った眼球は、ゆっくりと、完全に動きを止めた。
忠親は、その様子を無言で見つめていた。
屋敷内であちらこちらから上がった炎の揺らめきが、忠親の頬を伝う涙を朱色に染める。
「……捨丸殿……」
低く、絞り出すように呟くと、忠親は最後の慈悲として、とどめを刺そうと刀を構えた。
その瞬間――
「白ッ!」
背後から酒呑童子の叫びが飛んだ。
反射的に振り返った忠親の視界を、髪を振り乱した鬼女の顔が覆った。
刹那、横薙ぎに振るわれた出刃包丁が忠親の脇腹を裂き、熱い血が弾け飛ぶ。
しかし、鬼女の勢いを利用するように半身をずらし、背中へと童子切を深く突き立てた。
刃が骨を割り、肉を裂く感触が手元に伝わる。
――ぎいいいいいいいいええええええええええええッ!!
金切り声が屋敷を震わせた。
しかし鬼女は忠親を無視し、自身が刺されていることも気にせず、振り返ることなく、倒れていた捨丸を抱き上げた。
胸に押し当て、まるで母が赤子をあやすように優しく包み込む。
だが、その姿のまま、自分を貫いている童子切をさらに押し込み――同じ刃で、捨丸の体まで貫いた。
「ぐええええ……!」
喉を詰まらせるような声と共に、捨丸が再び目を見開く。
そして、そこにあったのは――優しい、菩薩のような母の顔だった。
「連れて行くんだよ……」
その声は、血と炎の中にあっても、驚くほど静かで温かかった。
鬼女の輪郭が、淡く光を帯びて揺らぎ始める。
髪が煙のようにほどけ、指先が霞のように消えていく。
その腕に抱かれた捨丸も、同じ光に包まれながら、ゆっくりと薄れていった。
忠親は、ただ唖然とその光景を見守った。
鬼女が霧散していくその刹那、確かに――あの餓鬼の姿が、母と共に消えていくのを見たのだ。
どさり、と捨丸の身体が畳に落ちた
燃え上がる屋敷の中、その顔は――まるで幸福な夢を見ている子供のように、安らかに笑っていた。
「いてててて……やはり、まだ起き上がるのは早いだろうか」
薄暗い屋敷の一室。文机に向かい、右脇腹を庇いながら筆を走らせていた忠親が、息をつきつつ呻く。
背後から、鼻で笑うような声が飛んだ。
「たかだか鬼女一匹にこんなヘマしやがって……。どうして人間てのは、そんなに脆ぇんだ? よくその脆い体で、食ったり走ったりできるもんだと感心するぜ」
筆を走らせながら忠親は淡々と返す。
「それは、人間様は鬼のように大雑把には出来ておりませんのでね。……良ければ、神通力などで痛みだけでも取っていただけるとありがたいのですが……いてて」
「ふん、てめえの未熟さをしばらく味わえ」
酒呑童子の容赦のない声が落ちる。
忠親は眉をひそめ、「うー……」と、威嚇とも呻きともつかぬ声をもらす。
すると、不意に背後の縁側で、人の気配がした。
ピクリと動きを止め、筆先を宙に浮かせたまま、目だけが鋭くなる。
「……先生。白湯を持ってまいりました」
緊張が一気にほどけ、忠親は微笑を浮かべて振り返る。
「おお、ありがとう」
障子を静かに開けて入ってきたのは――捨丸だった。
以前より顔つきが幾分精悍になり、その輪郭にはどこか餓鬼の名残も潜んでいる。
だが、間違いなく人の子の表情をしていた。
身ぎれいになり、髪は忠親に倣って総髪に結い上げられている。
捨丸はお盆を抱え、忠親のそばに膝をついた。
たどたどしい敬語で尋ねる。
「大切なお手紙なのですか」
「ああ」
忠親は柔らかく笑み、筆を置いた。
「君の里親になってくれる方への手紙なんだ。長く跡継ぎのいない庄屋さんでね、きっと捨丸のことも可愛がってくれると思うよ」
そう言って、お盆から湯呑を取り、白湯を口に含む。
その動きをじっと見つめていた捨丸が、ふと背筋を伸ばし、かしこまった。
瞳に揺れる光は、炎のように真っ直ぐだった。
「先生――おいらを、弟子にしてください」
驚いたのは忠親の方だった。
理由を尋ねると捨丸は湯呑を両手で持ちながら、ぽつぽつと語った。
「……母様が、おいらを助けてくれたんです。その…わからねぇけど…。その時、どこからか声が聞こえました。『お前に鬼の子を助けてやってほしい……』って」
捨丸は真剣な顔で、続ける。
「先生の事だってすぐに分かりました。だから『はい』って言いました。先生の力になりたいって」
忠親は顎に手をやり、ふむ……と低く唸る。
「捨丸、よく聞きなさい。あの夜お前には不思議な事が起こった。私はね、普段から鬼退治をしているんだ、しかし私の『童子切』に斬られて滅する事が無かったのはお前が初めてだ。」
捨丸は、真剣な顔で聞いている。あの時の記憶は断片的で有耶無耶らしい。
「あの後私も少し考えた、母は最後にお前を連れて行ったと思った。だがお前の中の餓鬼を連れて行ったのかもしれない、果たしてこんな事ができるとは思わないが…そもそも鬼女はね、我が子の脳髄を食らって出現する鬼なのだよ。」
「脳…味噌を?」
捨丸は脳の存在を知っていたようで、目線だけを上へ泳がせた。
「少し難しい話かもしれない、ただ君の兄さんか姉さんを食べ、鬼女になったあの女は、君を食べればもっと高位に変化する可能性だってあった。しかし私が見るにだが、あの鬼女は君を追い返そうとし、尚且つ君が餓鬼になったと知るや殺そうとしていた…君を守りたい母の想い。君への想いは鬼になってもなお残された、強く優しい母だったのかもしれないね。」
忠親は、往診で廻っていたころのあの遊女を思い浮かべていた。部屋の窓から川縁を見つめ、寂しそうな顔をしていたあの遊女の横顔が思い返される。
遊女ゆえの寂しさかと思っていたが、そうではなかったのだ。
息子に触れれば欲望に、鬼女に勝てなくなってしまう。だから…遠くを見ていたのか、我が子を思う故に遠ざけ…。
強いな、と考えに耽っていると、足がしびれてきたのか、捨丸はもじもじと動き始めた。
忠親は思考を戻し、
「しかしその声の主は母者ではないのだね??」
「はい、母様の感じはしなかった。もっと大きい感じ」
「ふうむ一体なんだ…誰の声なんだ…」
背後で酒呑童子が鼻を鳴らす。
「くだらねぇ、ただの夢だろ。こいつの寝言だ」
もじもじと身体を動かしながらも、捨丸は力強い声で言った。
「いいえ、夢じゃないです。おいらは――刀の守護者になれと――」
その瞬間、忠親はあまりの衝撃に湯呑を落とした。白湯が膝にこぼれたが、それどころではない。
忠親の目が丸くなる。
「……待て捨丸、今なんと言った?」
「だから、夢じゃないって」
「そうじゃない! 『天』の声が……お前に聞こえたのか!?」
捨丸はきょとんとし、こくりとうなずく。
その様子を見た忠親は、ぐっと身を乗り出した。
「ほぉぉぉ……私以外にも天の話しが聞こえたのか……!ではひょとするとその『声』の主は…」
すると頭の中で、くくくと笑う声が響く。
「おい忠親、俺の声は呪いだ。仲間扱いすんな」
「わかっておる! だが……これも呪いなのか…?」
「はっ、ガキ夢と同列にされてたまるかよ」
「ではお前にその『声』の主がわかるというのか?」
「知った事か」
「ほうら解らないではないか、何千年生きたか知らんが物を知らない大妖怪め」
「なにおうこのひ弱人間のくせに」
ぽかんと二人を見る捨丸と、必死にお互いを罵り合い、肩を震わせる忠親たち。
すると捨丸は「あー!」といいながらひっくり返ると、もう足が限界だといいながら足を延ばし始めた。
罵り合っていた二人は黙って奔放な子供の姿をみた。
そして忠親は、微笑みながらそれを見つめ、右手で手紙を隅に追いやり、優しい顔で言った
「まずは、正座は弟子の基本ですぞ、捨丸殿。」
そう言うとからからと笑い、捨丸を抱き寄せ頭を撫でまわした。
はい!と元気な声と力強い抱擁が帰ってきた。
捨て丸は脚が痛いといいながら、初めて笑顔を見せた。
それは亡き母の笑顔の面影があった。