兆し
視界がぼやけていた。
足元がおぼつかず、どちらが上でどちらが下なのかも分からない。
ふわふわと漂い、立っている感覚さえも感じることはできない。
しかし、上からも、下からも、右からも、左からも光を感じることはできる。電球は見当たらない。
まるで、空間全体が光っているとでもいうような、そんな感じた。
淡い黄色や、藤色、オレンジといった優しい色が所々に浮いていた。
僕はいつものTシャツにジーンズ。そしてお気に入りのスニーカーを履いている。
目の前を黄色い光がゆっくりと横切った。手を伸ばしそっと触れると、霧のように広がり、そして消えた。
暖かい。
優しい光で空間のすべてを満たしている世界。何と心地良いのだろう。
不安や不満、痛み、悲しみ、そういった全ての負の感情から解き放たれた世界。
いつまでもこの場所に留まっていたい。そう思わずにはいられない世界。
僕は手足を大きく伸ばし、深呼吸をした。
暖かい風がゆっくりと流れる。僕は大きなあくびをすると、目を閉じた。
「静かだ。」
僕は呟いた。
このまま眠ってしまいたいと思った。
ふと、小さな声がしたような気がした。
細くて弱い声。
僕は目を開けると、耳を澄ました。
「しくしく。」
泣き声?
声がする方向へ漂う。
ここはどこだろう。
丘の上に一本の木が生えている。
ゆっくりと木の根本に着地した。
枝がさえずっている。
おかしな表現だとは思うが、そう表現するのが一番しっくりくると思った。
強い風が吹き抜け、僕は思わず髪を押さえ、目を細めた。
風が止み、細めていた目をゆっくりと開けると、目の前の木の根本に一人の少女が座っていた。
少女は泣いていた。
「えっと、大丈夫?どうしたの?」
僕は恐る恐る尋ねた。
「どこか痛いの?」
少女は首を横に振った。
困った。子供の扱いには慣れていない。
「・・・の。」
少女は小さな声で何かを言った。
「どうしたの?もう一度言ってごらん。」
僕はせいっぱい優しい声で尋ねた。
「みんな、いなくなっちゃったの。」
少女は顔を上げて言った。
「!!」
息を飲んだ。
面影がある。
僕はこの少女を知っている。
いや、この少女が成長した姿を知っている。
唯だ。間違えない。
何で唯の小さい頃の姿を知っているのか。そんなことはどうでも良かった。
「ごめんね。」
唯を抱きしめた。そうせずにはいられなかった。
「みんな私の事嫌いなの。だからいなくなっちゃうの。」
唯は僕の腕の中で泣き続けた。
「そんな事はない、僕も、唯の両親も唯の事を愛していたよ。」
小さな唯が僕を見上げた。
ベッドの上で目が覚めた僕は、日課となっている伸びをして、その場に座った。
僕が死んでから、そろそろ一ヶ月が経とうとしている。
いつも通り唯はまだ夢の中だ。何の夢を見ているのか分からないが、唯のまつ毛は少し濡れていた。
僕は大きなあくびをして窓を見た。
東側の窓にかけられたカーテンに朝日がかかり、部屋を照らしていた。今日もいい天気になりそうだ。
僕はもう一度大きなあくびをした。
今日は何だか体が疲れている。悪い夢でも見たのだろうか。人は寝ている間にいくつかの夢を見ているが、そのほとんどを忘れてしまっていると聞いたことがある。
何の夢を見ていたか気にはなるが、考えても分からないことにエネルギーを使うのはもったいない。
僕はいつも通りベッドから飛び降りると、廊下を歩きトイレまで行った。ドアノブにジャンプして飛びつくとドアを開け、便器に座る。
はぁ、至福のひととき。
用を足し終わった僕はトイレを出ると寝室へと戻った。
今日は体がダルいので二度寝でもすることにしよう。朝は強いはずなのだが、ここ数日は寝ても寝ても眠い気がする。
春眠暁を覚えずとはよく言ったものだ。
ベッドの上には唯が座っていた。いつも通りと言っては失礼だが、目は半分閉じで、寝てるのか起きてるのか分からない体勢だ。
膝の上に乗り、唯の顔を見上げた。寝起きで隙だらけの唯も可愛い。
僕は膝の上に立ち上がり、唯の頬に軽くキスをした。
(おはよう。)
唯はびっくりして僕を見つめる。
「おだんごちゃん。夢に涼太が出てきたよ。」
唯が囁くように言った。
「悲しいような、寂しいような、それでいて幸せな夢だったよ。」
僕は黙って聞いていた。
「よし、朝ごはんにしようか。お腹空いちゃったよね、ちょっと待っててね。」
そう言うと、唯はキッチンに入り、引き出しを開けた。カウンターキッチン内の引き出しのうちのひとつは僕専用の引き出しだ。
中にはレトルトタイプのキャットフードが入っている。カリカリに比べて少し値が張るのと栄養バランスが悪いという理由から朝食はレトルト、夕食はカリカリと決められてしまっている。
カリカリに比べて味が良いレトルトを食べられる朝食は、一日の中で一番楽しみな時間だ。
唯がレトルトパウチを取り出す。どうやら今日の朝食は「贅沢黒毛和牛」らしい。
名前を聞いただけで、よだれが出てきそうなメニューだ。
食器の上に盛られたその姿は、正に光り輝くフランス料理。芳醇な牛肉の香りが鼻腔をくすぐる。
うまい、うますぎる!
一口食べるたびに、口いっぱいに幸せが広がる。薄味で仕上げているが、むしろその薄味が肉の旨味を引き立てているように思える。
ふぅ、お腹いっぱい。
(ごちそうさまでした。)
僕は食後の挨拶を済ませると、ペロリと口の周りを舐めた。
このキャットフード、人間の食べ物より美味いんじゃないか?そう思わずにはいられない味だった。
唯と目が合った。
ニコニコしながらこちらを見ている。
僕も笑い返すが、きっと引きつった笑みだっただろう。ガツガツ食べるのを見られて少し恥ずかしかった。次はもっと上品に食べようと思う。
唯の食事はコンビニで買ったサラダと牛乳。相変わらず食欲が無いのか、それとももともと朝はあまり食べられないのかは分からないが、十分な量とは思えなかった。
「さて、おだんごちゃん、食後の運動をしようか。」
唯が取り出したのは、前に叩き落としてあげた猫じゃらし。先端のモフモフを振りながら魔法少女のようにポーズをとっている。
この姿を誰かに見られたら、唯はどんな顔をするのだろうかと考えるとなかなか面白い。
きっと顔を真っ赤にして、よく分からない言い訳をするのだろう。
「おだんごちゃん、覚悟!」
何に対して覚悟を決めなければならないのかが、さっぱり分からない。
唯は調子に乗って、猫じゃらしを振りだした。横振り、縦振り、回転と様々な振り方で誘ってくる。
「ほら!おだんごちゃん!我慢しなくていいんだよ!」
猫じゃらしがどんどん近づいてくる。
(中身は猫じゃないんだから、そんなものに興味持たないって!)
もちろん僕の声は「にゃあ。」としか聞こえないのは承知の上だが、唯のこのしつこさには抗議の声を上げないわけにはいかない。
「おだんごちゃ〜ん、聞いてますか〜?」
この間と同じように、僕の顔に猫じゃらしを押し付けてくる唯。
もう我慢できない。
僕は右手を振り上げ、猫じゃらしを狙って振り下ろした。
すんでのところで、唯が猫じゃらしを引いて、僕の爪から逃れる。
ムカッ!
「へへー。おだんごちゃん、残念。こっちだよ〜。」
ちっとも可愛くない笑みを浮かべ、唯が猫じゃらしを振る。
ここで猫じゃらしに飛びついたら、この間と同じになってしまい、僕が猫じゃらしのことを好きだという間違ったレッテルを貼られてしまう。
そうなると、唯は事あるごとに猫じゃらしを持ち出すようになってしまうぞ。
それだけは避けなければならない!
でも、何だかお尻のあたりがムズムズする。
何だ、この高鳴る感情は!
僕は尻尾を立て、お尻を高く持ち上げ、頭を下げた。
狩りの体勢だ。
誰に習ったわけでも無いが、この姿勢が一番狩りに適していると知っていた。
瞳孔が広がり、動体視力が上がっていくのが分かる。猫じゃらしがスローモーションのように動く。
リズムよくお尻を振る。
前足を軽く踏ん張ってから、後ろ足を強く床に押し付けた。
行くぞ!
一気に力を開放しろ!
3、
2、
1、
ピーンポーン。
唯の家のチャイムが鳴った。
「はーい。」
小走りでドアホンに向かう唯。
・・・おい!
いったいこの気持ちは、何処にぶつければいいんだ?僕は狩りの体勢のまましばらく立ち尽くした。
「久しぶり。」
唯がドアホン越しに誰かと話している。
「え?今から?・・・別に大丈夫だけど。」
いったい誰が来たのだろうか。
「ちょっとだけ待って、今片付けるから。」 そう言うと、唯はスエットからジーンズとTシャツに着替え、リビングを軽く片付けた。
「お、は、よ、う。」
部屋の中に入ってきたのは梓だった。少し・・・いや、かなり不機嫌そうだ。
「どうしたの?こんな早くに。」
唯の言葉に梓の眉間の血管が浮き出るのが分かる。
「どうしたのじゃないよ!電話も出ない、ラインもスルー、どんだけ心配したと思ってるの?!」
梓が一気にまくし立てた。
「そりゃ、あんなことがあったんだから、唯の気持ちも分からなくは無いけどさ、それはそれ!唯が大学に来ないことによって、どれだけ私達が心配してるのかも考えるべき!分かった?!」
唯が小さく「ごめん」と言う。
梓の言うことは正しい。しかし、人間の感情というものが、正解のみを求めているわけではないと僕は思う。
時には傷つき、時には立ち止まりながら進んでいくのだと思う。
(まあまあ、少し落ちついて。)
梓の足に絡みつきながら、僕は言った。
「何よ、この猫。」
(あ、お気に召しませんでした?)
「やけに可愛いじゃない。」
表情を変えずに梓が言った。
「今日のところは、この猫に免じて許してあげる。で、一ヶ月間も何をやってたの?」
僕を抱き上げ、リビングのソファに座りながら梓が尋ねた。
唯は一度キッチンに入り、飲み物を用意している。
「ペットボトルのお茶ぐらいしか無いけど良い?」
「良いよ。他に選択肢ないんでしょ?」
「あとは、ビールくらいしか無い。」
「私に酔っ払って大学行けって言うの?」
梓が笑った。
梓の笑顔はとても人懐っこい。普段はぶっきらぼうで少し怖いイメージがあるが、中身はとても優しく仲間を大切にする。
拓巳はこのギャップが良いと言っていた。それに関しては僕も同感だ。しかし梓と付き合いたいかという話となると別だ。将来、尻に敷かれる可能性120%な相手と一緒になるのは遠慮したい。
ローテーブルの上にお茶の入ったコップがふたつ置かれると、梓はソファから降りてソファの座面を背もたれに床に座った。
梓のの正面には唯が座る。
いつも思っていたのだが、ソファがあるのに床に座るというこの現象は、一体何なのだろうか。
僕も梓と同じように座るし、確か拓巳もそうしていた記憶がある。
小さい頃から畳に慣れ親しんできた、日本人特有の習慣なのだろうか?それともたまたま僕の周りにそういう人が多いだけなのか。
N数をかなり多くしないとならないが、経済学部だったら、このテーマでマーケティングの卒論が書けそうだ。
梓は僕を持ち上げると、ちょこんと自分の膝の上に乗せて話を始めた。
・・・なんだ、この体勢は。
「で、何してたの?一ヶ月も。」
さっきとは打って変わって、静かな口調で梓が尋ねた。
「別に・・・何も・・・。何もやる気が起きなくて・・・。」
「そうか。で、これからどうするの?大学には来れそうなの?」
「どうかな。大学は涼太との思い出が多すぎるから。」
うつむきながら答える唯。
「拓巳がね、早く様子を見に行けってうるさいの。私はもうちょっと静かにしておこうって言ったんだけど、部屋で死んでるかもしれないって。大袈裟でしょ?」
「拓巳君が?」
「笑っちゃうでしょ?いつもは偉そうにしてるのに、うろたえちゃって。自分で連絡しろって言ったんだけど、何を話したらいいか分からないって言って、あいつ何にもできないの。」
「へぇ〜、意外。放っておけば良いんだよとか言いそうなのにね。」
唯がクスリと笑った。
「そう言えば、この猫はどうしたの?前来たときはいなかったよね。」
「おだんごちゃんって言うんだけど、涼太のお葬式の日に部屋の前にいたの。雨に濡れて震えてたから部屋に入れてあげたんだけど、何となくそのまま飼っちゃったんだ。」
「ふ〜ん。」
梓が素っ気ない返事をする。
「ちょっとトイレに行ってくるね。」
そう言ってから、唯が席を外す。
「おだんごちゃんね。変な名前。」
(うるさいな!文句なら名前をつけた唯に言えよ。)
梓は僕の顔をまじまじと見たあとに、僕の両脇の下に手を入れて持ち上げた。
(な、何だよ。)
突然の行動に戸惑う僕。
「お、付いてる。オスか。」
(なっ!)
顔が熱くなるのが分かる。
(どこ見てんの!)
僕は必死に足で隠そうとしたが、うまくいかない。唯といい梓といい、どうして同じことするんだ。理解に苦しむ。
「お、いっちょ前に恥ずかしいのか?猫のくせに生意気だぞ。」
どこかのいじめっ子が言いそうななセリフを言い、梓がケタケタと笑う。
「でも、唯が元気でいられるのは、案外あんたのおかげかもね。ありがと。」
(そ、そんな事・・・。)
突然のお礼に、少し戸惑った。
梓は良くも悪くも素直な人だ。歯に衣着せない彼女の物言いは、時には非難の対象となってしまうこともあるが、芯は強く情に熱い性格をしている。
「お茶、お替わりはいる?」
梓の後ろから唯が話しかけた。
「ありがと。急いで来たから、喉渇いちゃったよ。」
梓のグラスを持って唯がキッチンに向かう。
「この猫、可愛いね。」
「そうでしょ。見かけによらず、頭良いんだよ。トイレでおしっこしたり、勝手に戸を開けて散歩に行っちゃったり。」
(見かけによらず、ってのはどういうことだ?)
「あとね、猫じゃらしがすごく好きみたいなの。大きな体して、子猫みたいに追ってくるんだよ。」
(別に好きじゃないよ!唯がしつこいから遊んでやってるんだよ!)
キッチンからリビングに帰ってきた唯が、楽しそうに話す。
「何だかこの猫、人間の言葉が分かってるみたいに見えるね。さっきから唯の言葉に返事してるみたい。」
(梓!鋭い!唯にも言ってくれ、僕とは会話ができる・・・いや、僕はここにいるんだよ。)
僕は梓を祈るように見つめた。頼む!分かってくれ!
「まあ、どっちにしろ私らには「にゃあにゃあ」としか聞こえないんだけどね。」
(ですよねー。)
それはそうだ。会話が成立するわけではないのだ。僕は頭を垂れた。
「私は回りくどいのが苦手だから、もう一度ストレートに聞くけど、唯はいつになったら大学に来るの?」
梓の言葉に唯の視線が泳ぐ。
こいつは、ホントに人に気を使うって事を知らないな。
「さっきも言ったけど、涼太との思い出が多くて・・・。」
「それはわかるけど、そろそろ何とかしないと。事情が事情だから教授も大目に見てくれてるけど、そろそろ研究室に顔出して、卒論のテーマも決めなきゃいけないし、就活だって遅れちゃってる。」
梓は一度ここで言葉を切って、お茶を飲んだ。
「分かってはいるんだけど・・・。」
口ごもる唯。
「じゃあさ、久しぶりに私と出かけようか。私も大学サボるから。ひとりでいるから余計なこと考えちゃうんだよ。」
「そんな、悪いよ・・・。」
「良いから、良いから。そうと決まったら、お財布持って、バッグ持って。そうそう、お化粧しないとね。」
唯はあれよあれよという間に、梓に連れ出されていった。
部屋にはポツンと僕だけが残った。
西崎梓は強引だ。
今、まさにその現場を目撃している最中である。
「え?ダメだって。恥ずかしいよ。」
被害に合っているのは、小林唯。僕の彼女だ。
今日は大学の学園祭。
唯、拓巳、梓、そして僕のいつものメンバーは学園祭でも一緒だった。
唯の所属するバレー部は学園祭での活動は無いので、帰宅部の僕たちと一緒に楽しむことができる。
「大丈夫だよ、唯は可愛いから。」
さっきから唯が断っているのは学園祭のミスコンの出場の事だ。どうやら今年は飛び込みでの出場ができるらしく、梓が唯に出場してみてはどうか、と言っているのだ。
「人前に出るなんて無理!水着審査だってあるんだよ。」
唯の意見は最もだ。控えめな性格の唯がミスコンだなんて、あまりにも可哀想だ。
「じゃあさ、私も一緒に出るから。それで、いいでしょ?唯は可愛いからさ、いいところまでいくと思うんだよね。」
誰かが一緒に出るなら出ても良い、という事にはならないと思うが。
僕と拓巳はさっきからだんまりを決め込んでいる。こうなった梓を止めるのは至難の業である事を知っているからだ。
「無理だよ。涼太もそう思うでしょ?」
「え・・・それは・・・。」
急に話を振られると、返答に困る。
「涼太だって、本心は出てほしいって思ってるよ。自分の彼女が、グランプリなんか取ったらすごいことだよ。」
確かに唯がグランプリを取ったらすごいと思う。「自慢の彼女」が、「すごく自慢の彼女」になることは間違いない。
「でも、本人が出たくないって言ってるんだから、無理に出すのも可哀想だよ。」
唯に助け舟を出すが、正直出てほしい気持ちもあり、いまいち説得力に欠ける。
「唯、いつも可愛い洋服を選ぶのはなんで?メイクを頑張るのはなんで?可愛い自分でありたいって思ってるからでしょ?今日はそれを証明しようよ。」
梓が唯に詰め寄る。唯はタジタジだ。
「梓。」
さすがに見かねたのか、今まで黙っていた拓巳が口を開いた。このメンバーで梓を制することができるのは拓巳だけだ。
「ミスコンの賞金、何に使うつもりだ?」
拓巳は学祭パンフレットのミスコンのページを開いて見せた。そこには賞金五万円という文字が記されていた。
うちのような有名ではない大学のミスコンは、企業のスポンサーはついていない。この五万円は学祭の実行委員が捻出したお金なのだろう。
「いや、お金は二の次なんだけど、4人で旅行でも行けたらいいな〜。なんて思ったりして。」
急に梓の声のトーンが落ちた。
「私じゃ絶対無理だから、唯に協力してもらえたらもしかしたら・・・って。」
「だったら最初から正直に言えば言えよ。」
拓巳が溜息混じりに言った。
「という事らしいぞ、唯。どうする?」
うちの大学のミスコンは二部構成で行われる。
第一部は、私服審査。参加者は自由な服装でステージに立ち、司会者の簡単な質問に答えた後に、自己アピールをしていく。
第二部は水着審査だ。第一部から勝ち抜いた5名の参加者が規定の水着に着替えてステージに立つ。第二部の司会者の質問は第一部とは打って変わって、際どい内容が含まれる。これがミスコンの一番の目玉とも言えるが、同時に参加者減少の要因ともなっている。
例年通りミスコンの会場は、大学の中央広場に設置された特設会場だ。
唯は「どうせ一次審査で落ちるんだから、気楽に行ってくるよ。」と言って、Tシャツとジーンズといういつもの格好でステージ裏の集合場所に移動した。
梓は準備があるからと言って、僕たちとは別行動だ。いったい何の準備をしているのか気になるところだが、教えてはくれなかった。
ざっと見たところ、参加者は20人に満たないぐらいだろうか、この数が多いか少ないかは分からないが、グランプリの可能性は十分にあるように思えた。
一次審査が始まった。
エントリーナンバー1の人から順番にステージに上がり、ウォーキングをする。その後に学年、学部、得意なことなどの簡単な質問に答えて終了だ。
ドレスを着た気合の入っている人がいたかと思うと、部活のユニフォームを着てくる人もいる。それぞれが自己アピールに予断がない。
「これより、飛び入り参加してくれた方を紹介致します。今年の飛び入り参加は2名、エントリーナンバー17!西崎梓さん!」
梓の番だ。
司会者の紹介と共に飛び出したのは、タヌキの着ぐるみ姿の梓。いや、着ぐるみと言うより、よくパジャマとして売っているフリース生地のタヌキのつなぎだ。
短い足でちょこちょことステージを走り回る姿が、この上なく愛らしい。
「こんにちはー!西崎梓でーす!」
梓がステージから手を振ると、ヒートアップした会場からは「可愛い!」とか「サイコー!」などという声があちこちから上がる。
「今日のために準備したんだって。普通にやっても勝てないからギャグに走ったらしい。」
僕が呆気にとられていると、拓巳が説明してくれた。どうやら梓は今日のミスコンに飛び入り参加する気マンマンだったようだ。
「唯の分もあったけど、どうやら断られたみたいだな。唯はウサギって言ってた。」
ウサギ姿の唯、是非見てみたい!今度、こっそりお願いしてみよう。
「それでは最後の参加者です。エントリーナンバー18!小林唯さん!」
そうこうしている間に唯の番になった。
唯は白いTシャツにスリムジーンズという、いつも通りの出で立ちで、ステージの上をごく普通に歩いた。
「工学部の小林唯です。バレーボールをやってます。宜しくお願いします。」
清潔感。一言でいうとその言葉が一番しっくりくる。
今までの参加者とは全く違ったコンセプトは、偶然の産物か、それとも狙ってやったのか。言っちゃ悪いが、直前の梓の存在が唯のそれを完璧なものにした。
「参加者全員が出揃いました。それではこれから一次審査に入ります。結果が出るまで今しばらくお待ちください。」
司会のアナウンスが流れた。
結果は30分程で出るだろうから、僕と拓巳はこのままステージ前で待つことにした。
「涼太は誰が残ると思う?」
「うーん、12番目に出てきたテニス部の子は可愛かったな。」
「そうか、涼太はああいう元気な子が好みか。唯とはだいぶタイプが違うけど。」
「拓巳はどう思う?」
「俺か?そりゃ梓と唯だろ?」
「うわ、ズルっ。」
僕と拓巳は顔を合わせると、大きな声で笑った。
「何、男同士で大声で笑ってんのよ。」
いつの間に近くに来たのか、僕たちの後ろには梓の姿があった。
「あれ?梓、第二部は?」
口に出してから僕は後悔した。ここにいるということは落選したという事なのだ。
「いや〜、ダメだった。最初から分かってたけどね。でも、唯は通ったよ。」
梓は笑っているが、悔しくない筈はない。僕の発言は傷口に塩を塗る行為だ。笑って済ましてくれた梓に感謝しなければならない。
「後は全力で唯を応援するだけだね。」
しばらくすると、第二部が始まった。
第二部は、第一部で選ばれた五人が、運営側の準備した水着に着替えてての審査となる。
建前上は「衣装に左右されない本当の美しさを競うため」らしいが、はっきりいうと観衆の目の保養でしかない。
今更ながら、唯をこのようなステージに立たせてしまったことに後悔した。
もともと唯は、目立つことをあまり好まない性格だ。今回のことも梓に押し切られた感じがある。彼氏としては彼女の「断れない性格」を考えてフォローすべきだった気がする。
「唯が出てきたよ。」
梓が言った。
急な吐き気を覚え、僕はトイレに駆け込んだ。
幸い、トイレのドアは僕がノブに一回飛びつくとすんなり開き、嘔吐する前に便器に顔を突っ込む事ができた。
洋式トイレは猫には高すぎる。今更ながら。和式トイレの汎用性に頭が下がる思いだ。
(毛玉?)
僕は自分の吐いたものを見て呟いた。
朝に食べたキャットフードに混ざって、猫の毛が入っていた。
猫は自分の毛づくろいを舌で行う為、定期的に毛玉を吐くということを聞いたことがある。しかし、僕には猫になってから自分の毛づくろいをした記憶はない。その代わり、定期的に唯が体を洗ってくれているのだ。
寝てる間に毛が口に入ってしまう。そういうこともあるかもしれない。あまり深く考えないようにしよう。
そういえば唯が準ミスを獲った後は、しばらくの間よく知らない男から飲みに誘われて困っていたのを思い出す。
準ミスの賞金もあった気もするが、なぜだか何に使ったのかを思い出せなかった。金額も少ないので、唯が自分の洋服を買ってしまったのかもしれない。
家主のいなくなった部屋は、途端に静寂を取り戻す。
梓が唯を連れ出してからどれくらいの時間が経ったのだろうか。東から昇った太陽は、もう少しで一番高い場所へ位置する。
暇を持て余した僕はテラス戸を開け、ベランダへ出た。暖かい春の日差しが気持ちいい。
唯と梓はどこに行ったのだろうか。
別に二人の行動をいちいち監視するつもりはないが、こう暇だと気になってしまう。
世にいるストーカーの一部は、暇人がやっているのではないかと思ってしまう。ストーカー更生の手段として、余裕がなくなるほど仕事をさせ続けるというのはどうだろうか。
(空き地にいってみるか。)
僕は独り言を言うと、ベランダの手すりから非常階段に飛び移り、空き地へと向かった。
空き地にいたのはミケと三ツ星の二匹。
ミケは空き地奥の高台に寝そべり、日向ぼっこをしている。何もしていないように見えても、ミケがここにいるということにより、空き地の平和が保たれていることを僕は知っている。
三ツ星は、空き地の花のみつを吸いに来たモンシロチョウと戯れている。
平和だ。
つい先日、この空き地が三匹の猫に占拠されそうになったなどと、微塵にも感じることはできない。
僕はミケの寝そべっている高台に登ると、ミケの横に腰掛けた。なるほど、この高台からは空き地の入り口が一望でき、侵入者が来てもいち早く行動できるのか。
お前、名前の割にデキる猫何だな。
(おだんごの兄貴、どうしました?)
ミケが体を起こし、僕に聞いてきた。
(別に何もないよ。散歩のついでに寄っただけ。)
僕がそう言うと、ミケはあくびをひとつすると、もう一度寝そべった。
猫というものは必要以上にコミュニケーションを取ることはない。「群れない」と言うことはこういう事なのかもしれない。
これが犬だったら(とうしました?どうしました?)とうるさいのかもしれない。
よほど楽しいのか三ツ星は相変わらず、モンシロチョウを追っている。
三ツ星が手を伸ばす。モンシロチョウがひらりと避ける。再度、三ツ星が手を伸ばす。
さっきから同じことの繰り返しだ。
若いって無邪気で良いな。
そんな事を思っていたら、三ツ星がモンシロチョウを捕まえて・・・口に入れた。
(ミ、ミケ!三ツ星が蝶を食べたぞ!)
あまりに衝撃的だったので、思わずミケに声をかけてしまった。
三ツ星がこちらを向いて、ニヤリと笑う。
犬歯の間から見え隠れする蝶の羽。その光景はまさにホラーだった。
(昆虫は大切なタンパク源です。野良猫が食べるのはあたりまえでしょ?)
ミケが片目を開けて、つまらなそうに言った。
僕は今の光景を頭の奥にしまい、固く鍵をすることを心に誓った。
もう少しで梅雨が始まる。梅雨が終われば夏が来る。
僕は太陽を見上げ、目を細めた。