『鬼斬人』2 ― 『鬼』と『医』ー路上
天正十年、織田信長が本能寺に斃れ、明智光秀もまた山崎で討たれて後、岐阜は混沌としている。
城下では、信長の孫にあたる三法師が正式に織田家の後継者となり、後見人のひとり、三男の織田信孝と共に岐阜入りしているとのうわさが流れていた。さらには信孝ともう一人の後見人羽柴秀吉の名前が挙がり二人の不和も噂の種になっていた。
羽柴秀長の屋敷を辞し、酒を含んだ白瀬忠親は夜道を歩く。胸には言葉の余韻が鈍く残り、足音だけが冷たい闇に響いた。
長良川の川沿いに、大きな柳の木があった。
その陰に、一つの影がじっと佇んでいる。
月の光を斜めに浴びたその姿から、湿った笑い声が滲み出した。
「……へへへ、医者殿よ。よくもまぁ澄ました顔で歩いてやがるなぁ」
顔は定かでなかったが、忠親はすぐにわかった。
影が柳の根元からずるりと這い出し、現れたのは数刻前、屋敷で声を交わした浮浪者の老人であった。
「……何のことだ」
忠親は立ち止まり、胸の奥に走った不穏さを押し隠しながら身構えた。
「何のことだぁ? けっ……惚けやがってお偉い人は下男の顔なんざ覚えてねえってかよ」
老人は袖口から突き出した腕の残りを振り、歯の隙間から涎を飛ばした。
「……ねずみか」
かつて屋敷に仕えていた小間使い。名を【ねずみ】と呼ばれた男。
髭は伸び放題、頭は白く変わり果てていたが、ぎょろつく眼と、粘ついた声色が記憶を呼び覚ました。
「おうよ、覚えてやがったか。さすが【先生ぇ】だな」
ねずみはにたりと笑い、黒ずんだ歯を覗かせた。
「だがなぁ……不思議だろ? わしぁ一言も言わなかったんだ、“医者殿が屋敷にいた”なんてなぁ。口を噤んでやったんだぜ? へへへ……どうしてだと思う?」
「……」
「へへへ、簡単な話さ。黙ってりゃ、あんたが助かる。口にすりゃ、医者殿は“鬼と通じていた”ってことになろうなぁ。だがわしぁ黙ってやった。黙ってやったんだぜぇ?」
「恩を売ったつもりか?」
「恩? ちげぇよ。これは貸しだ。でっけぇ貸しだ。……貸しってのは返すもんだろ? わしみてぇな浮浪者の腹を満たすくらいの銭、いや、それ以上にだって値打ちがある貸しだぜ」
「……」
「安心しな、全部ぶちまけやしねぇさ。けどな……わしの口は軽いんだ。寒風が吹いただけで“ぽろり”と滑るかもしれねぇ。へへへ……だから、銭をくれや。口に楔を打つためによ」
「……」
「どうした? 医者殿。あんたの懐から銭の音が聞こえねぇと、わしの舌が勝手に喋りだしちまうかも知れねぇぞォ……へへへへへ」
ねずみの下卑た笑いが夜気に溶け、忠親の耳にまとわりついた。
「……わかった」
忠親の声は低く、揺るがなかった。
「言い値で構わん。銭は払おう」
ねずみの目がぎらりと光った。喉の奥で笑いを噛み殺し、涎を垂らす。
「へ、へへへ……やっぱり医者殿は話がわかる。だが銭は後でいい。まずは聞けや、あの夜のことをな」
「聞こう」忠親は静かに頷いた。
ねずみは腰を下ろし、膝を抱え込むと、擦り切れた袖で口を拭った。
「……あの夜、わしぁ知ってたんだ。あの小僧――捨丸が夜な夜な奥戸を抜け出してるのをな。へへ、いい機会だと思ったのさ。待ち伏せして、頭をひっぱたいてやろうってな。昔から気に食わなかったんだ、あの陰気面をよ」
忠親の眉がわずかに動いた。
(……やはり、捨丸の事を)
「ところが戻ってきたのは小僧じゃなかった。いや、小僧に見えたんだが……あれは鬼だった。鬼に化けた小僧だったのかもしれねぇ」
「……詳しく話せ」
「へへ……捨丸だと思って頭をひっぱたいたらよ、奴は振り返って腕を掴みやがった。そしたらガブリ、よ。肘の上からゴリゴリと骨がねじ切れて……この腕が今でも疼くんだぜ」
ねずみは肘から先のない腕を振り、ひくつく笑いを洩らす。
「そんでな、噛みつかれて肉を千切られ、蹴られて腿も砕けた。血で目が曇る中、奴の影が揺らいでな……あんたが現れたのはそのすぐ後だったっけなあ」
息を荒げ、涎を散らしながらねずみは叫んだ。
忠親は目を細め、深く頷いた。
ねずみは荒い息を整えると、片方の口角を吊り上げ、涎で濡れた唇をぬぐった。
「へへ……どうだい、医者殿。俺が黙ってるってのは、それだけで銭に換えられる“証文”みてぇなもんだ。安かねぇぞ……」
忠親は無言で睨み返す。
「最初はなぁ、一両でいいと思ってた。だがこうして話してみりゃ、これはでっけぇ宝だ。……あのお侍の旦那に話せば、どれほどの値がつくか。へへへ……」
笑いながら、ねずみは地面に唾を吐いた。痩せた肩が小刻みに震え、欲に濁った眼だけがぎらぎらと輝く。
「だからな、気が変わった。金五両だ。いや、十両でもいいだろ?どうせ医者殿の懐は暖かいんだろう? 町人から巻き上げた薬代でよぉ」
その言葉に、忠親の瞳が冷たく光った。
(……やはり。こいつは止まらん。こちらが譲れば譲るほど、喉を広げて喰らいついてくる)
「へへへ……安心しな。もらうだけもらったら、俺は黙る。死ぬまで黙ってやるよ。けど銭がねぇとなると……俺の舌は勝手に揺れて“あのお侍様”の耳にまで届いちまうかもしれねぇなぁ」
夜気に混じって、鼠の鳴くような下卑た笑いが路地に響いた。
「……なるほど。浅ましいな。だから“ねずみ”か。誰がつけた渾名かは知らぬが、なかなか的を射ているではないか」
忠親の冷笑に、ねずみの顔が一瞬ひきつった。
「な、なにぃ……? 医者風情が、俺を侮りやがって……!」
肩を震わせ、血走った目で忠親を睨みつける。だがすぐに薄汚れた唇を吊り上げ、必死に笑いを作った。
「へ、へへ……だがよ、どんなに強気に出ようが、俺の口ひとつで――あのお侍様に話が流れりゃ、あんたの首は飛ぶんだぜ。俺の方が上なんだよ、医者殿!」
忠親は表情を崩さず、ねずみの背後に迫る影に低く問いかけた。
「……で、こやつをどうする、捨丸」
その一言に、ねずみの喉が詰まり、顔が強張る。
「な、なに……?」
慌てて背後を振り返る。
そこに――ねずみとの距離わずか二歩。月明かりを浴び、蒼白な顔でじっと立ち尽くす捨丸の姿があった。
闇に沈んだ瞳は揺らめき、ねずみの心臓を鷲掴みにするような気配を漂わせていた。
ねずみの顔から血の気が失せていく。折られた腕の痛みと噛み千切られた夜の記憶が甦り、汗がぼとぼとと額を伝った。
その時、低く嘲る声が路地に落ちた。
「……久しぶりだな、ねずみ」
忠親は眉を動かした。天が語っているが…勿論ねずみには聞こえない
すると次の瞬間、捨丸の口が同じ言葉を繰り返した。
「……久しぶりだな、ねずみ」
まるで影をなぞるように。
「どうしたんだ? そんなに驚いて……汗をかいてるぞ」
声は続けて響いた。酒呑童子の嘲笑と、それをなぞる捨丸の幼い声。忠親にはそれがはっきりと連なって聞こえた。
だがねずみには、捨丸がしゃべっているようにしか見えない。
「ひ、ひぃっ……!」
少年の口から、あの夜の鬼と同じ響きが洩れたのだ。ねずみの膝が崩れ、闇に尻もちをついた。
捨丸は無表情のまま、天の声をそのまま口にした。
「そうか……また俺の前に現れたということは、腕一本だけでは、足一つだけでは足りなかったって訳だな」
その言葉に、ねずみの呼吸が乱れる。背中から冷や汗が噴き出し、膝が震えた。
捨丸はずるりと歩を進め、顔をねずみのすぐそばまで寄せる。瞳は濁りも光もなく、ただ声を繰り返す器にすぎない。
そのとき、天と捨丸の声が重なった。
「……やはり、あの時に頭を食らっておけばよかったな……いや、今からでも遅くはないか」
ぞっとする響きが、二重の声となって路地に満ちる。
次の瞬間、捨丸の両手が閃いた。
ものすごい勢いでねずみの頭を両側から挟み込むように――ぱあん、と乾いた衝撃音が夜気を震わせた。
ねずみの身体は後ろにのけぞり、尻もちをついたまま声にならぬ悲鳴を洩らした。目は白く剥け、口からは泡混じりの唾が垂れる。
脅しの余韻がまだ消えぬうち、胸の奥から鋭い声が響いた。
「――おい、白。刀を抜け」
忠親の背筋を氷が撫でた。
天の声が、稲妻のように響く。
忠親は腰の柄に手をかけた。天の声に抗う間もなく、鞘走る音が夜気に響く。冷たい月光を受けて、刀身がぬらりと光った。
その刹那――捨丸の身体がぐっとのけぞった。
さきほどまで無表情に天の声を繰り返していた少年の顔に、はっきりと恐怖の影が差す。瞳が大きく見開かれ、唇が震えている。
「……捨丸?」
忠親は思わず声を洩らした。
(なぜだ……刀を抜いたからではない。あの怯え方は――鬼を察している? 鬼が近いのか……?)
夜気が重く沈む。虫の声すら止み、空気が張りつめる。
胸の奥で響く天の声も、今は妙に低く、硬い。
「……白。気を抜くな」
天すらも緊張している――そう悟った瞬間、忠親の心臓は強く打った。
(天が構えるほどの“何か”が、近くにいる……!捨丸をなんとか隠さねば…今かっ)
忠親はのけぞる捨丸を抱きかかえ、五歩六歩と飛び出した。抱きかかえられた捨丸は意識を失ったようだ。
片手で刀を構え周りに注意を巡らす。
すると程なく張りつめていた空気が、不意にほどけた。
同時に、胸の奥から天の声が低く響いた。
「……去ったな」
鬼が近くにいた。
なんの鬼かも分からないが影の気配は煙のように掻き消えたのだ。
「何が――」と問いかけかけた忠親は、舌を噛んで飲み込む。
今はそれを問うよりも先に、ねずみを始末しなければと思いなおし背後のねずみに振り返る
既にねずみは姿をくらましていた。
「ねずみの由来はこっちか…」
妙に得心しながら刀を収め、捨丸を担ぎなおし、忠親は静かに川沿いを歩いて行った。