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大江山 始まりの冬 凍月井戸の底にて

 冬。とりわけ雪が降った後、そして月が高く昇った丑の刻ともなれば、山の空気はまるで氷の刃のように肌を刺し、吐く息すらも瞬く間に凍りつく。夜の静けさはあまりにも深く、わずかな物音さえ、石を打つように耳に残る。


 社殿の前――そこには、先に斬り伏せられた鬼たちの骸が累々と横たわっていた。すでにその多くは動かぬ肉塊となっているが、首のあった場所から噴き出した血は、時が経つごとに勢いを失い、寒夜の冷気に晒されて凍り付き始めていた。赤黒い血溜まりは、月の青白い光を受けて冷たく光り、その光景はまるで戦の記憶を封じ込める結晶のようであった。


 大鎧を身に纏った男――源頼光(みなもとのよりみつ)のその身にも、返り血が凍り付き、肩先から草摺にかけて黒く染まっている。血の色は深く、鉄のような匂いが風に乗って漂っていた。


 


 僅か数刻前、鬼たちが犇めきあい、吼え、刀と鉞の火花が飛び交っていた社殿は、今や静寂に包まれている。扉は大きく開け放たれ、内部にはなお幾人かの武士たちが松明を掲げ、鬼の亡骸の確認と探索を続けている様子が見え隠れしていた。


 その外、濡れ縁にうっすらと積もった雪を踏みしめながら、一人の長身の男が、抜き身の太刀を手にしてゆっくりと近づいてくる。

 大鎧を着ていても、ほとんど音を立てずに歩くその姿から、相当な手練れだという事がわかる


 男が庭に降り、頼光の傍らに近づいた時、ちょうど雲間から月が顔を出し、その姿を淡く照らした。照らされたその男の体は、血飛沫によって赤黒く染まり、まるで地獄から這い出た修羅のごとき様相を呈していた。その体からは湯気がもうもうと立ち上り、夜気に触れて揺らめく様は、命を懸けた戦いの余熱のようでもあった。


 


 「頼光殿、こちらでございましたか」


 低くも張りのある声が響いた。


 頼光は目を細め、顔の判別も難しいほど血に塗れたその姿をじっと見た。


 


 「おお、渡辺殿であったか。あまりにも血を浴びている故、鬼が蘇ったのかと思いましたぞ」


 


 冗談めかした口調だったが、そこには安堵の色が混じっていた。渡辺綱(わたなべのつな)は小さく首をすくめ、己の腕や脛に視線を落とし、今さらのように汚れた体を確認すると、困ったように肩を竦めた。


 


 「ひとしきり終われば、そこらの川にでも入り申す。……いや、凍っておるやもですが」


 


 と、ふう、と吐息と共に笑みを漏らした。寒気で硬くなった頬が、かすかに引き攣っていた。


 


 ここ大江山は、都からそう遠くはない。されど、その地勢は都とはまるで違う。山深く、風は鋭く、夜ともなればひとしきり凍てつく。特にこの大きな社殿――恐らく鬼たちが奪い取って根城としていたのだろう――の屋根には薄く雪が積もり、軒には氷柱が垂れていた。


 この辺りの村々では、ここ数年、夜毎に吹き荒ぶ吹雪を「鬼嵐」と呼ぶようになったという。鬼が住み着いて以来、夜半になるとまるで何かが哭くような風が吹くのだと、道中、村人たちが囁いていた。


鬼達が居なくなった今、嵐は嘘のように収まり、静かな夜に戻っていた。



 


 「余りの寒さで、何処か切られていても気付かないこともあり申す。そこな井戸で、顔だけでも洗われるがよかろう」


 


 そう言いながら、頼光は井戸へと歩みを進め、綱もその後を追う。井戸の周囲には、古びた石積みが囲いを成しており、すり鉢状に作られた階段を慎重に下りていく。


 松明は持っていなかったが、雪が月明かりを反射して辺りを青白く照らし、井戸の底までもほのかに光が届いていた。


 底へ着いた頼光は、綱とは少し距離を置き、互いに背を向け血振りを行った。

抜き身のまま蹲踞をし、手繰桶を引き上げ、まず太刀に水を注いだ。刃にこびりついた血と油がぬるりと流れ落ち、井戸水に赤黒い波紋を描く。曲がりや刃こぼれはないかと月明かりに照らしてみると、太刀は血を吸ったように薄っすらと紅色に光っていた。


 それもそうだ。鬼を六、七体は斬った。手応えは人のものではない。骨と筋が異様に強靭で、斬るというより断ち割る感覚だった。毒酒の効果で動きが鈍っていたのが幸いだったが、それでも首を落とすのは容易ではなかった。


 この鬼の頭領の太刀と、渡辺綱の持つ髭切と、いずれも鍛え抜かれた名刀でなければ、果たして斬りきれたであろうか。頼光はそう思いながら、太刀を恭しく掲げ、刃を拭い、鞘へと静かに納めた。


 ふと視線を横に向けると、綱もまた同じように太刀を納めるところであった。互いの所作に、無言の信頼が流れる。


 そして二人は兜を脱ぎ、頭からざぶりと水を被った。冷たさは瞬時にして皮膚を麻痺させたが、不思議と心は静まっていく。井戸水は、地中の温度でややぬるみがあり心地よい。


 水が足元の排水路を流れていく。赤く染まったそれは、まるで血を清めて川へ返す儀式のようでもあった。


 二人は互いに、傷がないか確かめ合いながら、児戯のように互いに水を掛けあっていた。


 やがて、綱は桶を持つ手を静かに下ろし、その顔を頼光に向けた。


 濡れた髪が頬に張り付き、瞳の奥に陰りが見える。


 


 「頼光殿……申し訳ありませぬ。とどめを……この先、如何様な……」


 


 言いながら、視線は井戸底の水面へと落ちていく。問いかけというよりは、己の中に生じた疑念の告白であった。


 頼光はその言葉を手で制し、短く首を振った。


 


 「渡辺殿……これで良かったと思う他ありますまい。……まして、呪いなどと……」


 


 そこで言葉を切った。あの時、鬼の頭領が吐き捨てた最後の言葉が、耳朶に甦った。


 二人は何も言えず、ただ水の流れる音だけが井戸底に響いた。


 


 その時、上方から声が響いた。


 


 「御屋形様ぁ! 御屋形様ぁ!」坂田金時が呼んでいる、検分の用意が出来たようだ。






 頼光は何も言わずに立ち上がり、月を見上げた





 井戸の底からは、吐く息が白く、美しく昇り、月はひどく遠く見えた。









【おのれ…鬼に横道なきものを……この恨み……七世七代呪ってくれようぞ】






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