魔術使いは闇を見つめます。そして見つめ返されます。
視線は思いを伝える。
人が深淵を覗く時、深淵の中のモノもこちらを覗いている。未知の存在の眼差しが含むのは興味か悪意か。
お互いを見つめあう幸せな恋人たち。二人だけの世界で交わすその眼差しが伝え合うのは甘い信愛の情。
獣にとって目を合わせるというのは敵対することを意味する。お互いの眼差しが交わすのは純粋なる殺意のみ。
わたしは闇の中からこちらを見つめる何者かに気付く。視線が合ってしまった。動かない。動けない。
このままではまずい。先に動き、起死回生の一手を打ち込む。そう思った瞬間、闇が動いた。
わたしは隣家の夫婦と話し込む母の傍らで、ドアの向こうの気配を警戒している。細く開かれたドアの向こう、隠れるようにこちらを覗く視線に気付いたのは数秒前のこと。
気配が動き、ドアが大きく開かれた。
「ちっちゃい子がいる。わたちよりちっちゃい」
ちっちゃいちっちゃい言いながら、ドアを開けて部屋から出ててきたのは幼い少女だった。
失礼な。わたしより少しだけ年上のようだが、オマエだって十分小さいじゃないか。
お互いの視線がぶつかり合う。
ゆっくりと近づいてくる。その手は不自然に後ろに隠されている。その強い眼差しはわたしから外されることはない。
小さな体から、大きな圧迫感を感じる。気圧されるものを感じる。
何だ?何を後ろに隠している?何をしようとしている?迫りくる危機に母は気付いていないのか。もう目の前まで来てしまった。
その時、狼狽えるわたしの鼻をくすぐる、微かな匂いに気付く。微かに香る甘い匂い。目の前の少女からわたしの知る匂いがする。
おお、これはリンゴの香りではないか。そう意識した瞬間、警戒心も何もかもぶっ飛び、頭の中がリンゴで一杯になってしまう。
リンゴ、リンゴ大好き!甘くて、ちょっとだけ酸っぱくて、とてもいい匂いがするんだ。すりおろしたものが大好きだ。柔らかく煮込まれて、くたっとしたのも大好きだ。甘味とともに口の中に広がるのは幸せの味なのだ。
手足が無意識にバタバタしてしまう。くっ、鎮まれ!わたしの体!リンゴ愛!
突然暴れだしたわたしに周囲の大人達が戸惑った瞬間、目の前の少女が手を前に突き出した。しまった!今のわたしは隙だらけだ。
「はい、りんごしゅき?これあげゆ」
思わず固く目を閉じてしまったわたしに掛けられた少女の声。
おずおずと目をあければ、突きだされた小さな手にはあったのは魅惑の赤い果実、リンゴ。ピタリと止まるわたしの手足。リンゴに釘付けになるわたしの視線。
え、何?コレくれるの?
差し出されたリンゴをがしりと掴む。その瞬間我に返った。はっ、わたしは何をしているのだ。
リンゴの向こうからこちらを見つめる少女と再び目が合った。見つめ合うわたしと少女。
「かあいい!」
わたしは正面から押し倒された。ぐえっ。
少女がわたしを押し潰したことを怒られている。わたしの母が笑いながら少女の母親をなだめている。
何、幼い子供のしたことだ。わたしは気にしていない。微笑ましいとすら思う。
まあ、手の中のリンゴが無くても同じ気持ちになったかはわからんが。あと、このリンゴはもうわたしのものだ。絶対返さない。
「ごめんなちゃい」
目の前で下げられた少女の頭を撫でてやろう。素直に謝れて偉いぞ。ぺしぺし。
む、できたばかりのたんこぶに触れてしまったか。少女の顔が痛みにゆがむ。
魔術を構築。
構築完了!接触指定による即効沈痛型外傷治癒術式。
【差し出された甘いリンゴ】
そして魔術実行。
構築された術式が、患部を覆い、痛みを止め、炎症を鎮めていく。
痛みが消えて機嫌が良くなった少女はよく笑う子だった。やけに上から目線なのはお姉さんぶりたいのだろう。微笑ましいものだ。
ええいっ、そんなに年は変わらないんだからヨシヨシするんじゃない!
抱き上げれるわけないんだから止めなさい!
「可愛くて賢そうな子だったじゃないか。仲良くなれて良かったね」
母親が娘の頭を撫でながら笑いかける。
「うん、かわいい!でも、あのこ、へん!」
お隣の一人息子をへんな子呼ばわりした娘に慌てる母親。ご近所問題は些細なことから発生することもあるのだ。
「こら、そんなこと言っちやダメよ。あの子のこと嫌いなの?」
少し心配そうに母親は娘の顔を覗き込む。
「ううん!だいしゅき!」
満面の笑顔でそう答える娘に安堵する。
可愛い顔してたし、初めての弟分だし。でも、あの時絶対あの子が何かした。あの子の手から変な感じがしたと思ったら、痛みが消えた。たんこぶの膨らみも消えた。ナイショって顔してたから誰にも言わないけど。
まあ、たんこぶのお礼には、またリンゴをあげよう。きっと喜んでくれる。
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