『鬼斬人』2 ― 『鬼』と『医』ー証言
夕刻を過ぎた頃、あばら長屋の前に立派な駕籠が据えられた。
黒漆の柱に幕が張られ、灯を掲げた供の者が控えている。場違いなほどの豪奢さに、裏町の長屋の者たちは皆、戸口から顔をのぞかせた。
「おい見ろ、あの先生の前に……」
「駕籠だぞ、しかも羽柴家の」
「へえ、いつの間にそんなご身分に」
ざわめきはすぐに人を集め、子どもまで縁側に腰かけて眺め始める。
そこへ忠親が往診から戻ってきた。
薬箱を肩に提げた姿のまま、目の前に並ぶ駕籠を見上げ、思わず深い溜息をついた。
「……やれやれ。まるでお殿様だ」
(ははっ、見事に囃されてるなあ。白、お前さん、こういうの一番苦手だろ?)
耳の奥で天がくすくすと笑う。
忠親は周囲の視線を気にしながら、そろりと戸口へ歩み寄る。
背後からは「ほら先生が帰ったぞ」「ほら乗るのか」と囁く声。
長屋の住人たちの好奇心に晒され、忠親は顔を赤らめた。
「……これではまるで祭り神輿だな…。」
そう呟き、恥ずかしさを押し殺して駕籠へと向かうのだった。
忠親が立ち止まると、すぐに駕籠かきの一人が駆け寄り、深く頭を下げた。
「白瀬殿、お迎えに上がりました」
忠親は困ったように眉を寄せ、ちらりと周囲を見渡す。
あばら長屋の並ぶ路地では、隣家の老婆や子どもらが面白そうに覗いていた。
「……やれやれ」
小さな声でそう漏らし、戸口に控える 捨丸 へと向き直る。
「弟子よ。今宵はここを頼む。閂を掛け、誰が来ても開けるでないぞ」
その呼びかけに、捨丸は一瞬きょとんとしたが、すぐに察したように小さく頭を下げた。
「……はい。先生も、どうかお気をつけて」
(おい白、顔が赤いぞ。ほら、みんな覗いてる。まるで祭りの余興じゃねえか。いやぁ、医者殿が駕籠に揺られるなんざ、いい見世物だな!)
天の声は愉快げに響いた。
忠親は観念したように深く息を吐き、ゆっくりと駕籠の幕をかき分ける。
後ろで子どもが「先生が乗ったぞ!」とはしゃぎ、老婆が「お武家様のお抱えかねえ」と囁いた。
忠親は顔を背け、静かに腰を下ろした。
「……まったく、恥をかかされに行くようなものだ」
駕籠が軋みを立てて持ち上がる。
夜の町並みへと滑り出すその揺れの中で、忠親は再び小さく溜息をついた。
駕籠は夜の城下をゆっくりと進んだ。
昼間の喧噪は消え、町はひっそりと眠りに落ちている。遠くに犬の吠える声が響き、時折、夜警の拍子木がカンと鳴った。
忠親は幕の内で腕を組み、目を閉じて揺れに身を任せる。
「……あの村井、ただの用人ではあるまい。何を掴んでいるのか、こちらも探らねばならぬな」
ぽつりと漏らした独り言に、答える者はいない。
だが耳の奥で、愉快げな声が響いた。
(ふふん、ようやく気づいたか白。油断するなよ、お前さんの口一つで首が飛ぶぞ)
忠親は返事をしない。ただ瞼を閉じ、揺れの中で静かに息を整えた。
やがて駕籠が止まる。
「白瀬殿、こちらに」
供の侍が幕を押し上げ、頭を下げる。
降り立った先は、岐阜城下の武家町の一郭。
秀長の屋敷にほど近い屋敷で、灯火に照らされた土間を抜けると、畳敷きの一室へ案内された。
その部屋には、すでに幾人かが集められていた。
行商風の男、先程仕事から戻ったばかりのような下女、暗がりにはあと1人、―いずれも粗末な身なりで、所在なげに膝を抱えている。
彼らは忠親の姿を見ると、ざわ、と小さなさざめきが走った。
「……なるほど。これが“目撃者たち”か」
忠親は心の内で呟き、静かに室内の端へ座った。
すぐに忠親の後から男二人を連れ村井新左衛門が現れえた。
村井は座りながら男二人に合図をすると、一人は廊下に、一人は襖の前に座り、静かに襖を閉めた。
「皆の衆、今宵はお集まりくださり大変恐縮にてござる、以前各々方から聞き及んではいるが、今宵はこちらにおわす白先生にあの夜の事を語って頂きたく御呼び申した。」
そう言いながら村井は軽く頭を下げた。
町人相手に中々慇懃な挨拶だなと忠親は思った。
「皆も知ってはいると思うが、こちらは白瀬忠親殿である、あの屋敷にも当時往診をなさっておいでだ、某よりも話の詳細は伝わりやすいであろう、では一人ずつお話願いたい」
それきり村井は何をするでもなく腕を組み目を瞑っている。
忠親は軽く頭を下げ、柔らかく言葉を添えた。
「既に時も過ぎておりますゆえ、おぼろげなこともあろうと存じます。
けれども、秀長様が仔細をお知りになりたいとのお心。皆さんの記憶を少しずつ紡ぎなおすことで、事の次第を改めてお伝えできればと思います。どうぞ肩の力を抜いて、お話しくだされば結構です」
そう付け足すと、村井は小さな声で「うむ」とうなずいた
目が合った村井が顎で促すと、旅装のままの行商人が口を開いた。
「……あの晩のことは、よう覚えております。日暮れ前に飯屋に着いて、荷を下ろして一息つきました。酒を一杯やり、肴を少し……それから奥に呼ばれて薬種を見せていたのです」
「薬種を?」忠親が問い返す。
「はい。旦那に女衆の肌の荒れに効く薬が欲しいといわれまして……。その後やがて夜も更けて、私は寝入っておりました。ところが突然、裏の方から女の悲鳴が」
「悲鳴を、ですか」
「ええ。驚いて戸口へ駆け寄りましたが……そこから先は煙と炎、それに黒い影……それしか覚えておりませぬ。気づけば外に叩き出されておりました。荷も銭も何も持たずに……。あの時、突き飛ばした手が……人のものではなかった気がするのです」
忠親はしばし黙し、やがて小さく頷いた。
「……大事な証言をありがとうございます」
「次、お主だ」と村井は言う。
次に呼ばれた駕籠かきが、荒れた手を膝に置きながら言った。
「へえ、わしはその夜、客を運んでおりました。飯屋入りお客を下ろして街道に出た時に、妙に賑やかな笑い声や歌が聞こえてきたのです」
「深夜に、ですか」忠親が首を傾げる。
「ええ。ああいう店ですから、朝までは賑わしい日もありやす、でもなんでかなあ、その日はそんなに振るってる日でも無かったんですがね、誰かが歌ってる声が妙に耳に残りやした。相方と、飯屋に上がって夜食の蕎麦でも頼もうかと話になりやしてね、一旦外に出たんですが、相方はもう一度裏口から入っていきやした。あっしは最近流行り始めた煙管ってやつが好きでしてね、それを一服しながら待ってました。するとわあわあと煙が上がり始めてあっという間に炎が上がりました。女の叫びが夜を裂いて……。慌てて戻った時には、もう飯屋は火に呑まれておりました」
「火だけならただの災い。しかし――何かをご覧になったのですね」
駕籠かきは息を呑み、低く答えた。
「……見たのです。動く大きな影を。人かと思いましたが……背に角のようなものが……。あれは、人なんかじゃあなかった…。そのあとは焼け落ちるまで見ていやしたが、誰かが出てきたなんて考えられねえ現に相方も屋敷に入ったまま消えちまいました。」
忠親は眼を伏せ、静かに言葉を落とした。
「よく話してくださりました。辛い目に遭われましたな」
「こんなもんで良かったですかね」
「ええ、十分です」
駕籠かきは中腰になり部屋の奥へと離れていった。
すると浮浪者風の老人が、にやりと笑いながら前に出た。
身なりはボロボロでまともな感じはしないが、語り口は存外しっかりとしていた。
「へへ……忘れられねえ夜だ。わしは所要のあとね、裏手で用を足してたんだ。そしたら火の手が上がり、人が騒ぎ出してな」
「裏手に……。それで?」忠親が促す。
「慌てて表へ回ろうとした時、黒い影が庭を走り抜けた。赤い舌をだらんと垂らして……鬼に違いねえ。
火はすぐに広がり、女たちの悲鳴も消えちまった。わしは垣根をくぐって逃げるのが精一杯だったんだ。……詳しくは知らねえが、ありゃ間違いなく鬼の仕業だ」
老人はそこで口を閉ざし、濁った目を逸らした。
「鬼…を実際に見られたのですね?」
「見るもんか、俺が見たのは…影…そう黒い黒い影よ、音もなくすぅっとな、あとは庭に転がる手足よ」
そういうと老人はじっと忠親の顔を覗き込んだ。
痩せていて髭の中に眼があるような老人だが、ふと以前どこかで会ったような気もした。
相手は自分の事を覚えているだろうかと気になったが、その場で聞くのは止めた。
忠親はただ静かに見つめ、淡々と告げる。
「……そうでしたか。お話しくださり、感謝いたします」
老人はくっくと笑い部屋の隅へ身を横たえた。
最後に名を呼ばれた若い下女は、うつむいたまま震えていた。
忠親がやわらかく声をかける。
「覚えていることを、少しでよろしい。誰も咎めはいたしません」
しばしの沈黙の後、下女は掠れた声を搾り出した。
「……私は奥の座敷で…あの…その…旦那様を待っておりました…。しばらくして、誰かが声を張り上げ、その後で男たちが争うような音がして……あの頃は屋敷内で色々な事があって、旦那様も戻って来られないし…私恐ろしくなって、外の裏手にある厠に回ったのです」
「裏手で、何かをご覧になったのですか」
下女は目を伏せ、震える声で続けた。
「ええ……人の形をしてはいましたが、人ではないもの。あれは禿のななえであったと思います。……いえ、正しくは“ななえの一部”と言った方がよろしいかもしれません。ぼろぼろになってはいましたが、確かに、ななえの着ていた着物の端が見えていました。それを、青黒い鬼が……腹を咥えて歩いていたのです。私は音を立てずにじっとしておりました。その後しばらくして、二階の方から火の手が上がり、屋敷全体が赤く染まりました」
下女はそこで声を失い、膝の上で握った手を震わせた。
忠親は深くうなずき、静かに告げる。
「恐ろしいものを見ましたね、よく話してくださいました」
女は伏せながらぼそぼそと
「あの腹から出ていた臓物の色が忘れられません、鮮やかな桃のような色で…」
そういうと小さく震え始めた。
「もう結構ですよ、有難う。」
優しく手を伸ばし女の手の甲に触れると、女はハッと現実に戻された様な顔をした。
忠親はそのまましばらく目を瞑っていた。
すると後ろにいた村井が
「先生、他にお聞きしたき事がござらねば、この者達は帰しとうございますが…」
と小さな声で聞いてきた。
「結構です、特に伺いたいことは思いつきません」
と忠地は軽く頭を下げると、村井は襖の前の一人に目配せをして、忠親の横に進んできた。
「皆の者、今宵は大変ご苦労であった、奥の部屋に食事と礼を用意してござる、この者の後についていかれよ、や、念を押す訳ではござらぬが、あまり噂が立つのは昨今の情勢を見ればお分かりであろう、くれぐれも他言無用にござりまするぞ」
お願いをしているのか、命令をしているのかよくわからない口調で語る村井だが、話をした四人は特に気にもしない様子で部屋から出ていった。
すると村井は忠親に向き合い
「ささ、白瀬殿も別室にて膳の用意をさせております故、そちらにておくつろぎくだされ」
そういうとさっと立ち上がった。
忠親は
「いえいえ、このような事でそこまでしていただくのは…」
と、断ろうと思ったが、村井と話せる機会かも知れないと、考えを改めた。
「ですが、往診から何も食べていないもので、恥ずかしながら御相伴にあずかりたいと存じます」
と手をついて軽く頭を下げた。