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『鬼斬人』2 ― 『鬼』と『医』ー秋声

村井新左衛門(むらいしんざえもん)と名乗る男は、気づけば毎日のように長屋へ顔を出すようになっていた。

最初は堅苦しい口ぶりであったが、日を重ねるごとに砕け、軽口を叩き、笑いを交わすことも増えていった。


「いやはや、どうにも肩が凝ってかなわん」

そう言っては捨丸に肩や腰を揉ませる。小さな手では大した力にもならぬのに、村井は大げさに身をよじり「おお効く効く、名人の手つきよ」と笑うものだから、捨丸は顔を赤らめつつも楽しげだった。


ある日の夕暮れ、村井は懐から袋を取り出した。


「先生、捨丸。今日は少しばかり手に入ったのでな」


袋の中には焼き餅があり、香ばしい匂いが広がった。

その瞬間、捨丸の腹が鳴り、思わず餅に手を伸ばす。


「こら、礼も言わずに」忠親が窘めると、


「だって先生、あんまり旨そうで……」


と餅を一口で放り込んだ捨丸は、口をもごもごさせながら答えた。


村井は腹を抱えて笑った。


「ははは、狸の子かと思ったわ。ほれ、餅が鼻にくっついておるぞ」


指で取ろうとすると、捨丸は必死に顔を振って


「やめてください!」


と叫ぶ。

やがて二人は畳の上で取っ組み合うようになり、転げながら笑い続けた。


その様子を眺めていた忠親は、呆れながらも胸の奥で奇妙な安らぎを覚えた。鬼の影が絶えぬ世に、こんな笑い声があることが信じがたく、同時に尊いと感じられた。


囲炉裏を囲んで飯を分ける日も増えた。

味噌汁をすすりながら村井は武家の噂を語り、忠親は人の道を説く。


「されど先生、人の理屈で世は動かぬものですぞ」


「私は大きな流れの話をしているのです、それは理であるべきだと思います」


互いに譲らぬ論戦はやがて笑いに変わり、捨丸が番茶を注ぎながら「どちらも負けず嫌いだ」と首をかしげることもあった。


またある日には、働き詰めで煤けた顔の捨丸を見て村井が言った。


「子は清潔であれ。先生、湯を張らせていただきます」


桶に湯を運び、まるで兄か父のように捨丸を風呂に入れ、髪を拭ってやる。


「……ありがとうございます、村井殿」


照れくさそうに笑う少年を見て、忠親は胸の奥で静かに微笑んだ。


こうして村井は、忠親にとっては語り合える友に、捨丸にとっては笑い合える兄のような存在へと変わっていった。

忠親、村井と捨丸、三人が囲炉裏を囲む光景は、外の戦乱を忘れさせるほど温かなものだった。


村井が長屋へ通う日々は、ひと月近く続いた。

肩を揉ませては笑い、番茶をすする傍らで論を戦わせ、時に捨丸と取っ組み合うように笑い転げる。そんな温かな時を過ごすうち、三人の間には奇妙な親しみが育っていた。


ある夕暮れ、村井は囲炉裏端で餅を炙りながらふと口にした。


「……先生。そろそろ拙者も岐阜を引き上げねばならぬ」


「岐阜を、ですか」


「うむ。秀長様に従い、しばらくは山城の国と行き来することとなろう。……去る前に一度、心置きなく杯を傾けたいと思うのだ」


村井はどこか寂しげに笑った。


「これまで毎日のように押しかけ、もてなしを受けた礼も兼ねてな。今秀長様は摂津におられる故、留守居は拙者だけだ、そこで屋敷にてささやかな酒宴を設けたい。どうか先生、お出ましくだされ」


忠親は少し驚いたが、すぐに頷いた。


「……勿論です。気楽な酒であれば、ぜひに」


「ありがたい。捨丸も共に来るがよい。子に酒は早いが、飯くらいは食わせてやろう」


「はいっ!」


と捨丸は嬉しそうに顔を上げた。


当日、駕籠を用意するなと念を押していた忠親はごく気軽な心持ちで屋敷への門を潜った。

秀長の屋敷には灯明の火が並び、庭に面した座敷には膳と酒が置かれていた。

村井はすでに待ち構えており、にこやかに迎える。


「先生、よう来てくだされた。ささ、遠慮はいらぬ」


「……ではお言葉に甘えて」


杯を交わし、岐阜の城下や美濃の景色の話に花が咲く。

町人の商いの様子、長良川の流れ、野山の薬草――話題は尽きず、捨丸は二人のやりとりに目を輝かせて聞き入っていた。


やがて、村井は盃を置き、表情を改めた。


「……先生。改めてひとつ、謝らねばならぬことがある」


忠親は眉を動かす。


「何でしょう」


村井は姿勢を正し、両手を畳に付き真剣な眼差しで言った。


「拙者、これまで村井新左衛門と名乗っており申したが……それは偽り。真の名は桜井家一(さくらいいえかず)と申す。もともとは秀吉様の小姓を務めておったが、今は秀長様のもとに仕える身にございます」


座敷の灯がわずかに揺らめいた。

忠親は盃を置き、黙したまま相手を見つめる。


桜井は続けた。


「なぜ今まで“村井”と名乗っていたか……さぞ怪しまれたことでしょう。素性を隠し、相手の心を開かせるため、そのための偽名でございました。昨今の事情を鑑みれば誰が味方か解かりませぬゆえ…」


更に両手をつき、深く頭を下げ桜井は言う。


「先生、今まで欺いていたこと、どうか、どうかお許し願いたい」


忠親は静かに盃を取り直し、微笑みを浮かべた。


「……理由あってのことでしょう。隠していたことを責める気はありませんよ」


桜井の顔に安堵が差し、やがてほころんだ。


「かたじけない……。ならば、今後は“佐吉”と呼んでくだされ。幼き頃よりの名でもある。代わりに、拙者も先生をもっと親しく呼びたいのです」


忠親は一瞬考え、盃を掲げながら静かに応えた。

「……私の事を…親しい方は“白”と呼びます。では佐吉さん、私のことは白と呼んでください」


盃を掲げ合い、酒の香が座敷に広がった。


すると改めて佐吉は


「白殿、これから話すことはこれまでの非礼を詫びるため、しばらく拙者の肩書などは忘れ友である【村井新左衛門】の言葉としてお聞き下さらぬか」


「真意としては掴みきれませぬが、友としてと仰るのならば謹んでお聞きいたしましょう」

杯を置きながら忠親は目を瞑った。


では、と膝元の膳を横へ置き、忠親の前までにじり寄った佐吉は小さな声で話し始めた


「伝えたいことがある、まず最初に先月この屋敷で会った老人を覚えているか」


「はい、浮浪者の男ですね」


「然様、あの後その男が訪ねて参って、白殿は鬼を使役しておると、捨丸は鬼じゃと申してきた。」


意識してゆっくりと瞼を上げた忠親はまっすぐ佐吉の目を見ながら答えた


「…して、佐吉さんはどのようにお感じなさいましたか」


佐吉はその質問にはすぐに答えず


「羽柴の草の者は、白殿が【鬼】との関わり合いがあると見ておった、あの日屋敷で話を伺ったのも草の者達が直にそこもとを観察したいというたからじゃ。いや、そなたは気づいておったろう、だからこそ拙者は白瀬忠親と言う人間を知りたくなり、訪ねるようになったと言う訳よ。」


突然村井という男が長屋に通いだした理由を聞けて忠親は合点がいった。


「お役目でありましたか…ただあまりこの場では仰っていただきたくなかった。」


そう言いながら忠親は横目で捨丸を見やり少し目を伏せた。

あんなに村井に懐いていた捨丸に聞かせたくはなかった。


「いや、ご案じめさるな、拙者は長屋で過ごす間、斯様な心地よさは初めてであった。そこもととの友情やこの捨丸の事を謀る、そのような心は持っておらぬ。」


真面目な顔から一転長屋に居る時のような明るい顔になった佐吉は、横で箸をおく捨丸の顔をまじまじと見やった。


「なので、その老人には戯言を申すなと厳しく言い含め、今後()()()()()()()()()しておいた。」


ちらと捨丸のほうへ目線をやり佐吉は言下に言い含めた。直接的な言い回しをしなかったのは捨丸への配慮であろう。

忠親は目礼した後「かたじけない」と言って頭を下げた。


なになに、我らにはこういう事は日常茶飯事でしてな、といい軽く笑った。


「拙者はな、小さい頃に弟を二人亡くしましてな、下の弟はこの捨丸によく似ておった。頭がよく礼儀正しくそれでいて無邪気だ。もしも鬼がこのように可愛いのでしたら拙者はいくらでも歓迎ですぞ。」


そう言いながら捨丸を見るとにこりと笑い、忠親へ向き直り言葉を続けた


「しかし、羽柴家はそう思ってはござらぬ。捨丸については拙者の方から【疑念これなし】と書き送っておるが、白殿に関しては…」


そこまで言うと忠親は、もう一度頭を下げ


「かたじけのう御座います。捨丸の事、感謝してもしきれませぬ。そして私も佐吉殿の友情にお答えするべく言いましょう。私が【それ】です。御家にご報告召されよ」


突如そう告げられた佐吉は何も言わず目を見開き忠親を見ていた。


いつも井戸端で交わす戯言の時のように忠親は子供っぽく微笑んだ


「して、私の力で羽柴家にどのような働きが出来るか…」


佐吉は確信があったに違いない、もしかしたらねずみをけしかけたのも佐吉かもしれない、と忠親は考えていた。しかし、たとえそうでも捨丸を庇ってくれたのは間違いなくこの男であるし、弱みを握られているのも確かだ。

ここは出方を探るよりも、相手の懐へ飛び込んだ方がまだマシだと考えた。


「こ…これは…確かにそうであったか。いや…ご本人の口からあっさりと認められてしまうとなかなか。」

そう言いながら佐吉は頭を掻いた。


「佐吉さん個人的なお願いですが、夜も更けた故、捨丸をどこかで横にならせてやりたいのですが」

そう言うと忠親は目くばせした

(この後の話は捨丸はご容赦願いたい)

忠親の顔を見つめたまま佐吉はうなずいた


「それでは床を用意させますゆえしばしお待ちを」


そう言うと「おい」と大きな声で一言外へ声を掛けると、家の下女がやってきて佐吉の差配を聞いてから、捨丸の手を曳き寝所へと出て行った。

捨丸はいつものように、両手をついて


「先生。お休みなさいませ」


と言い出て行った。そのしぐさを何とも愛おしそうに佐吉は見つめるのだった。


「捨丸は実に可愛い、本当に弟を思い出しまする」


そう言って佐吉はにっこり微笑みかけた。


そこで改めて会話を始めるきっかけとして、猪口に酒を注ぎながら何でもない様に忠親は話し始めた。


「捨丸は、母御が鬼になられた故、私が切りました。本人はよく覚えておらぬようですが…」


「然様で御座ったか、ではあの飯屋の騒動はお母上であられたか」


「如何にも、私が調べていた最中の出来事でございました。さて、本題に入りたいと思います。」


忠親は改めて座りなおした。

(白、ワシの事は伏せるんだろうな?)

そうつぶやく天に対して、独り言のように返す


「無論…。さて佐吉殿、私に頼みたいというのはどのようなご用件か、伺いたい」


佐吉に気取られぬよう天へ返事をしながら、忠親は改まって問いかけた。


「他でもない。羽柴家へのお力添えをお願いしたい」


佐吉も居住まいを正し、深く頭を下げる。


「鬼の退治という事で相違ございませぬか」


「如何にも。ただし」


「ただし?」


「これから申すことは織田家の大事にかかわる。ゆえに一切、他言無用にて願いたい」


「当然のこと」


「うむ。では申す。本年度中にも、織田家の命運を分ける大きな戦が控えておる」


「戦…ですか。ついこの間も山崎にて合戦があったばかりですが、今度は何方と?」


「柴田じゃ」


佐吉は声をひそめた。その一言に、忠親は驚きを隠せなかった。


「え…織田家の命運とは、御家同士の争いで…」


「うむ。だがその辺りはそこもとに関わりなきことよ。肝要なのは、柴田の軍勢の中に【冥土軍】と呼ばれる兵があるらしい、という噂だ」


「冥土…」


「然様。だが羽柴の草も見た者はおらず、内偵を放っても事情がつかめぬ。ただ、噂では権六殿は密かに鬼と通じ、その兵を借りておると」


「鬼の兵…」


「いかにも。そこで先日の問いに立ち返る。鬼を従えることは可能か――とな」


忠親は独り言のように天へ問いを投げる。


「ふうむ、人には操れぬものですが、人と話ができ、交渉の叶う鬼であれば別でございましょうなあ」


すぐさま天の声が返る。

(…そうだな。心当たりはある。人に化けて渡り歩き、久しく姿を見せぬが…)


しばし沈黙ののち、忠親は口を開いた。


「鬼には、官職のような階位があり、高位の鬼であれば他の鬼を操ることが出来ます。柴田様に組する鬼、覚えのある名かもしれませぬが、その鬼であるとすれば、私ではどうにも及ばぬかもしれません」


「構いませぬ。もとより鬼が戦場に現れれば、我ら人の力では到底太刀打ちできませぬ。先生の【鬼斬人】としての腕、ぜひに」


「買いかぶられては困ります。私はただの医者。刀こそ持ちますが、武勇は皆さまの足元にも及びません」


「いやいや、拙者も剣術は嗜みまするが……白殿とはあまり刃を交えたくはありませぬな。まあそれはさておき、では改めてお力添えいただけると受け取ってよろしいな?」


「ww、ですが条件がございます」


「ふむ、条件と」


「はい」


忠親はそこで、五つの約束を挙げた。


一、鬼を退治した後は織田家を去ること、また引き止めぬこと。

一、表向きは道三の弟子――医者として扱うこと。

一、捨丸の記録をすべて抹消し、巻き込まぬこと。

一、鬼斬人について詮索せぬこと、また表に出さぬこと。

一、鬼が現れた際は、一切を自らに任せること。


佐吉は「ふむう」と唸り、やがて退出すると筆と紙を携えて戻り、忠親の口述のまま条件を書き連ねた。


「この条件を呑んでいただけるのであれば、力をお貸し申そう」


佐吉は自分で書いた条件を読みながら忠親の言葉を聞いていた。


「…わかった。では私が清書して秀長様へ――」


その言葉を、忠親はすぐに手で制し、静かに首を振った。


「恐れながら、これは秀吉殿ご自身の許可を賜りたく存じます。秀長様を信じぬわけではございませぬ。されど、羽柴家の頭領が認めねば、この話はなかったものと思し召し下さい」


「しかし…それはなかなか……ううむ」


佐吉はしばらく考え込んだが、やがて「よし」と強く頷き、力強く答えた。


「この桜井家一、しかと承りました。必ずや秀吉様にお渡しいたしましょう」


佐吉は口元に柔らかな笑みを浮かべたが、その眼差しには一片の揺らぎもなかった。


開け放たれた庭からは既に秋の終わりを告げる風が吹いていた。











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