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『鬼斬人』断章 ― 母のぬくもり



 そろそろ日も暮れようかという夕刻、いつも木の香りが漂うしっとりと熱のこもる湯の間に、ぽつりと、水音が跳ねた。


 初夏になろうというのに、夜気はまだ熱を持っておらず、息を吐けば薄っすら白い息が昇る様な日であった。

 


 あの冬、屋敷で大きな事件があってから夜の煮炊きに女は出てはならぬと、とのお達しに、男共の仕事量は増え誰もがピリピリしていた。

 


「夜の香焚きなんざ禿の仕事だろう、俺たちが奥座敷をうろうろしちゃあ御仁もいい気がしねえ」



とねずみもこぼしていた。


捨丸は夜の風呂焚きに回されたが、ここでは男衆にいじめられないし、生来一人でいることの方がずっと多い捨丸には誰かと仕事をするよりも幾分か気楽なのだった。


犯行は皆目見当がつかないらしい、江の声は誰も聞いてはいないし、横で寝ていたななえも、厠に立ったのだとばかり思っていた。少なくとも禿達の部屋からは自分で出ていったようだ。


 たまたま()()()であった遊女が、廊下で江と誰かが話しをしている様子を聞いたというが、相手は解っていない


皆の話を聞く限り、言葉通り()()()()になった江は、人の力でどうこうできるような状態ではなかったという、掃除を手伝った駕籠かき人の一人が言うには



「石をよ、火であぶり続けると爆ぜるだろ、ばぁんて具合によ、ありゃまさにそれだね、じゃなきゃあんなふうに天井にまで飛び散るもんかい、ああ…思い出したらまた飯が食えなくなる…」



そう言いながらこの駕籠かきは、暇さえ見つければ誰彼となくその話をしている。


そんなうわさ話をぼんやりと思い出していた捨丸は



「あんな話を聞くから、最近夢に出てきて仕様がない」



と、最近夜眠れない理由を訝しんだ。



 火を焚いていた捨丸は、湯殿から水音が聞こえたので驚いて我に返った。


まだ湯は冷たいかもしれない、湯の温度が低い場合は【湯殿】の看板を下げておけと言われていたのを忘れていた。


 恐らく一番湯の姉様が入ってしまったようだ。


風呂の順番は決まっており、遊女、禿、客の順番で入る。その後は適宜姉様方がお客を連れてくる。


 その際に禿は洗い女として御仁に仕えるため、早くから湯殿に来ることがある。禿であれば、なんとか融通は利くだろうが、遊女であった場合、湯が冷たければ大変なことになる。


 禿の、とりわけ捨丸を目にかけてくれているななえであって欲しい、と願いながら、裏木戸の格子から中を除く。


 その奥から差し込むぼんやりとした光の輪に、捨丸は目を奪われた。


 そこに、一人の女がいた。


 背を向けて、髪を結わぬまま、湯を肌に滑らせている。


 背筋はしなやかで、肩は華奢。


 だが、その佇まいには、芯のようなものが通っていた。


 湯気がゆらぎ、淡く包むように彼女の背をなぞっていた。


 しずかに、湯が滴る音だけが響く。


 女は湯に両腕を沈め、首をかしげるようにして、少しだけ目を伏せた。


 肩が、わずかに呼吸とともに上下する。


 まるで、その動きそのものが、捨丸には夢の中の光景のようだった。


 あの腕。


 幾度も夢に見た、白くてあたたかい、あの腕。


 ひょいと抱き上げられた幼い自分。


 胸の奥深くで、甘い匂いがふわりと包んだ。


 髪を撫でた指先のやさしさ――あれは、たしかにこの人のものだった。


 捨丸は息を呑んだ。


 目の前の姿と、夢の記憶が、ぴたりと重なった。


 重なって、思わず


 「……かあ、さま……」


 喉の奥で音が震える。


 吐息に乗った声は、湯気に吸われて、すぐに消えた。


 そのときだった。女がふと、振り返る。


 「……だれか?」


 湯殿の奥から聞こえたその声は、思っていたよりも凛としていた。


 捨丸は、思わず裏戸の陰から身を引いた。


 けれど、それでも目は逸らせなかった。


 母の顔が、うっすらと湯けむりの向こうに浮かびあがる。


 その顔は――


 夢で見たものよりも、静かで、遠かった。


 まるで何も覚えていないかのように。


 でも、それでもいい。


 自分の名を忘れていても、目が合わなくても。


 ただ、一度でいい、この人の腕に――もう一度、戻れたなら。


 裏戸を少し開け、湯殿に踏み入ると、母はあらと小さく驚いた。


 男衆が出てくと思いきや、ちんまりとした子供が出てきた。


 「そこな子……いま、何と言った?」


 そう問われ、捨丸の喉は引きつった。

 手は冷たく汗に濡れ、膝ががくがくと震えていた。


 火のぱちぱちと爆ぜる音が、やけに遠く聞こえた。


 それでも、さらに一歩踏み出した。


 湯殿口に近づき、唇を噛んで、やっとの思いで言葉を吐いた。



 「……だ、だいて……ください……」



 母は、少しだけ目を細めたように見えた。


 その目に宿った感情が何なのか、捨丸にはわからなかった。


 哀れみか、嫌悪か――あるいは、無関心か。


 女はやがて、ゆっくりと湯から立ち上がった。


 白く濡れた肌が湯気に包まれながら、すっと立ちのぼる。


 水のしたたる足が、静かに床を踏みしめる。


 細い腰に布を巻き、肩に掛け、それから捨丸のほうへ視線を落とした。



 「抱かれたいなら――銭を持っておいで」



 その声には、何の起伏もなかった。


 まるで、客と遊女のあいだに交わされる決まり文句のように、乾いていた。

 


 捨丸はその場に立ち尽くしたまま、まばたきもできなかった。


 なにかが喉につかえている。


 息ができない。胸がひりひりと焼けるようだった。


 それでも目は、母を追っていた。


 細い背中が、濡れた床を歩き、遠ざかっていく。


 肩越しにもう一度、こちらを見てくれることを願った。


 振り返って、ひとことでも――


 けれど、その願いは叶わなかった。


 ひたひたと水が滴る音だけが遠ざかっていった。


 捨丸は湯の縁にへたり込み、膝を抱えた。


 肩が小刻みに揺れていた。


 けれど、涙は出なかった。


 それでも夢では、抱いてくれた。


 白い腕、甘い匂い、柔らかい胸の中。


 たしかに、あの人は――




 「……母様……だった……」



 それから数日、捨丸は何も手につかなかった。


 湯殿からの帰り道、土間の片隅に倒れ込んだまま、朝が来ても、声がかかっても、動けなかった。


 母様の言葉が、頭の中で何度もこだました。


 ――抱かれたいなら、銭を持っておいで。


 夢で見た白い腕は、母のものではなかったのか。


 あの胸の温かさは、嘘だったのか。


 ならばせめて――銭さえあれば、あの腕の中にもう一度入れるのか。



 その夜から、捨丸は動き始めた。


 最初に声をかけたのは「ねずみ」だった。


 ねずみ、というより老いた馬を連想させる老男。


 その老男は捨丸の顔を見るなり、いつも以上にあからさまな嫌悪を浮かべた。



 「なにか言いてえのか。さっさと口動かせ。目障りなんだよ、てめえは」



 「……銭が、欲しいです」



 「……はあ?」



 「仕事がしたいんです。銭の、もらえる仕事が」



 一瞬、ねずみは笑った。鼻で、吐き出すように。



 「なんだそれ。おめえが銭もらえる仕事?笑わせんな」



 捨丸は、うつむいたまま唇を噛んでいた。



 「……母様に、抱いて、もらいたいんです」



 その一言で、ねずみは黙り込んだ。



 「くだらねえ。……ったく、婆ぁが死んでからって、ほんとに厄介な荷物になりやがって」



 ねずみは、しばらく何か考えるような間を置いた。


 やがて吐き捨てるように言う。



 「どうしても銭がほしいってんなら――次先生が来たときに、旦那にでも相談しろ」



 「……旦那、様に……?」



 「そうだ。旦那様に“仕事をくれ”って頼みな。はっきりとな」



 捨丸は不安げに見上げた。



 「……怒られねぇすか」



 「怒られる?さあな、良くて半殺し、悪けりゃそのまま土間の下だな」



 あっけらかんと言いながら、ねずみはにやりと笑った。


 けれどその目は笑っていなかった。


 捨丸はなぜか、その顔を見て、“期待”のようなものを感じた。



 「でも、もしかしたらだ。もしかしたら――おめぇ、気に入られりゃ、銭もらえるかもな」



 まるで、何かを見計らったような口ぶりだった。


 けれど、捨丸にはその裏を読むほどの頭はなかった。


 数日後、先生がやってきた。


 白い着物と袴に、穏やかな笑み。


 相変わらず、駕籠かき部屋でこっそり握り飯をくれた。


 「今日は少し顔色が良いようだね、捨丸殿」


 捨丸はいつもより深く頭を下げた。


 先生は相変わらず、優しく頭を撫でてくれる。


 その手に触れた瞬間、ふと、母の腕を思い出した。


 けれど――違う。ぬくもりはあるのに、満たされない。


 どこかで「この人ではない」と心が拒んでいた。



 「先生……母様に、抱いてもらうには、銭がいるんだって……」



 ぽつりと漏らした一言に、先生の手が止まった。


 いつものように微笑んではいたが、その目は少しだけ寂しげだった。




 「……母様にそう言われたのかい」



 「はい……銭があれば、きっと……」



 先生は少しだけ黙り込み、やがてゆっくりと口を開いた。



 「捨丸殿…私が抱きしめる、では駄目なのかい?」  



 捨丸は、その言葉に黙り込んだ。


 すると先生は優しく母親の様に抱きしめてくれた。


 先生の優しさは、分かっていた。


 けれどそれは、どこか「遠くてやわらかい」ものだった。


 母様の、あの肌のぬくもりとは違った。


 どうしても、それでは足りなかった。


 先生からゆっくり身体を離すと捨丸は小さく言った。



 「……やっぱり、母様が……いいです」



 その言葉に、先生は小さく微笑んだ。


 なにかを悟ったような、諦めたような笑みだった。



 「そうか。……ならば仕方がない、でもどうか気をつけて。銭を得るというのは、時に、何かを失うこともある」



 先生は最後にそう言い残し、旦那のもとへと向かっていった。


 そして、その日。門前に旦那が出て、先生を見送る。


 捨丸は、ねずみに言われた通り、その背を追った。



 「……旦那様」



 ぴたりと歩みが止まった。


 屋敷の奥の静寂とは違い、門前にはまだ午後の光が残っていた。



 「なんだ、捨丸か。てめえ、今日の掃除は……」



 「旦那様……俺、銭こが欲しいです。なんでもします。なんでもしますから……」



 風が吹いた。夕暮れの埃っぽい匂いが、ふっと鼻をかすめた。


 旦那は捨丸をしばらく見下ろしていた。


 やがて、口を開いた。



 「……ならば、ううむ、そうだな」



 「……」



 「日が落ちるまでに湯殿を焚いておけ。奥の、女衆が使う方だ。湯を張って、待っておれ」


 捨丸は、すぐに頭を下げた。


 その顔には、喜びと、なにか見えない不安が混じっていた。



 「はいっ!ありがとうございやす!きっとやりきってみせやす!」



 捨丸は、火のくべ方を確かめ、桶を磨き、天秤棒で水を運んだ。

 肩がちぎれそうでも、歯を食いしばって耐えた。捨丸は初めて【働く】という実感を得たようだった

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