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岐阜城下 秋月 医院にて


 その晩おそく、長屋の裏手に、濡れた土をふみしめる蹄の音がにわかに近づき、やがて鋭い鼻息といななきが夜気を裂いた。秋月の冷えが深い。息は白く、裏木戸の桟には先ほどまで落ちていた雨が残した雫がひと筋の光となって震えている。


 急病人が馬に乗せられて運ばれてくることはここでは珍しくない。床に就こうとしていた忠親は、馬の気配に気づき、いつものようにように身を起こした。足の裏に板の冷たさが刺さる。裸足のまま表戸へ走りの(かんぬき)を外し、表扉を開いた。


 捨丸はすでに裏手の井戸へ走っていた。

患者はいつも突然に降りかかるが、捨丸は師との夜業が嫌いではなかった。

急な患者が助かる事はまれだが、それでも師と共に人知を尽くして治療にあたる事は尊い事に思えた。

まずは先生が症状などを伺っている間に、捨丸が出来る限りの下準備をせねばならない。


 しかし裏木戸を開けた捨丸の目に映ったのは、馬を曳く黒ずくめの若い女であった。鐙の金具には布が巻かれ、雨に濡れた鞍は布で包まれている。

「木戸が落ちた後につき、堀端より回りました。」

雨に濡れた油紙張りの深編笠を少し傾け、雨粒を払った。肩までおろした髪の端が濡れて細く張り付き、雨の中を動いてきたのだという事がわかる


 女は無言のまま裏口から捨丸とともに医院へ入った。行灯に火が入る。藥箪笥(くすりだんす)から立つ丁子(ちょうじ)桂皮(けいひ)の香りが低く混じり合い、夜の冷えをかすかに和らげる。女は敷居際で膝をつき、灯明の下で静かに頭を下げた。


 ただならぬ気配に、忠親は引き戸へ戻ってもう一度閂をかける。板戸が枠に収まる音はいつもと同じだが、捨丸にはいつもより大きく聞こえた。


「白瀬殿。桜井様よりの密命にございます」


 澄んだ小さな声。水を含んだ刃のように、揺れも濁りもない。


「一両日中に、この馬にて摂津国までお越しくだされ、との仰せにございます。」


 摂津──その二字が、室内の温度をひとつ落とす。忠親はしばし言葉を失い、油皿の小さな炎を見つめた。炎は息を潜めるように小刻みに揺れ、天井に投げた影がわずかに震える。


「摂津か……そうか。秀長様はいま――」


 背後で捨丸が息を呑み、抑えきれず声がこぼれる。


「せ、先生が……今から大阪へ!?」


 女忍は目尻だけやわらかくし、口元にかすかな笑みを置いてから続けた。


「また、桜井様より申し付けがございます。しばしのあいだ、わたくしがこの医院に留まり、捨丸殿のお世話をいたすこと。身の回りのこと、薬種の補給、戸口の見張りに至るまで、すべてお任せあれとのことにございます」


 忠親は眉をひそめ、胸の奥で天の声が忍び笑う。


(乗るのか、白。これが羽柴策でないとなぜ言い切れる)


 視線を受けとめるように、女忍は深く頭を垂れ、懐から掌を差し出した。


「ご安心あれ。わたくしの命は桜井様にあり、捨丸殿を害することは決してございませぬ。密命ゆえ文はございませぬが、証としてこれを渡せば白瀬殿はわかって下さると。」


 そこにあったのは、小さな折り鶴。紙は薄く、何度も指で撫でられたのか端が柔らかく丸い。捨丸が佐吉に渡した折り鶴に他ならない。


 忠親は深く息をつき、不安げな捨丸の瞳を見やった。少年の黒目は灯をひとつ映し、揺らぎながらもまっすぐである。己の道が、否応なく羽柴の懐へ踏み込んでゆくのを、今度こそ悟った。背にかすかな寒気が走るが、足は揺れない。


(戦が近いのか……でなければ佐吉殿が早馬で呼ぶ道理はない。ならば…)


 思いながら、忠親は手を止めずに動かす。薬箪笥の引き出しが次々と開き、紙包みが手際よく選られていく。乾姜(かんきょう)附子(ぶし)白朮(びゃくじゅつ)、指が迷わないのは、戦の匂いを知る医の習いだ。旅の道筋が頭の端で描かれる。美濃を南下し、伊賀を越えるか、近江から逢坂を抜けるか。どちらも戦の匂いがするだろうが…


 そして、いつものように受け取ろうと傍へ来た捨丸に向き直る。忠親は努めて穏やかに保った。


「捨丸、よく聞きなさい。私はこれから摂津(せっつ)へ向かう。そなたのことは、この草の者がお世話してくれるという。私が発ってひと月帰らねば、関の屋敷へ戻るのだ。屋敷に道三先生への手紙がある。山城におられる先生を頼りなさい。いいね」


 捨丸の唇が小さく結ばれ、返事がまっすぐ落ちる。


「はい、先生」


「うん。ではこの薬は飯田の伝兵衛さんの所へ。間もなく常陸(ひたち)に発つと言っておられた、三月分入っている。用法はお前の口から伝えなさい。向こうで良い医者に出会えなければ文を寄こすようにと伝えてください。」


 忠親はさらに戸口のくさびを指差す。


「夜半はこの楔を必ず打て。風が強ければ板戸が鳴るが、鳴き方で人か風かは分かる。人の足は(ふし)で鳴る。三つ数えて二拍、覚えなさい」


「はい、先生」


 短い応答のひとつひとつに、捨丸の肩がわずかに強くなる。女忍はそのやり取りを黙って見つめていたが、視線の底で、何度か小さく頷いた。


 一刻ほどののち、馬具の金具が触れ合う音が外で鳴り、馬蹄が湿った地を蹴る鈍い響きとなって遠ざかっていく。雨上がりの夜気が、戸の隙間から細く差し込み、油の匂いを薄めた。長屋の灯りは、音の去った後ほど明るい。静けさが戻ると、人の気配が逆に濃くなる。


 師を見送ったのち、戸口に立ち尽くす捨丸は、そっと肩で息をし、振り返って草の女を見た。黒装束の女は影そのもののように動かず、ただ淡々と周囲を見渡している。壁の割れ、天井板の継ぎ目、囲炉裏の灰の山、置きっぱなしの木匙きさじ──視線は隙を測り、同時に暮らしの具合を測っていた。


 しばしの沈黙。火にかけた湯釜がことりと鳴り、小さな泡が縁に並ぶ。捨丸はその音に背を押されるように、意を決し口を開いた。


「……ここには町の方々や、往診に来る病の方々がおられます。もし鬼が現れたら、多くの人に迷惑がかかります。だから――」


 幼い声は震えていたが、その眼差しはまっすぐだった。言いながら、捨丸は自分の震えを恥じなかった。震えたまま進むことを、先生に習っていたからだ。


「先生はひと月と仰いましたが、あす美濃の屋敷へ戻りましょう」


 女は薄く目を細め、無言のまま捨丸を見返す。しばらく視線を絡め、やがて小さく首を横に振った。帯の位置が指二本分ほど下がる。退かぬ構えである。


「我が務めはここ。桜井様より賜った役目は、この場を離れぬこと。たとえ鬼が現れようとも、命に代えても捨丸様をお守りするのがわたくしの役目です」


 その言葉に、捨丸は拳を固く握りしめた。節々がこつりと鳴る。灯が細く揺れ、握った拳の影が畳にふたつ並んだ。捨丸は影の方を一度見て、そして顔を上げ、凛と声を返す。


「いいえ、私やあなた方の身を案じているわけではありません」


 女の眉がかすかに動く。声は荒げない。ただ一歩、ほんの少し前へ出る。自分の足裏と畳が触れ合う音が、小さく確かにした。


「この長屋に住まう方々は、先の戦で焼け出された人たちです。先生がこの長屋を建ててくださったのは、鬼から守るためだけではありません。戦火で傷ついた心を、辛い思い出を、少しでも癒すために、この場所をお作りになったのです」


 捨丸は部屋を見回した。白木の梁、拭き清めた卓、閉じたままの針箱。薬包は角が揃い、札も斜になっていない。障子の向こうには静かな中庭。風はなく、灯の明かりだけが縁の木目をなぞっていた。


「ならば、戦火の元となるかもしれない私をここに置いてはなりません。この長屋に何かあれば、先生が悲しまれます。あなた方が来ないと仰るなら、私ひとりで向かいます」


 女は短く息を呑み、言葉を失った。幼い身に似つかわしくない機知と覚悟であった。

 沈黙が落ちる。湯釜がふつふつと鳴り、裏手の竹が風にこすれる。捨丸は肩の力を抜かず、最後のひとことを、静かに呟いた。


「……それに、先生が無事にお戻りになられるとも限りません…」


 女の瞳がかすかに揺れた。わずかな陰がその奥を走る。長屋の灯は、緊張と覚悟の影をいっそう濃く映し出した。

外では、先ほどまでの雨水が軒からぽたり、ぽたりと落ち、遠ざかった蹄の記憶だけが、雲間から見える秋月にやわらかく反芻(はんすう)されていた。

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