『鬼斬人』断章 ― 捨丸の夢
夢を見た。
真綿のように柔らかな布団の上に、自分は寝かされていた。
そこへ、白く大きな、二本の腕がすっと近づいてくる。
それは温かく、するりとした手触りだった。
その手が、するりと自分の首の後ろと尻を抱き上げ、胸元へと引き寄せる。
頬が沈むような柔らかな胸。鼻腔をくすぐる甘い匂い。
体温に包まれ、何もかもを許されたような気がした。
「このまま、ずっとこうしていたい……」
そう思いながら、ふと顔を上げた。
目の前には、何かを語りかける唇があった。
けれど、その言葉が届くより早く、突如、世界がひっくり返った。
土間に叩きつけられるような衝撃。
冷たい。
背中に沁みる土の感触。ひんやりとした土間が、自分の体温を容赦なく奪ってゆく。
うつ伏せのまま、目をぱちぱちと瞬かせる。
何が起きたのか理解できない。
だが、次の瞬間、腹にずしりと重たい草鞋が食い込むのが見えた。
「ガキが……いつまで寝てやがんだ!」
腹へもう一発、蹴りが飛んできそうになったが、どうやら一度目で十分だったと見える。
痩せた男は、少し手心を加えた様子で、次の一撃をやや軽めに放った。
「起きろ、捨丸! テメエ、水汲みはどうしたんだ!」
筵から転げ出るように起き上がった捨丸は、咽ながら男に頭を下げた。
「へぇ……すぐに……」
寝坊だ。
起き抜けは体が重く、空腹感が異様に強い。
外を見れば、空は藍から紫へ変わっていた。かなり遅れている。
禿たちが起きてくる前に、奥戸へ水を張らねばならない。
飯盛り屋には何人もの禿がおり、いずれも捨丸より年上の女の子たち。
遊女や彼女らに対し、捨丸は皆を【姉様】と呼んでいた。
先ほど蹴りを入れてきた痩せた老人は、名を知らぬまま【ねずみ】と呼ばれている。
その名の通り、煤けた目と背中を丸めた姿はまさに小さな動物のようだった。
言われるがまま、天秤棒と桶を持って裏木戸を抜け、川辺の共同井戸へ走った。
薄暗い中州には三段に分かれた石組みの水場があり、朝になれば近隣の女たちでごった返す。
今はまだ、川のせせらぎだけが辺りを満たしていた。
「まだ明けるなよ……」
願いながら、桶にざぶりと水を汲む。
天秤棒に吊るし担ぐと、肩にずしりと重みがのしかかった。
これを朝晩、二十往復。風呂の日ならその何倍にもなる重労働だった。
もう二年は続けている。
次の春には九つになる――ねずみが機嫌の良い時、そう教えてくれた。
捨丸の母は九年前の冬、都から流れてきた遊女だった。
身重で父は不明。
飯屋も当初は渋ったが、生まれたら子は寺にでもやって、遊女看板を出して一儲けを企んでいた。
しかし女は腹が出ていても客を取るという、店側はあまり客はつかないと思っていたが許可した。
しかし思惑とは裏腹に、やがて彼女は「茶たて」の看板で人気を博し、宿は繁盛した。
ねずみ曰く【特殊な客】が多く通る街道だったのかも、と言っていた。
そして難産の末に生まれた捨丸を、母は一度も抱かなかった。
顔すら見ようとせず、「捨てた子の話はしない」と突き放した。
名も与えられず、洗濯婆に預けられた赤子は、いつしか皆に「捨丸」と呼ばれていた。
乳母もおらず、米のとぎ汁で育った捨丸は痩せほそり病気がちで、親どころか寺からも拒否され、いずれのたれ死ぬであろうという事で、結局は婆ぁの孤独を慰める存在になっていった。
そんな捨丸だが、婆ぁに教えられ、母の姿を遠目に見ることはある。白い肌、柔らかな歩き方。
少しだけ話をしてくれる二人の姉様、ななえと江は母を恐ろしい人だと言うが、捨丸はあの夢に出てくる温かい腕の感触を、確かに覚えていた。
だから信じていた。いつか、母が自分を抱き上げてくれる日が来るのだと。
そして真冬の凍るような水汲みの最中でも、この汲んだ水が母の肌を洗っていると想像するだけで、重い桶も、冷たい水も耐えられた。
捨丸は朝の日課をなんとかこなし 飯屋の朝餉の慌ただしさが一息つけば、泊りのお客たちが帰った証拠である。
これから遊女達は眠り、禿たちはその間芸事の稽古や勉強の時間になる。
夕餉の御膳の仕入れを仕切るのは「旦那」と呼ばれる壮年のでっぷりとした男である
言うなれば、昼間は【男の時間】夜は【女の時間】なのだ。
捨丸は便所の掃除から始まり、洗濯、奥戸の掃除、駕籠かきなどが待機する【男部屋】と呼ばれる離れの掃除など小間使いの更に手下のような扱いであった。
しかし、婆ぁは何かと理由をつけて捨丸を可愛がった。洗濯の仕事や野菜洗いの仕事を押し付けては、洗濯場で遊ばせ男共の仕事に行かせないようにしていた。
食事の時も、
「ワシはそんなに食べんでいいからお前が食え」
と言い、婆ぁはいつも朝餉として女に配られる姫飯を分けてくれたのだ。
男は大根と粟アワの粥である。
だが唯一捨丸を陰で可愛がってくれていた洗濯役の婆ぁは、昨秋目の前の川でおぼれて死んだ。
野良犬か何かに顔をちぎられ川に落ちたという事だった。
婆ぁが死んでしまうと、捨丸を庇ってくれる人もいなくなり、朝から晩まで労働をし、飯も粥でなく大根だけの日もざらであった。
捨丸が考えるのはいつも【飯】の事ばかりになっていた。
ある日駕籠かき小屋の掃除をしていると、裏戸から大きな声で呼ぶ声が聞こえた。
何事かと歩いていくと裏戸前に一人の男が立っている。
この飯盛り屋に往診にくる【先生】と呼ばれる男である。
女たちが病にかからないように定期的にこの飯盛り屋に足を運んでくれるそうで、女たちの後、捨丸の所にも必ず来てくれている。
この先生が来た時は、急ぎで無ければ仕事はなしになるし、急ぎの仕事がある場合でも先生は必ず待っていて捨丸を診てから帰るのだ。
普段偉そうにしているねずみや、ほとんど口を利いたことがない旦那でさえ先生にはペコペコ頭を下げているのを見て、偉い人なんだろうとは思っていた。
「やあ、捨丸殿」
飯屋には刀を差した【御仁】と呼ばれている人たちはよく出入りをするが、先生は彼らのようにむっつりはしておらず、むしろ禿たちの様にいつでもにこにこしている。
この日も穏やかな笑みを浮かべながら挨拶をしてきた。
派手ではないが、いつもきれいな着物と袴を履いている、頭は総髪で顔も女のようだが声も細い。
呆然と立っている捨丸の前に来ると、先生はしゃがみ込み捨丸の顔を覗いた。
「ふむ、少し顔色が優れないようだね、よし、あそこに行こう」
そう言うと先生に促され、駕籠かき部屋へ行くと、先生は懐から握り飯を出した。
「ここへ座って、さあ、これを食べなさい」
捨丸はジッと先生の目を見た。
「大丈夫、いつも君の為に持ってきてるのだ。食べても怒らないよ」
捨丸と先生の挨拶なのか、毎回このやり取りが繰り返される。
捨丸は野良犬のように噛り付いた。先生は目を細めて優しい笑顔で笑いかける
「それと、今日はこれも持ってきたんだ」
捨丸の前に屈み込んだ先生は懐から小さな竹筒をだし、必死で握り飯を頬張る捨丸の膝の前へ置いた。
「これは蜂蜜と言って大変栄養があるんだ、握り飯を食べたらこれを飲んでみるといい」
あっという間に握りめしを平らげた捨丸は、蜂蜜を手のひらに出して見た。
黄金色のトロリとしたもので捨丸は見た事が無かった。
いつだか、これは栄養があるからと口に入れられた丸薬はとてつもない苦さで、捨丸はその場で胃液を吐いた事もあった。
また同じことが起こるのでは、と警戒し捨丸は先生に視線を送った。
「おやおや、まだあの時の事を根に持っているのかい?大丈夫これは薬丸ではないよ」
そう言うと笑いながら捨丸の掌の蜂蜜を指ですくいぺろりと舐めた。
恐る恐る捨丸も真似をして、開いている方の指ですくい舐めてみた。
強烈な甘みが頭のてっぺんまで響いた。甘すぎて喉が痛いくらいだ。
「おや、気に入ったようだね」
掌ごとベロベロと舐める捨丸を見て先生はまた顔をほころばせた。
「これはね、蜂、わかるかい?」
指を空中に漂わせて、蜂の真似をするが捨丸には婆ぁが教えてくれた知識くらいしかない
「…アブみてえなもすか」
水辺にいる虻をみて婆ぁは「子供は血ぃ吸われっぞ」と教えてくれた。吸われたことはないが
「うん、そうだね似ているね、だが蜂は体の色が違うし、巣で蜜を作るんだよ、道三先生がおっしゃるには赤子には難しいが君くらいの幼年であれば滋養に良いそうで…と、ちょっと難しい話だな。とにかく甘くて美味しい。気に入ったのならまた次回も持ってこよう」
先生はにこにこと笑いながら捨丸の頭を撫でた。
「まだ筒に残っているから、すべて食べて構わないよ。私は旦那と話してくるから、食べ終わるまで君はここに居るといい。いいね?」
優しく念押しをすると、先生は立ち上がり外へ出行ってしまった。
甘い口を再度舐りながら捨丸は「先生は足音があまりしないな」と一人漠然と考えていた
その後先生が戻る事はなく、捨丸は仕事へ戻った。
腹が膨れたからかいつもより元気が出て仕事が捗った。
ねずみに竹筒を奪われるまでは…。
その日の晩も火の落ちた土間はまだ少し暖かく、捨丸は暖かな灰の匂いを嗅ぎながら眠りについた。
夢をみた。
あれは江と呼ばれていた姉様だ
大きく目を見開いてこちらに何か語り掛けているようだ、しかし何を言っているのかわからない
右手を目の前間に出したが中指と薬指なくなっていて、なんだか歯抜けの様な手に見えるのが可笑しかった
ああ、どうやら右手を差し出したのはほかの指もいらないという事らしい
その指の間から首と、まだ膨らんではいない小さな乳房が見えた、指より首の方が暖かいだろうし乳房は柔らかそうだ
ちらと下を見れば開いた股の間からは小便の臭いもする、不思議とその匂いはまるで蜂蜜みたいじゃないか…
目が回る、こすれあう感覚と、ゴワゴワとした音、まるで犬の口の中にいるような大きな息遣いの音…音…
どこかで猫が鳴いてる
甘い…蜂蜜の味…
あまい
あまい
あまりの寒さに目を見開いた。
飛び起きると全身が濡れていた。誰かが水をぶっかけたようだ。寝ていた筵もビショビショで全身に震えがきた
ねずみか?何のために桶の水をぶっかけたのだ、まだ起こされるような時間ではないし昨日は蜂蜜の入った竹筒を奪っていったから比較的機嫌が良かったはずだ、なのになぜ
しかし周りを見回しても誰もいない、と同時に全身が自分の意志に逆らってガタガタと震えはじめた。
考えるより先にとにかく震えを止めるには襤褸を脱がねばと思い起き上がると、奥戸の先、客室方が騒がしい。
酔っぱらったお客が揉めているような声とは違い、普段出してはならないと厳命されている金切声のような悲鳴まで聞こえるようだ。
その場で襤褸を脱ぎ捨て裸になった捨丸は騒ぎの方へ駆けていった。
ふと2階へ上がる階段の前に浴衣が脱ぎ捨ててある。
何も考えずにその浴衣を羽織り騒ぎの方に行こうとしたが、捨丸は思い出した。
ねずみに客間へ行くことは禁じられている。
もし騒ぎの場にネズミが居れば、また目が明かぬほど殴られる。
そんなことはごめんだと思い、引き返そうとしたが、寒さのあまりもよおしたので、奥の厠に入ろうと扉を開けた。
そこにはうつろな目でこちらを見る江の姿。
いや、姿というにはあまりにも細かくなっていたが、恐らくそれは【江】であった。
顔はなんとか判別できる。
内臓や肉片、恐らく腸内にあったのだろう糞便すらもあちこちにぶちまけられて異様な臭いを発している。
かろうじて首から上は残り便所の床の上で仏像の半眼の様に床の隅を見つめている。
時折天井にこすりつけられた内臓からぴちゃり、ぴちゃり、と血が滴る。
捨丸はその光景をしばらく眺めていた。気持ち悪いとも。怖いとも思わず見ていた。
やがて、ねずみに見つからぬよう静かに扉を閉め、捨丸は何事もなかったかのように寝床へ戻った。