表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/15

『鬼斬人』2 ― 『鬼』と『医』ー路上

天正十年、織田信長(おだのぶなが)が本能寺に(たお)れ、明智光秀(あけちみつひで)もまた山崎で討たれて後、岐阜は混沌としている。

城下では、信長の孫にあたる三法師(さんぽうし)が正式に織田家の後継者となり、後見人のひとり、三男の織田信孝(おだのぶたか)と共に岐阜入りしているとのうわさが流れていた。さらには信孝ともう一人の後見人羽柴秀吉(はしばひでよし)の名前が挙がり二人の不和(ふわ)も噂の種になっていた。


羽柴秀長(はしばひでなが)の屋敷を辞し、酒を含んだ白瀬忠親(しらせただちか)は夜道を歩く。胸には言葉の余韻が鈍く残り、足音だけが冷たい闇に響いた。


長良川の川沿いに、大きな柳の木があった。

その陰に、一つの影がじっと佇んでいる。


月の光を斜めに浴びたその姿から、湿った笑い声が滲み出した。


「……へへへ、医者殿よ。よくもまぁ澄ました顔で歩いてやがるなぁ」


顔は定かでなかったが、忠親はすぐにわかった。

影が柳の根元からずるりと這い出し、現れたのは数刻前、屋敷で声を交わした浮浪者の老人であった。


「……何のことだ」


忠親は立ち止まり、胸の奥に走った不穏さを押し隠しながら身構えた。


「何のことだぁ? けっ……惚けやがってお偉い人は下男の顔なんざ覚えてねえってかよ」


老人は袖口から突き出した腕の残りを振り、歯の隙間から涎を飛ばした。


「……ねずみか」


かつて屋敷に仕えていた小間使い。名を【ねずみ】と呼ばれた男。

髭は伸び放題、頭は白く変わり果てていたが、ぎょろつく眼と、粘ついた声色が記憶を呼び覚ました。


「おうよ、覚えてやがったか。さすが【先生ぇ】だな」


ねずみはにたりと笑い、黒ずんだ歯を覗かせた。


「だがなぁ……不思議だろ? わしぁ一言も言わなかったんだ、“医者殿が屋敷にいた”なんてなぁ。口を噤んでやったんだぜ? へへへ……どうしてだと思う?」


「……」


「へへへ、簡単な話さ。黙ってりゃ、あんたが助かる。口にすりゃ、医者殿は“鬼と通じていた”ってことになろうなぁ。だがわしぁ黙ってやった。黙ってやったんだぜぇ?」


「恩を売ったつもりか?」


「恩? ちげぇよ。これは貸しだ。でっけぇ貸しだ。……貸しってのは返すもんだろ? わしみてぇな浮浪者の腹を満たすくらいの銭、いや、それ以上にだって値打ちがある貸しだぜ」


「……」


「安心しな、全部ぶちまけやしねぇさ。けどな……わしの口は軽いんだ。寒風が吹いただけで“ぽろり”と滑るかもしれねぇ。へへへ……だから、銭をくれや。口に楔を打つためによ」


「……」


「どうした? 医者殿。あんたの懐から銭の音が聞こえねぇと、わしの舌が勝手に喋りだしちまうかも知れねぇぞォ……へへへへへ」


ねずみの下卑た笑いが夜気に溶け、忠親の耳にまとわりついた。


「……わかった」


忠親の声は低く、揺るがなかった。


「言い値で構わん。銭は払おう」


ねずみの目がぎらりと光った。喉の奥で笑いを噛み殺し、涎を垂らす。


「へ、へへへ……やっぱり医者殿は話がわかる。だが銭は後でいい。まずは聞けや、あの夜のことをな」


「聞こう」忠親は静かに頷いた。


ねずみは腰を下ろし、膝を抱え込むと、擦り切れた袖で口を拭った。


「……あの夜、わしぁ知ってたんだ。あの小僧――捨丸が夜な夜な奥戸を抜け出してるのをな。へへ、いい機会だと思ったのさ。待ち伏せして、頭をひっぱたいてやろうってな。昔から気に食わなかったんだ、あの陰気面をよ」


忠親の眉がわずかに動いた。

(……やはり、捨丸の事を)


「ところが戻ってきたのは小僧じゃなかった。いや、小僧に見えたんだが……あれは鬼だった。鬼に化けた小僧だったのかもしれねぇ」


「……詳しく話せ」


「へへ……捨丸だと思って頭をひっぱたいたらよ、奴は振り返って腕を掴みやがった。そしたらガブリ、よ。肘の上からゴリゴリと骨がねじ切れて……この腕が今でも疼くんだぜ」


ねずみは肘から先のない腕を振り、ひくつく笑いを洩らす。


「そんでな、噛みつかれて肉を千切られ、蹴られて腿も砕けた。血で目が曇る中、奴の影が揺らいでな……あんたが現れたのはそのすぐ後だったっけなあ」


息を荒げ、涎を散らしながらねずみは叫んだ。


忠親は目を細め、深く頷いた。


ねずみは荒い息を整えると、片方の口角を吊り上げ、涎で濡れた唇をぬぐった。


「へへ……どうだい、医者殿。俺が黙ってるってのは、それだけで銭に換えられる“証文”みてぇなもんだ。安かねぇぞ……」


忠親は無言で睨み返す。


「最初はなぁ、一両でいいと思ってた。だがこうして話してみりゃ、これはでっけぇ宝だ。……あのお侍の旦那に話せば、どれほどの値がつくか。へへへ……」


笑いながら、ねずみは地面に唾を吐いた。痩せた肩が小刻みに震え、欲に濁った眼だけがぎらぎらと輝く。


「だからな、気が変わった。金五両だ。いや、十両でもいいだろ?どうせ医者殿の懐は暖かいんだろう? 町人から巻き上げた薬代でよぉ」


その言葉に、忠親の瞳が冷たく光った。

(……やはり。こいつは止まらん。こちらが譲れば譲るほど、喉を広げて喰らいついてくる)


「へへへ……安心しな。もらうだけもらったら、俺は黙る。死ぬまで黙ってやるよ。けど銭がねぇとなると……俺の舌は勝手に揺れて“あのお侍様”の耳にまで届いちまうかもしれねぇなぁ」


夜気に混じって、鼠の鳴くような下卑た笑いが路地に響いた。


 「……なるほど。浅ましいな。だから“ねずみ”か。誰がつけた渾名(あだな)かは知らぬが、なかなか的を射ているではないか」


 忠親の冷笑に、ねずみの顔が一瞬ひきつった。


「な、なにぃ……? 医者風情が、俺を侮りやがって……!」


 肩を震わせ、血走った目で忠親を睨みつける。だがすぐに薄汚れた唇を吊り上げ、必死に笑いを作った。


「へ、へへ……だがよ、どんなに強気に出ようが、俺の口ひとつで――あのお侍様に話が流れりゃ、あんたの首は飛ぶんだぜ。俺の方が上なんだよ、医者殿!」


 忠親は表情を崩さず、ねずみの背後に迫る影に低く問いかけた。


「……で、こやつをどうする、捨丸」


 その一言に、ねずみの喉が詰まり、顔が強張る。


「な、なに……?」


 慌てて背後を振り返る。


 そこに――ねずみとの距離わずか二歩。月明かりを浴び、蒼白な顔でじっと立ち尽くす捨丸の姿があった。


 闇に沈んだ瞳は揺らめき、ねずみの心臓を鷲掴みにするような気配を漂わせていた。



ねずみの顔から血の気が失せていく。折られた腕の痛みと噛み千切られた夜の記憶が甦り、汗がぼとぼとと額を伝った。


 その時、低く嘲る声が路地に落ちた。


「……久しぶりだな、ねずみ」


 忠親は眉を動かした。天が語っているが…勿論ねずみには聞こえない


 すると次の瞬間、捨丸の口が同じ言葉を繰り返した。


「……久しぶりだな、ねずみ」


 まるで影をなぞるように。


「どうしたんだ? そんなに驚いて……汗をかいてるぞ」


 声は続けて響いた。酒呑童子の嘲笑と、それをなぞる捨丸の幼い声。忠親にはそれがはっきりと連なって聞こえた。


 だがねずみには、捨丸がしゃべっているようにしか見えない。


「ひ、ひぃっ……!」


 少年の口から、あの夜の鬼と同じ響きが洩れたのだ。ねずみの膝が崩れ、闇に尻もちをついた。


 捨丸は無表情のまま、天の声をそのまま口にした。


「そうか……また俺の前に現れたということは、腕一本だけでは、足一つだけでは足りなかったって訳だな」


 その言葉に、ねずみの呼吸が乱れる。背中から冷や汗が噴き出し、膝が震えた。


 捨丸はずるりと歩を進め、顔をねずみのすぐそばまで寄せる。瞳は濁りも光もなく、ただ声を繰り返す器にすぎない。


 そのとき、天と捨丸の声が重なった。


「……やはり、あの時に頭を食らっておけばよかったな……いや、今からでも遅くはないか」


 ぞっとする響きが、二重の声となって路地に満ちる。


 次の瞬間、捨丸の両手が閃いた。

ものすごい勢いでねずみの頭を両側から挟み込むように――ぱあん、と乾いた衝撃音が夜気を震わせた。


 ねずみの身体は後ろにのけぞり、尻もちをついたまま声にならぬ悲鳴を洩らした。目は白く剥け、口からは泡混じりの唾が垂れる。


脅しの余韻がまだ消えぬうち、胸の奥から鋭い声が響いた。


「――おい、白。刀を抜け」


 忠親の背筋を氷が撫でた。

天の声が、稲妻のように響く。


忠親は腰の柄に手をかけた。天の声に抗う間もなく、鞘走る音が夜気に響く。冷たい月光を受けて、刀身がぬらりと光った。


 その刹那――捨丸の身体がぐっとのけぞった。

 さきほどまで無表情に天の声を繰り返していた少年の顔に、はっきりと恐怖の影が差す。瞳が大きく見開かれ、唇が震えている。


「……捨丸?」


 忠親は思わず声を洩らした。

(なぜだ……刀を抜いたからではない。あの怯え方は――鬼を察している? 鬼が近いのか……?)


 夜気が重く沈む。虫の声すら止み、空気が張りつめる。

 胸の奥で響く天の声も、今は妙に低く、硬い。


「……白。気を抜くな」


 天すらも緊張している――そう悟った瞬間、忠親の心臓は強く打った。

(天が構えるほどの“何か”が、近くにいる……!捨丸をなんとか隠さねば…今かっ)


忠親はのけぞる捨丸を抱きかかえ、五歩六歩と飛び出した。抱きかかえられた捨丸は意識を失ったようだ。

片手で刀を構え周りに注意を巡らす。


すると程なく張りつめていた空気が、不意にほどけた。


 同時に、胸の奥から天の声が低く響いた。


「……去ったな」


 鬼が近くにいた。

なんの鬼かも分からないが影の気配は煙のように掻き消えたのだ。


「何が――」と問いかけかけた忠親は、舌を噛んで飲み込む。

今はそれを問うよりも先に、ねずみを始末しなければと思いなおし背後のねずみに振り返る


既にねずみは姿をくらましていた。


「ねずみの由来はこっちか…」


妙に得心しながら刀を収め、捨丸を担ぎなおし、忠親は静かに川沿いを歩いて行った。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ