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『鬼斬人』断章 ― 甘い香り

 夜がやってくる少し前、湯殿は静かに炊き上がり、湯気が低く舞っていた。


 木の桶と手拭いを並べ、手順通りに拭き掃除をして終わると、男衆の一人がやってきて、どうかと尋ねられたので



「湯が湧いた」



 と声をかけた。男衆は短く



「じゃ、入れ」



 と言った。


 一瞬何の事かわからず、男へ戸惑う視線を投げかけると 



「おめえが入るんだ」



 入るのはてっきりお客人だと思っていた捨丸は、仰天しつつも言われるままに服を脱ぎ、湯へと身を沈めた。


 初めての温い湯――。


 背中に走る寒気を感じながら、一気に湯に入ると、あまりの気持ち良さに、鳥肌が立つ。


 熱さにひりつく皮膚が、徐々に解けてゆくような心地。


 肩まで浸かるとあかぎれた両の指に沁みてゆく暖かさと、痛みと、心地よさで思わず涙が出そうになる。


 時を忘れ静かに湯の中へ身体を任せていると、上がれと声をかけられ捨丸はゆっくりと湯から出た。


 すると男は、糠袋を持ちしゃがみ込んだ



「汚ぇ体だな、洗ってやる、頭は自分でやれ」



 男の手は、捨丸の背中をこすり、腕を擦り、太ももまで撫でた。


 捨丸は痛みに小さな声を上げながらも、自分が一皮剥けていくのがわかる気がした。


 そういえばこの男は普段表門の方にいる男で、あまり男衆と関わり合いがない。


 それは捨丸が知らないだけなのか、この広い飯屋に捨丸の知らない男部屋が他にもあるのか…


 そんな事を考えていると不意に



「お前みてぇなのが好きな御仁もいるのさ」



 無言でごしごしと背中を擦る男が、捨丸に言った。


 意味がわからなかった。ただ、(俺を好きな人とは…婆ぁか、母様か)とぼぅっと考えていた。


 上手く髪を洗えない捨丸に業を煮やしたのか、結局頭も洗ってもらい、頭から何度も湯をかけられると、自分が少し軽くなったような気がした。


 やがて姉様達が来る頃になっても、湯殿には誰もやってくることはなかった。


 無論旦那からの指示なので、捨丸達と姉様が鉢合わせしても、怒られることはないと思うが。


 湯殿から出て、汗も引かぬ間に浴衣を着せられ、まだふやけた足で廊下を歩き、襖の向こう、淡い灯りがともる部屋へと通された。


 旦那の奥座敷だ、捨丸が普段出入りすることはない。


 襖越しに男が



「旦那、連れてきました」



 と言うと、少しの間があり



「入れ」


 と言われた。


 男は襖を開け、捨丸の襟首をつかみ、それこそ放り込まんばかりの勢いで部屋の中へ押し込んだ。


 足がもつれながらも、立ち上がった捨丸は辺りを見渡した。


 後ろでは音もたてずに襖が閉まる気配がした。


 部屋は布団が一枚敷いてあり、奥では筆机に向かって手紙を書いている旦那が居た


 大きな行燈が三つ部屋の隅に置かれている、それほど広くない部屋ではあるが、室内はかなり明るい。


 これは客間と同じ作りだ。香も焚いてあり、部屋は咽返るような甘い匂いがしていた。


 捨丸は居心地悪くその場に突っ立っていた。


 しばらくして、旦那はため息をつきながら筆をおくと、でっぷりとした体を持ち上げ、布団にドスンと尻を着いた。



「こっちへ来い」



 ちょっとした用事を言いつけるのと同じ、いつもの呼び方で捨丸は呼ばれた。


 旦那は枕もとの盆から何かを取り出している。


(布団に乗ってもいいのだろううか…)


 と躊躇しながらも、重たい足取りで捨丸は布団へ進んだ。


 着物の中にじっとりと汗が広がっていく。


 旦那の膝元には、小さな陶器の皿と、折りたたまれた布が置かれていた。


 香に混じる、甘く粘つくような匂い。蜜のようでもあり、腐った果実のようでもあった。




 最初は言われるままだった。ただ、されるままだった。


 痛みはなかった。なかったと、思い込もうとした。


 歯を立てるなと言われ、口を開ければ喉の奥に当たり、必死で嘔吐く(えずく)のを我慢していた。


 涙に視界がぼやけながらも、目を開ければ、旦那の大きな太鼓腹の上に顔が見えた。白目が、笑っていた。


 息ができなかった。何度も何度も喉の奥に突き刺さり、また引き裂くようだった。


 旦那はふっふっと息を弾ませる。


 生臭さとと何かが腐ったような甘い臭い…、体を押さえつけられた。


 時々旦那の指が、皿に残された粘ついた飴をすくい口に、下腹部に押し込んできた。


 そして、最後には下腹を押さえつけられた。


 体の奥に、灼けた棒のようなものがめりめりと音を立てて入ってきた。


 捨丸は自分の身体が、悲鳴を上げているのを聞いた。


 一心に悲鳴を上げ続ける自分の身体の上で、跳ねる旦那の汗が、顔に、身体に、降りかかる。


 だが、捨丸は声を出さなかった。



「きっと声をだしたら、もっと酷いことになる」



 そういう経験が、すでに骨身に染み込んでいた。


 殴られた時も、泣いたらもっと殴られた、睨んでも同じだ。


 ではそういう時はどうするのか、されるがままが正解だった。


 ただ無気力に振る舞う。しかし下腹部の違和感はさらに増す。


 噛みしめた唇から血が出た。


 でも、嫌がるそぶりを見せれば怒られる。怒られれば殺される。


 だから、じっと耐えた。ずっと。ずっと。


 獣のような咆哮が聞こえ、息を切らした旦那は、捨丸から離れ横に転がった。


 汗だくの旦那は布を投げ与えて言った。



「お前は賢いな。よう我慢した。客に出そうと試してみたが、なかなかどうして。…」



 捨丸は何も答えなかった。ただ、静かに布で太ももを拭った。


 股から何かが垂れていた。


 甘い、けれど、血の混じったような、妙な匂いがした。







 その後、どのくらい経ったかは覚えていない。


 無くすなよ、と投げてよこした茶巾袋は掌に少し重かった。


 と同時に旦那はいつものようにぶっきらぼうに捨丸に呟いた



「あと四回もありゃ、母ちゃんが買えるだろうよ」



 捨丸が部屋を出ていくときにそう言って、旦那は下卑た笑いを顔に浮かべていた。


 その夜、戻った捨丸は、灰の暖かさの残る土間に身を潜めて眠った。


 眠りに落ちるときに、ふと考えた。


 旦那は銭この目的を知っていた。


 ねずみが話したのだろうか、先生が話したのだろうか…どちらでもいいが、なぜだろう、あんまり旦那には知られたくなかったな、と捨丸は考えた。


 先生は(何かを失うことも)って言ってた。けれど何を失ったかはよくわからなかった。しかし銭は貰えた。


 さっきのをあと四回、そうすれば…


 だが、その()()()()は、思い出したくもなかった。



 嫌な気分になったが、その考えを思う間もなく、一日の疲れがどっと噴き出してきて、捨丸は深い眠りに落ちていった。




 夢の中、誰かが言った――




「抱かれたいなら――銭を持ってきな」





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