京の都 前夜 大徳寺にて
寺域をぐるりと囲む土塀には白黒の幔幕が張られ、その前には羽柴勢の兵がびっしりと立ち並んでいた。門前には松明が焔を上げ、風にあおられては揺らぎ、火の粉を散らしていった。
門の内外からは人の気配が絶えない。僧が袈裟を翻して走り、下働きが桶や荷を担いで右往左往し、その合間を縫うように使者風の武士たちが駆け抜けてゆく。
忠親は馬を下り、通行書付を掲げた。
「羽柴秀長様ご家中、桜井家一殿の召しにより参った白瀬忠親と申す。大徳寺方丈まで通されたい」
書付を受け取った兵は、そこに捺された朱印と文面をざっと目で追い、すぐに姿勢を正した。
「これはこれは……お通り下され。中まで案内いたす」
馬を寺の外れに預け、忠親は兵に導かれて伽藍の奥へと進んだ。砂利を踏む足音が、夜気にさらさらと乾いて響く。方丈の周囲には仮設の帳場がいくつも設けられ、そこかしこで灯火が揺れていた。
灯の下では、僧と武士とが肩を寄せ合い、葬列の順番や参列する諸将の名を記した書付を突き合わせている。忠親の鼻腔に、どこからか香の匂いが漂ってきた。
(……確かに、これは戦場と変わらぬ慌ただしさだな、香の臭いだけが妙に異質だ)
忠親が心中で呟いた時、ひときわ声のよく通る男の叱責が耳に飛び込んできた。
「だから、その列は明け六つからだと申しておるだろうが! 信孝様と勝家殿を同じ列に入れてどうする、順を入れ替えろ、順を!」
声の方を見れば、帳場の一つで紙束と格闘している武士がいる。
痩せた頬、鋭い目つきに、どこか少年じみたあどけなさが残る、桜井家一その人であった。髷の根元には汗が滲み、目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。
忠親は兵に礼を言ってから、そっと帳場へと歩み寄った。
「……佐吉殿」
呼びかけると、家一はまだ書付から目を離さぬまま、ぞんざいに返事をした。
「あとにしてくれ、いま手が――」
そこでようやく、声の主が誰であるかに気づいたのか、家一の手がぴたりと止まった。顔を上げ、目を瞬かせる。
「……白先生か?」
忠親が軽く会釈すると、家一はがたりと床几を倒し、慌てたように立ち上がった。
「おお、先生! よくぞ……いや、ようやく……」
言いながらも、次々と帳場に駆け込んでくる兵や僧が「桜井様、こちらの書付に御判を」「桜井様、この列の配置が」と声を掛けてくる。家一は苛立ち半分、諦め半分に手を振った。
「その件はあとだ、そこに置いておけ! 葬列の順は変えるなよ、勝手に動かすと明日、首が飛ぶぞ。ささっ先生、こちらへ」
忠親を片隅の部屋へ引き入れると、家一はようやく一息ついたように畳に膝をつき、深々と頭を下げた。
「まずは、平にお詫び申し上げる。大阪へお呼び立てしておきながら、急に京へ参れと使いを出すことになってしまい……さぞやご迷惑をお掛け致した」
忠親は首を横に振った。
「いえ、事情あってのことと察しておりました。ただ、何事かと気にはなっておりましたが」
家一は苦笑を浮かべ、額の汗を袖で拭った。
「事情、ね……。一口で申せば、息つく暇もなく忙殺されておる、という他ござらぬ」
それから、軽く咳ばらいをし、わざと大きな声で周りに聞こえるように語り始めた。
「もともと先生を大阪にお呼びしたのは、新たに築いております城下で、秀長様の側近方に病を得た者が多く出ましてな。早々に先生の手を借りとうございました」
忠親は静かに頷く。
「ところがだ」
家一は肩をすくめ、畳の上に広げられた数枚の書付を指差した。
「この大徳寺での大葬の準備に、京の町の取り締まり、諸将の警固の手配……その上、大阪では城の普請が進んでおり、秀長様は向こう、秀吉様はこっち。そのお二方の間を取り次ぐ役目まで仰せつかってしまった」
言葉の端々に、疲労と自嘲がにじむ。
「大阪では石の数を数えさせられ、京では人の数を数えさせられ、その合間には兵の配置だの、葬列の順だの、喧嘩一つ起こさせるなだの……はは、いっそ本当に謀殺されておれば、ここまで走り回らずに済んだやもしれませぬな」
軽口めかして言いながらも、その笑いには少しも楽しさがなかった。
(……なるほど、私が来る口実の説明か)
忠親は佐吉の目を見ながら、続けて大丈夫と促した。
「そんな有様ですので」
家一は姿勢を正し、改めて忠親を見つめた。
「先生に大阪までお越し願っても、ゆっくり診立てを仰ぐ暇も取れませぬ。ならばいっそ、この京で、明日の葬儀が明けるまではここから一歩も離れられませぬゆえ、こちらに出向いていただくほかないと、そう判断いたしました。勝手を申して本当に申し訳ない」
「事情はよくわかりました」
忠親は静かに返した。
「秀長様方のご容体については、こちらで伺えばよろしい。いずれ大阪へも参りましょうが、今はまず、この大徳寺での務めをお果たしくださることです」
そう言うと、家一はふっと力を抜いたように肩を落とし、わずかに目を細めた。
「……先生のその言葉だけで、いくらか肩の荷がおりた心地がいたします」
しかしすぐに、その表情から再び笑みが消え、ほとんど聞こえないほどの小さな声で話し始めた。
「あの先生、折鶴の人だがね。城下におらずに早々に美濃へ引き上げたそうだ」
佐吉は忠親と目を合わせ小さくうなずく。どうやら捨丸を見守っていてくれているようだ。
「かたじけない」
そう言うと忠親は深々と頭を下げた。
すると佐吉は
「いやなに、あの折鶴大層気に入ってしまってな、拙者の家紋にすることにした。先生も了承していただけますかな」
くすくすと悪戯っぽく笑う佐吉は長屋にいた頃と何も変わっていない。
「御家紋をそのように……問題はないのですか」
心配そうに聞く忠親を余所に佐吉は手に持った書状をひらひらさせ
「なに、拙者は家が無いものでしてな、桜井は秀吉様に頂いた家名よ。今後戦ともなれば茶坊主の頃のように瓢箪の旗を掲げる訳もいくまい。そこで丁度思いつきましてな。」
「なるほどそれで兵たちには馴染みがなかったのですね」
「然様、あるいは茶坊主の佐吉と言ってくれれば通したかもわからんがの」
と言い、二人で笑い合った。
すると佐吉は笑顔のまま立ち上がると忠親へ言った。
「先生すまぬが、奥書院に入っていただけぬか。拙者はほれこの通り忙殺されている身ですのでわからぬが、落ち着いたら一献手向けよう、亡き信長公のために……な」
と言いながら部屋を出て行った。
家一との短い対面を終えると、忠親は案内の小姓に寺の奥まった書院へと案内された。
方丈から少し離れたその小部屋は、書院と言うよりは茶室のような造りであった。低い天井、煤けた柱、畳は古く擦り減っているが、隅々まで掃き清められ、壁際には小さな床の間がある。掛けられた軸には墨痕あざやかに「祥」の一字がしたたれていた。
(葬儀前日の書院に祥とは…)
灯りは粗末な行灯がひとつきり。紙障子から漏れる外の気配は遠く、先ほどまでの帳場の喧騒が嘘のように静まり返っている。
忠親は部屋の隅に腰を下ろし、薬箱から紙と筆を取り出した。
(……折鶴殿に、一筆入れておくか)
捨丸の顔を思い浮かべながら、紙を膝に広げる。
――こちらは無事、京に着いた。大徳寺は、まるで戦場の前夜のようだ――
墨を含ませた筆を紙に落とそうとしたそのとき、廊下の方からどたどたと足音が近づいてきた。寺の静けさには似つかわしくない、遠慮のない足取りである。
続いて、戸板を叩く音とともに声がした。
「おおい、開けとくれ」
やけに調子の良い、少ししゃがれた男の声だった。
忠親は筆を置き、立ち上がり戸を引き開けると、そこにひとりの男が立っていた。
四十路ばかりか、五十には届くかという年頃の壮年である。背は低く、がっしりとした体つきだが、肩に力が入っておらず、どこか町人じみた気安さをまとっている。顔は日に焼け、目尻には笑い皺が刻まれていた。
その両手には大きな箱膳が載っている。膳の上には湯気を立てる徳利と二つの盃、香ばしく焼き上げられた鯛の姿焼きがどんと一尾盛られていた。
男はにこにこと笑いながら、盆ごと箱膳を持ち上げて見せた。
「おっ、すまんのう。盆を持っとるから、閉めてくれんか」
その物言いは、まるで古馴染にでも声をかけるかのような気安さである。
「ああ……ええ」
忠親は思わず返事をし、男の背を通すと、戸を閉めた。木戸が音を立てて閉まると同時に、再び小部屋は外界から切り離された。
男は部屋の中央までどかどかと遠慮なく歩み入り、畳の真ん中にどかりと胡坐をかいた。膝の前に箱膳を置き、徳利と盃を丁寧に並べ直す。
顔を上げると、にこやかな笑みを崩さないまま、顎で向かいの座を示した。
「ささ、酒と肴を持ってきた。へへへ、やろうやろう、ささこっちへ」
手招きされ、忠親は少し戸惑いながらも、元の場所から半歩ほどずれて男の正面に腰を下ろした。
(……下男、か? それにしては、ずいぶんと勝手が利きすぎている)
忠親は男をちらと盗み見た。粗末な木綿の着物に羽織、腰には目立たぬ小刀が一本挿してあるだけ。たしかに、その姿だけ見れば、寺の台所から飯を運んできた下働きにしか見えない。
しかし、座ったとたんにそこだけ空気の重心が変わったような、不思議な気配があった。
男はそんな忠親の視線など意に介した風もなく、徳利を手に取った。
「お、手紙をしたためておったのか、それは邪魔したの、まあまあ、難しい顔はあとにしなされ。まずは一献よ、一献」
そう言って、手際よく両の盃に酒を注ぐ。香り立つ温酒の匂いが、狭い部屋にじんわりと広がった。
「さあさ、白先生。今宵はよう来なされた」
男はにっと歯を見せて笑いながら、一方の盃を忠親の前に押しやった。
忠親が盃を受け取ると、男は自分の盃をひょいとつまみ上げぐいと口に運んだ。
「……あっつ!」
舌を焼いたのか、小気味よい悲鳴を上げる。
「くぅ……ええなあ。冷えた夜は、こうでなきゃあかん。ほれ、鯛っちゅうのはな、熱々で食わにゃ損やで」
そう言って、鯛の腹に箸を入れた。香ばしい皮を器用にめくり、湯気立つ白身を骨からさらさらと外してゆく。骨のあいだを迷いなくなぞるその手つきは、粗野に見えてどこか丁寧だった。
忠親は、自分の盃にはまだ口をつけず、その男をじっと観察した。
【羽柴秀吉】
今、最も天下人に近いと噂される男。
背は高くない。衣も飾り気はない。だが、部屋の真ん中に座り込んだだけで、その場の空気がこの男を中心に回りはじめる。
忠親は、あえて深々とは頭を下げず、自然な調子で盃を持ち直した。
「お初にお目にかかります。白瀬忠親と申します」
男、秀吉は、ほぐした鯛の身をつまんだまま、にやりともせずに言った。
「知っとるよ」
あまりにも当たり前のような口ぶりだった。
忠親はそこでようやく盃に唇をつける。温い酒が喉を流れ、張り詰めていた肩の力が僅かに抜けた。
「ですが……今宵ここに、羽柴様ご自身が、このような場所におられてもよろしいのでございましょうか」
大徳寺は葬儀前夜のただ中である。
秀吉は、その問いに少しだけ目尻を細めた。
「なんや、もう気づいとったんか」
惚けてみせてから、口の中の鯛をもぐもぐと噛み締める。
「ちぃと顔見ときたかったんや。こっそりの方が、よう話せることもあるさかいな」
声は軽いが、言葉の端にだけ、わずかに重さが混じっていた。
「秀長様にお目通りした折も、似たようなことがございました」
忠親が盃を置きながら言うと、秀吉の箸がぴたりと止まった。
「ほう?」
「何の前触れもなく、部屋に入って来られて。腰を抜かすかと存じました」
その時の光景を思い返し、忠親も苦笑する。
「裃ではございましたが、秀長様とは思わず」
秀吉の口角がゆっくりと上がった。
「……あやつめ」
次の瞬間、腹の底から楽しそうな笑いがこぼれた。
「先にやりよったか。こっそり人を驚かすんは、もとはワシの役目やったんやけどなあ」
箸の先で卓をこつこつと叩く。
「小一郎め、人の楽しみ取っておいて、儂に何も言わんでおるとは。ほれ見てみい、先生ももう、驚いてくれへん」
悔しがっているようでいて、その実、弟の真似をどこか誇らしく思っている兄の顔だった。
秀吉はほぐした鯛の身を、忠親の前の皿にどさりと移した。
「ほれ、先生の分や。岐阜からよう来てくれはった。腹、減っとるやろ」
「……恐れ入ります」
忠親が箸を伸ばすと、身は驚くほど柔らかく、塩加減もほどよい。噛むたびに、焦げ目の香りと脂の甘みが舌に広がる。胃の底に食い物が落ちて、ようやく自分が空腹だったことに気づいた。
「腹減ってたやろ、外の連中同じでな、あとで何か温いもん持たせたろ思うて台所に行ったら鯛があったでな」
秀吉が徳利を持ち直しながら、何気なく言う。
「葬儀やら何やらで、堅苦しい顔ばっかり並べとると、腹も心も冷えてくる。腹が冷えたら、ろくな考え浮かばん。兵も、町人も、坊さんも、みんな同じや」
忠親は、その物言いに口元をほころばせた。
「兵も、でございますか」
「そらそうよ」
秀吉は当たり前だと言わんばかりに頷く。
「寒空で槍かまえとる連中に、せめて温い汁ぐれえ飲ませてやらんと。河原の見張りなんぞ、今頃歯ぁガチガチ鳴らしとるわ」
言ってから、少しだけ照れくさそうに鼻を掻いた。
「……まあ、あんまりこういうことばっかりしてると、小一郎に『兄者はすぐ余計なことを思いつかれる』て小言食らうんやけどな」
その言い方にも、責める色はない。
耳の奥で、天がくくっと笑った。
(何がおかしい)と忠親が咳払いで問うと、
『よう喋る小さいのだなあと思ってよ』
と、どこか楽しそうに答えた。
忠親も、盃をひと口あおいだ。
やがて秀吉が、ふいと膝の上に手を置いた。
「……そうそう。今夜ここへ顔出したわけ、もうひとつあったんや」
何でもないことのように言いながら、羽織の懐を探る。指先に紙の感触が掴まれ、丁寧に取り出された。
折り畳まれた和紙の包み。隅には、朱の印がにじんでいる。
「佐吉のとこに預けてあったもんをな、ちぃと持ってきた」
秀吉は、それを忠親の前の畳にそっと置いた。
「心当たり、あるやろ?」
忠親の指先が、わずかに震えた。
紙そのものを見るのは、久方ぶりだった。
あの夜、佐吉と共に書き上げ、秀吉のもとへ渡したきりの――五か条の証文である。
一、鬼を退治した後は織田家を去ること、また引き止めぬこと。
一、表向きは道三の弟子――医者として扱うこと。
一、捨丸の記録をすべて抹消し、巻き込まぬこと。
一、鬼斬人について詮索せぬこと、また表に出さぬこと。
一、鬼が現れた際は、一切を自らに任せること。
墨痕の一条一条が、胸の奥で生々しくよみがえる。
「佐吉からよう聞いとる」
秀吉は、徳利を握ったまま、穏やかな声で言った。
「『これに印を押していただけぬなら、白先生はお預かりできませぬ』とな。あいつ、珍しく一歩も引かんかったわ」
忠親は、思わず口元を引き結んだ。
「……御無礼は、なかったでしょうか」
「無礼やったで」
即座に返され、忠親は言葉を失う。
秀吉は、そこでくつくつと笑った。
「茶坊主が、京一番の忙しい殿様に条件突きつけとるようなもんや。無礼やないはずあらへん」
そう言いつつも、その声には怒気も見下しもなかった。
「せやけどな」
秀吉は、包みを指先でつついた。
「ワシは嫌いやなかったで、ああいう無礼は」
忠親は、小さく息を吐いた。
「……目を通されて、なお」
「なお、や」
秀吉はあっさりと言った。
「中身は、なかなかに手厳しかったけどな」
指折り数えるふりをしながら、軽く顎を上げる。
「鬼を斬ったら織田から離れさせろ、表向きは道三先生の弟子――医者として扱え、あの童は巻き込むな、余計な詮索も、触れ回りもするな」
あえて最後の一条には触れず、盃をひと口含んだ。
「……それから、いざとなった時は、一切を自分が引き受ける、やったな」
忠親は視線を落とし、静かに頷いた。
「鬼斬人のことを公にはできませぬ。詮議する口が増えれば増えるほど、事は歪みます。ならば、いっそすべて、私ひとりの責めに帰した方がよいと思いまして」
「佐吉は、そこを一番怖いと言うとった」
秀吉は、盃の酒を揺らしながら言う。
「鬼でも人でも、何かあった時、『全部ひとりの判断に任せる』やからな。儂と同じ力を持ついう事は兵の目から見たらそら恐ろしい話や。せやから見に来たんや」
「……いかがでございました」
忠親の問いに、秀吉は少しだけ真顔になった。
「押したやろ、渡したやろ。そういう事や」
ぽつりと言葉を落とす。
「儂は若い頃に見たことがある。あれは人の手には負えん。直感したんよ。あれは食う側の者、こちらは食われる者だってな」
それは、芝居がかった演説ではなかった。
行灯の火が揺れ、酒と焼き魚の匂いに混じって落ちてきた、素の声だった。
「せやから、朱を入れた。あれは佐吉のためでもあり、先生のためでもあり……まあ、最後はワシ自身のためでもあるわ」
「ご自身の、でございますか」
「うん」
秀吉は笑い、徳利を持ち上げる。
「『これが怖い』て言える友がひとりでもあればな、人は自分の顔が保てるものよ。殿様も、町人も、おんなじことや」
秀吉は、和紙の包みを手に取った。人差し指の腹で折り目をなぞり、改めて忠親の方へ押しやる。
「預けっぱなしも気持ち悪いやろ。返しとくわ」
「……よろしいのですか」
「もとは先生と佐吉が書いたもんや。印ぺたんと押した後は、ワシが胸の内で持っときゃええ。紙は先生が持て」
忠親は両手で受け取った。朱の印が、指先に固い感触を伝える。
美濃を出るとき、自分が書いた約束ごとは、もう遠いところで誰かが握っているものと思っていた。だが今、その重みは、紙でも墨でもなく、目の前の小柄な男の肩に分け持たれている。
「佐吉には、ワシが直に言ったとゆうてくれ」
秀吉は、どこかすっきりした顔で笑った。
「『約束は守る』とな。あいつ、心配性やからなあ。先生のことになると、殊更にな」
忠親は、包みを懐深くしまい込んだ。
「……かたじけのう存じます」
「礼なんかいらんて」
秀吉は手を振ってみせる。
「こっちが先生に礼言わなあかん立場や。道三先生の弟子を借りるんやさかいな。変な使い方した言うて、あとで怒鳴られたらかなわん」
それに、と付け加えた。
「鬼が出んで済むなら、越したことはない」
秀吉は、盃を持ち上げて言った。
「何も起こらん、退屈な葬儀で終わったら、それが一番ええ。けど、もしもの時には」
そこで言葉を切り、わざと軽い笑みを浮かべる。
「ワシは医者の先生を探す。病に倒れた奴のためにな。その時は、約束どおり、先生の仕事や」
忠親は、静かに頷いた。
「承りました」
「すまんな先生、部下が鬼に殺されたなんて儂はとても嫁さんや子供には言えん」
二つの盃が、同時に動き二人の喉を通り過ぎた。
その後、道三先生の近況などをいくつか話したあと、早うねろよと子供をあやすような口ぶりで秀吉は出て行った。
しかし葬儀の始まりは『暁七つ頃』とされ、もう一刻ほどであろう。
自身の参列なども打ち合わせたいので床には入らずに手紙をしたためてから佐吉のところに行こうと筆を取った。




