『鬼斬人』2 ― 『鬼』と『医』
山の背に爪を立てるように岐阜城が聳えていた。
だがその麓に翻る織田家の旗は今や揺らいでいる。主を失った城は、織田のものか羽柴のものか、あるいは柴田のものか。町人たちは帳面の宛名を書けず、白紙のまま閉じる。羽柴秀吉が後見人となったと発布されたものの、本当に落ち着いたとはまだまだ言えない状況であった。織田信長が安土に越した後も、この岐阜城下は楽市楽座を続けていた。しかし今は、米も反物も値を決めかねる城下の空気は旗同様に「揺らいでいる」としか言いようがなかった。
城下の裏町長屋の一室。そこが 白瀬忠親 の仮の住まいである。
本来なら関の地に屋敷を構えているが、ここ幾度かの戦乱の為、民の傷がいえず、往診に廻る日々が続くため、この辺りは戦乱で一面焼け野原になった。そこで忠親は以前住んでいた人たちに声を掛け、金を出して新しい長屋を建ててもらっていた。無論忠親もその一室に住んでいる。裏長屋の住人たちは戦乱の空気もどこ吹く風、毎日をたくましく生き抜いていた。
忠親もその一角で、静かに薬草を仕分けていた。
その傍らには弟子の捨丸がいる。
やもすれば寝食を忘れがちな師に寄り添い、炊事や水汲み、衣の世話まで、身の回りのことを黙々とこなす。言葉少なに、ただ師の側に控えるのが常であった。
ある日、まだ日が高くセミの鳴き声も大きいころ合い。
開け放った戸口に、一人の影が現れた。
「御免」
短く言い置き、返答を待つ。
捨丸が土間に降り、声をかける。
「はい」
「ここは白先生……いや、白瀬忠親殿 のお住まいと聞き及びまするが誠か」
「はい。先生はおられますが、どういた御用件でありましょう」
捨丸は訝しんだ。
この あばら長屋 に訪ねてくるのは、大抵、薬を求める町人か病人を抱えた者ばかり。
だが、目の前に立つのは立派な身なりの武士である。
忠親は捨丸の緊張した声色に気が付き、部屋の奥から声をかけた。
「捨丸、礼を欠いてはならぬ。客人をお招きしなさい」
捨丸は息をのみすぐに姿勢を正した
「これは失礼仕りました。どうぞお上がり下さいませ」
幼い声で捨丸がそう言うと、武士は一礼し草履を脱ぎ、かまちに上がった。
この長屋は最近の京の町家を模した造りで、玄関から裏庭まで土間が細く延び、その右手に二つの部屋が並ぶ。突き当たりには小さな湯殿と納戸があるだけで、質素ながら医師の往診道具や薬草を置くには十分であった。
板の間に上がった武士は正座し、深く一礼した。
「白瀬殿であらせられるか」
「……はい、私が」
「拙者、羽柴小一郎様――もとい、最近は秀長様と仰られます。その家中の者にて、密かにお耳に入れたきことがあり参上いたしました」
そう口上を述べると、武士は懐から油紙を取り出し、前の畳の上に広げた。墨で記された地名と日付、行商や芸の師の名が幾つも並んでいる。
「数年前、美濃街道のはずれに小さな飯屋がありました。ある夜更けに火が出て、屋敷は一夜にして焼け落ちたのです……。しかし――その屋敷の外には幾人かの骸が転がり、さらに庭には、切り離された手のひらや足首までもが散らばっていたと…。これは尋常な火事ではござらぬ。当時館にいた者達に聞いた所、皆口々に“鬼の仕業”と申しました。」
部屋に静寂が落ちた。蝉の声が遠ざかり、薬草の匂いばかりが鼻を刺す。
武士は姿勢を正し、低く告げた。
「あの飯屋で起こったことを調べております。生き残った者にはことごとく話を聞いてまいりました。無論、先生にもご協力を賜りたい」
忠親はわずかに眼差しを伏せ、濁すように答えた。
「……確かに、私はあの飯屋に出入りし、遊女たちの往診に廻っておりました。ですが、私の話で何か新しいことが判るとも思えないのですが」
村井は首を横に振り、穏やかな口調で言った。
「構いませぬ。先生にその者たちの話を聞いていただき、本当に怪異などあり得るのか、誰かの乱心等ではないのか、ご検証いただきたく存じます。これは医術としての検知でございます。あの屋敷に出入りしていたのも何かの縁と思って、お受け下さりませぬか」
忠親はしばし考え込み、油紙へ目を落とした。
(見取り図、出火元…風呂…とほう……なかなかよく調べているじゃないか、なあ白?)
耳の奥で、天が愉快げに囁いた。白と呼ぶのは、この声だけである。
忠親は姿勢を正し、膝に手を置いて言った。
「わかりました、目撃者の話だけではいささか心許なくはありますが、遺体の様子などをお聞かせ願えれば、医者としての考えを述べさせてもらいます。では、今夜往診が終わり次第伺うと致しましょう。先の山崎の戦にて傷の治癒を要する者も多く、まずはそれらを済ませた後――ということになりますが」
武士は安堵の色を浮かべ、畳に手をついた。
「ありがたきこと。目撃した行商や下女を、岐阜城下――秀長様の屋敷近くの一郭に集めますます。今宵はそちらにて、当時の様子を改めて聞いていただきたい」
忠親は静かにうなずく。
「承知しました。ところで、まだお名を伺っておりませんが……」
武士ははっとして背を正し、慌てて答えた。
「これは失礼仕りました。某、秀長様の家中にて用人を務めます、村井新左衛門 と申す者にございます」
忠親も礼を返した。
「村井殿、承りました」
村井はさらに身を乗り出し、言葉を重ねた。
「なお、白瀬殿。今宵駕籠を用意させてございます。お足を煩わせることなく、屋敷までお運び申し上げますゆえ、どうかそれにお乗り下さいますよう」
忠親は首を横に振った。
「それは恐れ多い。私はただの医者に過ぎません。病人の家々を巡るにも、この足で十分でございます」
村井は押し返すように声を強めた。
「いえ、これは礼のためではございませぬ。秀長様より仰せを受けて参った以上、客人を歩かせれば、叱責を受けるのはこの村井。どうか私の顔を立てると思い、駕籠にお乗り下され」
忠親は静かに背筋を伸ばし、膝に手を添えたまま小さく息をついた。
「……やれやれ、そこまで申されては断りきれませぬな。では、お言葉に甘えるといたしましょう。ただし、往診を済ませた後に」
村井は深々と頭を下げ、安堵の息を洩らした。
「御意。しかと手配しておきまする」
蝉の声が一段と大きく響き、狭い長屋には再び薬草の匂いが満ちていた。
村井新左衛門が去り、戸口が閉じられると、長屋は静けさを取り戻した。
薬草の香が濃く漂い、蝉の声だけが外から流れ込む。
忠親は正座のまま、しばし沈黙していた。やがて低く呟く。
「……どうしたものか」
(行くしかあるまいよ、白。あの村井とかいう侍、食わせ物だぞ。何か掴んでると見て間違いないな。逃げ腰を見せれば余計に怪しまれるぞ)
耳の奥で天が鋭く囁いた。
忠親は目を伏せ、静かに応じる。
「それは承知している。何年も前のあの事件、証言だけで医術の検知など必要な物か。だが――」
横に控えていた捨丸が、不安げに声を発した。
「先生……もし、あの夜、私の事を、誰かが……」
忠親は弟子に視線をやり、ゆっくりとうなずいた。
「あの日、お前の姿を見た者がいないとも限らぬ、というわけか」
捨丸は唇を噛みしめ、こくりとうなずく。
(ふん、見られてたならとっくに騒ぎになってると思うがな。だがまあ噂程度は聞けるんだろうから、聞いてくればいい。下手を打てば“鬼の話”じゃ済まなくなるかもなあ)
天の声は愉快げに響いたが、その響きは重かった。
忠親は深く息を吐き、決意を込めて口を開いた。
「……捨丸。今宵はここで留守を頼む。屋敷には私ひとりで向かう」
「……はい」
幼い顔に影を落としながらも、捨丸は素直に頭を下げた。
忠親はその姿を見つめ、ふっと目を細めた。
「心配はいらないよ。すぐに戻る」
そういって捨丸の頭を撫でた。