『鬼斬人』2 ― 『鬼』と『医』ー迷い
村井に導かれ、忠親は別室の障子をくぐった。
すでに膳が並べられており、湯気を立てる椀からは炊きたての飯の香りが漂う。
鯉のあら汁、塩焼きの小魚、漬物といった素朴な料理であったが、長屋の食卓に比べれば雲泥の差である。
「これは……手厚きもてなしを」
忠親は軽く頭を下げたが、どこか落ち着かない。
(やけに念の入った膳立てだ……一介の町医者にしては過ぎたもてなし。)
膳に箸を伸ばしながらも、心は晴れなかった。
すると襖がすっと開き、村井が進み出て深々と頭を垂れた。
「お待たせいたしました――」
その後ろから、裃姿の男が現れた。
落ち着いた笑みを浮かべながらも、どこか人を圧する気配を纏っている。
忠親は一目で悟った。
「……は、羽柴……」
思わず畳に額をつけて平伏した。
「顔を上げられよ」
その声は意外なほど柔らかく、軽やかですらあった。
「羽柴秀長である――いや、まだ名乗りは長秀のままでおるがな」
そう言って、呵々と笑う。
「兄上があの通り、出世したであろう? わしは後ろに控えるばかりで、まだ“秀”の名を立ててはおらんのだ。近々、兄上を立てるためにも名を改めるつもりでな」
朗らかに笑うその姿に、忠親はただ|畏まるしかなかった。
だが秀長は膳の前に座すと、まるで旧知の友に語りかけるかのように言葉を続けた。
「どうだな白瀬殿、飯は口に合うか? こんなもんでも、儂は幼き日々に比べればまるで御馳走じゃった。兄上もそうじゃが、わしの幼少のころはな……貧乏長屋に身を寄せ、藁布団にくるまりながら、明日の飯をどう稼ぐかで頭がいっぱいじゃったわ。裸足で町を駆け回り、毎日飢えを噛みしめておったものよ」
秀長は酒を口に含み、楽しげに目を細めた。
「だからな、わしはこうして膳を並べると、つい昔を思い出す。世に出て人の上に立つ身となったが、あの長屋の飢えは忘れぬ。……白瀬殿、そなたもあばら長屋に住んでいると聞いた。周りの人間もみな多かれ少なかれ同じじゃろう、ならば少しはわしらの幼き日の心持ちがわかるであろう?」
忠親は深く頷き、言葉を選びながら応えた。
「……は、はい。身に余るお言葉、痛み入ります。拙者など到底比ぶべくもございませぬが……幼き日のご苦労、胸に迫るものがございます」
秀長は朗らかに笑い、杯を差し出した。
「よいよい、わしは偉ぶるのが性に合わぬ。医者殿、肩の力を抜いて飲まれよ。ここに呼んだのは他でもない、そなたの口から、あの屋敷の“真実”を聞きたく思うてのことじゃ」
にこやかな笑顔の裏に、ふと鋭い眼光が宿った。
忠親はその視線を受け、背筋を正した。
(……やはり、今宵の集まりはただの証言集めではない。羽柴家、その当主自らが動いている……)
静かに杯を受け取りながら、忠親は改めて己の立場の重さを噛みしめた。
忠親は言葉を慎重に選びながら、静かに告げた。
「……先ほどの証言、どれも辻褄は合っております。虚言と断ずることはできませぬ。ただ――鬼の姿かたちについては、各人の語りが少しずつ異なっているのが気にかかります。されど恐怖の中での記憶ゆえ、歪みもありましょう。医師としての見立てを申すならば、鬼は――確かに“いた”と認めざるを得ませぬ」
秀長は膝に手を置き、満足げにうなずいた。
「ふむふむ、医者殿の口からそう聞ければ大儀じゃ」
一呼吸置いて、眼差しを鋭くする。
「――では、先生は鬼と対したことはあるのか?」
忠親の胸が一瞬強く打った。
(……避けようと思えば避けられる問いだ。だが、ここで嘘を言えば……)
「……ございます。ただし命からがら逃げるのが精一杯でございました。刃を向けたわけでもなく、討ったわけでもございません。」
一瞬の沈黙ののち、秀長は呵々と笑った
。
「おお、医者殿もか! わしもな、実は見たことがあるのじゃ」
忠親は驚きに顔を上げた。
「……なんと」
秀長は盃を持ち上げ、遠い記憶を辿るように語りだす。
「まだ兄上とわしが足軽暮らしをしておった頃よ。夜更けに裏町を歩いていたらな、路地の暗がりから、背の曲がった影が現れたのだ。赤子の頭をぶら下げ、ぎょろりと眼が光った。わしは怖ろしくて足が竦んだが……兄上は刀を振り回して追い払ったのだ。あの時ばかりは、兄上を頼もしく思うたものよ」
盃を干すと、秀長は笑いながらも、ふと目を細めた。
「世に“鬼”とは、人が飢えと恐怖の中で生み出す幻だと思っておった。されど近頃は違う。――確かに、この世に在るのやもしれんとな」
忠親は息を飲み、膝に置いた手に力を込めた。
秀長の笑顔の裏に、ただの昔話では済まぬ気配を感じ取っていた。
秀長は、膳の上の盃を指先で弄びながら、わざとらしく軽く口角を上げた。
「そこでじゃ、医者殿――ひとつ気になることがあってのうその医術の目から見てじゃが」
ゆるやかに視線を上げ、忠親を射抜くように見据える。
「鬼は……手懐けられると思うか?」
部屋の空気が、すっと冷たく張り詰めた。
村井までもが目を伏せ、返答を待っている。
忠親は息を呑み、静かに盃を置いた。
(なんという問いか……。ただの世間話ではない。秀長公は何を考えている)
しばし考え、医師らしい理を装って答えを紡ぐ。
「……鬼は、人の情念が歪んで生まれるものと聞き及びます。飢えや怨み、欲望が形を成したもの……もしそれを“手懐ける”と申すなら、人の心そのものでは難しいかと。されど、人の心を越えれば人ではなくなる、ならば鬼を従えることは……難しいでしょう」
秀長はふふんと笑い、首を横に振った。
「難しい、か。いや――人は時に、難しいことを成して見せるものよ」
盃を掲げ、くいと飲み干す。
「兄上もそうだ。誰もが無理と思う天下を、今や掴もうとしておる。鬼とて、いずれ人の世に役立つ日が来るやもしれぬぞ」
声は軽やかだが、その目は冴え冴えと光り、底知れぬ思惑を覗かせていた。
忠親はその眼差しを受け、鬼を従えるおつもりか、と聞きたかったが深く立ち入るべき話ではないと感じていた。
盃を傾けながら、秀長はなおも愉快そうに話を続けた。
「鬼を操る術――平安の頃の陰陽師どもは、安倍晴明を筆頭に様々な式を残したと申す。符や呪文で鬼を縛り、時には従えたとも聞く。……もっとも、世に伝わるのは御伽噺の域にすぎぬがな」
忠親は静かに相槌を打つ。
「晴明公の名は、今も陰陽師達が語り草にいたしております。鬼を縛るばかりか、人を守る結界を張り巡らせたとも……医師の身でありながら、かつて古医方の書に紛れてその記録を見たこともございます」
秀長はぐいと身を乗り出し、声を潜める。
「――実はのう、医者殿」
その眼差しには、酒席の和らぎとは別の光が宿っていた。
「鬼の話とは別に、古より語られる“隠し世”なるものがあるのを知っておるか?」
忠親は少し驚いたように首を傾げる。
「……隠し世、でございますか」
「そうよ。人の世と重なりながら、普段は決して交わらぬ別の世界。鬼はそこを往き来するとも、人が死してなお迷い込むとも言われる……古き時代の話じゃが」
秀長は盃を置き、指先で畳をとん、と叩いた。
「そしてな、その隠し世に関わる者こそ――【鬼斬人】よ」
その言葉に、忠親の胸が強く鳴った。
「鬼斬人……」思わず繰り返す。
秀長は楽しげに笑いながらも、その声音には重みがあった。
「人の姿にありながら鬼を斬る。その者らは隠し世と人の世を繋ぐ“境の存在”と語られておる。どうやらその初筆に名を残したは、誰あろう――頼光様らしいのだ」
「源頼光……」
忠親は心中で震えを覚えた。
秀長は盃を掲げ、愉快げに呵々と笑った。
「いやはや、昔話の類と笑い飛ばすもよし。されどのう、医者殿……。鬼が現に人を喰らい、世を乱すとすれば、鬼を斬る者もまた存在するとは思わんか?」
時折見せる鋭い眼光は忠親の気のせい等ではなく、確実にこちらを値踏みする眼差しであった。
忠親は精一杯平静を装い
「私は一介の医者でございますゆえ、医術の領分以外は疎うございますゆえ」
といい畏まって頭を下げる。
それを見た秀長はすぐにそうじゃそうじゃと言ってからからと笑った。
「やはり医の道は不思議なお方が多いのう。お主の師である道三殿にも幾度となくお会いしておるが、あの御仁もまた常人とはかけ離れた人物よ。……道三殿は達者か?」
秀長が盃を揺らしながら問う。障子の向こうからは、夜風に揺れる庭木の葉擦れの音がかすかに聞こえてくる。灯明の火がゆらりと揺れ、畳に伸びた影が長く動いた。
忠親は膝を正し、静かに答える。
「はい、壮健のようにございます。私ももう六年ほどお会いしてはおりませぬが、文は欠かさず交わしております。今は京におられるとか」
言葉を終えると同時に、ふと師の顔が浮かんだ。
「おお、そうであったか」
秀長は大きくうなずき、口の端に笑みを浮かべた。
「ならば、もしお戻りの際は、ぜひお顔を見せていただけるようお伝え願えぬか」
その声は明るいが、目の奥にある光は冴えている。畳に置かれた杯に揺れる灯火が、まるでその眼差しに呼応して瞬いた。
忠親は深く頭を下げる。
「ははっ、大層なお言葉……師もきっと喜びましょう」
ふっと張り詰めた空気が和らぎ、秀長は膝を正して立ち上がる。
「白瀬殿、今宵は大儀であった。また杯を重ねようぞ」
そう言い残し、裃の裾をさらりと払って静かな足取りで部屋を去っていく。
障子が閉まると同時に、外の虫の声がひときわはっきりと耳に届き、忠親はようやく深い息をついた。
しばらくすると、廊下を歩いて村井新左衛門が部屋に入ってくる。
先ほどまでの張りつめた面持ちではなく、どこか柔らかい笑みを浮かべていた。
「これはこれは白瀬殿、お疲れ様にございました。殿も良き御仁に出会えたと、大いにお喜びで帰って行かれましたぞ」
そう言いながら、膳に残る飯をちらと見て、少し照れくさそうに笑う。
「実を申せば、このところろくに口をつけておらず……殿の前では気を張っておりましたが、こうして膳を前にすると堪えきれませぬ」
箸を取り、焼き魚を一口。思わず頬を緩ませた。
「うむ……よい塩梅ですな。いやはや、つい素の顔をお見せしました。白瀬殿、どうぞお許しを」
人懐こいその姿に、忠親も自然と笑みを返す。
やがて村井は茶碗を置き、今度はきちんと膝を正して語った。
「さて――殿はあえて口にされませんでしたが、実は先生にお願いがございます。近頃、鬼が関わっているやもしれぬ事件が幾つかございましてな。検分を、どうか先生のお力で」
誠実な眼差しが灯火に映る。
「礼は尽くしますし、我らも全力でお支えいたします」
忠親は深く息を吸い、静かにうなずいた。
「……承知しました。私でお力になれるのであれば」
「おお、かたじけない!」
村井は心底安堵したように微笑んだ。
しばらく歓談し屋敷を出ると、玄関口には既に駕籠が用意されていた。
黒漆塗りに金具を打ち、覆い布から灯火が柔らかにこぼれる。まるで祭礼の御神輿のように華やかである。
忠親はぎょっとして足を止めた。
(……またこれか…)
長屋に帰るにはあまりにも派手すぎる。町の者どもに見られれば、明日には「白瀬忠親、羽柴殿に取り立てられた」と囁かれるに違いない。
「どうぞお乗りくだされ。殿の心尽くしにございます」
村井は誇らしげに勧める。
忠親は振り返り、小声で切り出した。
「……村井殿。さきほど“ご助力は惜しまぬ”と仰いましたな?」
「うむ、もちろんでございます」
「では――この駕籠を、もう少し控えめなものに」
「……控えめ?」
「はい。これではあまりに派手でございます。長屋に住む町医者がこれで帰れば、明日には笑いものに」
村井はむむと腕を組み、唸った。
「しかし、客人を送るにはふさわしい駕籠というものがございます。殿の御威光に背くことは……」
「いやいや、私は町医者に過ぎませぬ。質素な駕籠の方がふさわしい」
「先生、殿直々に招かれた御方を粗末な駕籠で帰すなど、こちらの面目が立ちませぬ」
「いや、笑われるのは私です!」
「いえ、我らが笑われます!」
二人は声を潜めながらも譲らず、玄関先で押し問答を繰り広げた。
ついに村井は苦笑し、肩を竦める。
「……先生、人にはそれぞれにふさわしい駕籠というものがございます。これも殿のお心、どうか受け入れてくだされ」
忠親は大きくため息をつき、観念したように駕籠を見やった。
黒漆の輝きは、今にも町人たちの冷やかしを呼び込みそうである。
(……まるで殿様医者ではないか)
そう心中でぼやきながらも、結局は駕籠に身を沈めるほかなかった。
しばらく駕籠に揺られた後、天に「途中で降りりゃいいだろう」と言われそれもそうかと得心した忠親は駕籠かきに礼を言い一人夜道に歩き出た。
忠親は夜の町をふらふらとただ夜風に頬をなぶられながら歩を進めた。
秋も近い夜気はひんやりと涼しく、酔いの残る頭には心地よい。
通りの片隅からは虫の声が重なり、川の方角からは水の匂いがほのかに漂ってきた。
行燈の灯りはまばらで、通りには人影も少ない。静かな闇が、忠親の胸中を映すかのように広がっていた。
(……さて、先ほどのやり取り。村井殿は“検分”と申したが、ただの死体や現場を見せるためだけとは思えぬ)
ゆらりと歩を進めながら、盃を思い出すように喉を鳴らす。
(鬼の検分――その裏に、何を探ろうとしている? 単なる確かめではない。検分して、何になる? 鬼の正体が記録に残れば、それがどうというのだ)
夜風が裾を揺らし、忠親はふと足を止める。
(……まさか、私が“鬼を退治している”ことを既に知られているのではあるまいか)
背に冷たい汗が伝う。
思い出すのは、これまでの戦いの数々。血の匂い、鬼の呻き。その記憶を胸に抱きながら、忠親は再び歩き出す。
(あるいは――捨丸の存在か。あの子が共に鬼と相まみえてきたことが漏れ伝わったのか。もしそうなら、私が“鬼を使役している”と誤解されても不思議ではない)
提灯の灯が遠ざかり、月明かりが路地を淡く照らす。
その光を浴びながら、忠親は小さく呻いた。
「……ふむ。どちらにせよ、羽柴の眼は鋭い。油断すれば、すぐに踏み込まれるぞ」
夜風に消えるその呟きは、酔いに濁った息とともに吐き出された。
その呟きに応えるように、胸の奥から低い声が洩れた。
「……白。考えすぎて酔いが醒めたか?」
忠親は眉をひそめ、歩を緩める。
「天……。お前も聞いていたな。あの“検分”なるもの、どうにも腑に落ちぬ」
「腑に落ちぬどころか、明らかに探っているな」
天の声は珍しく真剣だった。
「鬼退治をするなら、町医者ほど都合のいい隠れ蓑はない。往診と称して人の出入りも怪しまれんしな。羽柴はそれを嗅ぎ取っているのだろう」
忠親は口を引き結び、夜風に目を細める。
「……やはり、そうか。だとすれば、すでに私が鬼を斬っていると察しているのか……」
「それか、あの子――捨丸のことだ」
天の声が低く重く落ちる。
「あの子の話が表に出れば“鬼を使役する者”と誤解される。そう見えるのは自然だ」
忠親は胸の内に冷えを覚えた。月光に照らされた道は白々しく、その先に罠が口を開けているように見える。
「ならば、どうする? 沈黙を通すか、いっそ明かすか……」
しばしの沈黙の後、天は答えた。
「……迷っている」
その声音は、いつもの嘲りを含まない。
「鬼を斬る者がいると知らしめれば、人は頼る。だが同じだけ――恐れるのだ。その恐れは、いずれ刃となる」
忠親は思わず問いかけた。
「まるで知っているような口ぶりだな」
「……独り言だ」
天はそれ以上語らなかった。
しかし忠親にはわからなかった。
天の奥底では、かつての記憶が疼いていた。
――鬼斬人として生まれた女。権力に利用され、やがて恐れられ、最後には殺された。紅に濡れた裾、鬼と戦った澄んだ瞳。
その最期の光景が、いまだ天の闇を鈍く刺している。
(……また同じことになるのか)
だがそれを白に告げることは決してなかった。
ただ冷ややかに言葉を投げる。
「白。今は軽々しく口を割るな。“鬼斬人”と問われても、知らぬ顔で通せ。それが最も賢い」
忠親は足を止め、白々と輝く月を仰ぐ。
「……ああ、わかった」
声には迷いが残っていたが、同時に決意も滲んでいた。