『鬼斬人』断章 ― こんなに冷たい夜なのに
三畳間の部屋に、わたしたちは二人、向かい合うように布団を敷いて寝起きする。
かつては江と並んでいた。
だが、江が厠で無残に殺された春からこの冬まで、長らくわたし一人だけの空間となった。
犯人はいまだ不明。誰も声に出しては言わぬが、疑いの目だけは鋭くなった。姉様同士でさえ、目の奥では互いを探っている。
だからこそ、火入れの役も男衆へと移った。かつては禿が行燈に灯を入れ、お香を焚いて部屋を整えたものだが、その仕事は一人になるからと、今はそれさえ許されない。
今晩、その部屋に新しい禿が入った。
まだ年端もいかぬおぼこい少女。きっと、ほんの数日前に売られてきたのだろう。着物の合わせも乱れたまま、挨拶もできず、ただ縮こまっている。
まるで、まだこの世の匂いがついていないような、無垢な影。
「明日から、教えてやらねばね……」
自然と、そう思った。
面倒を見るのは嫌いじゃない。江の時もそうだった。
年上でありながら、帯も締められず、足袋を裏返しに履くような人で、わたしが何もかも手伝っていた。
支度、片づけ、お茶の加減に火入れの順……江が姉様に叱られずに済んでいたのは、わたしのおかげだったと、今でも思っている。
禿の一日は、朝と夜とでまったく色が違う。
朝は夜より忙しい。夜の間に冷えた湯殿を温め、朝餉の支度に追われる。
御仁たちの間で朝風呂はまちまちだが、飯は皆がとる。食事は淡白だが魚は付くし、お香こもある。この飯屋の珍しいところは朝粥でなく飯が出る。
朝から量はある、だが酒は出さない。この飯屋での決まりごとの一つだ。
そして禿も部屋へ上がり、御仁へお茶を注ぐ。この時ひとりでも欠ければ、姉様の顔が曇る。
御仁を見送ると、ようやく姉様とわたしたち禿が、膳を囲む。名残の茶の匂いが立つ中、前夜の御仁の話が始まる。
「あの方は、よう笑ってくださったねぇ」
「菓子を出すのが早すぎた。間が持たなかっただろう?」
それは作法の稽古であり、振り返りの場でもある。
禿が姉様から教わるのは、立ち居振る舞いだけではない。間合い、気配、間の美学。
それらすべてが、この屋敷で生きる術になる。
片づけが済めば、姉様はお休みになり、禿たちの稽古と勉強が始まる。
書と詩、舞や唄、扇子の扱い。先生たちは外から来るが、わたしたちに逃げ場はない。
わたしたちの着物や櫛、紅に足袋に至るまで、すべては姉様から戴くことになる。
わたしたちに少しでも粗相があれば、それは姉様の品格が劣る、と見られてしまう。
ほかの姉様達から下に見られる。そんな訳にはいかない。だから姉様方は常にわたしたちを見ているし、わたしたちに逃げ場はない。
芸を仕込まれ、言葉を整え、所作を叩き込まれる。座り姿勢が悪いと、笹の枝で脛を打たれる。
夕方になれば、湯殿の支度。垢すり女の役を回される日もある。
御仁の身体に触れるのは、とりわけ気を使う。指の置き方一つで、姉様が詰め腹を切らねばならぬことにもなる。
部屋付きの日は、もっと神経を使う。姉様の部屋に茶を運び、行燈に火を入れ、香を炊く。干菓子の向き、盆の重心、紙の折れ目。すべてが美しくなければならない。
やがて姉様が玄関へ御仁を迎えに行くとき、わたしたちは部屋の入り口に座して手をつき、低く頭を下げる。
姉様は先に立ち、迎えられた御仁の前に、わたしたちは空気のように控えねばならない。
御仁が部屋に入り、ひと息つけば、湯殿へ案内する。それは姉様のご指示によることが多いが、自ら湯殿へ連れて行くのを好む姉様もいる。
部屋に戻ったあとは、再び気配を殺し、姉様の一言に備えて待つ。
時を見計らい、湯殿へ迎えに行くのも禿の務め。
そして御仁を連れて戻ったら、食事を取りながら姉様の手伝いをする。
御仁や姉様が許せば、お酌をすることもある。
しばらくすると姉様から「床払い」の合図がある。その言葉を背に、わたしたちは無言で部屋を出る。そこで、ようやく【床入り】となり禿達の一日が終わる。
夜更けの帳が降りたあと、ようやくわずかな食事をとり、布団に入る。
少し前ならひ、ふ、み、と数える間もなく深い眠りに誘われるところだが、最近は寝る前に目を閉じれば、江の姿がふと浮かぶ。
あの人が出ていったのが分からなかった。
いや、分かっていたが寝過ごしたのだろうか。
そしてなぜ、厠で死なねばならなかったのか。なぜ、誰の仕業か何もわからないまま、平然と日常が続いているのか…。
そして明日もまた、同じように朝が来る。湯を沸かし、茶を淹れ、香を焚き、膝をつく。
「……それでも、生きていくしかない」
ななえはそう思いながら、恐らく禿になる前の一日だけの休みを過ごしたであろう新しい禿の寝顔を見やった。
あどけないその表情に、この屋敷の闇がまだ染み込んでいないことを、どうか神様が見逃してくださいますようにと、密かに祈った。
わたしはしばらく眠ったのだろうか
ふと目を開けると部屋の空気がどこかざわついていた。
新しい禿は眠れないのか寝相が悪いのか、何度も布団の上で寝返りを打っている。
しばらく耳を澄ませていたが二階の客間からの音は聞こえない、夏の夜ともなれば窓を開けるからか色々な声が聞こえたものだが…
冬に向かう季節。外気はもう冷たく、襖の向こうからは焚き場の残り火が燻る匂いが微かに流れてくる。
どこかに、まだ火の気がある。
そんな夜だった。
その内わたしも、浅い眠りのふちを行ったり来たりしていた。
ぎぃ、と戸板が鳴ったのは、しばらくしてからの頃だった。
「……ななえ」
――誰かの声。低く、湿った呼びかけ。
最初、空耳かと思った。けれどまたすぐに――
「……なな……え……」
はっきりと名を呼ばれた。
障子の向こうで、かすかに人の気配がしていた。
布団からそっと起き上がり、戸の前に立つ。開けるか、開けないか、少し迷った。
が、呼び方に聞き覚えがあった。
それは――捨丸だった。
ゆっくりと戸を引くと、月明かりに照らされた廊下に、彼が立っていた。
小柄な体躯、煤けた裾。
顔色は悪く、唇の色が異様に青白かった。
そして何より、目が合わない。
彼は、わたしを見ていない。ただ、虚空を睨むように、視線をやや斜めにずらしていた。
「……どしたの」
そう声をかけると、彼は、一度、喉を詰まらせるように息を呑んで
「す、すこ…し……話が……し、してぇ……」
「……江、江姉様の……こと……しりてぇ……なら……」
喉から絞り出すような声だった。
吃音の混じる、かすれた言葉。
ゆっくり、時間をかけてやっと、それだけを言った。
わたしは戸口の影に目をやった。
新しい禿はまだ眠っている。深くはないが、身体を縮めてうずくまっているのがわかる。
「……わかった。ちょっとだけね」
そう応えると、わたしは足袋を履き直し、そっと廊下に出た。
捨丸はもう振り返っていた。何も言わず、ただ背を向けて、歩き出す。
歩みは、どこかぎこちなかった。
体の重心の置きどころを忘れた人のように、片足ごとに微かに揺れる。
足音が異様に響く。
木の床に、湿った音が混じっている気がする。
草履は履いていない。裸足のはずだ。
なのに、踏みしめるたびに「ぐしゅ、ぐしゅ」と水気のような音が混じった。
いつもの捨丸なら、わたしと目を合わせずとも、もっと落ち着きなく手をいじったり、いつも一生懸命に話そうとして、焚き場の話でもぽつりぽつりとしていた。
けれど今夜は、口を閉ざしたまま、後ろも見ず、真っ直ぐに焚き場の方へ歩いてゆく。
「ねえ……江の、こと……て」
声をかけたが、返事はなかった。
ただ、すこし肩を揺らしただけ。
夜の屋敷は、あまりに静かで二人の足音だけが、不気味に廊下へと伸びていった。
焚き場へ向かう途中、わたしは少しだけ立ち止まった。
なぜか、背筋が粟立つような寒気がした。
まるで、自分が誰かの葬列についているような、そんな錯覚に囚われたのだ。
それでも、捨丸の背は遠ざかっていく。
わたしは、濡れたような床板に足を滑らせそうになりながら、再びその背を追った。
湯殿へ向かう廊下は、夜の屋敷の中でも特に人気がない。
軋む板と、壁の染みから立ち上る古木の匂いが、いつも以上に重たく感じられた。
蝋燭の明かりは持たぬまま、月光だけが、捨丸の影を白黒に刻んでいた。
彼の歩き方は、やはりおかしかった。
ひょこ、ひょこと左右に揺れる。
まるで関節のあるべき場所が、ずれているように見えた。
時おり、ふいに立ち止まる。わたしが近づくと、また歩き出す。
そのたび、ふくらはぎのあたりが妙に膨らんだり、細くなったりしているように見えた。
……着物の下で、何かが動いているような錯覚。
「捨丸……ほんとに、話って……」
わたしがそう声をかけても、彼は一言も返さなかった。
ただ、ひとつの角を曲がるとき、彼はふと、わたしの方へ半歩だけ、身体を向けた。
月明かりが頬をかすめ、額から顎へと陰を落とした。
その肌が、薄く、紙のように乾いて見えた。
「……ここ……もう……」
その呟きは、風に呑まれそうなほど細かった。
わたしは足を緩め、距離を取るように歩いた。
何かが、どうしようもなく違っていた。
彼の匂いが、記憶と違う。もっと、薪と灰と、濡れた布の混じったような、焚き場独特のにおいが、昔はしていたはずなのに。
今の捨丸から漂っているのは……酸っぱい、発酵したような臭気だった。
それは、姉様たちが口に出さぬが恐れる江の命を奪った死の匂い。
焚き場の前、木戸の手前まで来たとき、捨丸はぴたりと立ち止まった。
わたしの方を向き、初めて、真正面から目を合わせた。
黒目がちだった瞳は、今や白濁し、輪郭の中で泳いでいるようだった。
「ななえ……江姉様……は……」
言葉が詰まる。
喉の奥で何かを噛んでいるように、ぐ、と呻いたあと、
「……さいしょ……わらって……て……でも……う、うごかなく……なった」
まるで、話しながら何かを思い出しているようだった。
わたしは戸の前で立ち止まり、呼吸を整えた。よく考えたら捨丸がわたしを姉様を付けずに呼ぶのは初めてだ。
風もないのに、鳥肌が腕に立っていた。
「捨丸、あんた……なにを、言って…」
そのとき、彼の背後から、小さく――ちゃぷ、と、水音がした。
湯殿の中、誰もいないはずの湯桶の中で、誰かが身じろぎしたような。
わたしは一歩、下がった。
捨丸は、じわりと笑ったように見えた。
けれどその表情は、筋肉で形作られたものではなかった。
皮膚の上に貼りつけた、面のような動き。
「……ななえ……いま……」
低く、掠れた声。
その瞬間、わたしは、はっきりと確信した。
目の前にいるのは、捨丸ではない。
姿形は同じでも、声も匂いも、所作も、何もかもが別物だった。
だけど、それを口にしたら最後な気がした。
わたしの身体のなにかが、それを感じていた。
「や……やめとこうよ、やっぱり……もう遅いし。明日でいいよ、ね」
わたしは笑顔をつくって言った。
戸を閉めようと、手を前に差し出した。
けれど、捨丸――のようなものは、片足をすっと前に出した。
わたしとの距離が、一歩、詰まった。
月が雲に隠れ、ふたりのあいだに影が落ちる。
「…ななえ……いま………こわい…」
その声は、もはや捨丸の声ではなかった。
乾いた紙がこすれるような、ざらざらとした音を混じえていた。
わたしの背に、冷たいものが一筋、流れ落ちた。
木戸を押し開ける音は、やけに軋んだ。
捨丸のような何かが、先にぬるりと中へ入ってゆく。
その背中が、まるで軟体の獣のように見えた気がして、わたしは一瞬、戸口で立ちすくんだ。
焚き場の中は暗かった。
灯りはないはずなのに、どこからかぼんやりと、橙色の光が差し込んでいた。
炭火ではない。行燈もない。
なのに、あたりがゆらゆらと、温かな火に照らされたような色をしている。
湯の気配はあるのに、湯気は立っていなかった。
どこか乾いていて、ぬめっていた。
捨丸は、何も言わずに中を進み、空の桶をひとつ、ひっくり返した。
ごぽっ、と深く濁った音が響く。
桶の中に、何か…髪のようなものを…吐いた。
それを見て、わたしは、ぞくりと背筋を撫でられた。
――江だ。
あの、つややかな黒い髪。
忘れるはずがない。
あれは、江の髪だった。
「……な、なによ、これ……これ……」
わたしの喉が、ひゅうと鳴った。
口を開けても、言葉がまともに出てこない。
捨丸は、振り返った。
月明かりの届かぬその顔は、輪郭がぼやけて、まるでぬめった面を貼り付けたようだった。
目だけが、異様に白く、濁ったまま動いていない。
「江姉様……わらってた……ななえが……やさしいって……」
その声は、まだ捨丸さを保っていた。
しかし掠れて、しわがれて、底の方から濁った水を揺らすような音だった。
「でも……さいごは………いたい…いたいって」
言いながら、その身体が、かくん、と傾いた。
膝が曲がり、肩が盛り上がる。
まるで、皮の中に何か別のものが這い出してきて、姿勢を変えているようだった。
わたしは、ようやく脚を動かして、後ずさった。
けれど、背後にあるはずの戸が、音もなく閉じられていた。
「……やめて……やだ……帰らせて……っ」
わたしの声が上ずる。
足元がふるふると震えて、力が入らない。
だが、捨丸のようなそれは、ふらりと歩み寄ってきた。
「江姉様……おまえのこと……好きだった……でも……もう……いらねぇって……」
その言葉に、わたしの耳が拒絶するように耳鳴りを立てた。
わたしは振り返り、木戸を開けようと手を伸ばした。
だが、その瞬間、背後から腕が伸び、わたしの腰を抱きすくめた。
「――ッ!」
押し倒される。
ざらりとした腕の中に、わたしの背が沈んだ。
肌と肌が触れているのに、それは人の体温ではなかった。
冷たく、ぬめっていて、骨がごつごつといていた。
「……江……みたい……に……」
耳元で、そう囁かれたとき、わたしの喉から悲鳴が漏れた。
その腕は、わたしの頬を撫でるようにして
次の瞬間、掌が裂けた。
指の骨が次々枝分かれし、わたしの顔を探るように這い回った。
「いやっ……いやぁっ……!」
身体が反射的に逃げようとしたが、下半身が動かない。
胸の下を、重たい何かが押さえつけていた。
ぬらりとした舌のようなものが、首筋を這った。
涙が、こぼれた。
声にならない嗚咽が、口の奥で泡立つ。
「……あったけえ……」
その言葉に、わたしは思わず、江の顔を思い出した。
あの優しかった顔。
どこか抜けていて、頼りなくて、だけど笑うと子どもみたいだった。
「やめて……人間を……まねるな……っ」
言った瞬間、捨丸の顔が、ぴくりと歪んだ。
「……ちがう……まね……じゃねぇ……」
その目が、ぐるりと動いて、わたしを見た。
「……おれ……なんだよ……」
次の瞬間、視界がぐにゃりと揺れた。
額にざらついた痛み。
捨丸は耳たぶを持ち、わたしの耳を引き裂こうとしていた。
わたしは、咄嗟に頭を振り、手近にあった桶をつかみ、力任せに振り下ろした。
「うわあああああっ!」
鋭い音とともに、桶が何かに当たる手応えがあった。
捨丸――の頭が、ひゅうっ、と声とも呻きともつかぬ音をあげて、身体をよじった。
わたしは転がるように木戸に向かい、体当たりするようにして開けた。
そのとき、背後で、何かがぎし、と鳴った。
「ななえ……」
その声だけが、やけに人間のものに聞こえた。
振り返ることはできなかった。
わたしは全身で逃げ出した。
冷たい廊下を、裸足のまま。
廊下を走る。
走っているはずなのに、足が床に貼りつくようで、重くてうまく前へ進めなかった。
踏み込むたび、裸足の足裏に、冷たい水がにじむように広がる。
月明かりのさす中廊下――そのはずなのに、闇の帳がゆっくりと引かれていくように感じた。
背後から、足音はしなかった。
追ってくる気配も、声も、ない。
けれど、それが恐ろしかった。
追われているはずなのに、何も聞こえない。
捨丸の顔が脳裏に焼き付いている。
ゆがんだ笑み。ぬらついた肌。
あれはもう、捨丸ではなかった。
……けれど、では、いったい誰だった?
「……ななえ……」
あの声が、また耳の奥でこだました。
わたしは振り払うように頭を振った。足元がふらつき、廊下の柱に肩をぶつけた。
呼吸が浅くなっていく。
目の端がちかちかと光り、視界が薄れていく。
「……誰か、誰か……たすけ……て……」
声にならなかった。
喉が、凍てついたように動かない。
声帯にまで冷たい指が絡みついているようだった。
真っ暗な廊下の一枚だけ開いた引き戸の先
そこに、屋敷の庭があった。
満月が中天に浮かんでいた。
冬の月は、青白く、凍てついた空気を照らしていた。
凛とした風が吹いて、庭の枯れ枝を揺らす。
あの暗闇には戻りたくない。本能がそう感じさせる。
足が、縁側からずるりと滑り落ちる。
ぬかるんだ土に膝をついた。
そのとき、ようやく自分の足元が、血で濡れていることに気づいた。
……いつの間に、傷を負ったのか。
それとも、自分のものではない誰かの血か。
感覚が遠い。痛みもない。ただ、身体が動かない。
「……ななえ……どこ……」
また聞こえる。
振り返ると、焚き場の方から、影がゆっくりと、踊るように近づいてきていた。
這っているのか、立っているのか、わからない。
二本の足ではない、地を這っている。
骨ばった、骸骨の蜘蛛…
それが、わたしの方へ向かって歩いていた。
口元から、ぬるりと長い舌のようなものが垂れていた。
その舌が、するりと私が踏みしめた土を舐める。
そこから、じゅるじゅると、音がした。
「……ななえ……あったかい……」
やっと聞こえた声は、既に捨丸とは似ても似つかない声になっていた。湿って、濁っていた。
わたしは、それを見ながら、恐怖の最中、ふと――江のことを思い出していた。
手先が不器用で、帯も結べず、いつも困っていた江。
よくわたしの肩で泣いた。
風邪をひけば、すぐ弱音を吐いた。
でも、甘いものが好きで、茶菓子を見つけると、子どものように笑った。
――江。
あの髪は、江だった。
あれが、江を――
考えが、途切れた。
「……げっげっげっげ…」
影が、すぐ目の前にいた。
指のようなものが、わたしの頬に触れた。
かさかさしていて、ひどく冷たかった。
鼻を突く臭気が、肺の奥まで満ちた。
腐った脂、焦げた髪、生乾きの死肉。
そいつはわたしの首を持ったまま、わたしを左右に振った。
首がごりごりと音を鳴らして折れていった。
もう、臭いはしない。
まぶたの裏に、金の月がにじんでいた。
「……銭を……あのひと……」
その言葉の意味は、もう、わからなかった。
肉を食む音が聞こえた。
くちゃり、くちゃり。
笑うような声が、混じっていた。
何かが、わたしの胸にのしかかっている。
それが、喜んでいるのがわかった。
……ああ、あたたかい。わたしの熱が外に出ていくのがわかる。
こんなに冷たい夜なのに。
最後に見えたのは、月のまわりにかかる薄い雲だった。
それが、人の顔のように見えた。
やさしくて、なつかしくて――
江がわたしを呼ぶ声が聞こえる、あの酷く悲しい笑い声の奥に…