コロナの中の恋
コロナ禍の中でいろいろな日常がシャッフルされ、抜かされたり後ろに回されたりしています。一時と思っていたことが年を単位に続く。それも日常と受け止めて、おのおの幸せを見つける何かの発出になればと短いものですが書いてみました。
あった過去でもなく、あるべきみraidemo
「ねえ、もっと仲良くならない」
出社すると、社内メールに件名だけのメールが入っていた。発信は30分前。いまは定刻始業の10分前。本日が出社のあらかたが揃う時間帯よりも彼は早くデスクに納まっている。ここに入社したあとのウエブ会議で書き留めた名前とメモから3年先輩なのは承知していたが、今回の三日間の出社まで大勢いる男性社員のマスの塊りから飛び出してくることはなかった。
ここに勤め始めてからの出社は五度目。今回は三日間となっている。リモートで回せないこともないのだが、新入社員を徐々に馴らしていく方針からそうした取り組みになっている。
むかしからの大部屋スタイルで部門ごとに区切るかたちになっているから、パーテーションを背にして座っている彼の間に四つのシマが挟まっていて、わたしからは10メートルは離れている。デスクの数に対して座るひとの数は五分の一の閑散。とはいえ、四つの人垣を挟んでいては、女の五感だって男の腹に収まってるだけで感じとるのは難しい。だから、そうなった男は女が持つ本能に届くよう試さなければならない。
わたしの出社を手ぐすね引いていたのか、初日の朝から仕掛けてくる。香水で話しかけてくる。マスク越しでもオリエンタルの少し湿った感覚を呼び起こす香り。静寂な空間ばかりが闊歩していて暫く忘れかけてた質感。それを呼び起こす香り。
それを、コーヒーを取りに行くたびプリントを取りに行くたび、わたしの耳元に手首の窪みを近づける。
近づくときは左手の窪み。遠ざかるときは右手の窪み。
わたしが傾いていくのが見えているから、わたしのデスクをまたぐ2秒の間に周囲の空気を変えず巧妙に話しかけてくる。実の声なんて聞こえなくたって、彼の小刻みリズムはお腹の下に染みて反響する。
おはよう
ごきげんいかが
いつも一束にまとめてたセミロング、変えたんだ
そのショート似合っているよ。マスクに少し引っぱられてるその小ぶりの耳、少し前かがみにかがんで可愛くみえる
お喋りが段々と長くなっていくのは、わたしの妄想のせい。それが分かってきても、悪い気はしてこない。ますます彼の術中に嵌っていく。でも、このときめく感じ、お腹の下から少しずつ溢れてくる感じ、本当に久しぶり。
それだけの前触れを準備して、三日目に彼は本編に入いる。何の前触れも挟まずにそのままの言葉が届く。むきだしの言葉は、窪みに挟めたオリエンタルの香りよりも一段づつ確実にわたしの足を階段に載せて登らせる。
「うん」
わたしはそれだけを返信した。
時間と場所だけ記した返信メール、なんだか舌の先で書いたような気がする。その店なら使ったことがある。電車を乗り継がないと行けないけど、ここからそう遠くないオフィスも入っている雑居ビルの2階。けっしていま此処にいる人達の動線には引っ掛からないところ。
三日目の朝はこうして始まった。彼はその日、コーヒーやプリントを取りにわたしの横を通ったりしない。私はその日、彼のオリエンタルの香りを私の記憶の中からしかかぐことが出来なかった。
ウエイティングバー
レストラン併設のテーブルセットを待ちながら憩いの時を過ごす。そんなオシャレで華やかなバーは、よほど限られた高級店でなければ存在しない。いま、その呼び名は、各々が次を待つ機能だけを設えた店を指している。そうして、他の店を狩ってそうした店ばかりが増えている。お客は、左右をアクリル板に仕切ったスケルトンボックス席のカウンターに飲み物食べ物を置いて、窓と壁そのどちらかに向かって過ごす。飲食を提供する店にとって客同士の正面は一番危険だから、どうしたってこうしたスタイルに固まってしまう。ここでの飲食は次を待つためのステップ。
次を待ってる感覚って、劇場や映画館の少し暗い照明の中でポップコーンやナチョスを抱えて開演を待っている感じと同じもの。何度か利用して、ここにいるときの感覚にぴったりくるのは、そのときのシチュエーション。
ウエィテングバーをクロスしていくお客には決まった流れがある。
ひとり、或いはふたり。開演の合図を聞いて出立する。或いは、ひとりでやってきてしばらくを過ごす。二人でやってきてしばらくを過ごす。そしてそれぞれの元居た場所に帰っていく。その人達がそのどちらなのかはすぐに分かる。すぐに短いお喋りを挟んで出かけるのは開演の合図のある人達。となりに話す相手がいるのを忘れていたように時折短いお喋りが起こるのは後者の人達。
ここでも長いお喋りが占めることはない。似た頃合の女同士のでも。他人の混じった空間の中で長いお喋りを見かけなくなってからどれくらい経つだろう。食べ終わった席のまま食後の一服を楽しむおじさんより、見かけなくなった。
みんな几帳面に相手のいない向こう側ばかりを見ている。こんな日常をいつまで続けるつもりだろう。と思いながら、いろんな理由を付けてウエィテングバーにやってくる。
ひとりであったり、ふたりであったり。
「出ようか」
開演の合図を彼が告げた。わたしはこくりうなずいた。それは気配だけだったかもしれない。わたしはカウンターに畳んで置いたほんのり水色がかった布地のマスクを付けて、彼に続く。
「マスク、替えてくれたんだ」
いつ気づいてくれるかと思っていたが、店を出るまではそのことに触れにくかったらしい。
わたしたちのこれからを見ていたから。
ちゃんとこれからのことを妄想していてくれから。
周到に準備して自分の方から誘ってきたくせに、いざその段になると臆病になっちゃう。男の人っていくつになってもこういうときはからっきしなんだから。初デートのディナーでシャンパンが抜けていくときのときめきを感じる。
お腹の下から溢れていってる。こんな夜は久しぶり。
「その色、きっと・・・・・そうだよね」彼の弾んだ声がする。タクシーを拾おうと少し道路枠に寄ってから火照った声が帰ってくる。「今夜のこと、会社にくる前から分かっていてくれたんだ」
わたしの好きな色は水色。水を潜らせて干したような薄い水色が、わたしのパーソナルカラー。彼がそれに気づいてくれたなら、わたしたち、もう、始まってる、動いている。わたしも彼も。
ホテルは使わない。8時を過ぎた夜の活動は面倒な足枷が増えてきたから。どっちの方で過ごすんだろう。彼の方からは聞いてこない。きっと自分のマンションに招くつもりだ。夜8時から憩いのとれる場所は同じ者たちの寝所ばかりになってしまった。そこに一緒にいる間柄だけが夜に住むことを許される。
暗くて冷たくても彼の寝所はきっと清潔で静謐なはず。だって早起きして香水を選ぶ男の生活が歪んでるはずないもの。
安物でない寝所の灯りがわたしたちを迎える。照らすのでなく隠すような灯り。これからのことに余計な現実を消し去る奥ゆかしい灯り。
タクシーを拾う間あたっていた小雨のせいで、彼の頭髪の三分の一は沈んでしまった。厚みを無くした頭頂部は、少し閑散となった毛根のグラデーションを隠せない。スーツを剝げば、ビジネスマンの型取りのシルエットは筋肉の均等性をなくし、肉がそがれたあとの骨格は。あられもない。
わたしがそれを見定めたから、彼の方からことをはじめてくる。わたしたちは先にシャワーを使わない。若いときとは違って薄くなった匂いを抜け落とすようなもったいない真似は、しない。彼の仕草はとても優しい。そして美しい。こうした初めての夜の、若い子とは違う、いまの作法を心得ている。それは、人生の長さだけで多くの経験に馴れてきた男の下世話なもの、ではない。
乳房と生殖器を覆う下着と同じ布地でつくったマスク。三つの小さな布地を遺してわたしの身体はあらわになった。白髪の交じったショートヘアーと耳のかたちを、あなたは褒めてくれた。
だったら、あなたとは違うけど同じくらいの年月を通り抜けてきたわたしの不均衡な肉の弾力を、褒めてほしい。あなたってやっぱりいい男、始まる前から分かってしまう。
そろそろ、わたしのマスクを取ってちょうだい。きっと、あなたがはじめて見る顔を用意しているはずだから。
コロナ禍の中でいろいろな日常がシャッフルされ、抜かされたり後ろに回されたりしています。一時と思っていたことが年を単位に続く。それも日常と受け止めて、おのおの幸せを見つける何かの発出になればと短いものですが書いてみました。
あった過去でもなく、あるべき未来でもない現実を素直に感じていただければ幸いです。