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デイジープリンセス

 三章「デイジープリンセス」


 翌日の昼休みミナは早々に自分の教室を出た。そしてそのまま早足で階段を下り、和泉の教室へ向かい、三島綾香を探した。昨日のゴタゴタで学校を休んでなければいいのだけど。そんなことを考えながら一年生ばかりの教室を歩いていると、ちょうど廊下の向こうに目的の人物を見つけた。

「あ、ちょうど見つけたわ。三島」

「ぅげっ! …成木先輩」

 ミナの事を見やった瞬間、顔面蒼白になって近くにいた友人の背中に隠れる綾香。そんな彼女とミナの様子をたった今教室から出てきた和泉が見つけた。和泉はミナの姿を発見して表情を一気に明るくして軽やかな足取りで駆け寄ってきた。

「あっミナ先輩っ! 聞いてくださいミナ先輩。今日一日、まるで催眠が解けたみたいにクラスのみんなの嫌がらせがなくなったんです」

 そう言ってミナのそばに寄る和泉の姿に、綾香はさらに恐れおののいて廊下の端まであとじさった。

 そんな小動物のような仕草の彼女を見て、ミナは軽く笑う。

「なにガチビビりしてんのよ。昨日はあんなに生意気な態度取っていたのに」

「ビビるどころじゃないっすよ完全にトラウマです! トラウマにならない方がおかしいです!」

 遠くから叫ぶ綾香に、ミナはいたずらっぽく肩をすくめる。

「でも、そんなに距離を取られてはこっちが困るのよ。あんたにはまた別の用事が出来たんだから」

 でもその前に…。ミナは綾香のもとに早足で歩み寄って、逃げようとするその腕を捕まえる。

「このあたしの事はミナと呼びなさい」

「よ…呼ばなかったら…?」

 ミナは満面の笑みだけを返した。そうすると綾香は嫌な想像を勝手にして一人で震えあがった。

「それで、まあ本題なんだけど。ちょっと今から生徒会室来なさいよ」

「それは…」

 何か言いかける綾香に、ミナが言葉をかぶせる。

「和泉の件じゃないわ。ちょっとは関係あるけど…。……あなたが昨日あたしに使った能力についてよ」


 授業が終わるチャイムによって昼休みが始まり、雪香は鞄から弁当箱を取り出した。

 それから教科書と教科書の間に挟まった一冊の文庫本を見つけ、思い出したようにそれを引き抜く。

「そうだ、これ会長に返さないと…」

 秋葉から借りた文庫本だ。最後数ページの畳みかけが秀逸で何度でも読み返したいと思うような一冊だったが、いつまでも借りているのは申し訳ない。今日も生徒会室で会長と一緒に昼食を取るのだし、その時に返そう。そう考えながら、雪香は自分の肩に載せた自分の気士を指先で撫でた。このハムスター、やたらと自分に懐いていて、呼び出せばいつも自分の肩に乗りたがるのでそのようにさせているのだ。まるで魔法少女アニメのマスコットキャラクターだ。

「もふもふ…」

 すると、このハムスター…ヴィシャスは雪香が手に持った文庫本に興味を示したようで、雪香の腕を伝ってその上に乗った。彼はクンクンと鼻を動かしてしきりに文庫本の上を這いまわると、突然、前触れなく文庫本の角にかじりついた。

「あっこら!」

 慌ててヴィシャスを引きはがして机の上に置く雪香。文庫本を見ると、彼が齧ったところが僅かに欠けていて、ヴィシャスを見るとやたらと満足そうに口をモグモグしていた。

「まさか文庫本を食べるなんて…。というか、この子が何かを食べるの初めて見た…」

 欠けた角を撫でながら秋葉への謝罪の言葉を考え始めた雪香の前で、ヴィシャスは机の上から床に飛び降りて走り出した。

「ま、待って!」

 弁当箱を掴んで雪香は慌ててそれを追いかけた。

 彼は廊下の端に沿って走っていた。一度も振り返ったり、立ち止まったりすることもなく、まさに猪突猛進という感じだった。しかし、それでもそもそもの歩幅が雪香とは大きく違っていて狭いので、彼女が引き離されるようなことはなかった。なので雪香は廊下を走らないようにし、ヴィシャスとの距離を一定に保ちながらどこへ行くのか確かめるために追いかけてみた。

 そうしてたどり着いたのは…、生徒会室だった。

「なんだ…。貴女もここを目指していたの…。ちょうどよかった」

 引き戸の前で鼻先を上に突き出ししきりに動かしている自分の気士を拾い上げ、生徒会室に入った。その部屋の中にはもうすでに秋葉が弁当を広げていた。

「あ、会長。やっぱり早いですね」

 彼女はいつも雪香よりも早く生徒会室の鍵を開けているのが常だった。雪香は机に適当に弁当箱を置くと、なによりも早く秋葉の前に文庫本を差し出した。

「会長、すみません。会長から借りてた本を傷つけてしまいました。ほら、ここの角の所」

 言いながら指で欠けた角を指す。秋葉はそこを覗き込むと、雪香を安心させることを目的として微笑んで見せた。

「別に構わないわ。こんなに小さい欠け、読むには支障ないのだし。…それにしても、まるで小動物に齧られたような跡ね。雪香、ペットなんて飼っていたかしら?」

「ええそれはわたしのヴィシャスが…。ってそうか、会長は気士の短剣で自傷していないから見えていないんでしたっけ。わたしの…ほら、以前成木さんが言ってた超能力の気士、わたしの気士はハムスターなんですけど、その子が齧ってしまったんです。それでその後突然走り出して、ここまで追いかけてきたというわけです」

「そう…」

 色のない相槌を聞いて、雪香は取り繕うようにへらへらと笑った。

「って、こんな話、そもそも気士が見えていない会長に言ってもピンとこないですよね。すみません」

 そこに、生徒会室の引き戸が荒々しく開け放たれる音が響いた。二人がその音に釣られて視線を向けると、見慣れた赤毛が二人の一年生を引き連れて室内に入ってくるところだった。

「よう」

「……あなたまた一年生を引っ掛けてきたの?」

「そんなんじゃないわよ」ミナは新顔の一年生の両肩に両手を置いた。瞬間、その一年生の体が大きく跳ねあがった「こいつは三島綾香。例の神隠し事件の…そして気士の秘密の重要参考人よ」


 ミナは二人に和泉と綾香の関係をかいつまんで説明した。

「――それであたしは、あたしの和泉に嫌がらせをしてたこいつが気に入らなかったから、校舎裏に呼び出して喝を入れてやろうとしたってわけ」

 綾香を秋葉の真正面に座らせ、ミナはその隣に腰かけた。和泉は反対側のミナの隣に座った。

「そしたらこいつ、気士使いだったのよ。だからなにかの手がかりを知ってやしないかと連れて来たってわけ」

 ミナの説明が終わると、秋葉と雪香は半目で綾香を睨んだ。和泉に行った所業を視線で責めているのだろう。

 昼食を終えて、食後の紅茶を雪香が全員分淹れた。自分に出された紅茶を一口飲んだ秋葉は、一度目を閉じて、開いてからもう一度綾香を…すっかり縮こまった彼女を澄ました視線で見据えた。

「事情は分かったわ。それで、三島さん、あなたは何か知っているのかしら」

「それは…」

 下唇を噛んで視線を落とし、泳がせる綾香、緊張しているのだろうか。

「気負う必要はないわよ。ただ、あなたが気士を手に入れた時のことをあるがままに話せば良いの」

 頬杖を突いて綾香の方を向きながらそう声を掛けるミナ。そう言っても綾香は中々話そうとしなかった。

「…さあ、……話しなさい」

 少し視線を鋭くして、言葉を冷たくしてもう一度急かした。そうすると綾香は彼女の低い声色に心臓をえぐり取られたように体を跳ねさせて無理やりその記憶を引き出された。

「……わ…わたし…。ほとんど覚えていないんです。気が付いたらどこかの部屋にいて、自分は寝かされていて。…手から血が流れてました、そんなに多くはなかったけれど。それと、近くの机に短剣が置かれていました」

「その短剣はこれ?」

 雪香が生徒会室の引き出しの中から気士の短剣を取り出して綾香の前に置いた。その輝きを見て綾香はわずかに目を見開く。

「そうです。これです。これがわたしの近くに置かれていたんです。それで…それで…」綾香は俯いて下唇を噛んだ。発言することを相当に逡巡している様子だった「ぼんやりとする視界の中で人の名前が聞こえました…。『康彦様』って」

 その言葉に秋葉は目を見開いて、ミナは目を鋭くした。

「わたしが覚えているのはこれだけです」

「そう、ありがとう。助かったわ、綾香」

 ミナは優しい口調でそう言って、彼女の頭を撫でてやった。

 そんなミナの姿から視線をそらせた秋葉が口を開く。

「その…康彦という名前についてはこちらで調べておくわ。だから今日はここまでにしましょう。……昼休みももう少しで終わってしまうわ」

 その日の放課後での会合は行わないこととした。


「ミナ先輩っ! 一緒に帰りましょう」

 その日の授業がすべて終わると、ミナの教室まで和泉がやってきて、明るい口調でそう声を掛けてきた。綾香と決着をつけられて心が晴れやかになっている様子だった。

「ええ、いいわよ」

 ミナはその様子を見、少し笑ってから二人で並んで学校を出た。

 ちょうどやってきた路面電車に飛び乗って、二人は一番奥の座席に並んで座る。

「……」

 ミナが窓際に座ると、和泉はその隣に座った。

「…先輩」

 彼女はお尻を滑らせてミナとの距離を詰めて、二人の膝がぶつかった。自分からやっておいて、和泉は耳まで赤くして、脚の間で手をもじもじとさせていた。

「ん? どうしたの?」

「…先輩は明日、学校はお休みですけど、お時間ありますか?」

 そう言って髪をかき上げて眼鏡を押し上げる和泉にを横目で見て、ミナは淡々と答えた。

「ん~。特にないわね。どうして?」

「そ…それやったら、明日先輩と一緒に買い物に行きたいなぁ…。なんて」

 俯きがちに何度も一瞥を繰り返す和泉の様子に、ミナはくすりと笑った。

「ええ、いいわよ」

「あ…ありがとうございますっ!」

 笑顔の花を咲かせた和泉は軽やかな口調で明日に向けた約束事を詰めていった。


     * * *


 翌日の朝、街が目を覚まして、いよいよ本格的に活動を始める頃、ミナと和泉は近所の大型商業施設の入り口をくぐっていた。

「でも、どうしたのよ急に、買い物なんて」

 ミナはお気に入りの茶色いブーツを鳴らし、黒革のベストを翻して言った。

「えっとその…なんというか。……そう。ミナ先輩にわたしの着る服を選んでほしくて…」

 真紅のスカートに黄緑色のシャツという格好の和泉は顔の横の髪を指でいじりながら答えた。

「…あたしは別に構わないけど…。いいの? あたしの趣味、結構変わってるけど」

 パンクよ? セックスピストルズよ? ミナは疑問文を重ねた。

「構いません。わたし、ミナ先輩の選んだ服が着たいんです」

「…ふぅん」

 照れながら言った眺めの前髪の向こうの瞳に、ミナは誤魔化すように視線を彼女ではない別のところに向けた。するとその先に装飾店を見つけて、ちょうどいいとばかりにその店を指さした。

「ねえ、それじゃあまずはあの店に行かない? きっとあなたに似合う髪留めが見つかるわ」

 老若男女問わず多くの人が四方八方に行きかう。その間を縫ってミナは早足で視線の先の店に入った。そんな彼女に手を引かれて付いていった和泉は、木目調の備品が多く、暖かい印象を受ける店内に入って、そこに漂うねっとりとした独特な匂いを嗅ぎながら、焦げ茶色のテーブルの上の黒い髪留めをなんとなしに手に取った。

「髪留めですか?」

「ええだって、あなたの前髪、結構長いじゃない。流石に髪を切れとまでは言えないけど、何かで留めた方がきっとかわいいわ。それに、前髪が目にかかっていたら雑菌が入ってしまうし」

 ミナは指先で和泉の前髪を横に払った。髪は重力に従ってすぐに元に戻ったが、レンズの向こうで一瞬だけ覗いた和泉の幼く無垢な瞳が暖色の照明を取り込んで黒真珠のように輝いた。

 整然と並んだ無数で色とりどりの髪留めを眺めていって、良さげなものを二、三個手に取って和泉の手に載せた。

「ほら、試しに何個かつけてみてよ」

「はぁ…。……、……、…付けてみましたけど、どうでしょうか?」

「う~ん…。どれもそれぞれの良さがあるわね。…逆に難しいわ。元々の素材がいいから、何をつけても似合うもの。その中から一つを選ぶのが難しい」

 言いながらミナはあれでもない、これでもないとたっぷり時間をかけ悩みだした。和泉はそんなミナに文句も言わず付き従って、彼女の提案を素直に受け入れていく。そういう時間が十分くらい経過して、やがてミナは水色の小さな花の装飾が付いた髪留めを手に取った。

「これなんかいいんじゃない?」ミナはワニ口のような形のそれを開いて自分の手で和泉の前髪を挟んで留めてやった「うん。パステル調の色合いが桜色の眼鏡と相まって晴れやかに映るわ。…うん、かわいいと思う」

 和泉は備え付けてあった鏡に自分の顔を映すと、軽く髪の感じを整えて満足そうに頷いた。

「ほんなら、これにします」

「…いいの? 自分から提案しといてナンだけど、随分あっさり決めちゃって」

「はい、いいんです。先輩がかわいいって言ってくださったので」

 彼女はそう言うとその水色の髪留めを外し、レジに持って行って会計した。店員に言ってタグを切ってもらうと、買ったばかりのそれでもう一度前髪を挟んで留める。

 そして彼女は見えやすくなった黒真珠のような瞳で、桜色の眼鏡の向こうからミナを見上げる。

「ありがとうございます、先輩。――次はどちらに行きましょうか」


 同じ大型商業施設に生徒会の二人がいた。

「今日は付き合わせてしまってすみません、会長」

「いいのよ別に、……それに、雪香とこうして二人で買い物に来るのも少し久しぶりな気がするし」

「…そうですね」

 今日は、生徒会室に常備していた茶菓子を、管理していた雪香がうっかり切らしてしまったので、いい機会とばかりに秋葉も補充に同行することにしたのだ。そしていまは、茶菓子を選ぶのは後にして、いい時間なので二人で喫茶店に入ってお茶をしていた。

「ここの紅茶も美味しいわね。雪香の淹れたものと負けず劣らず」

「わたしの紅茶なんてまだまだですよ。このダージリンの足元にも及びません」

「あら、謙遜する必要はないのよ。わたしは本心からあなたの紅茶を讃えているのだから」

「はぁ…」

 全体的に古めかしくて暗い雰囲気のある喫茶店だった。桜の木材の重苦しい雰囲気が店内全体に広がっていて、間接照明のぼんやりとした明るさが、何者であろうとも大声を出すのを憚らせる。いわゆる純喫茶といった感じの店舗だった。

 真剣で静かな話をするにはうってつけの場所だと雪香は思った。

「…会長」

 向かいの端に佇んでいる観葉植物の鉢植えに目を落としながら雪香は重たい口を開いた。なに? と視界の外側にいる秋葉が促してくる。雪香は相変わらず鉢植えに目を落としたままでゆっくりと口を開いた。

「会長は、……その、会長の恋人であるところの……、数馬…サンのこと、どう思っているんですか?」

 実際のところ。と雪香は消え入りそうな声で付け足して視線を秋葉のそれに合わせた。彼女の目の色を見てみると、少し驚いたような、戸惑いを含んだ色をしていた。それから彼女は自分の紅茶を一口飲むと、目を凝らさないとわからないほど小さな微笑みを浮かべた。

「驚いたわ。あなたがあの人のことを自分から話題に出すなんて、……多分、初めてなんじゃないかしら?」

「……いいじゃないですか、そんな些細なことは。…会長は本当に…あの男のことを慕っていられるのですか?」

 再度聞く雪香に、秋葉は目を伏せ、手に持っていたカップとソーサーを大理石の天板の机に置いた。

「いつも生徒会室で逢っている様子を見て、慕っていないように見えるのかしら」

「……いえ、その……すみません」

 雪香は自分の何が悪いのかわからないままに謝罪した。

「謝る必要はないわ…。それに、そう。…正直なところ不思議な気持ちよ。具体的にあの人のどこが好きなのかと聞かれると、正確に答えられないもの。……顔もいい、背も高い、頭も申し分ないし、性格も優しい。…でもそれらのどれもが、あの人への好意を裏付ける理由だと自信を持って掲げることが出来ない」

「…それは」

「…でも、わたしはあの人に対して溢れんばかりの愛情を抱いている。それだけは自信を持ってい答えられるわ」

 被せるように言われた宣言に、雪香は押し黙ってしまった。作業的に茶菓子のチーズケーキを口に入れたが、あまり味がしなかった。

 どうか何かの事情があってしかたなく言わされている、偽りの言葉であることを願わずにはいられなかった。


「――…試製二型機関短銃」

「……ウェザーリポート」

「…トラ・トラ・トラ」

「……、ライク・ア・プレイヤー」

「…ドラゴンフライ」

「イエスタデイ…。――…あ、ほら、やっと買えるわよ」

 ミナと和泉はクレープ屋で軽食を取ることにした。ここのクレープ屋はこの辺りの女子中高生に人気で、ミナの家で扱っている雑誌にも紹介されていたのを覚えている。その店には長蛇の列が出来ていた。ミナは別に構わなかったが、和泉は行列に並ぶのが嫌いな性格らしく、やたらと手持ち無沙汰に体を揺らしたり、しりとりを提案してきたりした。

 そうしてやっとのことで手に入れたクレープを片手に、二人は壁際に備え付けられたテーブルを見つけた。

「あそこに座りましょうか」

「…先輩。横に座ってもいいですか?」

「いいけど…、どうして?」

「わたしが座りたいからです」

 二人は壁際のビニール製のソファに並んで座った。ミナは自分の右手の中にあるクレープに大きな口でかぶりついた。真っ赤な苺と真っ白なクリームを黄色い生地と一緒に取り込むと、甘ったるいわけでもない、心地の良い甘さと酸味が口の中、鼻の奥、そして心の中に広がった。

「んー。おいしいっ」

 口元に付いたクリームもぺろりと舐めとって、舌先に甘い色を感じた。

「和泉のは何を買ったんだっけ?」

「ブルーベリーです。ブルーベリーそのまま載ってるんで食感が楽しいですよ」

「へぇ…」

 相槌もそこそこにミナはブルーベリークレープにかぶりついた。わっ。という和泉の小さな驚きがすぐ傍から聞こえてきた。口の中で深い青色の球を転がて舌先でつぶす。

「確かに、こっちもおいしいわね」

「もう…、食べてもええけど、一言言ってくださいよ」

「はは、悪かったわ。ほら、あたしのもあげるから、許して」

 頬を膨らます彼女の口元に一口だけ食べたクレープを差し出した。そうすると、その甘いにおいを嗅いだ彼女は簡単に破顔して赤い色のクレープを食べた。

「どう? おいしい?」

「はいっ」

 はにかんだように笑う彼女を見て、この子の笑顔は殺人的だなと思った。

「ほら、頬にクリームがついてるわよ」

 言いながらミナは流れるような動作でハンカチを取り出して和泉の頬を拭う。餅のような柔らかい感触が安っぽいハンカチの上からでも伝わってきた。

「あ…ありがとうございます」

 ミナは恥ずかしそうに礼を言う彼女の唇に目が行った。

「そうだ、いい機会だし和泉もちょっとメイクしてみない?」

「…メイクですか?」

「この前、興味深そうに見ていたじゃない」

 言いながらミナは鞄の中から化粧ポーチを取り出した。

「和泉、あなたはもっとおしゃれを覚えた方がいいと思うの。試しにリップだけでも塗ってみない?」

 ポーチから取り出されたリップを見て、和泉は少し迷った後にぽつりと言った。

「ほんなら…リップだけ…」

 ミナは彼女の言葉に満足して笑うと、クレープを食べつくしてからリップの蓋を外した。その光景に、和泉は戸惑ったように声を上げる。

「…って、いまここでですかっ?」

「え、そのつもりだったけど…違うの?」

 言うが早いかミナは姿勢を変えた。

「ほら、塗ってあげるわ。じっとして」

「ま、待ってください。せめてクレープ食べてからで…」

 和泉は手早くクレープを口の中に押し込むと、クリームの付いた口元を自分のハンカチで拭う。するとミナは待ってましたとばかりに流行る気持ちを抑える手つきで和泉の白い頬に手を当てた。

「ひぁっ」

 ミナから感じる冷たい感触に和泉の頬が紅潮する。そしてミナは、和泉と向かい合うために彼女の両ひざの間に自分の左脚を滑り込ませ、ソファの角に膝を突いて支えた。

「動いちゃだめよ」

 頬に触れていた左手で和泉の小さな顎を撫でて、塗りやすいようにそれをくいっと持ち上げる。

「み…みなせんぱい」

 レンズの向こうの瞳が濡れそぼっていて、目じりから雫がこぼれそうなほどだった。

 リップの先が彼女の唇に触れると、小さな肩がびくんと跳ねた。小さな下唇をリップが這うと、わずかに開いた口の奥から、あ…というかすかな吐息が漏れた。血色の良い唇が薄い膜に覆われると、それはコンクパールのように艶やかに輝いた。その輝きに、生み出したミナでさえ陶酔しそうになるほどであった。

「…せんぱい」潤んだ瞳で和泉が呼んだ。震える唇が、人を狂わす果実の様だった「もう終わりましたか…?」

「え…ええ。終わったわ。ほら、鏡」

 鞄の中から顔全体を映し出せる大きさの鏡を出して彼女に差し出してやった。和泉の隣に座りなおすミナの前で和泉が鏡の中を覗き込む。

「…なんか…あんまり変わってる気がしません…」

「まあ、自分ではわかりづらいものなのかもね、きっと。リップしか塗ってないし。でも、それだけでも本当に魅力的になってるわよ。…あ、いえ、もちろん元がかわいいからだけどね」

 ミナがそう褒めてやると、和泉は口元に手を当てて、横目でじとっ、とこちらを睨んできた。

「…先輩って、誰にでも素でそういう事言うんですか…?」

「え…なに…?」

 水気を帯びた瞳の和泉が紅潮した顔のままで呆れたため息を吐いた。


 会長。……会長をあの男から引き離すことは出来ないのだろうか。仮にわたしがそれを物理的に、無理矢理行ったとしても、会長はわたしに振り向いてはくれない。わたしに好意を向けてくれるどころか、いまの間柄は確実に崩壊するだろう。

 もしかしたら、会長はあの赤い髪の乱暴で気障な女と同じく、同性を恋愛対象として見ていないのかもしれない。そもそもそういう発想が頭の中になくて、同性愛などテレビ画面の向こうの話としか思っていないのかもしれない。もしも会長がそういう人種であるならば、わたしの勝ち目はもう皆無なのだろう。

「雪香」

「はっはい…?」

 思考の海に溺れているところを唐突に会長に引きずり出された。

「どうしたの、難しい顔をして」

「い、いえ、すみません。なんでもありません」

 小首をかしげた彼女を見て、雪香は取り繕うようにしてそばにあった適当な缶詰を手に取る。

「こ…、これなんかお茶菓子にどうでしょう?」

「……ニシンの塩漬けよ、それ」

「…すみません」

 かなり気が動転していたらしい。

 雪香と秋葉は、世界中の食べ物を扱っている店の中にいた。店内は柔らかい照明に包まれていて、雪香の身長よりもずっと高いところまで商品が陳列されている。入り組んでいて狭い通路が蜘蛛の巣のように広がっていて、迷路の様だった。

「会長はなにかリクエストとかありますか? いままでの茶会の時に気に入ったお菓子とか」

「う~んそうねぇ…」会長は頬に指先を当てて考えるそぶりをした「あれ、おいしかったわ。ほら、桜の散り際の頃に出された、ハート形の缶に入ったクッキー」

「ああ、それならこのお店では扱ってないですね。このショッピングモールの中ですけど、ここから反対側の端にある専門店で扱ってたはずです」

「そう、それならそこまで行きましょうか」

「…いいですけど、結構歩きますよ?」

「いいじゃない。行きがけに寄り道しながら行けば苦痛にならないわ」

 秋葉の先導で迷路のような店内を出た。ずっと暖色の照明の中にいたから、回廊を照らす白い照明が若干目に痛かった。

 雪香は少し早足になって秋葉の隣に並んだ。それから秋葉の腰の左側で揺れる白い手に目を落とした。きめ細かな肌のそれは猫のしっぽのようにゆらゆらと振られていて、まるで自分の誘っているようだった。

「……」

 道行く女性の尻に魅了される男の気持ちがなんとなくわかった。雪香はその手を捕まえようと自分の右手を伸ばす。あと少しでその白い宝石を捕まえられると思ったところで、無情にもそれは上方へ逃げてしまった。

「あ、ほら、雪香。クレープを売っているわ。少しお腹もすいたし、食べていかない?」

 秋葉は左手でピンク色の看板を指さしながら言った。

「あ、はい。いいですね。食べましょう」

 そのクレープ屋には行列が出来ていなくて、二人はすぐに買うことが出来た。このクレープ屋の存在は以前雑誌で読んだことがあるのを雪香は覚えていた。

「ここ、前に雑誌に載っているのを読んだことがあります。それほどの人気店なのに並ばずに買えるなんて、きっとわたしたちの普段の行いがいいからですね」

「まるで並んでいる人は普段の行いが悪いかのような言い方ね」

「はは、いえ、そういうわけではないんですよ」

 雪香はキウイのクレープ、秋葉はリンゴのクレープを買った。それぞれ手にクレープを持って空いている席を探すと、ちょうど壁際の席が空いているのを見つけた。

「あ、ほら、会長。あそこに座りましょう」

 椅子を引いて秋葉を座らせた雪香は、その対岸のソファに手をついて自分も座ろうとする。そこで彼女はソファの上に放置された女物の財布を見つけた。

「会長。この財布、ここに落ちてました。誰のでしょう?」

「さあ、でも、パステル調の色合いからして結構若い女の子かもしれないわね。もしかしたら、わたし達と同じ中学生かも」

 行きがけに受付に預けましょうか。しゃりしゃりとリンゴを咀嚼して飲み込んだ後のに言った秋葉に、雪香は同意して自分のクレープを食べた。

 その時、雪香は視界の端で煙が上がるのを捉えた。

「あ、この子また勝手に出てきて」

 煙が寄り集まって現れたヴィシャスは、雪香の腕や体を伝って机の上に降り立った。そして彼は机の上に置かれた女物の財布に前足を載せて鼻を揺らす。そして、噛みついた。

「あ、こら、あなたまた…っ」

 慌てて手を伸ばして財布を取り上げる。知り合いの文庫本だったらまだ謝れば済む話だったが、見ず知らずの他人の物だったらシャレにならない。ところが、ヴィシャスは鋼のようなあごの力で財布にぶら下がって、ついに噛み切ってしまった。

「どうかしたの?」

 まふまふとクレープを食べていた秋葉が怪訝な顔で小首をかしげていた。

「あ、いえすみません。うちの子が財布を食べちゃって」

「…は?」

「えっと…だから…」詳しく説明しようとする雪香を尻目にヴィシャスがテーブルから飛び降りて走っていってしまった「ああ、あの子また…っ。すみません、会長。ちょっとここで待っていてください」

 口早に言って雪香はクレープを一気に食べつくして席を立った。

「待って、わたしも着いていくわ」

 雪香の背中を、クレープの最後のひとかけらを口に放り込んだ秋葉が追いかけてきた。


「あ…あれ…っ?」

 そこは大型商業施設の三階、一番端にある本屋でのことだった。カテゴリごとに分けられた大量の本の中から、ミナはファッション誌、和泉は戦記小説を選び取って各々レジで会計をしようとしている時だった。

「どうかした?」

 すでに会計を終えて、深い青色のビニール製の手提げに入れられたファッション誌をふらふらと揺らしながら和泉のいるレジのそばに近づいたミナは、和泉が自分の鞄の中をがさごそと掻きまわして、顔が青くなっていくのを見た。鞄の中を這いずる手付きがみるみるうちに荒っぽくなっていく。

「…いえ、あの…財布が見つからなくて…」

「…まさか落とした?」

 鞄を漁る手を止めて、顔面蒼白といった表情でこちらを見上げてきた和泉に、ミナは冷静な口調で言った。「……かもしれません」と和泉がか細いでなんとか返事をする。

「とにかく、いったん会計をやめてレジを離れましょう。――……すみません、この小説いったんキャンセルでお願いします」

 テキパキと事態に対処するミナに和泉は一言感謝の意を込めた謝罪をしてから本屋を出る。それから通路の端に並んでいた腰かけに並んで座った。

「もう一回よく探して、本当にない?」

 ミナの言葉に、腰掛の上に鞄の中の物を全部広げて確認する和泉。文庫本や携帯の充電器などが入っていたが、財布のようなものはどこにもなかった。

「ありません」

「……でも、さっきのクレープ屋では持っていたはずよね。クレープを買えたんだもの。クレープ屋から本屋までに通った道のりを遡って探してみましょうか」

「すみません…」

「いいのよ。気にしないで」

 和泉が広げた荷物を鞄の中に戻し、ミナの先導で通路を歩いて行った。その間、視線を斜め下に落として左右に揺らすように探していくのを忘れない。

「さっきのクレープ屋のソファの上にでも落ちていればいいんですけど…」

「そうね」

 二人はエスカレーターに二回乗って一階に降りた。さっきはこのまま通路をまっすぐ歩いてきたはずだ。クレープ屋まで注意深く周囲を観察して遡上しなくては。

「…ん?」

「どうかしましたか? 先輩」

 何か小さなものが視界の端を走った気がして、ミナは反射的に振り返った。

「いや…。いま何かがいたような…」

 きょろきょろと首を振ってその影の正体を探すと、唐突に和泉が声を上げた。背中に氷を入れられた時のような素っ頓狂な悲鳴だった。

「ひゃうっ! ……ってあれ? この子…」

 ミナが和泉の方を向くと、彼女はしゃがんで何かを掬い上げていた。水面から手を器にして水を飲むような動作だった。そして、その手の器の中には一匹のハムスターがしきりに鼻先を動かして和泉の手の匂いを嗅いでいた。

「それって確か…」ミナはかなり考え込んで記憶を探るのに時間がかかった「…そう、副会長の気士のハムスターだったっけ」

「そうですよ。……でも、なんでこんなところに一人でおるんやろ…」

「いや、一人ってわけじゃないみたいよ」

 そう言ってミナは人ごみの向こうを指さした。和泉が彼女の指の先を視線で追いかける。その先には秋葉と雪香がこちらに向かって走ってきていた。

「あなたたちも来ていたのね」

 生徒会の二人がミナと和泉の二人と一緒に輪を作った。

「あ、その財布わたしのです」

 和泉が雪香の手に持っている財布を指さして言った。

「そうなの、よかった。さっきクレープ屋のところで見つけたんだよ」

「やっぱりそこに落ちてたんですね。拾ってくれてありがとうございます」

 そう言いかわして雪香は財布を和泉に返し、和泉は手の中のハムスターを雪香に返した。その光景を見てミナが言う。

「そのハムスター、一人でどっかに行くの?」

「そうなの、とはいっても時々だけどね。今回も難波さんの財布を齧ったと思ったら走り出したのよ。――そう、難波さんごめんなさい。うちの子が財布を齧っちゃって…。ほら、角の所、欠けているでしょう?」

「全然大丈夫ですよこのくらい。失くしてしまうよりかは」

 雪香を安心させるために微笑む和泉の横で、ミナは口元に手を当てて考える仕草をしていた。

「どうかしはったんですか? 先輩」

 そんな彼女の様子に気が付いた和泉がこくりと首をかしげる。ミナは雪香の手の中にいるハムスターを指さした。

「そいつ、和泉の財布を齧ったら和泉のもとまで走っていったのよね? ……それってもしかして、それがそいつの能力なんじゃないの?」

 ミナの言葉に秋葉の瞼が僅かに動いた。隣の雪香は視線を手の中の自分の気士に落とした。

「そう…、そうか…、そうだ…。これが…この子の…能力なんだ。持ち主を探す能力」

 手の中のハムスターは無邪気にもそもそくしくししていた。

「…でも…、普通は覚醒した時にわかるはずだけど…」

「先輩。普通、といってもその例は少ないやないですか。普通の人に見える気士もあったし、ミナ先輩やわたしのパターンが一般的やないかもしれませんよ」

「…そうね、少し近視眼的になってたわ」

 目を伏せるミナの横で、秋葉は雪香の手を取った。

「それじゃあ、わたし達はもう行くわ」

 手を引いて立ち去ろうとする秋葉に、和泉が声を掛けた。

「え、別れちゃうんですか? ええやないですか。一緒に回りましょうよ」

「そうですよ会長。きっとこれも何かの縁です」

 この二人の言は、願わくばミナと秋葉の関係が少しでも改善されればと願っての事だった。改善されれば後々の行動にもいい影響が生まれるはずだと思ったからだ。声を掛けられる秋葉の隣で、ミナはさして興味なさそうな、どっちでもいいような雰囲気をまとっていた。

「……そうね、それじゃあ、一緒に行きましょうか」

 若干、憮然とした態度の秋葉の言葉をもって、二人二組のグループは四人一組になった。

「先輩方は、なにを買いに来たんですか?」

「紅茶に合うお菓子をね、……ただ、もう何を買うかは決まっているの。こっちだよ」


 昼過ぎに四人は買い物を終えた。自動ドアをくぐって駐車場を横切っていく。広大な駐車場の中のひと気はまばらだった。

「和泉の欲しかった本も買えてよかったわ」

 そう言って大きく伸びをするミナ。彼女の左側を歩く和泉が右手にビニールの手提げを提げていた。

「あなたたち、これからどうするのよ」

 そう聞いたのは雪香だ。ミナは右側を歩く彼女に目を向けて力のないだらけた口調で答える。

「そうね~。欲しいものは買ったし、もう帰ろうかしら…、あ、いえ、せっかくだから、和泉の家にお邪魔しようかしら。――和泉、だめ?」

「え…あ、いえ。もちろんいいですよっ」

 急に話しかけられて体を跳ねさせた彼女の声は上ずっていたが、幾分に嬉しそうだった。その返事を聞いて、ミナは満足げにうなずいて、再び雪香を振り返った。

「そういうわけで、あたしたちはこれから和泉の家に行くわ。あなたたちは? その茶菓子を学校に置いていくの?」

「そうだね…、――一度、そうした方がいいでしょうか? 会長」

 雪香がそう声を掛けた瞬間だった。

 雪香の体が、巨大なシャボン玉に包まれたのだ。

「へっ…?」

「…敵!」

 咄嗟に右手に銃を握ったミナは、雪香を銃口の先に収めないように、シャボン玉だけを撃ち割るようにして引き金を引いた。しかし放たれた弾丸はシャボン玉に当たらなかった。雪香を包み込んだシャボン玉は、まるで弾丸が生み出した気流に乗るようにひらりひらりと舞い動いてかわしたのだ。その動きは、掴み取ろうとしても掴めない羽のようだった。

「た…助けて…っ!」

 シャボン玉の中から聞こえる雪香の救助要請は、宇宙船の中から響いているようなくぐもった音色だった。

 その声に呼応してミナは引き金を引く。しかしやはりシャボン玉はそれらを羽のようにかわして、上昇気流に乗るように空に舞い上がった。中にいる雪香が慌ててスカートの裾を押さえる。ミナはそんな姿を見上げて歯噛みして頭上に一発の航空機を発射させた。

「和泉、あたしから離れたら駄目よ」

「は…はい」

 突然の戦闘開始で彼女は動揺していたが、それでもなんとかミナの左手を両手で握ってきた。そう、それでいいとミナは考えながら、発射させた零戦を翻してシャボン玉に向かって機銃照射を行う。できる限り雪香に当てないようにしたが、万一の場合は和泉を頼る覚悟だった。

「……これもダメか」

 しかし、音速を超えて発射される機銃弾ですらもシャボン玉は漂う動きで回避した。そしてそのまま天高く舞い上がっていく。

「――くそっ」

 負け惜しみのようにミナは天に向かって引き金を引いた。それは彩雲となって空を駆ける。それと入れ替わるようにして零戦が着陸してミナの中に消えた。雪香を包み込んだシャボン玉空の向こうに消えていった。

「…先輩」

 左手を掴む和泉の手に力がこもった。そんな彼女の方を見ずにミナが口を開く。

「追うわ。追跡用の飛行機を放ったの。その飛行機の動向はつかめるから、それに従って追いかければいい」

「でも…どうして急に副会長を攫ったんでしょう…?」

 口元に手を当てて首をかしげる和泉に、ミナは「多分…」と切り出した。

「あいつの能力じゃないかしら…? 物の落とし主を探す能力…。それを用いれば気士の短剣がどこから来たかを探し出せると思ったから、先手を打って彼女を攫ったのかもしれないわ」

 もしミナの推理が正しいとすれば、ミナよりも先に雪香の能力を向こうが掴んでいたことになる。その情報は、一体どこから伝わったのだろう…。

 ともかくミナは考えを切り替えて、秋葉の方を向いた。

「予定変更よ。あたしは今から雪香を追いかける。でも、気士使いでないあんたは付いてこない方がいい。見えない敵と戦う事よりも無謀なこともないもの」

「……」

 ミナの質問には答えず、秋葉はミナの目を見据えた。

「あなた…どうしてあの子を助けようと思うの? あなたにとって、あの子は助けるほどの間柄なの?」

 その問いにミナは怪訝な顔をした。

「何を言っているの? 目の前で困っている人がいるんだから、助けるのは当たり前でしょ?」

「……」

 秋葉は押し黙った。ミナの言葉に何の返事もしなかった、不快そうな顔はしていなかった。彼女は少しの間だけ沈黙して、やがて口を開いた。

「わたしも行くわ」

「…悪いことは言わないから、やめておきなさい。あいつはあたしがちゃんと連れて帰るから」

「嫌。もう決めたの。それに、あなたの指図は受けないわ」

 有無を言わさぬ口調だった。

「……あんた、あたしの言うことは意地でも聞きそうにないものね。…もう好きにして」

 こうして雪香救出作戦は唐突にして始まった。


「…最悪」

 雨が降ってきた。

「どうします? 先輩、そこのコンビニで傘買ってきましょうか? それとも、雨合羽のほうがいいでしょうか」

「そうね…。合羽じゃあ逆に動きづらいだろうし…。いざというときにすぐに捨てられる傘の方がいいわ」

 彩雲を追いかけて町を駆け足で走っている時、ミナの頬に水滴が伝ったのを皮切りに一つ、また一つと雨のしずくが落ちてきて、やがてそれは水のカーテンとなった。ミナ、和泉そして秋葉の三人は、ひとまず近くのコンビニに入店して、各々ビニール傘を購入した。

「雨の中でもわかるんですか? 彩雲の場所」

「ええ、問題ないわ。……今はここから南西の場所ね。郊外に入ったわ」

「結構距離あるんやったら、バスとか使った方がええかもしれませんね」

 ミナと秋葉は和泉の言葉に同意して近くのバス停を探すと、南西の方角に向かうバスに乗り込んだ。


 ミナたち三人が到着したのは郊外にそびえる一軒の洋館だった。ミナの通っていた公立の小学校と同じくらいの敷地を持つその洋館は、赤レンガの外壁を持つ建築様式で、黒塗りの柵の門扉が固く閉じられていた。

 上空で旋回していた彩雲が着陸態勢を取ってミナの足元に従う。

 門扉を見上げながら和泉は恐る恐るミナに具申する。

「先輩…。これって罠なんやないですか? 真正面から入るのは得策やないと思うんですけど」

 彼女の言葉にミナは空を見上げてう~んと唸った後、空に向かって引き金を引いた。

「どうせあたしの能力じゃ、使った瞬間に居場所がばれるわ」

 飛び上がった流星が雷撃準備に入ったあと魚雷を切り離し、硬く閉ざされた門扉を吹き飛ばした。

「えぇ…」

 顔を引きつらせる和泉と秋葉の手を引っ張ってミナは敷地内に侵入した。前庭に広がる花畑には目もくれずに洋館の正面門に到達する。

 焦げ茶色の正面門の前でミナは扉に背中を預けて二人を見据えた。

「…やっぱり、二人ともここで待っていた方がいいわ。軽い怪我じゃ済まないかもしれないもの」

「わたしは、ミナ先輩にどこまでも付いていく覚悟です」

 和泉の即答はだいたい予想出来ていた。この子、意外と強情なところがあるからだ。ミナは秋葉の方に視線をずらすと、彼女の目にもおびえた様子はなくて、無言で首を横に振った。

 そんな二人を前に、ミナは呆れたように大きくため息を吐く。

「…やれやれだわ。……それじゃあ、あたしのそばを離れないようにしなさいよね」

 そしてミナはゆっくりと慎重に扉を開けた。鍵は、開け放たれていた。

 中は教室の四倍ほどの広さがある大広間で、土足で入ることが出来た。壁の両側には二階に上がるための階段が伸びている。床も、階段も、真っ赤な絨毯が敷かれていて、艶やかに磨かれてた焦げ茶色の手すりや柱が要所要所に走っていた。

 天井にぶら下がるシャンデリアをぼうっと見上げていたミナに、和泉が声を掛ける。

「…誰もいませんね、先輩」

 彼女の言葉にミナは何も答えなかった。シャンデリアから視線を目の前に落とした彼女が見たものは、和泉の判断を否定するものだったからだ。

「そうでもないみたいよ、和泉」

 ミナは拳銃を両手で構えた。その銃口の先には、数えきれないほど多くの人影がこちらにむかってゆっくりと、緩慢な動きで歩いてきていたからだ。

 向かってくるのは人影だったが、人ではなかった。

「驚いた。これも気士の一つなのかしら。……気持ち悪い」

 うぞうぞと歩いてくる彼らは、体を腐らせた死人だった。顔を青くした和泉がミナの背中に隠れた。

「近づかれたら厄介ね…」

 ミナは彗星を撃ち出した。彗星は空を切って爆撃態勢をとると、そのまま爆弾を一階の廊下の向こうに投下した。爆弾は爆炎と熱風を噴き出して爆発し、死人たちの体を粉々にした。しかし、爆炎の向こうからまだまだ多くの死人がおどろおどろしい唸り声を上げながら向かって来ている。

「駄目だわ。これはきっとキリがないわね。――和泉、会長。あたしがもう一度爆炎を作るから、その隙に二階に逃げましょう」

 二人の返事を待たずしてミナは彗星を帰還させ、それと同時に今度は流星を発射し、魚雷を投下した。信管が作動した魚雷は爆弾よりもはるかに大きな爆炎を生み出し、この大広間のすべてを黒煙で覆いつくした。

「走るわよっ!」

 ミナはそう声を掛けて黒煙の中を駆け抜けた。そんなミナの手を慌てて掴む冷たい手があった。おそらくは和泉だろう。秋葉もきっと付いてきているはずだ。

 煤の落ちる赤絨毯の階段を駆け上がって、その先の廊下まで走った。黒煙の届かないとこまで走り抜けると、ひとまずミナは足を止めた。そして振り返る。

「…会長は?」

「…はぐれちゃったみたいですね」

 振り返った背後に彼女の姿がなかった。ミナについてきていたのは和泉だけだったのだ。引き返そうかとも思ったが、いまは雪香の方を優先するべきだと思った。

「あの人も馬鹿じゃないだろうから、屋敷の外まで引き返したのかもしれないわね…。いいわ、先を急ぎましょ」

 そう言ってミナは再び走り出そうとして…やめた。引き金を六度引いてすべての航空機を発射させると、それらを足元に着陸させている間にもう一度和泉を振り返って、手の中の拳銃を、銃身を持つように持ち替えて、グリップを彼女に向けて差し出す。

「これ、あなたが持っていなさい。人に貸した場合は装弾数が六発に限定されるみたいだから気を付けてね」

「…ええんですか?」

「ええ、あたしにはこの子たちがいるから」

 足元のレシプロ機たちが呼応するようにプロペラを回した。

 その時、爆炎の向こうから死人たちがのそのそと歩いてきた。階段を上って二階まで上がってきたのだ。その姿を見て、ミナは階段を落としてくるべきだったと後悔した。

「じっとしてはいられないみたいね。急ぎましょう。和泉」

「でも、どうやって副会長を探すんですか?」

「逃げながら手当たり次第に部屋を暴いていく他ないわ」

 ミナの先導で二人は再び走り出した。屋敷の中を駆け抜けて、隙あれば部屋の扉を開けて中に誰かがいないを確かめていった。その間も死人たちは追いかけてきて、または待ち伏せてきて、彼らがミナたちの進行を阻むたびに二人は進路を変更した。その姿は、ともすれば死人たちに道を操作されているようだった。

「先輩、こっちからも来てるみたいです」

「そこの部屋に入ってやり過ごしましょう」

 それは前方からも後方からも死人が追いかけてきている状況だった。ミナは活版印刷のように同じ色と模様の扉が並ぶ中で、その中の一つの取っ手に手をかける。そして彼女は迷いなくそれを開け放った。

 その向こうには人影があった。いちいち数えていられないが、だいたい四十弱ほどの人影があった。そして、その人影の中にいくつかの見知った顔を見かけて、ミナは歯噛みした。

「…なるほど」

 舌打ちするミナの顔を見て、人影の中心にいた男……長身痩躯の男があくどく笑った。

「改めて自己紹介しよう。私の名前は数馬康彦。姓が数馬で名が康彦。珍しい苗字だろう? よく名前と勘違いされるんだ」

 ミナは彼の隣に佇む秋葉と、シャボン玉の中にとらわれている雪香から目をそらした。それからミナは彼の周囲にいる少女たちを見渡した。その中の三分の一ほどの少女たちの顔に見覚えがあった。以前、聞き込みをした少女たちだった。

「私の気士を紹介しよう」数馬は自分の体から煙を出した。その煙は収束して、数馬と同じくらいの背丈を持つ人型に変化した。細い杖を持ちシルクハットを被った英国紳士風の人型だった「コイツの名前はマッケンジャック。能力は心理的に人を支配すること。つまり、私への感情を自在に操り、また命令することで人の中の記憶を意図的に封印させることが出来る」

 聞き込みをした少女たちも、本当はすべて覚えていたのだ。だが、彼の能力によって発言することを阻まれ、言うことが出来なかった。ではなぜ綾香が断片的ながら発言できたかというと、それは恐らく、綾香の能力が彼と同系統の能力だったからかもしれないと、ミナは頭の中で推測した。

「それにしても、よくぞここまでたどり着けたと思うよ、ほんと。正直中学生だからと侮っていたんだ。だから秋葉には『警察に頼るな』という命令を下すだけにとどめていたんだ。下手にあれこれ命令して、周囲の人に怪しまれても困るからね」

「…あなたが雪香を攫ったからよ。自分からしっぽを出して、バカみたい」

「追いかけて来ないことも想定していたんだよ。こっちはこの子の能力さえ防げればいいからね。君が追いかけて来なければそのままでもいいし、追いかけてきたら、この圧倒的な数的有利をもって君を倒すことが出来る」

 そして数馬が合図すると、雪香と秋葉を除くその他すべての女子中学生たちがミナの方を向き、殺気を放った。それと同時に赤い矢が大きな弧を描いてミナと和泉の頭上から飛来してきた。

「和泉! いったん撤退!」

 この数では正面から戦っても敵わない。とっさにミナは判断して、和泉の手を引いて入ってきて扉から部屋の外に出た。

「ど…どうするんですか? 先輩」

 手を引かれて走っている和泉が後ろから聞いてきた。

「とりあえず逃げながら考える!」

 赤絨毯の廊下を駆け抜けながら、ミナは言葉をつづけた。

「気士には例外がたくさんあるみたいだから確信は持てないけど…、恐らくは司令塔である数馬康彦を倒せばその能力も解除されるはず…。女の子たち全員を倒す必要はないわ、きっと」

「でも、どうやってあの人のところまで行くんですか? 邪魔してくる人はたくさんいますよ」

「そうね…。なにか、瞬間移動でもできたらいいんだけど…」

 そのとき、背後から空気の圧が襲い掛かった。爆発や爆炎はなかったが、むせかえるような熱風が壁となってミナと和泉を前方に吹き飛ばした。急な追い風に押されるように二人はつんのめって廊下に倒れこむ。二人して猫のような女の子らしい悲鳴を上げた。

「大丈夫、和泉!」

「は、はい」

「とりあえずそこの部屋に逃げ込みましょう」

 立ち上がったミナは和泉を引っ張ってすぐそばにあった部屋に逃げ込んだ。その部屋には扉が付いていなかった。そして、その中には銀色の空間が広がっていて、包丁やボウルといった調理器具の並ぶ調理室だった。二人は転がり込むような動きでコンロの下に身を隠す。遠くで自分たちを探す声を聞きながら肩で息を整える。

 はぁはぁという息だけが調理室にしばらく響いていて、それが心なしか落ち着いてきたころ、和泉がミナに話しかけた。

「……先輩。その…さっき瞬間移動出来ればっていいはりましたよね」

「ええ、そうね。それができれば起死回生の好機が訪れるかもしれないけど、あたしとあなた気士では、出来そうにないわ」

「……」

 彼女の言葉には何の返答も返さず、和泉は黙ってスカートのポケットに手を入れて、その中に入っていた紙切れをミナの前に差し出した。

「…? それは…?」

「私を攫おうとした男の人のトランプです。…捨てるの忘れてて、ずっと持っていたんですけど…。これ、使えませんか…?」

 彼女の手の中にあるスペードのエースは縦と横に一回ずつ破かれていて、四つに分かれていた。

「無理よ。破れちゃってるじゃない。あいつの気士は破れてたら使えないのよ」

 言いながらミナははた、と気が付いた。それに応えるように和泉がカードを持つ反対の手から葉書サイズの絆創膏を生み出した。

「どうします…? 先輩。自分で提案しといてアレですけど、仮にこれを直したとしてもあの男の人が協力してくれるのか、そもそもあれから数日経ってますけど、あの人が生きているのかはわかりません」

 彼女の言葉にミナは特に考えもせずに答える。

「直してちょうだい、和泉。協力してくれるかは望み薄だけど、やらないよりかはマシだわ」

「…わかりました」

 ミナの言葉を受けて和泉は床に破れたカードを置いて、その上に絆創膏を被せた。すると、絆創膏は数秒で煙になって消えて、その下のカードがあらわになる。破れていたカードは傷一つなく元の形に直っていた。

 ところが、カードの絵柄の様子は一向に変化する様子はなく、その中から何かが現れる様子は全く訪れなかった。

「…やっぱり、中で死んでるのかしら。それとも、撃ち漏らしたカードから逃げたとか?」

「それやったら、もうどうしようもないですね…」

 いつまでたっても変化が訪れる様子のないカードを眺めてミナと和泉が肩を落としかけたとき、カードの絵柄が波打った気がした。

「あ…」

 ミナがその光景に小さな声を漏らすと、泥濘から這い出すように男の手がカードから飛び出してきて床に手をついた。たちまちその手を頼りにカードの中から男の上半身が乗り出してきた。その体から異臭を放ちながら。

「うわくっさ」

「何十時間も閉じ込められていたんだから仕方がないだろ!」

 出てきて早々言われたミナの言葉に反論するトランプの男。彼はそれから周囲を見渡して、六機の軍用機すべてが自分に機銃を向けているのを確認する。

「これは、どういう状況だ…? ここは確か、屋敷の調理室だったな」

「今の状況をあんたが理解する必要はないわ。あんたはただ、あたしの指示通りに動けばいいの。さもなければ機銃で蜂の巣にして、こんどはそのケツに向かって魚雷を突っ込むわ」

「…相変わらず口が悪い」

 男はトランプから体をすべて引き出すと、ミナの説明を前のめりになって聞いた。


     * * *


「意外と素直に協力してくれて助かったわ」

「俺もあいつに追われている側なんだ。気士の短剣を持って逃げ出したからな。あいつを君が再起不能にしてくれるなら、協力するのもやぶさかではない」

 ミナは調理室の入り口から外の様子を伺ってから飛び出した。それと同時に窓の外に向かって彩雲を飛び出させる。

「なんで外に向かって飛ばしたんですか? 先輩」

「偵察よ。あの男がどこにいるかをまず探さなきゃいけないでしょ」

 そこに声が飛んできた。廊下の向こうから一人の女子中学生がこちらを指さしながら仲間を呼んでいたのだ。

「おっと、見つかったわ。逃げましょ」

 女子中学生とは反対側に逃げ出す三人。

「…そういえばあんた…。名前なんだっけ?」

「あ、わたしも知りたいです…」

「……将吾だよ」

 三人はできるだけ中学生からの攻撃は避けることに専念して反撃することは避けた。大の男ならまだしも、心を奪われた少女を傷つけるのは忍びないからだ。中学生たちの目を盗んで屋敷の中の一室に逃げ込むと、扉を閉めてミナは彩雲のから送られてくる光景に感覚を研ぎ澄まさせた。

「舐めやがって。さっきと同じ部屋にいるわ。秋葉といちゃついている姿を雪香に見せつけている」

「それじゃあ、さっきのところに戻りますか?」

「ええ、でも、正面からは戻れないわね。きっと扉の前にも見張りがいるわ」

 ミナは部屋の窓を開けた。そして侍らせている軍用機の中から零戦を選んで将吾に言う。

「そこであんたの出番ね。この飛行機にトランプのカードを仕込むのよ」

「そんなことが出来るのか?」

 彼の言葉にミナは零戦のコックピットを開ける。

「この中に丸めて入れるわ」

「そこまで精巧に作られているのかこの軍用機は…」

 言いながら将吾はトランプのカードを丸めてコックピットの中に入れこんだ。すると、零戦のエンジンがかかってプロペラが回りだす。

「それじゃあ、和泉。あなたはここにいて。貴女が動けないほどの怪我をしたらあたしが困るもの」

「…わかりました」

 彼女は若干不服そうにしながらも小さくこくんと頷いた。

「それから、この男が変な真似をしたら躊躇せずに拳銃で反撃するように」

「はい、わかりました」

 今度は素直にまっすぐ了承した。横合いから男が指の間に一枚のカードを挟みながら口を挟む。

「このカードからカードの中の世界に入るといい。いま繋いでいる出口は戦闘機のなかの一枚だけだからすぐにわかるはずだ」

「了解」

 そしてミナはカードの中の世界に入って、零戦が窓の外から飛び上がった。


 零戦が大空を舞って、すぐに旋回する。彩雲の居る所へ向かうと、彼女の下にある窓を機銃で破壊した。ガラスの割れるけたたましい音の中をくぐって部屋の中に侵入し、それと同時に零戦が煙となって消える。コックピットの中のカードだけが残って、その中からミナが飛び出してきた。軽やかな身のこなしで床に足をついたミナは、カードの中から他の軍用機を呼び出させて自分の周りに従わせ、突然の来訪に驚いている長身痩躯の男と対峙した。

「…驚いたな。将吾も君の側についていたのは予想外だった」

「そんな話はどうだっていいわ。蜂の巣にされたくなかったら雪香を解放して他の女の子たちにかけた技も解きなさい」

 言いながらミナは紫電改を痴情に貼り付けたまま自分の脇に移動させてその機銃の先に数馬を捉えた。

「…嫌だね」

 数馬は自分の背後にマッケンジャックを呼び出した。白黒の男が亡霊のように佇む。そしてその亡霊は数馬の近くにあった椅子を掴むと、弾丸のような速度でミナの方向に投げつけ、彼女の背後の壁に激突して粉々に砕けた。

「この気士が人の意志を操るだけの存在だと思ったか? 違うな。こいつは常人では考えられないような速度と怪力を持っているのだ」

「……」

 ミナは一切反応できなかった。空気圧が頬を撫でてやっと自分のすぐ横を大きな質量が通過したことを悟れただけだ。だがそれを表情には出さなかった。

「…それがあなたの答えなのね。それじゃあ、遠慮なくやらせてもらうわ」

 紫電改の機銃が火を噴いた。機銃弾は数馬に向かって飛来したが、彼の前に現れた彼の気士が銃撃を防いだ。

「全機離陸! 畳みかけろ!」

 零戦と彩雲を除いた全機、紫電改、雷電、流星、彗星がミナの指示によって宙に飛び上がり、数馬のもとに向かった。そしてそれぞれの持つ機銃や爆弾や魚雷を同じタイミングで放った。それはマッケンジャックによって防がれたが、地を揺るがすほどの爆炎と爆風、そして熱風が吹きすさび、気士使いにだけ聞こえる爆音が鼓膜を突き破らんばかりの大音量で轟いた。

 この爆風の中を突っ切って数馬の前まで躍り出ても彼の気士に防がれるだろう。だからミナはもう一手を講じていた。

 ミナの無言の指示に応じた彩雲が窓の外から機銃掃射を掛けたのだ。火力は小さいが、確実に男の気を引いたはずだ。その隙にミナは舞い散る煤の中を駆け抜け、数馬との距離を二メートルまで縮めた。

 黒煙を抜けた先、ミナは数馬が背中を向けているのを予測していた。だがそうではなかった。彼は彩雲の威嚇射撃を意に返さず、真正面からミナの突撃を待ち構えていたのだ。そして、自分の気士を動かしてその亡霊の脚でミナの腹部を蹴り上げようとする。

 まずい、奴の怪力で蹴られたらただでは済まない。ミナはそう直感した。だが、その蹴りをかわそうにも重心は前に向いていて、いまさら体勢を変えることはできない。

 だが、数馬の気士がミナの腹を蹴り上げることはなかった。黒煙の間から熱量弾が飛来して気士の脚に当たり、弾き飛ばしたからだ。その弾丸を撃ったのは和泉。彼女はミナの使ったカードから自分も出てきて、そこからミナから借りた拳銃でミナを護ったのだ。

 ありがとう和泉。ミナは心の中だけで感謝した。

「こいつ…っ!」

 これで終わり!

 彼女の背中に雷電と紫電改が飛来する。空を引き裂いて突進する二機が、男に照準を合わせて火を噴いた。銃撃によって男の体に無数の赤い穴が開いて、その衝撃によって男の体は窓の外へと落ちていった。

 窓の向こうに消えた男の体がどうなったかは知らない。だが、少なくとも気士の能力は解除されたのだろう。ミナを探す喧噪や、雪香を拘束していたシャボン玉が消えていた。

「…終わったわ、何もかも」

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