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岐阜城 灯影 奥御殿にて



岐阜城の奥御殿(おくごてん)はひどく静まり返っていた。

山の頂上にそびえ立つこの御殿は山風が吹き、夏とは思えぬ涼しさであった

家来たちは北ノ庄へ発つ支度に追われていたが、お市は娘らを寝かしつけ、ひとり文机(ふづくえ)()して物思いに沈んでいた。

兄を失い、己が身は(ひじり)の駒として北ノ庄へ嫁ぐ。覚悟はしていたが、胸に沈む思いは言葉にできぬほど重い。


ふと、目の先の(ふすま)がわずかに開き、衣ずれの音が忍び寄る。

灯影に現れたのは薄衣に黒髪を垂らした女。面差しは雅やかであったが、その瞳の奥には常ならぬ光が潜んでいる。


お市は低く声を発した。


「……誰ぞ、見ぬ顔じゃな。部屋の前にはたれかおったと思うが」


女は袖を押し添えて一礼し、やわらかに微笑んだ。


「殺しましてござりまする」


その言葉にお市は動じず


「ほう、音もなくとは、刺客(しきゃく)(あやかし)か」


するとその言葉に楽しそうに驚いた女は


「恐れ入りましてございます。わたくし、一つ物語を携え参りました」


と言いお市の正面に優雅に座り裾を整えた


「刺客で無いなら妖か、何用じゃ」


お市は警戒を隠さない


女は灯に透ける横顔で、しとやかに(ささや)いた。


「実はこの身、ある夜、本能寺にて第六天魔王と相対いたしました。炎は梁を呑み、女らの絶叫は壁を震わせる中、われ、かの御方へ申し上げたのです。――『われと契りを結び給へ』と」






天井はすでに崩れかけ、灼熱の煙が渦を巻き、梁がぱきりと裂けて火の粉が吹雪のように舞い落ちていた。

外では勝鬨(かちどき)が響き渡り、炎に包まれた各部屋からは女房たちの悲鳴が四方から響く、まさに阿鼻叫喚の地獄である。


その中に、太刀を持ち、肩衣を脱いだ男が立っていた

炎に包まれながらも顔には烈々たる笑みがあり、髪はぱちぱちと燃え上がり、肌は裂けて蒸気を噴きながら爛れていく。

常ならば苦悶に叫ぶはずの肉体であったが、その瞳は澄み渡っていた。


茨木童子は炎のうねる廊下へ一歩踏み出し、女の(かたち)を解いて鬼の気配を溢れさせる。


「さあ、信長殿……炎で崩れる前に、わたくしに――我に! お前の皮を!!」


炎越しに手を差し伸べる茨木童子に向かって信長はつぶやいた


「くっくっく、なるほど…心頭滅却すれば…のう」


「その皮膚が溶ける前に我の元へ来い!さあ!」


炎を割って鬼が飛びかからんとした刹那、信長は持っていた太刀を伸ばしてきた鬼の手の正面に突き立てた。その反動で後ろに飛び退きながら、焼け(ただ)れた唇を開き驚くほど冷静な声で言った。


「鬼にやるものなど……毛一つも無いわ」


その瞬間、梁が崩れ落ち、炎の奔流が二人を呑み込む。

信長の影は火柱の中に溶け消え、焼け焦げる人とは思えぬ冷徹な気配だけが残った。






「……まこと、恐ろしき御方にて候」


茨木は袖で口元を覆い、恍惚としたように笑んだ。


「わたくしが皮を得られぬとは、いまだ悔しくて…悔しくて」


お市は深く息を吐いた。


「兄上は……最後まで鬼を退けられたか」


女はすすと前へ進み、声を落とす。


「されば今宵(こよい)は悔しさ紛れに、妹御(いもうとご)の御皮をいただかんと思い立ちましてなぁ、参じた次第でござりまする」


お市の眼が凛と光った。恐怖はあった、しかしその恐怖を見せない術も学んでいた。


「これは命乞いではない。この場にてそちに殺されようとかまわぬ、されど娘らを残して、ただ鬼の戯れに命を落とすは承服いたしかねる。この場でわらわを弄ぶのみで済むなら身は惜しまず差し出そう、しかしそれでもわらわの命をと申すならば。改めて、兄上に拒まれた鬼よ、我が夫となる権六殿を推し立ててみぬか?彼に天下を取らせ給え。さすれば汝は天下人を操る鬼となりえよう」


鬼はしばし黙し、やがて袖の奥で白き指を組み、艶やかに笑んだ。


「まあ……これはこれは…妹御みずから鬼をそそのかすとは。いと面白きこと。第六天魔王に拒まれしわれを、妹君が抱き寄せるとは。ほっほっ可笑しいことよの、良いでしょう…契りは結ばれました」


お市は瞳を伏せながらも毅然と告げる。


「ただし鬼よ、我が娘らに手を触れるな。人の眼に鬼の姿を晒すことも許さぬ」


「フフフ、心得てございまする御台殿(みだいどの)


茨木童子は影のように薄れゆきながら、声を残した。


目を上げたお市の前にその姿はなく、ふと首筋に長い爪が絡む。そして背後から


「されど御台殿……鬼の与ふる福は、必ず(わざわい)(はら)むものにて(そうろう)ぞ」


灯火がかすかに揺れ、その揺れと共に鬼の気配は消えた。




お市はその場を動けず、声を発することもかなわなかった。

ただ、ごくりと喉を鳴らした己の唾を、鬼に聞かれはせぬかと──ふと、思った。


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