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ヒール・マイワールド

 二章「ヒール・マイワールド」


「ごめんなさい。家に帰っていなかった間のことは本当に覚えておりませんの」

「それじゃあ、記憶がなくなる前の時間と日にちとどこにいたのかを教えてもらえる?」

「ええ構いませんわ。……その時は――」

 翌日、昼休みにミナは秋葉らと話し合った結果、神隠しに遭った少女らに聞き込みをすることにした。少女らは中等部と高等部の校舎に散らばっているので三人で手分けして聞きこんでいくことにした。

 日本の城を織り交ぜたような外観の校舎の中でミナはふと空を見上げた。空は曇り空で湿度が高く、いよいよ梅雨の訪れを感じさせた。息を大きく吸い込むと喉の奥を霧吹きで吹かれたかのような感覚が生まれる。昼休み中の太陽は空高くにあるはずだが、厚い雲で覆われた今日の松黒町から彼女を見上げることはできなかった。

 ミナは話を聞いていた女子生徒に感謝を伝えると、別れを告げて去った。古めかしいと思えるほど言葉遣いも所作も整ったその女子生徒は、いかにも『お嬢様』といった仕草で会釈をして自分の教室に戻っていった。その女子生徒が十二人目の聞き込み対象で、つまるところミナが抱えていた最後の聞き込み対象だった。

 ちょうどそこで予鈴が鳴った。昼食を生徒会室で秋葉らと話し合いながら食べて、その後すぐに聞き込みを開始したので結局少しも休むことが出来なかった。満腹になったお腹も相まってあくびが一つ喉の奥から出てきた。それを手で隠した彼女は、自分の教室に戻る間、胸ポケットに入れていた錠菓を箱から数粒振り出して口に放り込んだ。奥歯でかみ砕くと、ミントが作る清涼感のある風味が口だけでなく鼻や喉の奥まで広がっていくらか目がさえた。

「はぁ…。本当に面倒なことに巻き込まれたわね…」

 自分の教室に戻ると、前触れなくミナの腕をつかんで引き寄せ、抱くものが現れた。驚いてミナがその方を見ると、昨日勉強を教えると言った途端に放送で呼び出され、すっぽかしてしまったクラスメイトの少女がこちらを上目遣いで見上げていた。

「成木さん、ひどいわ。昨日勉強を教えてくれるって言ったのにお昼休みなったら早々にどこかへ行ってしまうんだもの」

「ああ、ごめん。急用があったのよ、許して。その代わりに放課後……いえ、ごめんなさい。次の休み時間でよかったら必ず教えるわ。十分くらいしかないけど…」

「本当? 本当に本当? 約束してくれる?」

 少女はそう小首をかしげて両腕の中のミナの腕を強く抱きしめその二の腕に自分の胸を押し付けた。ついでとばかりにミナの手に自分の手を絡ませて貝殻のように手を繋いだ。

「本当に本当よ。神に誓って約束するわ」

 澄ました笑顔で少女を正面から見つめてそう誓うと、少女は満足したようにはにかんでミナの腕を解放した。体をくるりと回転させた彼女は去り際にもう一度「約束よ」と言い残して自分の席に向かおうとした。ミナはそんな彼女の名前を呼んで呼び止めた。彼女は半身だけ振り返る。

 ミナは自分の口元を人差し指で指して、どこかいたずらっぽく微笑む。

「あなた、今日はリップを変えたのね。瑞々しくて綺麗だわ。似合ってると思うわよ」

 そう素直な感想で褒めてやると、少女は俄かに赤面して嬉しそうにはにかんだ。そして何も言わずに背を向けて再度自分の席に戻って、その周りにいた女子グループと談笑を始めた。少女たちの会話はどうも色めき立っていて、黄色かった。

「……やれやれだわ」

 ミナはそんな背中を見送って一息吐いた。

 どうも自分の周りの女友達はやたらとベタベタしてくる気がする。街で見かける同じ年頃の少女たちを観察してみてもここまでではないと思う。まあ別に同性同士なのだから気にならないし、何とも思わないのだが、これはこの学校特有の風土なのだろうか。…いやでも小学校の時からすでにそんな雰囲気があったような気もする…。

 ミナは、う~ん…。と唸りながら自分の席に着席し、次の授業に使う教科書を用意し始めた。

 

     * * *


 放課後の生徒会室の長机の上に白地図が広げられていた。

 その地図が黒い線で形作るのはこの学校、阿兼智学園とその周辺地域だった。駅からそれぞれ延びる電車の線路と路面電車の線路。それに大きな商業施設や閑静な住宅街。それらが真上から見た大まかな形と文字で記されていた。地図の端でミナの家のある商店街が見切れていた。

「神隠しに遭ったのは…」ミナが白く薄っぺらい町を見下ろしながら呟いた「ほとんどが…いえ、全部が学校の敷地内かそのすぐそばなのね」

 地図には赤い色で三十六人の少女たちが攫われた場所が点で、その日時が数字で書き記されていた。雪香が右手に持っているマジックに蓋をしながら言う。

「わかっている以上では、一番初めに行方知れずとなったのは三か月前ですね…」

 遠くの山稜に座っている太陽からの赤い光を体に浴びながら、ミナは軽く身を跳ねさせて長机の上に座った。片足の上履きを脱いでその膝を抱く。そうして地図に目を落とすミナに、秋葉が紅茶の入ったカップに口をつけながら目をわずかに細める。

「…成木さん。行儀が悪いから机に座るのはやめてくれないかしら。……それに、下着が見えるわよ」

「いちいち細かい事気にしなくてもいーじゃない。ここには女しかいないんだから気にする必要も無いでしょう?」

 へらへらとして言うミナの姿を見て秋葉はさらに眉をひそめた。そんな姿を見た雪香は、横目でミナを睨む。

「会長は三年生だよ。先輩の言うことくらい素直に聞いたら?」

 彼女の言葉に、ミナは指先で髪を弄るのをやめて歌うように言った。

「あたしずっと思ってるんだけど、たかだか一年や二年年上だからって先輩面するのっておかしいと思わない? だいたい、年齢なんて誰だって同じだけ取っていくものだっつーの。大事なのは平等に与えられた時間の中でどう生きたか。そうでしょ?」

 言い終わるより早く、秋葉はカップをソーサーに置いてさらにそれを机に戻した。陶器と陶器のぶつかる音が、妙に大きく響いたような気がした。

「…それはつまり、わたしが今まで積み上げてきた人生を丸ごと全部コケにしているのかしら?」

 彼女の眼光と声色は吹雪のように冷たかった。しかし、その内側にはマグマのような熱量があって、まるで噴火を控えた雪山のようだと雪香は思った。

 姫神秋葉は高貴で高潔な女性だ。テストの成績は毎回全教科一位か二位を行き来しているし、スポーツもできる。雪香と一緒に入っているテニス部のエースでもあるのだ。生徒会の活動で他の人より参加日数が少ないのにそれなのだから彼女の優秀さがよくわかるだろう。

 だが、彼女の高貴な本質はそこではない。礼儀や規律に厳しく、上下関係にも厳格で、またそれを人に強要するだけではなく自分自身もそれを守り通し、自分が守れていないことは絶対に人に求めたりしない。そして、規律を守れない人には毅然として厳しく接する。昔、とある人が言っていた『自分で出来もしないことを人にわめくのは指導とは呼ばない』という言葉を、そのまま体現したのが彼女だった。その姿勢と生き方は、まさに人を導く王者としての生き方だと雪香は思い、そして彼女に従うことにしたのだ。

「いや別に、誰もそんなことは言ってないでしょう?」

 飄々として笑うミナ。規律に厳しい秋葉に対して彼女のような人間は天敵だと思う。規律に疎く、しかし自分の中の正義があって、それに従って生きていて、自分が嫌だと思ったことははっきり嫌だと言い、楽しいと思ったことは素直に楽しむ。それでいて結果を出しているし、人心も集めている。為政者が一番苦手とするタイプだろう。彼女いるのクラスの友人が時々話題に出す人物なのだが、揺るがない自分自身を持っている彼女の生き方は、親の教育が厳しかったりするこの学校の生徒からは確かに魅力的に映ったりもするのだろう。わたしは嫌いだが、すぐ怒るし。一年生の頃、習字の授業で課題が『六文字以上』とのお題が出たとき、他の生徒は『オリエント急行』とか『先代旧事本紀』とか、それなりの言葉を選んで書いていたのに対し、かの成木ミナという生徒は堂々と『セックスピストルズ』と書いて書道の先生の心象を損ねたらしい。さらにその後その書は掲示され、口に出すのも憚られる言葉を意気揚々としたためたことを女子生徒たちがしばらくのあいだ噂していた。というかセックスピストルズって何だろう? 雪香は聞いたことのない言葉だった。 

 ともかく、彼女の奔放な立ち居振る舞いは秋葉の癇に障るらしく、かの忌々しい秋葉の恋人が一緒の時を除いては、彼女がミナの前で笑顔を向けることはなかった。張り詰めたようなピリピリとした空気が生徒会室の中に充満して、実際の気候は蒸し暑かったのにどこか寒気がした。この二人を同じ空間に一緒にしていては、いつか必ず崩壊する。そういう確信が雪香の中にあった。

 そういう空気の中で少しの間誰も口を開かない時間が流れて、雪香が何も言えない中、ついにミナが口を開いた。

「今はあたしの生活習慣に文句をつける時間じゃない。そうでしょう? ほら、秋葉パイセンもいつまでもティータイムに興じてないで、こっち来て意見くださいよォ」

 挑発するような口調で秋葉を呼ぶミナ。空気がさらに重くなった気がした。

「そうね。わたしも年長者として年下を導く責任があるものね。それに、こんな空気では楽しく茶会なんて行えるものでもないし」

「あ?」

 低い声で唸って顔を険しくする不良の横を颯爽と歩いていく秋葉。普段だったらきりっとしたその姿に見とれたりもした雪香だったが、この空気ではとてもそんな気持ちにはなれなかった。彼女は立ったまま軽く地図の上に手を触れて、書き込まれた赤丸と数字を順番に目で追っていく。

 三十六番目の赤丸を見終えた彼女は、特に考え込むそぶりを見せることもなく静かな口調で赤丸の一つを指で指した。

「学校の中や近くということ以外、生徒たちが攫われた場所に規則性はないけど、日時にはそれがあるわね。ほとんどが一週間ごとに二人から四人ずつ攫われていて、攫われた日は決まって翌日に学校が休みになる日よ」

 彼女の両側から地図を覗き込んで携帯に表示されたカレンダーと見比べていくミナと雪香。秋葉は携帯やカレンダーを見る様子はなかったが、その発言の内容は事実だった。

「流石です会長」

 秋葉を称賛する雪香の対岸で、ミナは依然携帯に目を落としていた。

「その法則で行くと、次に誰かが攫われるとした、明日になるわけね」

「そうね。……そうはいっても攫われる時刻と場所はみんなバラバラで、攫われる子の規則性も特に見当たらないから、明日の神隠しを阻止するのは難しそうだけど……」

 一応明日は他の生徒会役員や風紀委員に学校の中を見回りさせましょうか。そう言う秋葉の言葉には反応せず、ミナは口元に手を当てて何事かを考えている様子だった。しばらくそんな表情のままでいた後、唐突に顔を上げて座っていた机から降りて片足だけ脱いでいた靴を履く。

「じゃあ、捜査に進展もあったし今日はこれくらいでいいでしょう? 早く帰りたいし、あたしは茶会の邪魔者らしいし。んじゃおつかれー」

 早口でそう言ってこちらの返事も聞かずに生徒会室を出ていってしまった。閉じられた扉をしばらく見つめ続けた後、秋葉がため息を吐いた。

「不良の相手って疲れるわね…。言うことを聞いてくれないし、何を考えているかわからないもの」

 彼女の言葉を受けて、雪香は彼女のカップに紅茶のお代わりを注いだ。


     * * *


 翌日、ついに雨が降ってきた。

 校舎の瓦が水に濡れて濃い色になり、屋根の麓からしとしとと雨水を滴らせて雨といの中に川を作っている。校舎のそばに佇む紫陽花の葉や花に落ちて、まるでその草花の瑞々しさがそのまま滴るように黒土を湿らせていく。学校の中の何割かの生徒はいつものローファではなく、レインブーツを履いて登校していた。

 のっぺりとした灰色の厚い雲は初夏の気温をいくらか下げて肌を引き締める。ミナは両腕にハンドカバーをつけて、真っ白なシャツの上に薄い黒革のベストを羽織っていた。柄付きの黒い二―ソックスの上に、教室の中なので上履きを穿いている。

「……ではこの問題を…、成木さん」

「…はい」

 降りしきる雨音に交じって届く、レシプロ機のエンジン音に耳を傾けていた時、数学の教師に黒板の問題を解くように言われ、ミナは椅子を鳴らして立ち上がる。黒板の内容は予習済みなので解くのは容易だった。カツカツと白いチョークでリズム刻みながら数式を書き連ねていき、やがて答えを導きだした。

「はい、正解です」

「どーも」

 ふん、と鼻を鳴らして黒板を背にするミナ。一連の澄ました所作に教室のどこかからか感嘆の声が聞こえてきた。そういった声には興味なさげに席に着いたミナは、授業に意識を向ける傍ら、再び空から聞こえてくる航空機のエンジン音に耳を傾けた。


     * * *


 今日もあっという間に放課後になってしまった。

 難波和泉という名の少女はホームルームを終えた担任の先生が教室を後にすると、まるでそれに続くかのように自分も足早に退室した。背中から聞こえてくるクスクスといった笑い声が自分への嘲笑のように感じた。

 空はどんよりと曇っていて、朝からずっと雨を降らせている。その模様は彼女のここ最近の心象を表しているようで、ため息が一つ出た。

 桜色の細いフレームの眼鏡のレンズが結露していた。付着した水滴をハンカチで拭いてまた耳と鼻に引っ掛ける。曇った視界は晴れたが、目元を覆う長めの前髪がカーテンをかけているようだった。指先をでそれを払うが、またすぐに元に戻ってしまう。

 肩に鞄を提げて、肩幅を狭くするようにして廊下を歩く。もともと小柄な彼女の背中が、より小さくなったようだった。早く路面電車に乗り込んで愛読書の続きを読もう。そう心の中で決めて少しだけ歩調を早めた。

 昇降口でローファに履き替えて傘立てに立てていた自分の傘を取って屋外に出る。舗装された地面の上に溜まった水たまりに水滴が降ってきて、延々と波紋を作り出していた。和泉は傘をさして校舎から校門までの道のりをとぼとぼと歩く。傘の柄が鍵盤と音符の意匠だったから、そこに落ちる雨音が音楽のように聞こえた。

 ふと、彼女は道のりの脇で咲く紫陽花に気が付いた。花壇を作る煉瓦の中で淡い紅色や青色の花々が玉のように寄り集まって、それぞれが家族のように一つになって咲き連ねている。大きな葉っぱや花の上に雨が降り落ちて時折雫を弾いたり滴らせたりしていた。瑞々しい一枚の葉っぱの上に白い体のカタツムリがいた。彼は大きな貝殻を背負いながらうねうねと体をくねらせて懸命に己の身を前に進めている。

「ふふっ…。かわええなぁ…」

 とてもじゃないが彼を触ろうとは思えないが、そのひたむきな姿が愛らしくて和泉の心を和ませた。和泉は彼の勇姿を写真に収めようと思ってスカートを押さえながらその場にしゃがんだ。腕の中で傘を支えながら鞄の中から携帯を取り出してカメラを起動する。レンズの中で彼を中心に収めて、焦点と露光が自動で調節される。それが終わってから画面の中のシャッターボタンを押した。それだけで時間を切り取ることが出来た。和泉が携帯を再び鞄にしまった時、彼女は紫陽花の根元に刺さっているトランプのカードに気が付いた。紫陽花の葉と形がよく似ているスペードのエースだった。スペードのエース一枚だけが不自然に取り残されていて、他のカードが付近に散らばっているということもなかった。

「トランプ…? なんでこんなところにあるんやろ……」

 不思議に思いながらもカードに手を伸ばして抜き取った。カタツムリの君に触らないように気を付けた。指の間でカードを挟んで裏と表を確認してみるが、特に何の変哲もないスペードのエースだった。

 怪訝に思いながら立ち上がった和泉はカードを雨空にかざしてみたりする。すると、カードに焦点を合わせていた視界の向こう側に白い影を見つけた。そちらに意識を向けると、花壇の向こうの木に今度はダイヤのエースが引っかかっていた。

 誰かのいたずら…? それにしては意図も目的も読めない。和泉はこのカードの意味がどうにも気になって気に引っかかっていたカードを回収した。すると今度はそのさらに向こうにもう一枚のカードが…。さらにその向こうにはまたカードが…。そういう風に一枚一枚カードを回収していくと、やがて彼女は人気のない校舎裏まで導かれていた。手元のカードは十枚に達していた。彼女は手元のカードを何気なくスカートのポケットに入れた。

 周囲は校舎の壁と壁の些細な空間といった雰囲気で、花壇が整備されていたり、綺麗な花が咲いてたりすることもない。名も知らない木や雑草が生えているだけの空間だった。そんな空間の端に、今までと同じような不自然さでクローバーの六が落ちていた。

「誰がこんなことしたんやろ……」

 不思議に思いながらも警戒心皆無で拾い上げようとした和泉の細い腕を、クローバーの六から出現した男の腕が掴んだ。


「きゃあ…っ!」

 小さな悲鳴を上げる少女と、彼女の細腕を掴む腕を空高くから見下ろしている存在があった。新緑の機体に日の丸を両翼に刻んだレシプロ戦闘機だった。その機体の通称は、零戦と言った。

 零戦は人間の片腕ほどの長さの両翼を翻して身を回すと、機首を地面に向けて急降下した。空気が両翼を叩いてバチバチと音を鳴らす。だが零戦は機首を持ち上げようとはしない。自分自身を信じているからだ。零戦は高速で悲鳴を上げた少女の下へ飛来すると、機首をわずかに調節して機銃の照準をカードの腕に合わせる。

 機銃が火を噴いた。機首に搭載された七・七ミリ機銃二挺が嘶いて少女と腕の間を割って入り、地面の泥を弾く。それに驚いたカードから生える腕が少女を突き飛ばして地面に落ちた。それから腕の先の手が地面を付いて、腕の先の肩と頭がカードから出てきた。カードの大きさは一般的なそれと同じだったが、どういう構造をしているのか、空間が歪ませて出てきた。

「く…くそ、なんだあれは…っ」

 カードから現れた男は零戦を見上げてそう歯噛みした。そんな彼を嘲笑うように零戦は何度か機体を回してから引き込み式主脚を下げて着陸態勢に入る。零戦が着陸した先には、成木ミナがいた。

「今日が神隠しの日だって言うからこの子たちに見張りをさせていたんだけど…案の定かかったわね。まあ、誘拐犯があたしと同じような能力を持っていたってことは予想外だったけど」

 傘をさしていないのでずぶ濡れの彼女の足元には、六つの軍用機が着陸した状態で従えられていて、彼女らは回転していたプロペラを停止させると、ミナの中に煙になって消えた。

「そこの一年っ!」

 ミナは傘を落として尻もちをついている大人しそうな一年生の少女の胸元のリボンを見てそう呼んだ。

「は…、はい…っ!」

 特徴的な格好をした上級生に荒々しい口調で呼ばれ、彼女は上ずった声で返事をした。

「突然のことで頭が追い付いていないだろうけど、そこは危ないわ。あたしの後ろに隠れなさい」

「お…お化け…っ!」

 少女は泥を蹴りながら傘をひったくると、白い靴下やスカートの裾が汚れるのも気にせずにその場から逃げ出し、ミナの背後の隠れる。

「あたしは成木ミナ。あんた、名前は?」

 ミナは視線をトランプの男からそらさずに彼女に背中を向けたまま問いかけた。

「…難波、和泉です」

 和泉はずり落ちた眼鏡を押し上げながら答えた。

「そう。…和泉、傘をさしていたら邪魔になるわ。濡れるのが嫌なのはわかるけど、出来れば閉じてくれないかしら。どちらにしろもう泥まみれなのだし」

 彼女の言葉を受けて和泉は怪訝な顔をしながらも傘を閉じた。彼女の頭や肩を水滴が冷やす。

「…ひゃっ!」

 泥に汚れて水に濡れた彼女の細い肩を、何の躊躇いもなく抱いて自分の左腕の中に引き寄せるミナと和泉の体温が一緒になって、和泉の頬が紅潮した。そんな彼女の光景には意識を向けず、ミナはトランプの男に対して半身になって右腕を突き出した。

「デイジー・プリンセス」ミナはそう呟いて右手に回転式拳銃を呼び出す「……予定が変わったわ。あんた、あたしのこの能力について何か知っているなら話しなさい」

 銃口を突き付けてそう脅した。銃口の向こうの男は執事服を着ていたが、髪型や風貌はホスト風の二十代くらいの男だった。茶髪の男は銃口を向けてくるミナの言葉を聞くと、動揺していた表情を落ち着けて、わずかに余裕のある表情をした。

「…そうか、君は知らんのか…フフ…ッ。何も知らないんだな君は…。君はその能力を、例えばとある薬を、麻薬だと知らずに単なる疲労回復薬だと思い込んで使い続けて身を滅ぼした人間のように、なにもわからずに使い続けているのだな…」

 ミナはこちらを指さす男のたとえ話を耳にして俄かに動揺した。自分が今手に持っているものが何かとんでもなく恐ろしいもののような気がして、視線が自分の右手に移り、銃口が僅かに下を向いた。

「フッ…」

 男はその隙を見逃すほど甘くはなかった。彼は手品のようにわずかな手先の動作でトランプのカードを出現させると、スナップを効かせて鋭くミナの下へ投げつける。カードは高速で回転して弧を描きミナの目と鼻の先まで飛来してきた。ミナは反応することが出来なかった。視界にとらえることはできたが、体が追い付かなかった。

「ストレートフラッシュッ!」男が能力の名前を叫んだ瞬間、飛来してきたカードからその男の右腕が生えてきた。その右手にはサバイバルナイフが順手で握られていた。その鋭利な銀色を視界に収めたミナは、反射的に和泉の頭を護るように抱えなおし、体を大きくそらせた。だが、その白刃のリーチは依然長く、振るわれた刃がミナの右肩を引き裂いた。

「っ…痛っ…!」

 白い制服の袖が切り裂かれ、そのあたりが鮮血に染まった。噴出した血を見て、和泉が小さく細い悲鳴を上げた。ミナが苦悶の表情を浮かべながらも自分を斬った右腕に向かって引き金を三度引いた。右腕はカードの回転に乗ってミナの後方へ飛んで行ったが、カードの中に引っ込むように姿を消す腕に銃口から飛び出した弾丸が当たることはなかった。動体とはいえ、距離にして二、三メートルの失敗だった。

「フフッ…」男はカードから全身を引き出して、泥の上に両足を着きながら余裕の表情で笑った「どうやら、銃の能力を持っていても、銃の扱いになれているわけではないみたいだな」

 そう指摘されてもミナは痛みに顔をゆがめていながらも動揺した様子はない。先ほどの、男のたとえ話で動揺したミナはもういなかった。この銃の正体がどういうものであろうとも、ここでミナが戦わなくては腕の中の一年生が攫われてしまう。それだけで彼女が戦う理由となりえた。

「…わかりきったことをさも誇らしく語っている奴ほど滑稽なものもないわね。銃の扱いに慣れている人なんてそうそういるわけないじゃない。警察や自衛隊じゃあるまいし」

 そう言って片手でもう一度銃口を男へと向ける。照準器の中に男の頭を捉えた。実際、まともに訓練の積んでいないミナが片手で持った拳銃で銃弾を当てられる距離など、止まってる的でもそう遠くはない。しかし、それでも彼女は男との距離を詰めようとは思わなかった。彼女には右手の拳銃だけではない、もう一つの武器があったからだ。

 彼女の眼光に見据えられて、男は肩をすくめた。乾いたように笑ってから顔の前で右の指を一本立てる。

「では、この五木将吾が、君の知らないことを一つ教えてあげよう。だが、俺が教えるのは一つだけだ。それより先は自分で調べるんだな」

 五木将吾と名乗った男が左手にカードを一枚出現させた。ミナはそれを見逃さずに注意を向けたが、それにも構わずに男は言葉を続ける。

「君や俺に宿るこの能力は自分の中から引き出されたモノ。自分の気力や精神力といった、目に見えない熱量が形作る魂の塊。俺たちは自分の気から生み出され、自分にさぶらうその姿から、気力のさむらい、『気士きし』と呼んでいる」

「…気士」

 ミナはその言葉を確かめるように小さく復唱した。

「そうだ。そして俺の気士の名前はストレートフラッシュ。トランプのカードをトンネルにして空間を移動することが出来る。……こんな風になっ!」

 瞬間、将吾は左手持った。カードに右腕を突っ込んだ。右腕はカードを破ることもなく、カードの面積と腕の太さを無視して吸い込まれていく。そしてその腕の行き先は……、和泉のスカートのポケットの中だった。

 和泉が悲鳴を上げる。自分のポケットから男の腕だけが生えてくる光景に、これまででもっともおぞましく背筋の凍る気持ちになり、ありありと顔を青くした。腕は袖口からサバイバルナイフを引き出しながら出現し、それを逆手に持ち、ミナの腹を突き刺そうと襲い掛かる。とっさにミナは右手の銃を消し、ナイフを掴む男の手首を掴んだ。凶刃の動きが鈍くなった。だが、ミナの細腕では彼の腕の動きを止めるには至らず、じりじりと切っ先が肌に張り付いた制服のシャツに迫っていた。汗だか雨だかわからない雫を頬から流しながらミナは腕の中の少女に叫ぶ。

「ポケットの中のカードを捨てなさいっ! 全部っ!」

「は、はいっ!」

 和泉は自分のポケットから伸びる腕を前にして呆然と眺めているだけだった。あまりにも非日常で超常的な現象に理解が追い付いていなかったのだ。そんな彼女の頭を軽く揺らしながら叫んだミナの言葉に、和泉はやっと考えることを再開して、プリーツスカートのポケットに手を突っ込んだ。男の腕が生えている穴に手を入れるのは大きな抵抗感があったが、強い口調で命令されたことと、目の前の凶刃を前にして和泉の手がほとんど勝手に動いていた。

 焦ってポケットの端にカードを引っ掻けながらも、カードを遠くに投げ捨てる和泉。何枚かのカードがひらひらと舞ったが、雨に打たれてすぐに地面に落ちて泥にまみれる。腕が生えていたカードも同様に捨てられ、カードの中に引っ込んだ。

 ミナはそれを確認するやいなや再び右手に拳銃を生み出して銃口を男の方に向ける。

「これでも食らいなっ!」

 ミナは引き金を引いた。銃口から放たれたのはミナの気力から作られた熱量弾で、それは常に拳銃に装填され続け、何度連続で引き金を引いても尽きることない。だが、銃口から放たれた熱量弾はそのままの形で将吾の方に飛来することはなかった。熱量弾は発射直後に形を変えたのだ。その形は三枚のプロペラで前に進み、一対の主翼と一対の尾翼、そして一枚の垂直尾翼を持った航空機だった。深い緑色のその機体は胴の下に大きな爆弾、主翼の下に小さな爆弾を一つずつ提げていた。その機体の名前は、彗星と言った。

 彗星は機首を少し持ち上げて高度を緩やかに上げ、三つの爆弾をすべて切り離した。爆弾は緩やかな弧を描きつつもまっすぐ、確実に将吾を捉えていた。

「それが君の気士の本領というわけか。男としては羨ましいと思わざるをえないが、今はそんなことを気にしてる暇はなさそうだ」

 将吾は腕を大きく振るって大量のカードを生み出した。カードは爆弾に対して彼を包む縦のように出現し、そしてそれはその通りの役割を果たした。小型の爆弾二発は将吾の手前に着弾し爆炎と爆風をまき散らした。しかしそれらが将吾を焼き尽くすことはなかった。遮蔽物として展開された、五十二枚を優に超える枚数のトランプたちが異空間への門を開き、その中へと爆風や爆炎を飲み込んだのだ。そして最後の一発、大型の爆弾に至っては、将吾に直撃する軌道だったがゆえに、爆発することもなくトランプの中に消えた。

「…やれやれ。君の気士は随分と荒々しいな。破壊することに特化していて、何もかもを焼き尽くす能力だ」

 そう呟く将吾の前で煙が晴れた。トランプに飲み込まれることなく残った爆炎の煙だ。雨に打たれて幾分か晴れるのが早かったが、煙が晴れたとき、ミナと和泉の姿はどこにもなかった。


「あなた、これが目に見える…?」

 和風の校舎の一角で、ミナは拳銃を持っている右手を和泉にかざした。

 そこは一階の階段の裏側で、倉庫に使われているわけでも休憩所として活用されているわけでもない、生徒からも教師からも忘れ去られたような、薄暗くて物悲しい空間だった。そんな空間に訪れた数少ない人物であるミナと和泉は、身を隠すようにその場にしゃがんでいた。

 ミナの放った彗星の爆撃が巻き起こした噴煙があの男の視界を隠した隙に、ミナが和泉の手を引いてここまで退却してきたのだ。

 自分の手のひらを見せつけてきたミナに対して、和泉はしばらくその手を見つめてから、怪訝な表情でミナを見上げる。

「これって…。なんですか? ……先輩の手しか見えへんのですけど…」

 舟を漕ぐような抑揚の話し方でそう答えた和泉に、ミナは予想通りの答えが返ってきたので、いたって冷静な調子で息を整えながら右手を下ろす。

「そう、やっぱり他の人には見えないのね、思っていた通りだわ。ただし、気士使い同士だとお互いの気士が見えるって寸法かしら」そこまで呟いて、ミナは思い出したように少し顔を上げ、もう一度和泉に質問した「…あれ、でもおかしいわね。あなた、あの男のトランプカードは見えていたの…?」

 ミナがポケットのカードを捨てろと言った時、彼女は迷わずそれを実行に移していた。それはつまり、あの男のカードは見えていたはずだ。

「さっきのお化け男のことですよね…? わたし、道端に点々と落ちてたトランプのカードを拾い集めてあそこまで来たら、突然カードから人の腕が伸びてきて…、ほんでそれから腕を掴まれたんです」

 和泉はずぶ濡れになった自分の右腕を撫でた。まるであの男に掴まれたことでついた汚れを拭うような仕草だった。

 雨に濡れていることも相まって、まるで人間にいじめられて怯えている子犬のようだった。ミナはそんな彼女の小さな肩を抱き寄せてやって、彼女の心に共感するような優しい口調で言った。

「…そう、怖かったわね。でも安心して。あの男はあたしが必ず倒すわ。きっとあなたには何が起こっているのかわからないだろうけど…、あたしがアイツからあなたを護るという事だけはわかってちょうだい」

 そう言って濡れた髪を少し撫でてやった。その仕草と、耳元で囁かれた彼女の誓いに、和泉は頬を桜色に染めた。

 怯えていた彼女の表情が和らいでいくのを見ながら、ミナは少し考えを巡らせた。

 あの男のカードは見えていてあたしの銃や飛行機は見えていない…。同じ気士でも、普通の人に見えるものと見えないものがあるの…? あの異次元につながるカードを何枚まで出せて、どのぐらい遠くまで効果があるのかわからないけど、誰にでも見えるというなら、あるいは簡単に人の興味を惹けるという事…。もしもあいつがその気になれば一度に何十、何百といった女の子を誘拐することも可能というわけね…。だったらあいつがそんな事をする前に、あたしがそんなことをする気も起きないほどに痛い目を見せてやらなくちゃならないわね…。

 攫われた女の子がその後どんな目に遭っているのか…。ミナはそこまで想像しかかって、考えるのをやめた。それ以上考えては、頭に血が上って冷静な判断が出来なくなりそうだったからだ。

 唐突に、ミナの真横でくしゃみの音が聞こえた。腕の中の和泉が両手で自分の抱いて二の腕の辺りをさすっていた。無理もない。髪やスカートの裾から水を滴らせるほどに濡れているのだ。このままではミナだって風邪をひいてしまうだろう。それに、濡れた制服の白いシャツが肌に張り付いて和泉もミナもブラが透けてしまっていた。身勝手な男からすればただ嬉しいだけかもしれないが、女の子からしたら一大事だ。

 ミナは和泉の胸元から透けて見える薄い黄緑色に気が付くと、おもむろに制服の上に着ている黒皮のベストを脱いで、和泉の肩に羽織らせてやった。

「ブラ、透けてるわよ。こんな薄いベストじゃ寒さ対策にはならないけど、せめて隠すくらいはしておきなさい」

「成木先輩…、ありがとうございます」

 紅潮した顔でそう言う和泉に対して、ミナは立ち上がって階段の向こうの様子を伺いながら背中越しに応える。

「このくらいなんてことないわ。あと、あたしの事は名前で呼びなさい。ミナってね」

「はい、わかりました。ミナ先輩」


 ミナはあの男から遠ざけるために先に和泉を帰すか、あるいはどこかの部屋に隠そうかと考えたが、やめた。ミナと別れてからあの男がトランプを渡って和泉に接近する可能性があったことも理由の一つだったが、なにより突然非日常的な異形に手を掴まれ、雨にも濡れて憔悴しきっている和泉を一人にすることが不憫に思えたからだ。もしかしたらずっとミナのそばに付き従えさせるよりもあの男の目を盗んでどこか遠くにやった方がより安全かもしれないが、いまの和泉には理性的な戦略よりも誰かがそばにいてやって、手を握るなりしてやった方が彼女の為になるとミナは判断した。

 階段の下の陰に荷物や傘を一旦置いた後、ミナは和泉の手を引いて校舎の外へ出た。校舎の周りに沿ってぐるりと歩き、先ほどあの男と遭遇した場所を反対側から訪れ、校舎の角の隠れ、右手の銃をしっかり握りながらさっきまでミナたちがいた場所の様子を伺った。角の向こうは、人っ子一人おらず、雑草や樹木が雨に打たれて音を奏でているばかりだった。

「…逃げたのかしら。あの男には気士についてもっと問いただしたかったから、逃げられたらそれはそれで困るんだけど…」

 いやもしかしたらあたしたちを追いかけて移動して、入れ違いになったのかもしれない。だったらこちらが先にあの男の居場所を突き止めなくては…。ミナは右手の銃を灰色の空に向けて一発撃った。その銃弾は姿を変え、偵察機・彩雲になった。彩雲は三枚のプロペラを回転させ、細長い胴体を空高く上昇させると、踊るように回転して高速でミナの下を離れて飛んで行った。ミナは彼女に学校全域を偵察させる腹積もりであった。

 ミナと和泉は雨から逃れるために渡り廊下の屋根の下に隠れた。

「でも、あの男の気士はカードの中に隠れたり移動したりする能力。あたしの飛行機で学校中を探してもあまり意味はないかもしれないわね…」

 ミナは彩雲に対して、地面付近の低空を飛ぶように指示した。人や障害物にぶつかる可能性が格段に上昇したが、あの男のカードが物陰に隠されていた場合、上空からでは見つけられないからだ。

 彩雲の動向に意識を集中させていると、ミナの左手が僅かに締め付けられた。手を繋いでいた和泉が力を加えたのだ。彼女の方を向くと、和泉は不安げながらも期待のこもった眼差しでミナを見上げていた。和泉は胸元でベストの襟を押さえながらミナに問いかけてきた。

「先輩、さっきのお化けの事…、先輩は知ってはるんですか…? あれはなんなんですか…?」

「…悪いけど、あたしも何から何まで全部知ってるわけじゃないわ。…でも一つ断言できるとすれば、あの男はお化けじゃなくて生身の人間よ。生身の人間が、物理法則を超越した超能力を用いてあなたを誘拐しようとしたの。…さながら神隠しみたいにね。そして、その超能力はあたしも使えるの。タイプは違うけど…。そして、あなたには見えていないみたいだけど…」

 ミナは、我ながらイタいことを口にしているわね…。と思った。超能力だの神隠しだの、普通の人が聞けばお粗末な作り話だと笑うか、頭のいかれた可哀そうな子だと距離を置かれるかのどちらかだ。ミナの学年が中学二年生だということもあって、こんなことを大真面目に話してる自分はまさに中二病って奴だと、ミナは心の中で自嘲的に笑った。

 しかし、ミナの説明を受けても和泉は口元に手を当てて「…超能力…、神隠し…」と何度か繰り返すだけだった。その仕草はまるで自分の中の常識をこの非日常的な現実に適応させているような仕草で、決してミナのことを嘲ったり、憐みのこもった目で見るような感じではなかった。

「……あなた、あたしのこんな狂言を素直に信じるの…?」

 彼女の仕草を目の当たりにして、むしろミナの方が彼女に対して怪訝な目を送っていた。和泉はミナの声にはたっ、と視線を上げると、自分を恥ずような笑みを浮かべて頬のあたりを指先で少し掻いた。

「わたし、少々本を読んでて…。いえむしろ毎日本ばかり読んどるからこういう事に耐性ができとるのかもしれへんです」彼女は、えへへ…、とはにかんでから言葉をつづけた「…それに、トランプから出てくる人を実際に見たってこともあるけど…、ミナ先輩が真剣な表情でわたしを助けてくれたんやから、信じないなんて失礼やないですか」

 ミナがこの能力を手に入れて間もないころ、この能力との向き合い方に大いに悩んだ。拳銃を長距離トラックの荷台に放り込んだこともあった、学校の先生の目の前で銃を出現させて天井に向かって何度も引き金を引いたこともあった。そんなことをしても拳銃は必ずミナの下に戻って来たし、周囲の人が銃声に驚いて姿勢を低くすることもなかった。この拳銃や飛行機は自分にしか見えないものだと気が付いたミナは、それでも一縷の望みをかけて自分に不可思議な能力が宿ったことを父親に話したことがあった。しかしミナの相談を受けた父親は、ミナの肩に手を置いて、ミナは母親を失ったショックで変なものが見えているだけだ、ゆっくり休みなさい。と一言だけ諭して仕事に戻るだけだった。その言葉を皮切りに父親のことが段々と嫌いになっていった。

 しかしこの目の前の少女は、肉親でも信じなかったミナの言葉を信じると言った。自分には見えていないものの存在を信じると言った。すると繋いでいた手の温かみが妙に強く感じられるようになって、ミナは熱くなった目頭を誤魔化すように和泉に背を向けた。

「あなた、変わっているわ」

「…そうですね、自覚はしてます」

「でも…その…」ミナはたっぷりと、そしてじっくりと発言をためらってから、やっと言葉に出す「…信じてくれて…ありがと」

 あの男を打ち倒すまで、彼女のそばを離れないことを誓った。


 ミナと和泉がほぼ同時にくしゃみをした。そんな偶然がわけもなくおかしくて、二人で笑いあい一時的に緩んだ空気になったが、ミナも和泉も濡れた服が急速に体温を奪っていくのがわかった。さっさと決着を着けて学生寮の風呂でも借りよう。着替えはないから寮で暮らしてる友人から借りる以外に手段はあるまい。学生寮が学校の敷地内にあるのが不幸中の幸いと言えた。

 そんなような趣旨の談笑をするミナと和泉の会話をカード越しに聴く男がいた。トランプの気士の使い手、五木将吾だ。

 彼はカードの中の真っ黒な空間の中で静かに笑った。彼の周りの真っ黒な空間の中には、いたるところに四角い光が差し込んでいる窓があった。まるで明かりのないトンネルの先の出口が無数にあるようだった。

「戦闘中に談笑なんてしやがって、フフフ…ッ。所詮は戦うことも知らない生娘か。いくら強力な気士を持っていたとしても、戦いの初心者ならば俺の相手ではないな…」

 将吾は腰の革鞘から愛用のサバイバルナイフを抜いた。手入れは行き届いていたが、ところどころに歴戦の傷が残る代物だった。このナイフとは、彼が気士を手に入れるずっと昔からの付き合いだった。

 彼は愛刀を逆手に持って差し込む光の前に立った。

「俺の元主人はケチな奴だった…。アイツのそばにいればおこぼれに預かれると思っていたが、とんだ見当違いだったぜ…」将吾は自分の服の胸に入れたものに意識を向けた「だから俺は懐の『こいつ』を売り払って大金を手に入れ、好みの女を攫ってどこか遠くで暮らすのよ。女のとの愛は攫ってから育めばいい」

 『性行為から始まる恋愛もある』。それが五木将吾の座右の銘だった。そして彼は自分の好みである、奥ゆかしい眼鏡の女を手に入れるためにナイフを持った右手を光の中に突っ込んだ。


 第二の襲撃は唐突に訪れた。消火器の裏に仕込まれたカードにミナが気付くことが出来なかった。

 初めに気が付いたのは和泉の方だった。

「先輩、下っ!」

「ッ!」

 血相を変えた彼女の言葉にミナは咄嗟に跳びあがり、足首を狙った横薙ぎの一閃をギリギリのところでかわした。だが、一閃と同時に出現し、ミナの足元に残されたカードには対応できなかった。右手が引っ込むと同時に足元のカードから伸びてきた左手が着地直後のミナの右足首を掴んだ。そしてそのままカードの中に右脚が引き込まれた。

「コイツ…っ! その汚ぇ手を離しやがれっ!」

 右脚をナイフでズタズタに切り刻まれる。本能的にミナはそう直感し、総毛立つ思いでがむしゃらにカードの中に銃を握った右手を突っ込み、無茶苦茶に何度も引き金を引いた。数発目で男の手がミナの脚を解放したのがわかって一気に引き抜いた。その時に自分の放った銃弾が脚の皮膚をかすめたが、それでも構わず撃ち続けた。ミナは右手をカードから引き抜いて、航空機の攻撃を食らわそうとしたが、出来なかった。手を引き抜いた途端に水面のように揺らいでいたカードの印刷が元の通りのただの平面になり、カードがトンネルの機能を喪失していたからだった。

「先輩、大丈夫ですか…?」

 恐怖のあまり冷静さを欠いていたミナに、和泉は脚の怪我にも意識を向けながら声を掛けた。

「大丈夫。なんてことないわ。……それよりあなたは、なにもされなかった…?」

 冷や汗をかきながら肩で息をしながらも、ミナは和泉のことを気にかけていた。

「わたしは…、大丈夫でした」

「…そう。…もしかしたら、あたしを始末してからゆっくりとあなたを連れ去る魂胆なのかもしれないわね…」

 ミナがそう言いながら和泉の方を向くと、壁に貼り付けられたカードから男の上半身が出現し、後ろから和泉の口を塞ごうとするところだった。

「いつの間に…っ!」

 いつの間に壁にカードを張り付けたのだろうか。ミナががむしゃらに銃を撃っていた時にはもうこの男は次の行動に移っていたというのか。とにかくミナは考えることを中断し、乱暴に和泉の二の腕を掴んで胸の中に引き寄せ、外しようがない程の至近距離に迫った男に向かって銃弾を二、三発撃った。

「君の攻撃など効かんぞ!」

 だが男はまるで予見していたかのようにカードで盾を作ると、ミナを嘲笑うかのようにカードの中の世界に引っ込んだ。

「くそっ! 銃弾を撃っても全部防がれる。それに向こうが一方的に奇襲を仕掛けてくる…。これじゃあまるでもぐらたたきだわ…っ」

 ともかくミナは和泉の手を引いてその場を離れた。何度も引き金を引いて、右腕の筋肉が反動でいたくなっているのを感じながらミナは考えを巡らせた。

 奴に銃弾を食らわせるには、とにもかくにもあいつをカードの中の世界から引きずり出さなくちゃいけない…。でも、仮にあいつの腕を掴めたとしても女のあたしの腕力では大の男のあいつを引きずり出すことはきっと出来ない…。何か、あいつを引きずり出す作戦を考えなくては……。

 彩雲からの映像を受け取りながら雨の水が滴る音を聞いて、ミナはある一つの方法を思いついた。

 校舎を出てミナと和泉は再び別の校舎へとつながる渡り廊下に躍り出た。この学校は、下は六歳、上は大体二十二歳まで通っているがゆえに、やたらと広大で、また校舎や関連施設の数も他の学校とは桁が違う。慣れていなければ道に迷う人だって少なくはない。そんな学校の一角のある渡り廊下は三叉路になっていて、左右それぞれ別の施設へと繋がっていた。

 三叉路の中心で立ち止まったミナは左右に首を振った。

「先輩、どっちに行きます…?」

 背中から届く和泉の問いに、ミナは逡巡するように少し唸ってから、右の方へと和泉の手を引いた。

 だがそんなミナの眼前に、三枚のトランプが花びらのようにひらひらと回転しながら降ってきた。体の中の物がせり上がってくる感覚に襲われ、急停止するミナ。そんな彼女の背中に和泉がぶつかった。三枚のカードの中の一枚からナイフの切っ先が見えて、ミナは考えるより先に和泉の手を引いて踵を返していた。

「やっぱりこっち…っ!」

 和泉の手を引くミナは、左側に伸びる道を走っていった。


「フフフ…ッ。いいぞ。上手く誘導できている…」

 渡り廊下の天井に貼り付けたカードの中から三枚のカードを降らせた将吾は自分の作戦が着実に成功に向かっていることに抑えきれぬ喜びを感じていた。

 その時、将吾の体に射していた一条の光が消えた。そっちを振り返ると、カードの窓が一枚、二枚と少しずつ閉ざされていた。

「なんだ…? いや、そうか、あの娘の航空機が俺のカードを見つけ次第破壊して回っているのか…。この俺から退路を奪ってあぶり出す作戦か……。フフフッ…だが無駄だ。俺のトランプはこの学校中に無数にあるのだ。お前がカードをすべて破壊する前に、お前との決着は着くだろう」

 将吾は別の窓からミナたちが走っていく姿を確認した。

「そうだ、そっちの道を行くのだ。その先にある『あの場所』まで誘い込めれば、俺のは必ず君に勝利する」

 将吾はクツクツと笑いながらも慣れた手つきでカードから外側へカードを投げ飛ばした。


 銃声が三度鳴り響いた。

 空に向かって拳銃を掲げたミナが引き金を引いてシリンダーを回したのだ。放たれた熱量弾はそれぞれ、零戦、紫電改、雷電という名前の戦闘機に形を変えてミナのもとを離れていった。

 走りながらそれを行っていると、左手で握っていた和泉の手が重たくなって後ろに引っ張られた。立ち止まって振り返ると、和泉が膝に手をついて肩で息をしていた。彼女は呼吸を整える合間を縫って、途切れ途切れに声を出す。

「す…、すいません…先輩。…はぁ、はぁ…、もう少しゆっくり走ってくれると…っ」

「いえ、ごめんなさい。あたしが悪かったわ。…歩きましょう」

 トランプの男に襲われる危険性は増えたが、いざというときに走れない方が危険だと考えを改めた。ミナは和泉の横に並んで軽く肩を抱きながら歩き始めた。二人は物陰に警戒しながら校舎の中に入った。その校舎にはひと気が無く、雨の音も相まって物悲しい雰囲気に包まれていた。

「ここは…、初等部の校舎みたいですね…。それも特別教室の集められた校舎やから放課後になったら誰もおらんくなるみたいです」

 和泉の言葉を聞きながら、ミナは脇に現れた階段を見上げた。すこし思案する様子を見せてから、声で和泉を引っ張ってその階段を上る。

「大丈夫? 辛くない?」

「すみませんわたし…体力無くて…」

「気にすることないわ」

 ミナは和泉の歩調に合わせて階段を上ったその間トランプの男が襲い掛かってくることはなかった。

「……」

 ミナは一度振り返った。自分が通ってきた道と、そこからさらに続く自分が通ってこなかった道を見比べてそこから漂う妙な気配を掴み、何らかの仕組まれたものを感じた。

 でも、あいつがこちらに誘導するって言うなら、それはあたしにとっても好都合だわ。ミナは誰にもわからないくらい小さくほくそ笑み、自分が上っている階段の先に目を向けた。

 踊り場に上がるときは特に警戒した。振り返り際に攻撃してくる可能性を考慮したからだ。しかし返ってくるのは静寂だけで、人の気配もなかった。

 静寂に包まれた空間の中にミナと和泉の足音だけが響く。まるでこの世界にミナと和泉しかいないようだった。階段を登りきるまで、二人は一言も口を開かなったが、二階に上がって階段の先を見たとき、ミナは歯噛みして悪態を吐いた。

「…露骨ね」

「……」

 階段の向こう、廊下との交差点には、まさにミナたちの行く手を阻むためのカードが床一面に張り巡らされていた。

「まるで地雷原だわ。あたしたちがあのカードを踏めば引きずり込んでくるのよ」

 ミナは和泉を自分の背中に隠れさせた。拳銃を両手で構え、照準器からその向こうに狙いを澄ませる。彼女の精悍な眼光の先には、無数のトランプのカードが水面のように揺らいでいてまるで一つの池のようだった。照準器の上にカードの中の一枚を載せると少し息を整えてから発砲した。あるいは熱量弾がカードの中の世界にまで飛来して、その中の男を貫けないかと考えたのだ。熱量弾は高速で空気を裂き、ミナの目には見えない速度でカードの中に吸い込まれた。

「ッ!」

 だが熱量弾が男を貫くことはなかった。それどころか、吸い込んだカードの隣のカードから進行方向をそっくり反転させてカードの世界から出てきたのだ。つまりその熱量弾はミナの赤い髪をわずかに散らして校舎の壁を少し破壊した。背中の和泉がか弱く小さな悲鳴を上げた。

「…マジか」

 耳のそばで唸った空気がミナに電流を走らせ、ミナがその正体を近くすると、ミナは思わず感嘆した。奴のカードは銃弾をそっくりそのまま跳ね返すこともできるらしい。相手の能力の一つを理解したミナは、しばらく押し黙った後、和泉の手を取った。

「ここは危ないわ。三階に上りましょう」

「は…、はい」

 ミナと和泉はそれぞれ外履きの靴で階段を上った。上履きを履かないといけないところに外履きで上がっていたので、泥の足跡が残っていたが、二人ともそんなことはすっかり忘れていて、意識の外だった。

 二人はやがて三階に上った。一階から二階までの階段の時のようにミナは細心の注意を払っていたが、また同じように攻撃されることはなかった。階段を上っている間は……。

「和泉っ!」

 三階に上りきったミナは背後の気配を感じて咄嗟に振り返った。その先に五木将吾の姿を見、和泉と将吾の間に割って入った。和泉を離さないように、繋いだ左手に力を込めた。

「そっちから姿を現すとは思わなかったわ…。まあ、その方がこっちにとしては都合がいいけれど…。うちの子がカードを撃っていったのが効いたのかしら?」

 ミナは右手の銃を将吾に突き付けながら言った。将吾はゆっくりと階段を上りこちらとの距離を詰めて来ている。ミナは対峙する男と一定の距離を保つ為に背中で優しく和泉を押し、少しずつ後ろに下がっていった。

「確かに俺はこうして君たちの前に姿を現したが、それは君に追い詰められてではない。逆に君を追い詰めるためだよ」

 そして男はクツクツと笑った。すでに勝ち誇ったように笑う男を細めで睨み、引き金に指を掛けた。

「随分と余裕綽々じゃない。あんたがどんな策を講じていようとも、こっちには六機の軍用機と一丁の拳銃があるのよ」

 銃声が一度鳴り響いた。銃弾は確かに将吾のもとへ飛来した。だが彼が眼前に掲げた二枚のカードの一枚に吸い込まれ、もう一方のカードから現れ、ミナの足元を穿った。

「数分前のことも忘れたのか? 俺は君がどんな攻撃を繰り出して来ようともそれをすべて跳ね返すことが出来る」

 ついに男は三階に到着し、ミナと同じ高さになった。ミナは後退を続け廊下に出た。男の一挙手一投足からまばたき一つすら惜しむほど目を離さないようにした。ミナの目の前の男が、彼女に一枚のカードを見せた。

「ところで君は、因果応報という言葉を知っているか? いや、中学生ならば知っていて当然だよな。例えば、このトランプの欧州への伝来には十字軍が一枚かんでいるのだが、その十字軍は聖地の市民に対し凄惨な掠奪や虐殺を行った。それを目の当たりにした回教圏は奮起し、十字軍と戦い、そして勝利した。結局、虐殺を繰り返した十字軍は聖地を奪還することが出来なかったのだ。…フフフ…、まるで神の意志のようだな」

「結局何が言いたいのよ、言いたいことがあるならはっきり言いなさい」

 ミナは語気を強くした。右の人差し指が疼くように引き金を何度か撫でた。

「つまりだな…」手に持ったトランプのカードが水面のように揺らいだ「自分の攻撃は自分に返ってくるということだよ」

 揺らいだ水面から、鉄の塊が現れた。それはミナが先ほど将吾に向かって投下した、彗星の大型爆弾だった。

 その姿を見ただけで、ミナの肌がひりつくのを感じた。自分がその威力を一番に理解しているだけに、自分や和泉の体が焼け焦げる姿が容易に想像できた。

「和泉! 走れ!」

「ひゃいっ!」

 自分に向かって襲い掛かる爆弾を目の当たりにして、一番初めに口を突いて出た言葉は背中の少女の名前だった。

 ミナは名前を叫ぶが早いか即座に振り返り彼女の手を乱暴に引いて全速力で走った。爆弾の落ちる秒数と落下地点は大体予測できた。だから爆弾の落下地点よりも少しでも遠くへ、その先に何があろうとも今のミナには考えてる余裕がなかった。

 すべてが小型化されているので、本物の爆撃機ほどの火力はない。だがそれでも鉄筋コンクリートの壁に人が余裕で通れるほどの大穴を開けるくらいの火力はある。それほどの破壊力を備えた航空爆弾を和泉に当てる訳にはいかなかった。

 そして、彼女の背後で爆弾が床に落ちる音が聞こえた。その音を合図にミナは和泉を自分の体の前にやり、抱きしめ、彼女の頭を抱え込んでその場に倒れこんだ。襲い掛かる爆発と熱風。それらは空気を吹き飛ばし、一瞬だけ真空を作り出し、彼女の頭上を焼き尽くした。爆発を受けて周囲の窓ガラスがすべて吹き飛んだ。蛍光灯も砕け、白いガラスの破片がミナの体に降りかかった。灼熱の風に煽られて制服のスカートの裾が引火して、ミナは慌ててそれをはたいて消化した。熱い空気を吸い込んで、ミナも和泉もせき込んだ。その頃になってようやくスプリンクラーが作動して人口の雨が降りかかった。

「ごほっ、ごほっ…。和泉、大丈夫…?」

「は、はい…、…こほっ」

「そう…、よかったわ」

 和泉に覆いかぶさり、頭を床に打ち付けないように手で守っていたのが功を奏して彼女には一つの傷も無かった。その様子を確認すると、ミナは安心したように微笑んで目にかかっていた彼女の前髪を軽く横に流してやった。

 ミナは破壊が収まったことを確認すると、体を起こして膝立ちになった。両ひざの間に和泉の左ももがあった。押し倒した和泉の手を取って引き起こしたミナは、周囲を確認して焦燥に顔をゆがめた。

「……なるほど、あの男はあたしたちをここまで誘導していたのね」

「爆発の計算を間違えていなくてよかったよ。もし間違えていたら俺のカードまで吹き飛ばしているところだった」

 ミナたちが追い詰められた場所、そこは校舎の一番端の空間で、左側は教室があったが固く閉ざされていた。前方は廊下の切れ端でのっぺりのした壁があるだけで、これより先に進むことはできない。右側はガラスの吹き飛んだ窓が並んでいて、その先は三階からの景色が広がっていた。

 しかし、ミナの怯えさせたのはただ追い詰められたという事ではない、彼女が恐れたのは、彼女の周囲、床も壁も天井も、そのすべてを覆いつくすようにトランプのカードがあまねいていたからだ。

 背後には将吾がいる。どこにも逃げ場がなかった。

「将棋で言うところの、詰み、だな」

 男の言葉には何も応えないままミナは立ち上がって再び男と対峙した。無意識的に煙にして消していた拳銃を右手に握る。

「追い詰められたかどうかはあたしが決めることよ。そして、あたしはまだあんたに勝てると思っているわ」

「この状況でか?」

「ええもちろん」

 ミナのその言葉に男はついに吹き出し、小馬鹿にするように笑った。嘲笑を受けたミナはその笑い声が癇に障って、しかし冷静な判断を保つ為に奥歯を噛んで怒りを抑えた。男はひとしきり笑うと、手品のように右手に一枚のカードを出現させた。

「そうかそうか、それは恐ろしいな。ああ、すごく恐ろしい。……恐ろしくてたまらないから俺は、カードの中から攻撃するとしよう」

「好きにしなさい腰抜け。あんたがどんな手段を講じようとも、あたしはあんたを必ず蜂の巣にしてやるわ」

 ミナが切った啖呵を聞く間もなく、男は右手のカードの中に逃げ込んだ。

 その空間に響く音が雨音だけになって、背中に隠れていた和泉が不安げな声を上げた。

「先輩…、そんなこと言ってよかったんですか…? 本当に、倒せる見込みあるんですか?」

「もちろん、あるわ。でもそれは、あなたの協力があったらの話だけどね」

「…へっ?」

 言うが早いか、ミナは和泉の肩に腕を回し、口を彼女の耳元に近づけた。和泉だけに聞こえるくらいの声量で何事かと囁くと、和泉の目がますます不安の色を帯びた。

「……そんなん、わたしに出来るでしょうか…?」

「できるわ、あたしが時間稼ぎと目を盗むから、その間に手早くやるのよ」

 ミナは唐突に和泉を自分の背中に引き寄せて行き止まりの壁に向かって発砲した。その先に男の影が見えたからだ。カードの向こうに男は確かにいた。だが引き金を引いたころには男の影は消えていて、銃弾が何かを貫くような手ごたえがなかった。そしてカードの中に吸い込まれた銃弾はカードの世界の中を駆け巡り、天井のカードから飛び出し、ミナの太ももを引き裂いた。柄付きの二―ソックスに縦長の裂け目が走って、赤い血が流れた。

 ミナは全方位に意識を張り巡らせながらも、心の中では空の向こうのエンジン音を聞いていた。心の中で広がる航空機視点の景色を見て、彼女らが今どこで何をしているのかを確かめる。

「……もう少しよ、和泉」

「は…、はい」

 壁から男のナイフが襲い掛かってきた。ミナの腰を切り裂く軌道だった。ミナは咄嗟に身を翻しそれを回避、それと同時にナイフを持った腕に狙いを定めて三回引き金を引いた。そのうちの一発が男の手首をかすめて、鮮血が飛び散った。

「当たったっ!」

 自分が咲かせた赤を見て、思わず喜びの声を上げた。声を上げてから恥ずかし気に顔が紅潮した。これほど早く動く動体に当てられたのは初めての事だったのだ。しかし、それを耳にした将吾がカードの中で笑う。

「意外と愛らしい声で喜ぶじゃないか。……だがいいのか? 三度も発砲したということは、俺は君を撃つ銃弾を三発手に入れたということだぞ」

 言い終わるよりも早くミナは和泉の頭を押さえて姿勢を低くさせた。それと同時にミナを垂心にして三発の銃弾が全く同じタイミングで垂線を描く軌道で飛来した。三発の銃弾がすべてミナの腹部に直撃し、ミナの服に赤く丸い汚れが浮かび上がった。

「ぐ、うううぅ…」

「せ、先輩っ!」

 腹から血を噴出させ、激痛に顔をゆがめたミナを見て、和泉が悲痛の声を上げる。彼女はミナの肩に手を添えようとしたが、ミナはそれを手で制した。

「大丈夫、予測してたことよ。こうしてあいつの気を引くの。……それより、ようやくよ、やっとここまで持ってこれたわ」

 ミナが窓の外に目を向けた。そこには四機の軍用機がこちらに向かって来ていて、その中の一機、零戦の着艦フックに、駐車場で使われるような黒と黄色の模様を持ったロープが引っかかっていた。長さにして十メートルほどのそれを引っ掛けた零戦は、割れた窓をくぐって校舎に侵入した。

「たまたまこのロープを見つけてよかったわ。……ほら和泉、さっき言った通りに」

 ミナは手を伸ばしてロープを引っ手繰ってそれを和泉に渡した。

「頼んだわよ」

「は…はいっ!」

 和泉は渡されたロープの端を持って作業を開始した。その光景を見た将吾が、床のトランプから腕を出した。

「何をしているのかわからんが、阻止させてもらうッ!」

「させないわ!」

 ロープを切ろうとするナイフに向かってミナが拳銃を撃って阻害する。引き金を引くのと反対側の手で床に広がっていたロープを拾い上げて下につかないようにした。

 ミナは男の気配を少しでも感じ取った方へ手当たり次第に引き金を引いていった。自分に銃弾が返ってきても構わず撃ち続けた。それはあの男の注意を和泉から逸らすことを最優先事項と考えたからだった。

 和泉はやたらと肩ひじ張っていたが、実際の作業時間は数十秒くらいのはずだ。その時間さえ死守し、和泉を護り続ければこちらの勝率はぐっと引き上がるはずだ。それだけでいいはずだが、目まぐるしく状況の移り変わる戦闘中での数十秒は永遠にも等しいと感じられた。

 無数の銃声が鳴り響いたのち、突如としてミナの足に鋭い痛みが走った。厚い靴の生地をさえ引き裂いたナイフの刃がミナの左足を土踏まずの方向から突き刺していた。血がどくどくと流れて床に赤い海を作り出していた。嫌な汗がダラダラと体を伝って雫を作っているのを顎で感じて、ミナは心のどこかで限界の片鱗を知覚していた。

 土踏まずの腱を切られて立つこともままならない程の激痛が足から伝わって体中で暴れまわった。今すぐ足を押さえてうずくまりたくなる衝動を気力で押し殺した。後ろで感じる和泉の気配がミナの体に芯を打って無理やり立たせていた。だが血を溢れさせる鋭い痛みは強い意志で保ち続けている矜持のダムに小さな綻びを刻んで、そこから滲んだ雫が涙となって目じりに浮かんできた。それを振り払うように拳銃を両手で構えなおす。

 左足を動かそうとすると流血の勢いと共に痛みが増した。それでもなおミナは感覚を研ぎ澄ませて男の気配を探ることを諦めなかった。

 あと少し…、あと少し時間を稼ぐだけでいいのだ……。

 視界が眩んで、目の前に闇がかかってきた……。

 …………。

「出来ました、ミナ先輩っ!」

 背中から聞こえたその言葉は、雲間から差し込む光芒のようだった。その言葉だけで体に力が蘇ってくるようだった。まるで跳ねるような動きでミナは和泉の作ったそれを引っ手繰った。

 引っ手繰ったロープの先は、投げ縄のように輪っかが作られていた。

「上出来だわ、和泉」

 言いながら彼女はその輪を自分の左肩にかける。その結び方は、輪が縮まらないもやい結びではなく、実際にカウボーイが用いていた結び方で輪が作られていて、また重い負荷がかかっても解けないようにしっかりと結ばれていた。

「……あとは、あたしがアイツを捕まえればいいだけ…」

 それさえ出来ればこの勝負、勝てる。

 そしてミナは力を振り絞り、出来る限り気丈に叫んだ。

「さあ、出てきなさいよ、モグラのようにコソコソとしながらしか戦えない腰抜けめ。たかが女子中学生相手に大の大人の男がビビってるんじゃないわよ!」

 ミナは頭をフル回転させて出来る限りあの男が逆上しそうな言葉や言い回しを探し、遠慮容赦なく叫び散らした。攻城戦において、相手を挑発することは常道戦術の一つだと本で読んだことがあったからだ。

「それとも、根暗なあんたには年頃の女の子の顔を真正面から見ることも出来ないのかしら? ……みっともない。よくそれでその歳まで生きて来れたものだわ。どうせその茶髪も自分のしょうもない虚栄心の現れなんでしょうね。そんなくだらない事をしている暇があったら自分の内面を磨けばいいのに。あんたのような人間に比べたら、東京の秋葉原で巣食ってるような男たちの方がいくらかマシだわ」

 経験上、男がキレやすい口上はだいたい知っていた。男なんてものはどいつもこいつも心のどこかにプライドという名の虚栄心を持っているもので、女が上から目線で叱りつけたり、本人が気にしていることをこき下ろしたり、他の男と比較したりすると大体の場合は心を深く傷つける。あとはトランプの中の男がふさぎ込んだり卑屈になったりせず、直情的に激昂する超ド級の大馬鹿男であることを願うだけだ。

 ミナは男のこれまでの行動や言動を思い出しながら男の内面を探った。

「そもそもあんたは和泉を攫って何をしようっての? いや、だいたい想像は出来るけれどね、女子中学生相手に未知の能力を悪用して恥ずかしくないのかしら、それとももしかして、そうやって攫った後に恋人にでもするつもり? そんなに世の中上手くいくわけないじゃないのよ、バァーッカッ!」

 突如、ミナの前方の床が膨れ上がった。いや、膨れ上がったのではない、茶髪の男が顔を真っ赤にしてトランプから飛び出してきたのだ。そしてその振り上げた右手には、ナイフが逆手に握られていた。

「かかったわね! 馬鹿男ッ!」

 ミナは口角を釣り上げて左手を体の前にかざした。獰猛な表情の裏側で覚悟を決める。

 そして彼女はナイフを持った男の右手に自分の左手を合わせて、そのまま男の右手にかぶせ、ミナの白い手から鮮血が飛び散った。

「いっ…、つぅぅ…」

 自分の手にめり込んだナイフに厭わず、ミナは左肩にかけたロープの輪を右手で持って、それをナイフを持った男の手首に通し、ロープを引っ張って硬く縛る。目にも止まらぬ速さでそれらを行ったミナに対する男は、自分の手首を見て初めて焦燥に駆られる表情で汗を垂らした。

「し、しまった…っ! この女…っ!」

「これで自分の世界に閉じこもれないわね、モグラ男」

 ミナは右手に拳銃を呼び出し、ナイフを持った手に銃口をくっつけて引き金を引いた。血を噴出させた手からナイフが零れ落ちて、それをミナが蹴り飛ばして遠くへやった。返り血がミナの制服を汚し、顔にも数滴かかった。

「いや、まだだ! このままカードを新しく作ってその中に入れば…っ!」

「そんなことは想定済みよっ!」

 ミナはロープを左手で持って何周か手に巻き付けると、右手に持った拳銃を窓の向こうに素早く一発撃つと、それを煙にして和泉の脇の下に右腕を回した。

「さあ和泉、突然で悪いけど……覚悟を決めなさい」

「へ? な、なんですか? 何をするんですか…?」

 ミナはロープを巻き付けた左手で和泉の膝裏を掬い上げると、横抱きにしたまま右脚で床を蹴って窓の枠に飛び上がった。これまでにない程に左足から血が噴き出て倒れそうになったが、ミナは最後の最後の根性で身を保つ。眼下には三階からの雨の景色が広がり、雨水と湿った風が和泉の頬を撫でた。

「このまま……、飛ぶのよっ!」

「へっ?」

 自分のカードの世界に隠れようとする男を背中にして、ミナは和泉と一緒に三階の窓から外界へ大きく跳び上がる。和泉がこれまでにないほど大きな金切り声で絶叫した。

 足場が消えて、内臓がせり上がってくるような浮遊感が襲う。眼前に雨雲が広がって、そしてそれは次の瞬間には落下する速度で離れていった。

 硬く目を閉じた和泉の耳に、ミナの叫ぶ言葉が聞こえた。

「あたしたちを受け止めなさいっ!」

 彼女のその言葉に呼応するようにエンジン音が唸って、それは和泉やミナの横を追い抜き、真下に来た。

「きゃぅ!」

 下から突き上げる衝撃が二人を襲った。しかしそれに悪意はない。ミナの指示に応じた彗星がミナの尻の下に回り、垂直尾翼と胴体の間に彼女らを載せたのだ。そして彗星の両側の尾翼に引っ掛けるようにしてミナが左手に持っていたロープを引っ掛けた。彼女らが載ってぐんと落下速度が小さくなる。彗星のプロペラが限界まで高速回転する。すぐにエンジン部から黒い煙が上がるほどだった。しかし掬い上げた彼女の馬力はミナたちを載せて上昇できるほどの物ではなく、まるでパラシュートを使ったかのようにゆっくりと地面へ向かって落下していた。

「ま…まずいッ! 早くロープを外さなくては……ッ!」

 そして和泉の頭上、さっきまでいた三階の窓から男の影が見えた。男の表情は猫に出くわしたドブネズミのように焦燥の汗をダラダラと滴らせ、死に直面した恐怖一色に染まっていた。

 女性とはいえ人間二人の体重に引っ張られ窓の外に突き出し、体まで乗り出していた。上半身がすべて窓の外に乗り出し、男の表情がこれ以上ない程の恐怖に歪み左手で窓の枠を必死で掴んでいた。そこにはガラスの破片があって、手のひらをズタズタにして真っ赤にする。

 そんな彼を見上げて、ミナは獰猛に、楽しそうに嘲笑う。

「結構頑張るじゃない! だったらあたしの飛行機たちが楽にしてあげるわっ!」

 二種類のエンジン音が嘶いた。その出どころは、ずっと外で待機していた紫電改と雷電だった。彼女らはまるで待っていたかのように嬉しそうに何度か旋回すると、窓がすべて割れた三階の端に照準を合わせると、すべての機銃を用いて一斉射撃した。

「う…うわぁあああ!」

 情けない男の絶叫が辺り一帯に響いた。数えるのもバカらしくなるほどの銃弾が三階の一角に襲い掛かり、窓枠を破壊し、外壁を破壊し、中の床にも壁にも無数の穴をあけ、あらゆるものを食らっていった。そして極めつけに男が掴んでいた窓枠をへし折り、サッシから外し、男の体は空しくも虚空に引きずり落される。

 ちょうどその頃、ミナと和泉は地に足をついていた。和泉を降ろしたミナは、拳銃を空高く掲げ、照準器の中に落下する男を捉えた。

 そして止めとばかりに、銃の引き金に力を籠め、遠く遠くまで響くように叫んだ。

「さあこれで終わりよ! 空の果てまで飛んでいきな!」

 銃口から最後の一機が発射された。四枚のプロペラを持ったその流星は機体の下部に一本の魚雷を抱えていた。流星は空気を切り裂いて高く高く空を駆け上がる。その機首が向かう先はただ一つ、五木将吾の体だった。

「ぎ…魚雷だと…っ! お…俺が悪かった…!」

 男のプライドが砕け散った瞬間だった。だが、いまさら砕けて命乞いをしたところで意味は無い。もう流星は攻撃態勢に入っていたからだ。そしてたった今、男の眼前で魚雷が切り離された。

 そして男の体が爆発した。


「昔、試したことがあるのよ」

 五木将吾の体は校舎の下の木に落下し、枝に引っかかった。ミナと和泉はその男の両腕をロープで縛ると、そのロープを爆弾や魚雷を降ろした彗星と流星の着艦フックに引っ掛けて運び、出来るだけ早くその場を離れた。誰かが来る前に爆弾や銃撃で無茶苦茶になった三階から離れなければ面倒なことになるのが必至だったからだ。もちろん、壁にめり込んだ銃弾は気士使いでない人には見えないので、教師や警察が、ミナがなにをどうしたと証明することは出来ないのだが、それでもだ。

「この不思議な力……気士で人を傷つけても死ぬことはない。いま改めて考えてみれば、きっと精神力だけでできた気士は肉体を傷つけることはできても肉体と精神を切り離すほどの能力は備わっていないのかもしれないわね。きっと、そういう風にできているのよ」

 男は酷い火傷を負っていたが、五体満足で気を失っているだけだった。もちろんそこには、ミナが予め魚雷の威力を押さえていたのもあるわけで、仮に全力の火力で魚雷をぶつけていれば四肢の一本や二本が吹き飛ぶことは確実だった。ちなみに、三階や他の場所のトランプのカードは彩雲や零戦を使って全部機銃で撃ち破いて回った。学校中隈なく探したので全部使えなくしたはずだ。

「……その、『試した』って…どういうことですか…?」

 ミナに肩を貸しながら和泉はおずおずと恐れながら訊いた。ミナの頭上には男を提げた二機の航空機が飛行していた。左足を引きずりながら歩く彼女の足跡は、ところどころ血の色が付いていた。二人はやがて雨で血が流れるように出来るだけ屋根のないところを選んである場所へ向かっていった。

 ミナは怯えの色を含んだ和泉の言葉に、少し押し黙ってから答える。

「……あたしが小学生だったころのある冬の日。担任の男の教師に襲われかけたことがあるのよ…、まあ…、その……性的にね。そいつはあたしをひと気のない教室の連れ込んで服を脱がそうとしたわ…。でもね…、ハハッ…馬鹿な男だわ。よりにもよってこの成木ミナを選ぶんだもの。ロシアンルーレットで一発目から実弾を引くようなものよ。あたし、無我夢中になって拳銃を呼び出してそいつを撃ちまくったわ。頭にも当てたし、心臓も貫いたわ。何度も何度もね。…でもそいつは生きていた。意識を失ったのを殺したと勘違いしてあたしは逃げたけど、後から聞いた話では生きていたわ。……ただ、そいつは二度と自分で何かをすることのできない植物人間になったけどね」

 そしてミナは乾いた笑いを吐き出した。そういえば、和泉にはミナの拳銃や航空機が見えていないはずだが、いまの説明で納得してくれただろうか、そもそもさっきまでの戦闘、和泉の視点で考えればミナは何も持っていないのに銃を撃つ真似をして大騒ぎしていたように見えていたのだろうか。その光景はなんとも……恥ずかしい。

 しかし和泉はミナの説明に怪訝な顔をすることはなく、それどころか同情するような、あるいは申し訳なく思うような表情でミナから顔をそむけた。

「その…嫌なこと思い出させてしまって……すいません」

「いいのよ。別に、嫌な記憶だとも思ってないしね……さあ、着いたわ」

 ミナと和泉は自分たちの荷物を置いてきた階段下の空間に到着した。相変わらず世間から忘れ去られたような空間でひっそりとしていた。その階段下は校舎裏の引き戸を引くとすぐに現れる位置にあった。引き戸の中に男を入れるのは苦労したが、一機を離脱させて一機だけで地面を擦りながら引き入れることで解決した。

「先輩、ほんまに大丈夫ですか…? 先に病院に行った方が…」

「大丈夫よ。それに、病院に行ってる間にこいつが逃げたら目も当てられないわ」

 ミナと和泉は男を階段下の壁にもたれさせた。そして、意識を失っている男の耳の真横に銃口を持ってくる。

「ほら、起きなさい」

 そしてミナは無造作に壁に向かって引き金を引いた。轟音が薄暗い空間に鳴り響いて、銃を持った右手が跳ね上がった。銃声に脳みそを揺さぶられた男が跳ねるように覚醒した。

「いつまで寝てんのよ根暗ホスト。こっちからしたら、これからが本番なのよ。……つぅ……はぁ、やっと座れるわ」

 ミナは男の対面の壁にもたれると、そのままずり下がるようにしてしゃがんだ。背中を付けた壁に、まるで筆で書いたように血の線が一直線に引かれた。座ると気が緩んで頭がガンガンと痛くなり、また視界が少し眩むのがわかった。右の膝の上に右ひじを載せて銃口を男の方に向ける。下着が見えるとかそういう事を気にする余裕すらもう残ってはいなかった。

 ミナの銃口を睨みつけながら男は喋るのも辛いのか、肩で息をしながら途切れ途切れに口を開いた。

「……君の聞きたいことは知っている。神隠しに遭った女子中高生のことだろう?」

「それもあるけど、あたしはそれよりも気士の事を訊きたいわね。あんたはさっき気士という名前しか教えなかったけど、あんたの事情やこだわりなんてこっちには関係ないわ。気士について知っていることを全部話してもらうわよ。…ああ、もちろん」そこで一旦言葉を区切ったミナは無造作に射撃して男の脚の間の床に弾痕を作った「知っているのに話さなかったり、嘘を吐いたりしたら、こうなるから」

「…無茶苦茶なことをする女子中学生だな、君は」

「御託はいいわ。さっさと気士について知っていることを全部話しなさい。それとも、股間にぶら下がってるものに穴をあけた方が話しやすくなるのかしら」

 ミナの眼光には、それを本当にやるという意思の力が宿っていた。その光に気おされた男は、乾いた笑みを浮かべてうなだれ「話す、話すよ」とこぼした。

「そうは言っても、俺が知っていることはそんなに多くない。本当だ。だが、この情報は大きな情報だ。――……ところで、このロープをほどいてはくれないか? 逃げはしない。神に誓ってもいいだろう。胸のポケットに入っているものを取りたいのだ。そこに入っているものが気士という能力の核心ってやつだ」

「……」

 ミナは深く熟考した。男の言葉の真偽を探っているのだ。ロープをほどくべきかほどかざるべきか、押し黙って考えてるうち、ミナの斜め上から控えめな声が聞こえてきた。彼女は小さく手を挙げる仕草をしていた。

「そ…、それならわたしが取りましょうか…?」

「和泉…。そうね、お願いするわ」

 ミナの言葉を受けて和泉がへっぴり腰で男に近づいた。ミナは男が和泉に危害を加えないか注視し、両手で拳銃を構えた。

「……」

「……」

 男は和泉のことをねちっこく見上げていたが、ひとまず何事もなく和泉が胸の内ポケットから男が持っていたものを抜き取った。そして、自分が抜き取ったものを目にして、驚愕と感嘆の入り混じった表情をする。

「…これは」

 驚愕するミナと和泉の顔を見た男は、まるで自慢するように誇らしく語った。

「凄いだろう? 宝石で出来た短剣だ。宝石が装飾されているのではない。柄も鍔も刃も、短剣を構成するすべての部品が透明なダイヤのような宝石で作られた短剣だ。それ一つで一体いくらの値が付くのか、俺には想像することも出来ないが、膨大な値段であることは間違いない。そして俺たちはその短剣を、『気士の短剣』と呼んでいる」

「……気士の短剣?」

 薄暗い空間でも輝くその美しさに見とれそうになりながらも、ミナは短剣から視線を男に移した。

「この短剣が気士とどんな関係があるというのよ」

「この短剣と気士の関係。……それは」

「……」

「……」

 男は大分もったいぶって、ミナが焦れるのを待ってから口を開いた。

「……それは……この短剣に斬られた者は、一つの例外もなく何らかの気士の力が発現するのだっ! ――……そう丁度、こんな風に…なっ!」

「きゃあっ!」

 瞬間、男は床を蹴って和泉に頭突きした。

「和泉っ!」

 ミナは咄嗟に銃を下ろして倒れかかった和泉を背中から受け止める。和泉が倒れることはなかったが、頭突きをされた時のはずみで気士の短剣が和泉の腕を大きく切り裂いていて、鮮血が和泉の腕から吹き出していた。

「自分がそうだからって、俺も同じように手からしか気士を呼び出せないとでも思ったか?」

 和泉を受け止めたミナは和泉の髪越しに男の顔を睨みつけた。銃を構えようとしたが、一瞬だけ和泉の体が邪魔になって遅れた。それが致命的だった。男は口からトランプのカードを吐き出すように生み出していたのだ。

「悪いが俺はこのカードで逃げさせてもらうッ!」

 男の体はすでに半分がカードの中に飲み込まれていた。ミナはやっと銃をカードに向けて叫んだ。

「待ちやがれっ! こっちはまだ聞くことがあんのよッ!」

 そして銃を三回発砲する。しかしその頃にはもう男の姿はカードの中にすべて飲み込まれていた。それどころか発砲した一発が男を飲み込んだカードのど真ん中を貫き、二度とトランプとしてもワープホールとしても使えなくしてしまった。大穴を開けたカードが床に落ちたのを見て、ミナは舌打ちした。

「クソっ。神隠しの事を一言も話さずに逃げやがって。しかもこんなデカい穴を開けちゃったわ…。これじゃあカードの中から引きづり出すことも出来なくなった……」

「…このカード、どないしますか…?」

 和泉は血の流れる左腕を右手で抑えながらしゃがんで、左手で穴の開いたカードを拾い上げた。カードの穴の周りには細い焦げ目がついていて、まだ少しだけ煙を出していて焦げ臭いにおいがした。

「もうそんなカードに価値なんかないわ。そこら辺に捨てちゃいなさい」

「…ポイ捨てになるやないですか」

 言いながら和泉はそのカードの制服のポケットに仕舞った。

「そんな事よりあなた、腕は大丈夫…? 早く保健室に行きましょう」

 腹とか足とかから血を流しているミナが銃を煙にしながらしゃがんで和泉の肩に手を置いた。

「…って、ミナ先輩の方がわたしよりもずっと重症やないですか…。――…って、あれ?」

 呆れながら和泉が左腕から右手を離すと、傷口のところに大きな絆創膏が貼りついていた。

「これ、あなたが貼ったの?」

「いいえ、わたしこんな絆創膏持ってないです」

 和泉が言い終わったころには絆創膏が勝手に剥がれ落ちていて、絆創膏の下の皮膚からはまるで初めから傷など付いていなかったかのように跡形もなく傷が消えていた。

 そしてその剥がれ落ちた絆創膏は煙になって消えた。その消え方はまるでそう……。

「……あたしの気士、デイジー・プリンセスのようだわ」

「気士……」

 そう呟く和泉の前にミナは右手の拳銃を掲げた。

「ねえ和泉、もう一回訊くわ。……あなたにこの拳銃が見える?」

 ミナの右手を凝視した和泉は、小さな声で答えた。

「……見えます」

 それから和泉は音読するような、あるいは独白する調子で語った。

「…不思議ですね。ついさっきまで頭の中になった知識や感覚を無理やり外側から書き込まれたような気分です…。ミナ先輩の言う気士のことが、まるで自分の手足の事のように理解できて自在に操る方法がわかるんです。……そして、わたしの気士の名前も」

「なんていう名前…?」

「わたしの気士の名前、それは…――……ヒール・マイワールド」

 和泉はそう言ってから「『わたしの世界』ってところが、わたしらしいですね」と自嘲するように笑った。

「でも、この気士のおかげでわたしでも先輩の力になれます」

 和泉はそう言うと、まるで毛布を広げるような仕草で大きな絆創膏を作り出した。それをそのままミナの背中に回して、ストールを羽織らせるように胸の前で絆創膏同士を貼り付けた。

「…暖かいわ。…とっても」

 その絆創膏にくるまれると張り詰めてピリピリしていたミナの心と体が弛緩した。体の力が抜けて壁に寄りかかってしゃがみ込み、陽気に包まれたような暖かな気分に身をゆだねる。ミナはそんな感情を知っていた。知っていたが、とても懐かしく感じる気分だった。ミナはそんな気分をくれた人のことを思い出す。もう家に帰っても出迎えてくれない母のぬくもりを思い出していた。

「…和泉の気士は温かくて、優しい気士だわ」

 その気士はミナの目じりを熱くする能力があって、また、ミナの鼻先をツンとさせた。

「もしまた先輩が誰かと戦うようなことがあったら、わたしのことを頼ってください。わたしが先輩の怪我を治しますから」

 和泉はそう言ってミナの隣に腰かけた。


     * * *


 翌週の月曜日。ミナは気士の短剣を鞄に入れて、そして和泉を率いて生徒会室を訪れた。夕暮れ時の空はどんよりと黒い雲に覆われていた。雨は上がっていたが空気は相変わらず重たくて、今にも再び降ってきそうな予感がひしひしと感じられた。

 気士の短剣を持っては来たものの、あの二人に気士のことを説明するかどうかはまだ迷っている最中だった。和泉は信じてくれたが、すべての人間が和泉のように寛容な価値観を持っているとは、流石のミナも考えてはいない。ましてや自分はあの二人から信用されていない。そんな関係性でやれ超能力だの、やれ普通の人には見えないだの話したらどんな目で見られるだろうか。よくて呆れられる。最悪精神科の病院を紹介されるかもしれない。可哀そうな人を見る目で見られるくらいならいっそふざけた事をぬかすなと怒鳴られた方がいくらかマシだなと思った。変な目で見られるだけならそれほど苦ではないが、その後面倒なことになるのはごめんだ。とはいえ、神隠し事件の犯人はまだ突き止めていない。あのトランプの男は気士の短剣を説明する時、一度だけ『俺たちは』と言った。つまり複数犯なのだ。それにそもそも、攫われた間少女たちの記憶を特定的に消す方法があるとすればそれは恐らく気士の能力で、そのような能力をトランプの男は持っていないようだった。この事件に気士が関わっているとわかった以上、その気士のことを隠して生徒会に嘘を吐くのは得策とは言えない。

「先輩。わたし、生徒会室に入るの初めてです」

「あたしも先週前まではそうだったわ」

「…先輩がいま生徒会と協力して行っているという捜査に、わたしが関わってもいいんでしょうか…」

「むしろ、あなたがいないととても困るわ。また昨日みたいに死にかけたりした時に治してくれる人がいなかったらたまったものではないもの。……それに、昨日みたいにあたしが壊した建物を治してくれる人がいないと困るしね」

 和泉には先週の戦闘が終わった後、学生寮の大浴場の檜風呂の中で女子生徒神隠し事件のあらましと、その捜査をミナと生徒会で行っていることを説明した。ついでに彼女に何か手がかりになりそうな情報がないかを訊いたが、彼女は首を横に振った。無理もない。生徒が消えるのはたかだか一日や二日。それに攫われた後の本人に様子のおかしな所がないのなら家族でもない周囲の人間が気付くのは難しいだろう。

 そうこうしているうちに生徒会室の前に到着した。ノックもせずに引き戸を開けると、秋葉と数馬が長机にティーセットを広げて仲良く隣同士に並んで茶会をしている最中だった。それじゃあ飲みづらいだろうと思うほどに秋葉が数馬にすり寄っていた。そんな生徒会室の端で雪香が苦虫を噛み潰したような顔で俯きがちに執務をしていた。目でわかりそうな気がするほどに両者のまとう空気感に長大な距離が出来上がっていた。

「生徒会室に男を連れ込むのはどうかと思うわよ、カイチョーさんよ」

 入室していきなり厭味ったらしく吐き捨てたミナの存在に気づいた秋葉は、敵対的な態度の裏側にバツの悪さを隠して、誤魔化すようにカップに口をつけた。

「いいじゃない少しくらい。それにここの長はわたしで、あなたは協力関係にあるものの結局は部外者でしかないのよ」

「……あっそう。そういえばあたしとあんたは別に仲間でもなんでもなかったわね。失念していたわ。……そんな部外者のあたしがあんたに一ついい話を教えてあげるわ。……とある世界最高のロックバンドは、メンバーの一人がレコーディングスタジオに恋人を連れ込んだことがいくつかあるうちの原因の一つとして崩壊したのよ。……この生徒会がそのバンドのようにならないといいけれど…、部外者のあたしがそう思うのはおせっかいって奴だったわね」

 フンっと鼻を鳴らしたミナは椅子の一つを引いて和泉にそこに座るように促した。和泉は押し付けるような張り詰めた空気に圧倒されながらも促された椅子に座る。ミナも彼女の隣に腰かけた。すると、今度は向かい座っていた数馬が唐突に立ち上がった。

「それじゃあ、僕はそろそろお暇しようかな。あまり長居しては迷惑だろうしね」

 秋葉は数馬の澄ました顔を寂しそうな顔で見上げた。

「そんな、別に気にすることはないのよ?」

「いや、そういう訳にもいかないよ。これから大事な話があるんだろう? それに、早く仕事を終わらせて、僕の部屋でもっと深く仲を深めよう」

「数馬さん…」恋人の言葉に秋葉はいじらしい表情で頬を染めた。それから彼に従うように席を立つ「それでは、そこまで送るわ。仕事が終わったら、数馬さんの家を訪ねますね」

「ああ、そうしよう。それがいい」

 そして数馬は腕に秋葉を付き従えさせて生徒会室を後にした。しかし数馬は去り際に、ミナに対して言葉を投げた。

「あのロックバンドの一番大きな解散理由はメンバー間の軋轢が大きくなったことにあるよ。君も、人間関係には気を使うことだね」

「……」

 彼の言葉にミナは鋭い眼光で睨みつけることで応えた。ミナの眼光に肩をすくめた数馬が苦笑して生徒会室から出ていった。扉が閉められる音を聞くと、すぐさまミナは雪香に視線を移した。

「あなたも嫌だと思うならはっきりそう口にしなさいよ。そんな部屋の端っこで一人寂しそうに仕事してないで」

「…うるさい」

 ミナの言葉に雪香は悔しそうに顔をそむけた。そんな姿を見て、ミナは頬杖を突いて眠たげな眼で質問する。

「…あの人、いつも恋人を連れ込んでるの?」

「まぁ…時々」

「ていうかあの二人、いつごろから付き合ってるの? ずっと前から?」

「ううん、結構最近。…二週間くらい前だったと思う」

「ふぅん…。それにしても、あの会長、見た目に反して結構だらしないのね」

「あの男と付き合う前はそんなことなかった…。あの男と付き合ってから会長は少し変わったよ…。以前の会長が今の会長を見たら、きっと苦言を呈するはず」

「……」

 二人がそんな会話をしていると、やがて秋葉が戻ってきた。その顔には数馬といたときのような弛緩した色はなく、口元を真一文字に閉じてきりっとした、冷たい印象の表情があった。そんな表情を見て、ミナが笑いそうになるのを堪えながら言い放った。

「恋人との時間を邪魔して悪かったわね」

「……ええ本当に」

 フンと鼻を鳴らした秋葉は不機嫌そうな仕草で自分の飲みかけのカップがある席に着いた。

「それで、隣の一年生はなに? 例の神隠し事件と関係があるのかしら」

「あ…ああ…」

 ミナは珍しく歯切れの悪い返事をした。何をどこまで話そうか考えあぐねているのだ。俯きがちになってどう説明しようか考えを巡らせていると、ミナが口を開く前に隣から声が聞こえた。

「わたし、先週末に男の人に攫われそうになったんです。ほんで、ミナ先輩はそこに駆けつけて助けてくれたんです」

「……それ、本当の話?」

 和泉の言葉に生徒会の二人は静かに大きく驚いた。秋葉に至ってはカップを持つ手を止めて、それを机に戻すと前のめりになって真偽のほどを確かめてきた。

「ほんまです。放課後の、学校の敷地内での事でした。茶髪で二十代くらいの男の人がわたしの手を掴んで攫おうとしたんです。そしたらミナ先輩が颯爽と駆けつけてくれてわたしを助けてくれたんです」

 真剣なまなざしで訴える彼女の瞳に、生徒会の二人はミナの方を見て感心したような息を吐いた。しかし、当のミナは若干頬を朱に染めながら携帯をいじるだけだった。

「……でも」雪香は口元に手を当てて考える素振りをした「学校外の人間の犯行なら、いよいよこれはわたし達の手に負えない案件じゃないですか? 生徒会の伝統があるとはいえ、もはや警察に捜査を依頼するべきことだと思いますが……。ところで成木さん。その男はあなたが駆けつけた後どうしたの?」

「ああ……、それは」ミナは少し俯いて考えを巡らせてから短く言った「…逃げたわ」

「そう…。――会長。いかがいたしますか? わたしとしては警察を頼るのが最善だと具申しますが…」

 雪香の進言を受けて秋葉は紅茶を少し口に含んだ。それを口の中で何度か転がすと、喉を小さく鳴らして嚥下した。

「…いいえ、やはりわたしたちで解決しましょう。仮に警察が犯人を捕まえたとしてもきっと大した罪には問われないでしょう。でも、大切な愛娘をかどわかされている保護者会はそれでは収まらないと思うの」

「その意見にはあたしも賛成だわ」携帯をポケットにしまいながら面を上げたミナが口を挟んだ「この程度の事件に警察が本気になって操作するとは思えないし、なにより乗り掛かった舟よ。あたしは最後まで解決したいわ」

 そう言うミナの理由は方便だった。内心では、この事件に気士使いが関わっているとわかったので、このまま事件を追いかけていけばこの能力をもっと深いところまで知れるかもしれないと考えたからだ。

「……わかりました。会長がそうおっしゃるならわたしはそれに従うだけです」

 雪香は渋々と言った風で俯きがちに視線をそらして自分の意見を翻した。

 少し天井を仰いでティーカップを乾かした秋葉は、ソーサーとカップを机に戻して目を伏せると、場を仕切る口調でまとめる。

「それでは、今日はここまでにしましょうか。今後は成木さんが逃がした犯人を引き続き追いかけるということで」

 その言葉で本日の会合はお開きになった。


     * * *


 翌日の朝の空は相変わらずの曇り空だった。しかも、昨日にも増して雲の層が厚くなっていてより一層どんよりとしている気がした。

「…今日も今日とて、眠たいわ」

 ミナは大きなあくびを手で隠しながら路面電車に乗り込んだ。ICカードを読み取り機に押し付けてから空いてる席に座った。乗り降り口が馬の嘶きのように空気を吐いて閉まる音を聞くと、やがて重たい車体が牛のように動き出してミナの体を後ろに押し付ける力が働く。車体が速度に乗って慣性の力が治まるとミナは鞄から化粧ポーチを取り出して、その中からまずはマスカラを選んだ。朝の忙しいミナはいつもこの時間を使って身だしなみを整えていた。周囲の大人たちの視線が突き刺さるような気がしたが、今更人の視線を気にするようなミナではない。セックスピストルズの『アナーキー・イン・ザ・UK』の鼻歌を歌いながら手鏡を片手にマスカラをまつ毛に載せていった。

 ミナは中学生女子の肌の価値とその活かし方を知っていた。雑誌やインターネットでその手の記事を読み漁ったからだ。だから自分の肌を痛めるような化粧品は使わないし、そもそもマスカラやリップクリームを用いたピンポイントメイクに留めていた。

 ミナがいつも使っている最寄りの駅から数駅が過ぎた。すると、降車ボタンも押されていないのに路面電車が駅に止まった。駅側に客が待っていたらしい。

「おっと」

 慣性の力が前にかかると、つい手が滑って手鏡を床に落としてしまった。一瞬、割れやしないかとヒヤリとしたが、鏡は鈍い音を一度だけ立てて鏡面を下にして倒れただけだった。ミナはその様子に安堵しつつも手を伸ばして鏡を取ろうとする。鏡はミナの座席から少し遠くにあったので、身をかがめて軽くお尻を浮かせなければ届かなかった。

 指先で鏡を引き寄せて取り上げると、ミナの視界が僅かに暗くなった。誰かがミナを自分の影の中に入れたのだ。妙に距離の近い影だなと思っていると、ミナの頭上から声が掛けられた。

「…ミナ先輩?」

 聞き知った声にミナが体を起こして見上げると、和泉が吊革につかまって桜色のフレームの眼鏡の向こうからこちらを見下ろしていた。

「あら、和泉。あなたも路面電車通学だったのね」

「はい。わたしいつもこの時間のちんち…」和泉は少し赤面して言葉を詰まらせた「すんません。この時間の路面電車を使つこうてるんです」

「そうなの。あたしもいつもこの時間だけど、全然気が付かなかったわ」

 けらけらと笑ってみせるミナに、和泉は苦笑で返した。それから和泉はミナが膝に置いてる化粧ポーチに興味を示したように艶やかな短い黒髪をかき上げながら覗き込んだ。

「先輩。なにやってはったんですか?」

「メイクよ。…と言っても、そんなしっかりしたものじゃないけどね。マスカラやアイラインで目元を強調したり、リップで唇に色を付けるくらいかしら」

 あなたはしないの? メイク。ミナは和泉の瞳を見据えるようにして何の装飾もされていない無垢な童顔を見つめた。和泉はミナの視線に動揺するように目を泳がしながら自分の横の床辺りへ視線を逸らすと、隠すように手を口元に当てた。

「興味はあるんですけど…、よぅわからんし…。それに、わたしがメイクしたって綺麗にならへんと思いますもん…」

 和泉のそんな返答を口元に当てられた手を見ながら聴いたミナはおかしく思って少し苦笑した。

「そんなことないわ。……でもそうね。余計なメイクをしてはあなたの愛らしい童顔が傷ついてしまうかもしれないわね」

 ミナの言葉を聞いた和泉の耳がたちまち桃色に染まった。

「な…、愛らしくなんかないですよ…。もう、なに言うてるんですか…」

「あたしは事実を言っただけよ。…でも世の中には童顔に合ったメイク…、中学生の肌や顔に合ったメイクの仕方ってのもあるのよ。一度くらいはそういうメイクをしてみるもいいと思わない?」

「そうでしょうか…」

「ま、強要はしないけどね」

 その時、路面電車が次の駅に止まった。扉が開くとお腹の大きな若い女性が乗り込んできた。ミナは車内を見回して席がすべて埋まっていることを確認すると、化粧ポーチを手早く鞄にしまって、大きなおなかを抱えた…マタニティマークを鞄にぶら下げたその女性に声を掛けた。

「あたしの座ってた席、使ってください」

「ありがとう…。でも、申し訳ないわ」

「気にしないでください。……そう、あなたのためにあたしが確保しておいたんです」

 冗談めかしていたずらっぽく笑うミナに、女性は笑顔と礼を返して彼女が座っていた席に腰かけた。

「……」

 体をずらして女性に道を譲った和泉は、妊婦の女性と軽い雑談を交わすミナの、リップの塗られた唇を羨ましそうに眺めていた。


 路面電車から降りた二人は並んで学校に向かって歩いていた。多くの生徒が同じように学校の方向へ歩ていく中、ミナは和泉に一言断ってそばの自販機にICカードを押し付けて缶コーヒーを落とした。

「先輩ってコーヒー好きなんですか?」

 プルタブを起こして一気に煽るミナ。舌を襲う苦い汁に苦悶の表情を浮かべながら口に流し込んで、半分まで飲んだところで何とも言えない顔のままで和泉の問いかけに答えた。

「いいえ、嫌いよ」

 そう言ってまた缶コーヒーに口をつける。さらに半分飲んだところで思わず、まっず、と口をついて出た。

「それじゃあなんで買うてるんですか…?」

「眠気覚ましよ。本当は夜更かししたら肌が荒れるからしたくないんだけど、やることが多くてそうも言ってられないのよ」

 そしてミナは大きなあくびを手で隠した。目じりに浮かんだ涙を拭って缶コーヒーを飲み干し、自販機横のゴミ箱に放り込んだ。

「さ、行きましょ」

「はい、ミナ先輩」

 大きく伸びをするミナが先行して和泉はそれに続いた。

「…そう言えば結局、昨日は気士のことについて話せなかったわね…」

 ミナは学校の方を向いたまま唐突に切り出した。そんな彼女の横顔を横目で見てから、和泉は淡々という。

「きっと、話しても信じてくれなかったと思いますよ」

「でも…、誤魔化してくれた和泉には悪いけど、あの二人と協力して犯人を突き止めるならいつかは言わなきゃならないわ。……あたしと和泉だけで探し出すっていうなら別だけど…」

 わたしは別にミナ先輩と一緒なら二人でも……。口元だけで小さくつぶやいた和泉の言葉はミナには届かなかった。その代わり、和泉はミナとの距離を少し近づけた。

「…ほんなら、今日のお昼に説明しますか?」

「……、そうね、きっとその方がいいわ」

「信じてくれるでしょうか…」

「口で説明するだけだったら難しいだろうから、目の前で実演してみるしかなわね。遠くの窓ガラスを撃ってみるとか、割ったティーカップを直してみるとか」

「…心霊現象だ、って怖がられなければええんですけど…」

 少しもしないうちに二人は校門をくぐって、昇降口に入り、それぞれのロッカーに向かった。

 和泉はミナと別れた後、自分のロッカーを開けた。自分のロッカーは膝の高さにあるのでかなり屈まなければいけなかった。ローファを脱いで上履きを取り出すとロッカーの中の上履きを自分の前に落とす。

 突然、和泉のお尻に衝撃が走った。

「わぶっ」

 素っ頓狂な声を上げて前につんのめったのをロッカーに手をついて支えると、和泉の後方から声がかかった。

「あら、ごめんなさいね、ちゃうちゃうちゃん」

 和泉が声のした方を振り返ると、見知った顔の女子生徒数人が和泉のことをクスクスと嘲笑しながら去っていくところだった。その女子生徒らは和泉のクラスメイトで、『ちゃうちゃうちゃん』とは和泉の事だった。

「……はぁ」

 その背中を見送りながらため息を吐く和泉。今朝はミナと一緒に登校出来て気分が高揚していたのに、一気に谷底に落とされた気持ちだった。


     * * *


「なに? 昨日に続いてまた何かあったの?」

 昼休み、ミナと和泉は生徒会室を訪れた。ミナと和泉は一緒に昼食を食べた後だった。ちなみに、ミナは自作の弁当。和泉は学校内のコンビニで買ったおにぎりとお茶だった。

「昨日、説明しそびれたことがあったのよ」

 紅茶を飲みながらひそめた眉でミナと和泉を迎えた秋葉。その隣に雪香もいて、こっちはこっちでミナを横目で睨みつけ、『邪魔をするな』と言外に語っていた。

 秋葉は自分の向かい側に座るミナと和泉にため息をして、「早く話してちょうだい」と発言を促した。いきなりピリピリする空気感に和泉は気圧されながらミナに耳打ちする。

「なんで生徒会長ってミナ先輩にあたりきついんですか?」

 和泉の吐く息を耳元で感じたミナは、同じように和泉に耳打ちし返す。

「要約すると、『危ないところをあたしに助けられて悔しい』ってところね」

「わたしと成木さんとでは根本的にそりが合わないのよ」

 ミナの返答を聞き逃さなかったらしい秋葉がミナの言い終わりに重ねる勢いで食い気味に怒気を強めて言い放った。和泉がその棘に委縮した。そんな彼女の小さな肩をミナが両手で抱きかかえ、飄々とした口調で秋葉に言葉を投げた。

「ちょっとぉ。あたしの可愛い後輩を怯えさせるのはやめてくれないかしら。和泉ったらこんなに縮こまっちゃって可哀そうに。おぉよしよし。お姉さんが頭を撫でてあげよう」

 和泉のさらさらの黒髪を撫でてやると、顔を真っ赤にして強張っていた和泉の表情が少し緩んだ。ミナのその態度に秋葉はまだなにごとかと口を開こうとしたが、彼女の隣でなりゆきを黙って聞いていた雪香が唐突に怒気を帯びた色で口を挟んだ。

「喧嘩をするのは後にして、さっさと言い忘れていた事を報告してよ、成木さん」

 あまりのその気迫にミナも和泉も秋葉も恐れおののいて、空気は一気に静かになった。

 それからミナが切り替えるように咳ばらいをしてから、真剣な表情で口を開く。

「……まずは、二人に見てもらいたいものがあるのよ」

 そう言ってミナは鞄から気士の短剣を取り出して、ミナと生徒会の間の机の上に置いた。二人はその宝石の輝きと大きさに驚き、目を見開いて見とれていた。そんな二人の光景に厭わず、ミナはそのまま説明を続ける。

「その宝石の名前は気士の短剣。それは…」ミナはそこで一旦言葉を区切って、やがて決心し、言葉をつづけた「それで切られた人間は、気士と呼ばれる超能力を与えられるのよ」

 案の定、生徒会の二人は『はぁ? 何を言っているんだこいつは』とでも言うような、最大級に怪訝な表情でミナの瞳を見据えた。そんな視線に対してミナは「例えば…」と言いながら窓際の鉢植えに目を向ける。赤茶色の鉢植えの中には薄紫色のラベンダーが小さな花を集めていくつかの塔のように天を差していた。ミナはそんな鉢植えに右手を伸ばし、自分の気士の名前を小さく声に出す。

「デイジー・プリンセス」

 その言葉に反応して一丁の回転式拳銃が現れた。しかし、生徒会の二人にその拳銃は見えていないのだろう。

「……成木さん、その…大丈夫?」

 様子のおかしいミナの行動に、流石の雪香も心配するような声で問いかける。しかしミナはそんな彼女を無視して照準器の上に鉢植えを捉え、そのまま引き金を引いた。

 空気を震わせる銃声。しかしこれも生徒会の二人には聞こえていないのだろう。だが唐突に砕け散った鉢植えの音は聞こえていて、二人は肩を震わせて窓際の割れた鉢植えを見つけた。

「わたしのラベンダーっ!」

 それを見た瞬間泣くような声を挙げながら椅子を蹴って立ち上がったのは雪香だった。彼女は駆け足で割れた植木鉢のもとまで行くと、「一体どうして急に…。とにかく早く移し替えないと…」と慌てた調子でオロオロと代わりの容器を探し出した。そんな彼女の背中に、和泉が近づく。

「…ミナ先輩が拳銃を撃って割ったんです。すみません。……でもほら、見てください。わたし、壊れたものを直せるんです」

 言いながら和泉は大きめのハンカチ程の絆創膏を生み出すと、それを植木鉢にかぶせた。それから少し待って絆創膏を取りはらうと、数十秒前と全く変わらない、ヒビ一つ入っていない植木鉢が窓際に佇んでいて、薄紫色のラベンダーが天を差していた。

 目の前で起こったその現象に、雪香はいよいよ心から驚愕し、そしてその顔に恐怖の表情さえ浮かべていた。

「あなた今…、なにをしたの…?」

「…今あなたの目の前で起こった異常な現象が、気士って能力を使った結果よ」

 和泉が答える前にミナが雪香の背中に言葉を投げた。振り返る雪香に、ミナは言葉を続ける。

「その気士の短剣で体を傷つけられると、普通の人には見ることが出来ない気士という超能力が手に入る。まさに先週、気士の短剣によって今見たような『なおす力』を手に入れた和泉がその証拠よ。……そしてどうやら、女子生徒をかどわかしている連中も、気士使いみたいなのよ。…気士って能力の事をどうしても信じられないって言うなら、いまこの場でその気士の短剣で自分の指先でも切ってみたらいいわ。何かの能力が発現して、あたしたちの拳銃や絆創膏を見ることが出来るから。…まあ、おすすめはしないけどね」

「……あなたは」

 雪香が冷や汗を流しながら口を開いた。その声は恐怖を帯びていて、雪香はミナとの距離を取ろうと少しだけ足を後ろにずらした。

「あなたは、いつごろそれを手に入れたの…? 遠くにある植木鉢を壊すような能力を、いつどうやって手に入れたの…?」

「………」

 その言葉にミナはひときわ重たく、暗く押し黙った。気士の事を話すかどうかという時よりもすっと深く、話そうかどうかを迷っていたのだ。しかし、もう気士の事を話してしまったこと、ここで変に誤魔化したり取り繕ったりするのは生徒会との軋轢を今まで以上に深くし、気士の事を追いかけることの障害になるのではないかと思った。だから彼女はリップを塗った下唇を少し噛んでから、ゆっくりした口調で話し始めた。

「……あたしが気士を手に入れたのは、あたしが小学生の頃、あたしのお母さんが通り魔に刺殺された時よ」

 目を伏せて淡々と語るミナ。彼女の視線は机の一点を見つめていて、他の三人がどういう表情で聞いているのかわからなかった。

「お母さんが死んだときも、土砂降りの梅雨の雨の日だったわ。お母さんが傘を差していて、あたしと手を繋いで家に帰る途中、前からフードとマスクで素性を隠した人が…、服装と身長からして多分男だったけど、そいつが袖口からこの気士の短剣を抜き取ったのよ。やけにキラキラした剣だったから、よく覚えているわ」

「…先輩、この短剣を見たことがあったんですね」

「悪かったわね、言わなくて」ミナは端的に和泉に謝ってから話を続ける「そいつは右手に短剣を持つと、あたしの顔をじとっと見つめて切っ先をこちらに向けてきたわ。そしてそのままあたしに向かって突進してきて……。咄嗟に目を閉じて視界が真っ暗になった後、目を開けたら雨を降らす雲の空が広がっていたわ。…あたしはお母さんに守られて体に軽い傷がつくだけで済んだけど、お母さんは体を貫かれるほど深く突き刺されて、血が海のようにどくどくとたくさん流れて……死んだわ」

 骨がきしむ音が聞こえた。ミナが自分の手を握り締めて、白くなるほど硬い拳を作った時の音だった。そんな些細な音がやけに大きく聞こえるほどその場が静まり返っていた。誰も話さない時間がしばらく続いて、やがて遠くで雷鳴が聞こえた。

「……悪いわね、重たい空気にしちゃって。ともかく、あたしが気士を手に入れたのは小学生の頃よ」

 ミナがそう言いながら顔を上げると、雪香がミナに近づいて、その前に置かれた気士の短剣を手に取っているところだった。

「…成木さんのお母さんの話。とても嘘を言っているようには聞こえなかった。……でも、本当に超能力なんてものがあると簡単に信じられるほど、わたしも素直じゃない」

「信じられないなら信じないままでいいわ。…ただ、あたしたちのやることに対して変な反応をしたり余計なことをしないでくれたら、あたしはあたしで勝手にやるから」

 そう言ってミナは椅子から立ち上がろうとした。話したいことは話したからもうここを後にしようと思ったのだ。結局気士のことを信じてはくれなかったけど、それも想定はしていたことだ。予定は変わったが、自分一人で気士の事を追いかければいいだけだ。

 ところが、次の瞬間ミナの動きが止まった。

「お、おいっ!」

 ミナの目の前で、雪香が気士の短剣で自分の左手の平を真一文字に斬ったからだ。雪香が痛みを小さく声に出してその色に顔をゆがめていた。脂汗が白い肌を伝う。

「あんた…、なんで…」

「…自分で自分の手を切ることよりも目に見えない超能力の方が怖い。そう思っただけよ」

 雪香の左手から流れ出た鮮血が数滴ぽたぽたと机の上に落ちて赤く小さな花の模様を作った。

「わたしっ。治しますっ」

 その光景を見た和泉が血相を変えて駆け寄ってきた。彼女は両手で雪香の左手を包むと、その中で気士を発動する。

「やれやれ…。傷つけてみればと言ったのはあたしだけど、まさか本当にやるとは思わなかったわ」

 和泉が両手を離すと、ミナの目には雪香の左手に絆創膏が貼りつけられていた。そしてその手を指さした。

「あなた、いまその左手に絆創膏が貼られているの、わかる?」

 雪香はこくりと小さくうなずいた。そのころにはもう、絆創膏は剥がれ落ちて煙になって消えていた。

「それが和泉の気士よ。名前は確か…」

「ヒール・マイワールドです。ミナ先輩」

「そうそれ。それは怪我を治したり、壊れたものを直したりできる能力。今さっき植木鉢を直したのもその能力よ。そしてあたしの気士が……」

 ミナは拳銃を現出させて机の上に置いた。ゴトリという音が雪香の耳にも届いたことだろう。

「この拳銃よ。名前はデイジー・プリンセス。この拳銃から熱量弾を撃ち出すことも出来るし、小型の軍用機を六機生み出して使役することも出来る」

 ミナは「それで…」ともう一度雪香を指さした。

「そういう超能力が、たった今あなたにも開花したはずよ。その名前も能力ももう頭の中に入っているはず。もし危険なものでないとしたら、いまここで発動してみなさいよ」

「………」

 雪香は数秒間ミナを無言で見つめた。彼女はやがて近くの椅子に座ると自分の両手を合わせて玉を作り、静かに短く、そして若干緊張した口調と面持ちで口を開いた。

「ヴィシャス」

 手を開くと、彼女の手の中で鼠…いやハムスターが頭を洗うような仕草をしていた。そいつは片眼鏡をしていて薄茶色のインバネスコートを着ていた。

「……」

「……」

「……かわいい」

 和泉は思わず携帯を取り出してそのハムスターを写真に撮ろうとした。しかしどうやら気士は写真に写らないらしく、雪香の手しか映していなかった。

「気士って、人間の精神力で出来ているんだって。……あなたの精神ってずいぶんかわいらしいのね」

 けらけら笑いながらはやし立てるミナに、雪香が「うるさいっ」と明るく怒鳴った。

「まあでも、気士の事を信じてくれてよかったわ」ミナは立ち上がりながら軽やかな口調で言う「気士の事を否定してお互いに懐疑的になっていたら、神隠しの犯人を捕らえられないもの」

 ミナが扉に向かって歩き出すのを見て、和泉がその後ろをとてとてと付いてくる。

「それじゃあ、あたしたちはもう帰るわ。話したいことはもう話したし」

 ミナは引き戸を開けた。そして軽く振り返って、去り際にこう言い残した。

「これからもよろしくね」

 そしてミナと和泉は生徒会室を退室した。廊下を歩くミナの背中に、和泉が軽やかな言葉を掛ける。

「先輩。ちょっと嬉しそうやないですか?」

「……べーつにー」

「気士の事、信じてくれてよかったですね」

「んー」

 ミナは、彼女にしては珍しくあいまいな返事をした。


     * * *


 午後の授業から雨が降ってきた。

 和泉のクラスもミナのクラスも六時間目が体育だったが、とても外で授業が出来るような天候ではなかったので両クラスが体育館を半分に分割して各々の授業に取り組んでいた。

 こちらは舞台側の空間を使っている和泉のクラス。和泉はまだ真新しい真っ白な体操服のトップスとショートパンツに身を包んでコートの一角に立っていた。

「はぁ…はよ終わらんかなぁ…」

 自分のチームと相手のチームを仕切るように張られたバレーボールのネットをぼんやりと眺めながら和泉は誰にも聞こえないように呟いた。

 彼女は体育が大嫌いだった。なぜこんなものが必修科目に入っているのか疑問でならなかった。こんなものをやったところでチームワークとか、協調性とかが育まれるわけがない。むしろ生徒間に不必要な確執が生まれるだけだと、和泉は身をもって実感していた。特にバレーボールなんて、跳ねまわるたびに眼鏡がずれて最悪だ。

 なんて、そんな愚痴を頭の中で展開していたから気が付かなかったのだろう、自分に向かって相手のサーブがまっすぐ飛んできたことを。

「わ…わっ」

 慌ててトスしようとしたが、ボールはすでに自分の腕より内側にいて、和泉の額にボール表面の柄を刻んで明後日の方向に飛んで行ってしまった。

「い…たぁ~」

 眼鏡に当たって割れなくてよかった。額をさすりながら駆け足で飛んで行ったボールを追いかける。そんな和泉の背中に笑い声が飛んできた。もう最近は聞きなれた、和泉の事を蔑む色を乗せた嘲笑だった。

「……」

 相手にしても仕方がない。こういう時、大人だったら放っておくのだろう。和泉はそう言い聞かせてボールを拾い上げる。するとその時、体育館の入り口側の空間から黄色い歓声が聞こえてきて、それに釣られて和泉と和泉のクラスメイトもその歓声の中心を探した。

 その歓声の中心には見慣れた赤い髪がたなびいていた。

「ミナ先輩…」

 その決定的瞬間は見逃したが歓声の内容に耳を傾けてみると、どうやらミナがバスケの試合で三点シュートを決めたらしい。ミナとしても上手くいくとは思っていなかったのか、跳び上がって喜んで同じチームの女子生徒に抱き着いていた。

「……」

 そんなミナの姿を遠くから眺めていると、自分とミナの距離が妙に遠く向こうに感じられた。


「難波さん、ちょっと頼みがあのですけど」

 授業終わり、更衣室で和泉とそのクラスが着替えていると、着替え終わってロッカーの扉を閉めた和泉のもとにクラスメイトの女子生徒が三人ほど近づいてきて、その中の一人が和泉にそう話しかけてきた。

「な…なにっ?」

 体を跳ねさせてそちらを振り向く和泉。緊張での上ずりと舟を漕ぐような方言が相まってより波のある言い方になった。そんな彼女に対して、三人のうちの真ん中にいる女子生徒が勝気で相手を見下すような態度で和泉に言った。

「この後のトイレ掃除、代わってくれないかしら。わたしたちこれから行くところがあるの」

 不遜なその言葉に和泉の瞼が僅かに動いて視線が下に泳いだ。

「…なんでわたしがやらなあかんの…」

「いいでしょう? 別に。……どうせ暇なんでしょう?」

 それじゃあ、よろしくね。その女子生徒三人組は和泉の返事も聞かずに更衣室を出ていってしまった。去り際に「あかんって何?」とか「変な喋り方」とかいうような囃し立てる声が聞こえてきた。

「……」

 和泉は下唇を噛んだ。トイレ掃除を押し付けられることよりも、三人組が囃し立てていた内容の方が和泉の心を黒くざわつかせた。


 そういう訳で和泉は本来別の人がやるべきトイレ掃除を一人で行っていた。外からは降り続く雨音が聞こえていて、廊下の向こうでは屋内練習に励んでいる陸上部の掛け声が届いていた。

「……」

 ブラシで床を擦っていく。そもそも人に押し付けられた仕事なのでやる気なんて出る訳もなく、片手で振り子のように動かすくらいの雑な手つきだった。

 ため息を吐きながら手洗い場の水気をぞうきんでふき取っていく。今思えば自分も放っておいて返ってしまえばよかったと思わないでもないが、それが出来ないのが和泉の性分だった。

 誰もいない中、黙々と掃除を行っていると、トイレの入り口の向こうから鼻歌が聞こえてきた。というか小さく歌を口ずさんでさえいた。

「……さいこっきらぁ、ふふっふ~ん……ってあら、和泉じゃない」

「ミナ先輩」

 声を掛けられて振り返ると、ミナが少し驚いた調子で和泉の事を見ていた。とはいえ彼女は特に気にする様子もなくそのまま個室に入る。

 小さな衣擦れの音が聞こえたあと、排泄音を隠す音姫の音が聞こえてきた。そして音姫の旋律が鳴りやんだ後、トイレットペーパーを引き出す音とともにミナの声が聞こえてきた。

「それで、どうしてあなたは一人でトイレ掃除をしているの?」

 その問いかけに和泉の心がきゅう、と締め付けられた。しかしその答えを口に出せないまま沈黙を貫いていると、ミナが重ねて問いかけてきた。

「まどろっこしいわね。質問を変えるわ。…誰かにやれと言われたの? ……そのまま沈黙を続けるなら、あたしはそれを肯定と受け取るわ」

「……」

 その言葉を受けて、和泉は口をつぐんだ。発言しないことを答えとしてくれる彼女の言葉が、いまの和泉にはありがたかった。

 蛇口のからもれる小さな水滴の音が聞こえるほど重たい沈黙がしばらく流れて、やがて扉の向こうのミナは「そう…」と納得する声を発した。

「…なら、やり返さなくちゃいけないわね」

 彼女は静かに口にした。


 翌日の昼は曇り空だった。雨は降っていないが、もう随分と長く太陽を見ていない気がした。

 授業の終わりと昼休みの開始を知らせるチャイムとともに教師が教室を出ていった。和泉は張り詰めたものを解くように小さな息を吐くと、鞄の中から財布を出して膝の上に置いた。

 昨日、ミナが昼休みに自分の教室で待つように言われたのでそのようにしているのだ。和泉の周りの生徒は各々仲のいい友人らと談笑をしながら教室を出ていく。和泉に声を掛ける生徒は一人もいなかった。

「……」

 周囲の話し声がが姦しく響く中で自分一人が取り残されていくような疎外感を感じた。まるで自分の周りがすべて崖になっていて、その崖の下に自分だけがいるようだった。

 しかし、深い心細さに襲われる和泉だったが、いまの彼女にこのままダメになってしまいそうな危うさはなかった。崖の真下に取り残されていても、いつまでも上空の光を見上げ続けている。そういう芯の通った強さが今の和泉にあった。

 以前まではそうではなかった。いつか倒れてしまいそうなほど彼女の心はヒビだらけだった。

 そんな彼女の心を癒してくれた人の事を、和泉は今か今かと待ち続けていた。

「やっほ、和泉。おまたせ」

 俯きがちになっていた和泉の顔を、和泉の机を叩く音で起こした声があった。和泉が見上げると、自分の目の前に待ち人が立っていた。

「ミナ先輩。早かったですね」

「授業が終わってすぐに飛び出してきたからね。……クラスの女の子に捕まったらアレだったし…」

 彼女は視線を横に泳がせて苦笑した。おどけたような彼女の仕草が少しかわいらしくて、和泉は破顔した。

「ミナ先輩、昨日も体育の時間、他の先輩方から黄色い歓声を受けてましたもんね」

「あー…見てたのね」

「隣で授業してましたから」

 ともかく二人は並んで歩いて和泉の教室を後にした。

 そんな二人の背中を教室の中に残っていたクラスメイトが怪訝な、あるいは興味深そうな表情でいつまでも見つめていた。


 和泉は学校内のコンビニで二つのパンと紅茶を買った後、ミナとともに学校内のテラスに向かい合って腰かけていた。そのテーブルは白くて丸いものだった。三つある椅子も同じ白さだ。

「そう言えばミナ先輩の気士の拳銃って…」

「これ?」

 ジャムパンの袋を開けながら言う和泉の言葉に反応したミナは、中指をトリガーガードに通して吊るすように現出させた。彼女は軽く弄ぶようにクルクル回すと、そのまま銃身に持ち替えて机の上に転がした。それから机の上に置いた自分の弁当箱を広げる。

 おもちゃの様な感覚で扱われたミナの拳銃に目を落としながら、和泉は言葉を続ける。

「それって、桑原式軽便拳銃ですか…?」

「くわっ……。なんて?」

 初めて聞く長ったらしい英単語を聞かされた時のような表情を浮かべながら身を乗り出すミナに、和泉はもう一度詳しく説明を始めた。

桑原式軽便拳銃くわばらしきけいべんけんじゅうです、先輩。日清戦争の時に昔の軍人さんが使ってた回転式拳銃なんですけど……」

 言っているうちにミナの目つきが胡乱になってきて不安な気持ちになり、言葉尻が弱弱しくなった。ミナは「う~ん…」と頭を掻きながら苦笑した。

「ごめんなさい。よくわからないわ。あたしとしては撃って弾丸が出ればいいだけだったから。飛行機の方だって、一応、図書館で調べたりもしたけど、どれもこれも同じような見た目でよくわからなかったし」

「……そうですか」

 ミナの返答に和泉は相手に気取られないように肩を落とした。しかし、グリップの形やその底に付いた輪っか。銃身の形からして桑原式軽便拳銃であることは確かだと確信していた。

「ってか和泉、やたらそういう事詳しいのね。好きなの?」

「はい…まあ。小説でも戦記物とか読むのが好きで、段々兵器の方にも興味出てきて色々調べていったっていうか……。変わってますよね」

 言っているうちに視線が落ちて最後にそんな自虐的な言葉まで出てきてしまった。変な子だと思われてしまっただろう。彼女もまた他の人達のように自分の距離を置くのだろうか。

「あたしは…」

 しかし、過去を思い出して気分が沈んだ和泉にかけられた言葉は今までかけられた言葉とは少し変わっていた。

「……。確かに変わっていると思うけど、あたしは変わっていることが悪いことだとは微塵も思わないわ。あなたのその変わった趣味は、あなたの中の魅力的でかわいらしい長所だわ。胸を張りなさい」

「ミナ先輩…」

 ミナの考えは和泉にとって革命的だった。停滞した彼女の心の海に一条の灯台の光が差し込んだようだった。だから鼻先が熱くなって目じりが潤んでしまうのも仕方のない事だろう。雫がこぼれなくてよかったと思った。

「それに、あたしだってもう死んだ人間の音楽ばっかり聴いてるしね」

 おどけたように言うミナはちろりと舌を出して肩をすくめた。

 その時、テラスに点在している丸いテーブルの群れのうち、妙に耳につく話し声が和泉とミナの気分をざわつかせた。その話し声の発信源は二人の座っているテーブルから一番近くにあるテーブルだった。

「……」

 ミナが首を少し動かしてその話声に耳を傾ける。意識を集中させてその内容を探ってみると、どうも癇に障る内容だった。

 隣のテーブルの周りに三人で座っているグループはこちらをチラチラと横目で見ては何事かを小声で話してはクスクスと笑っている。こちらを嘲っているのは明らかだった。

「…ねえ和泉。あれ、あたしたちのことを言っているのよね?」

「へ…?」

 そう訊いてきたミナの口調は氷のように冷たくて、しかしその言葉の隙間に橙色の炎の香りが漂っていた。

 彼女は静かに強い口調で続けて訊いてくる。

「和泉、正直に答えなさい。昨日、和泉にトイレ掃除を押し付けたのはあそこにいる三人?」

「は…はい…」

「…そう」

 ミナの気迫に圧されて誤魔化す余裕すらなくなっていた。ミナは和泉の返答を聞いて短くそう応えると、自分の近くに余っていた白い椅子の座面に足を掛けた。

 そしてそのまま、足の裏で思い切り蹴っ飛ばした。上履きに蹴られて転がった椅子は地面を擦って倒れて囃し立てていた三人組のうちの一人が座っていた椅子にぶつかって轟音を立てた。何かが壊れたかと勘違いするほど大きな音は、和泉の肩も三人組のそれもすくませて、周囲の人間の注目を集めた。

 三人組はまるでそれが鶴の一声かのように一瞬で静かになり、誰も彼もが呆気にとられていた。石のように固まってしまった三人組とは対照的に、周囲の無関係な人間たちは誰も彼もがこちらを遠巻きに見つめて、ざわざわひそひそと何事かを話していた。

 そんな台風のような空間の真ん中で、椅子を蹴飛ばした張本人は反動をつけてすっくと立ちあがる。

「…オイ」

 彼女はずかずかと肩を揺らして三人組のすぐ傍まで距離を詰めると胸を張り、不遜に相手を見下した態度でスカートのポケットに手を突っ込んで言った。

「うちの可愛い可愛い和泉が随分と世話になっているようね」

「ひ…へ…」

 その人生で滅多に向けられたことのないであろう悪意や殺意を全力で向けられて、その三人組はみな一様に口をひきつらせて体を強張らせていた。

 彼女らの返答を待たずに、眉間にしわを寄せているミナはそのまま言葉を続ける。

「どうしたの? さっきまでは好き勝手に癇に障ることをペチャクチャ喋っていて、いざこうして相手に敵意を向けられたら何も言えなくなってしまうの?」

 ほら、なんとか言いなさいよ。そう言って太ももで軽くテーブルを小突いてやった。するとその三人は面白いぐらいに飛び跳ねて短く悲鳴を上げた。きっと今の彼女らの頭の中は、なにを話せば良いのかわからなくなるくらいに混乱していることだろう。

「……」

 しばらくミナはこの三人が何かを言うのを期待して口を閉ざしてみた。今現在、燃え上がるくらいにキレている彼女だが、それでも何か一言くらいは釈明か謝罪を聴いてやろうと思ったのだ。もしかしたらなにか行き違いがあったのかもしれないし。……それでも今さっき、和泉や自分に対して悪意のある嘲笑をしていた事実は変わらないのだが。

 ところが、彼女たちは三人とも口を開かず、俯いているだけだった。と思ったら、時々チラチラとお互いの顔を伺っている。みんながみんな、何かを言えと目で催促しているのだろうか。

「…気に入らないわね」

 そういう人任せな態度はミナの嫌いな態度の一つだったので、それがつい口に出てしまった。そして、そういう態度を見ていると、もう相手に主導権を渡すような甘いやり方は辞めようという気分になった。

「まどろっこしいわ」

 端的にそう言うと、ミナは一番近くにいた女子生徒の胸倉を無造作につかんで、力任せに引き寄せた。掴まれた女子生徒はひときわ大きな悲鳴を上げていた。しかしミナはそんな彼女の声など無視して、彼女の体をテーブルの上に仰向けにして押し倒す。彼女らがコンビニで買ったであろうジュースやパンやアイスが押しのけられた。

 ミナは身を乗り上げて彼女の顔に自分の顔を近づけた。彼女の両足の間のテーブルに自分の膝を載せてさらに近づけ、その差を十センチまでに縮めた。真正面から間近で見る彼女の顔は恐怖におびえていて、目を充血させ、目じりから涙を零していた。

「今からあたしが聞く質問に正直に、はっきりと答えなさい。もし間違ったり、誤魔化した答えをしたら、そのよく回る舌でトイレ掃除をしてもらうわ。いいわね」

「は…、はひ…」

 顔を紅潮させてしゃくりあげながらも彼女はなんとかそれだけは口に出した。

 ミナは彼女の返答を聞くと、掴んだ胸倉をより締め上げながら質問をする。

「集団で行われる悪行ってのは往々にしてそれを率いて扇動している奴がいるものだわ。規模の大きな話にすると、場合によって政治家、場合によっては新聞やラジオが扱う言葉の力で大衆は簡単に一つの方向に向かうものだわ。わかる? あたしが聞きたいコト。……舌で便器を舐めたくなかったら、この嫌がらせを主導している主犯格が誰なのか、はっきりと正直に答えなさい。……それとももしかして、主犯格はあなたなのかしら?」

 鼻先と鼻先が当たりそうなほど近い距離でドスを効かせて聞いてみると、目の前の少女は涙を流しながらふるふると首を横に振った。それから小さい声で何事かを言った。

「ん? なんて?」

 それがよく聞こえなくて彼女の口元に左耳を寄せた。ミナの髪が彼女の頬に触れた。髪伝いに彼女の頬が震えながら言葉を紡ぐのを感じた。

「…同じクラスの……、三島綾香さん」

「そ、ありがと」

 その名前を聞くやいなやミナはあっさりと彼女を解放した。そうすると彼女とその友人の二人は自分たちの荷物を引っ掴んで脱兎のごとく逃げ出していった。そんな彼女らの背中を眠たげな眼で見ていると、やがて吐息を吐いて振り返った。彼女の背後には驚いたような怯えたような表情の和泉がいた。そんな彼女の目を見たミナは、彼女を安心させてやるためにくすりと笑って、自分の座っていた椅子に座りながらやさしく声を掛けた。

「お腹空いたわ。早く食べましょう」

 穏やかな所作で弁当箱を開けるミナに安心したように和泉は肩の力をふっと抜いた。


 ミナはひとまず放課後になるまで待った。放課後の終業直後なら目的の人物が確実に教室にいるはずだからだ。そう思ってミナは終業のチャイムを聞くと、ホームルームを待たずに荷物を鞄に仕舞って教室を出ていった。終業直後だったので廊下を歩いている生徒はミナ以外に一人もいなかった。

「ちょっと、あなたっ」

 すれ違った女性教師が怪訝な顔で戸惑いながらも引き留めようとミナの背中に声を掛けた。

「あぁ?」

 ミナはそんな女性教師に向かって肩越しにメンチを切ってビビらせた。そうすると女性教師は思った通りに縮み上がってそそくさとその場を立ち去っていった。少々心苦しかったが、いまは急いでいるので仕方がない。

 ミナは上履きで廊下を打ち鳴らして歩を進める。ひと気のない廊下の中で響く足音は妙によく反響していた。

 階段を下って一年生の教室が集まる階に下りた。そして和泉の居る教室にたどり着いた。

 教室の引き戸を勢いよく音を立てて開けると、教室の中にいた二十人ほどの生徒が皆一斉にこちらに視線を向けた。ミナは約四十個ほどの目を左から右までぐるっと見渡して、声高に叫んだ。

「この中に三島綾香って名前の女はいるかしら!」

 その瞬間、教室の中の何人かの視線が共通してある一点に動いた。その動きを注意深く観察したミナは、その視線の交わるある一点、そこで座っていたある女子生徒に狙いを定めた。

「……ふむ」

 躊躇いなくつかつかと教室の中に侵入し、狙いを定めた女子生徒の目の前に立ってその女子生徒を昼間と同じように睨みつけた。

「…あんたが三島綾香ね」

「そ…そうですけど…」

 彼女は手に持っていた携帯を下ろしてこちらを見上げた。綾香はキョロキョロと周りに視線を動かしていた。周囲の人間の様子を探るような仕草だった。そんな彼女の様子を構うことなくそのまま言葉を続ける。

「ちょっとツラ貸しな。――……それと、和泉もね」

「は…はい」

「……」

 顎で外を指すミナに、綾香は押し黙った。


 ミナは綾香と和泉を引き連れて校舎裏までやってきた。そこは以前、和泉に初めて出会った場所だった。ひと気がないのが丁度いいと思ったのだ。

 ミナは綾香と数メートルの距離を置いて対峙した。和泉はミナの背後に隠れて、彼女のスカートの裾を小さくつまんでいた。

 ミナはそんな和泉の手を握ってやりながら綾香を問いただした。

「あなた……、和泉に嫌がらせするのやめなさいよ」

「……」

「ねえあなた、聞いているの?」

「……」

 しかし綾香はまるでミナのことが見えていないかのように、ミナの言葉が聞こえていないかのように一切反応せず、右手に持った携帯電話を弄っているだけだった。

 なんだこいつ…。不遜な彼女の態度がミナの神経を逆なでた。しかしひとまず今は手を出すのを堪えて会話を成立させることに集中する。

「…もう一度言うわ。和泉が嫌な思いをするようなことをするなと、あたしは言っているの」

「……」

 しかし彼女は相変わらず携帯電話に目を落とし、なにをしているのか知らないがしきりに画面の上で親指を走らせているばかりだった。そんな彼女の態度に、ミナが小さく舌打ちする。

「…あなた…。あたしのこと舐めているのね」

 いよいよ肩を怒らせたミナが、スカートの端をつまんでいた和泉の手を解き、ずんずんと綾香の目前にまで距離を詰め、無言で右手の持った携帯電話をはたき落とした。

 地面を転がって画面に土が付着した携帯電話を見下ろして、綾香はミナに視線を合わせないままだったが、やっと口を開いた。

「…最悪。携帯が汚れちゃったじゃないですか。……それに、壊れたらどうしてくれるんですか? 先輩」

「そんなもの、あたしの知ったことではないわ。なんなら、いまここでその大好きな携帯を踏み潰してやってもいいのよ。……弁償はしないけどね」

 ミナは腕を組み、大股で綾香を見下ろしながら胸を張った。

「あなた、どうして和泉に嫌がらせをするの」

「……」

 綾香を睨みつけるミナの眼光に、やがて彼女は頭を掻きながら小さな声で言った。

「…そんなの、先輩に関係あるんですか? ないですよね? 下級生の問題に上級生が首を突っ込まないでくださいよ」

「関係ならあるわ」

 綾香の言葉にミナは堂々とした態度で即答する。

「和泉はあたしにとって大切な後輩だからよ。出逢って間もないけれど、親友と言ったっていいわ。あたしの大切な人が悲しんでいるなら、あたしはそれに寄り添ってあげ、一緒に問題を解決してあげるのよ」

「先輩…」

 背中から自分を呼ぶ震えた声が小さく聞こえた。だがミナは振り返らず、再び正面の女子生徒に言葉をぶつける。

「あたしの大事な大事な和泉に嫌がらせをする理由は何?」

「……」

 綾香は下からミナを鋭く睨みつけた。それから視線を横にずらすと、体を横に向け、自分の顔を隠すように後頭部を手で掻く。

 少しの間沈黙が続き、やがて綾香はその理由を口にした。

「…だって野蛮じゃないですか。……関西人って」

「…ハァ?」

 予想すらしていなかった理由に、ミナは半眼になって低く声を出した。

「嫌いなんですよ、わたし。自尊心高くて、やかましくて口汚い。わたしみたいな東京人とは似ても似つかない蛮族じゃないですか。みんなそう言ってますよ」

「そ…そんなことないわっ!」

 ミナの背後で和泉が珍しく声を荒げた。内心、和泉の大きな声を新鮮に感じながら、ミナは綾香から視線をずらさない。

「みんな…って、いったい何処の誰がそう言っているのよ」

「…みんなはみんなです。ネット上の人たちはみんな口を揃えてそう言ってます」

「はぁ~っ? …くっだらな」

 心底呆れた心境に、ミナは今まで出したこともない程大きな大きなため息を吐いて、綾香を蔑む視線で見下しながら鼻で笑った。

「つまりあんたは。自分には特に理由はないけど、ネットの偏った意見に影響されて、ネット上の意見をキョロキョロ気にしてしがみつく、超ド級の腰巾着オンナってわけね」

「なっ…!」

「なに? あたしは事実を言ったまでよ。文句あるの?」

 顔を真っ赤にして何か言おうとした綾香に先手を打って、彼女の開いた口を空を掴む手のように閉じさせた。

「理由がしょうもなさ過ぎて呆れたわ。あんたあれね、そのうち反社会的な過激派にでもなりそうだわ」そう言ってミナはあからさまに綾香に対して軽蔑する視線を送った。それから言葉を続ける「…っていうか、あたしあんたみたいな、自分ってものを持たない金魚の糞って大っ嫌いなのよね」

 吐き捨てるように言ったミナに対して、綾香は目を伏せ俯いていた。図星を突かれてショックを受けているのだろうか。わずかに肩が震えている。

「…ちょっときつい言葉を言われたくらいで憤ったの? それとも泣く? どちらにしても情けない子。あんたに比べたら、和泉の方がよっぽど立派だわ」

 憤怒か落涙か、どっちだろうとミナは目を細めて探った。どちらにしても人を貶めておいていざ仕返しを食らったらこの様なんて、精神が子供にもほどがある。…いや、中学一年生ではまだまだ子供か。……自分もたかだか一年年上なだけだけど。

「……ねぇ先輩。…そんなにわたしのことが嫌い?」

「嫌いだわ。虫唾が走る」

 震えながら聞いてくる声に即答した。これは落涙かな? ミナはそんなことを思っている前で綾香が面を上げた。

 涙の雫がこぼれるのを予想した。…だがミナが知覚したのは、その真逆の感情だった。

 彼女はこの状況で笑っていたのだ。

「…フフフッ…先輩。…これでもあたしの事が嫌いですか?」

「…っ? あなた…その頭の…」

 綾香の頭には、たった今、美しく輝くティアラが煙が収束するようにして現れた。

 その現れ方をミナはよく知っていた。そして反射的に右手に煙が収束して一丁の拳銃を握った。その瞬間、頭のティアラが一層美しく輝いた気がして、それにミナの心が魅了された。

 そんなミナの瞳を見た綾香が、勝ちを確信したかのように高らかに笑った。それから視線を和泉に向ける。

「ごめんなさいね、難波さん。…あなたのことが大好きな先輩。たった今、わたしが取っちゃった」

「な…何を言って…」

「あなたにこれが見えているのかどうか知らないけど、あたしは人の好意を操ることが出来るの。人の中にある好意的な感情を自分に向けることが出来る。…そして、好意の対局にはいつだって悪意がある。好意をわたしに向けたらその反対の悪意をどこかに向けなくてはならない。わたしはその生贄を、あなたに設定していたのよ」

「そんな…」

 和泉は絶望した顔でそう口から漏らした。そんな彼女の表情を途方のない優越感を見出した綾香は、肩を揺らしてなお笑った。

「さあ先輩。もう一度聞きましょう。…わたしのこと、好きですよね? わたしはこの能力で世界一愛される女になるんです。先輩もわたしを愛している…いえ愛さずにはいられないはずです。…だから先輩。貴女が愛するわたしからのお願いです。手始めにあそこにいる難波さんを殴ってみてくださいよ」

 パァン! と、空気を切り裂く小高い音が鳴り響いた。ミナが平手打ちをした音だった。ただし、綾香の頬に。

「なっ…」

 赤くなってひりひりとする痛みがじんわりと広がる頬に手を当てながら綾香はまるでこの世ならざるものを見るかのような驚きの表情でミナの瞳を見上げた。

「……可哀そうな子」

 ミナは綾香を見下ろしてそう呟いた。

「あたしはね、愛する人が悪事を働いていたらそれを全力で止めるわ。…きっとその人はあたしを恨むでしょう。裏切られたと思うだろうし、憎しみだって抱かれるかもしれない。それでもあたしはその人を正しい方向に導くわ。関わってくるな、好きにやらせろ、お前に何の関係があると言われたとしてもね。……そして、行った悪事の報いを必ず受けさせる」

 ミナは踵を返して和泉のもとに歩み寄った。その背中に綾香が言葉を投げつける。

「そんなのおかしい! そんなものは愛しているとは言わないですよ! 人を愛するということは、本当に愛していたら、その人のために世界中を敵に回しても構わない、歴史に名を遺すほどの大悪党になっても構わないと思うはず。それこそが本当の愛です!」

 彼女の言葉を無視してミナは和泉の肩に手を置いた。

「せ…先輩…?」

「はっきり言うと、いまのあたしは綾香の能力にかかっているわ。だからあたしは今、綾香を愛しているのでしょうね。……でも、それとこれとは話が違う。あなたは、自分自身で綾香に復讐をする権利がある。だから、あたしはあなたにこの銃を貸すわ」

 ミナは和泉の手を取って拳銃をその上に載せた。その重みと冷たさを感じて和泉の顔が強張る。

「先輩…」

「使い方はわかるわよね? 相手に銃口を向けて、引き金を引く。ただそれだけ」

 それだけ言い残してミナは綾香の下に返ってきた。怯えた表情でこちらを見上げてくる綾香に、ミナはただ無感情で無表情のままだった。

「あたしだって心の中では辛いわ。そしてとても悲しい。この感情が作られたものだとわかっていてもね。それでもあたしは、あなた為にあなたに罰を受けさせなくてはならない。そうこれは……あたしなりの愛ゆえの行動って奴かしらね」

「なにそれ…意味わかんない」

「わからなくてもいいわ。別に」

 それだけ言うと、ミナは綾香の足を踏みつけ、服を引っ張って引き倒し、膝立ちにさせた。それから綾香の背中に回って、逃げないようにその首根っこを掴む。

「和泉。もっと近くに寄りなさい。そんなに離れていては当たらないわ」

「……」

 拳銃を両手に持った和泉は無言で応答すると、ミナに言われたとおりに綾香に近づき、自分の背と同じぐらいの長さの距離で立ち止まった。

 視線の下の、震える肩にミナが声を掛けた。

「あなたは今、かつて自分が虐げていた人間に生殺与奪を握られているわ。わかる? あなたをどこまで痛めつけるかそれとも何もしないか。それを決めるすべての権利を彼女が握っているの。命乞いをするなら今のうちよ」

 気士では人は死なないという事実は敢えて教えなかった。その方が彼女をより恐怖に陥れられると思ったからだ。

 綾香は首だけを少しこちらに回して、震える唇を動かした。

「そんな…こんなの…、仕返しにしたって……、懲罰にしたってやりすぎだとは思わないんですか…? 先輩」

「やりすぎ? やりすぎかどうかを決めるのはあたしでもあなたでも、ましてや社会でもないわ。被害者…和泉だけよ」

 そして和泉が両手で包み込むようにグリップを握って、銃口を綾香の頭に向けた。銃口の奥の真っ黒な暗闇に睨まれ、綾香の顔が青くなった

「ひっ…」

「あー。頭を狙うのね。これじゃあ一番良くても植物人間は確実かしら」

 ミナは煽るように綾香の背中に投げつけた。その言葉に綾香の体からいよいよ力が抜けて、膝立ちも出来ずにそのままお尻を落とした。

「…わたし、自分の故郷を馬鹿にされるのって一番気分が悪くなるねん」

 震える口で和泉が語りだした。

「多分、郷土愛が人一倍強いんやと思うけど…。あなたや…あなたが操っていたクラスメイトがわたしを無視したり仕事を押し付けたりした時よりも、わたしの故郷を馬鹿にされた時の方がずっとずっと腹が立ったわ。……きっとわたしは相当な変人なんやと思う。いままでは我慢していればいいと思っていた。でも、あなたのさっきの一言でもうあかんくなったわ。…やっぱりわたし、あなたを許されへん」

 そして和泉は一瞬ためらってから銃口を下げ、……そして綾香の太ももを撃った。

「ぐっ…」

 喉の奥から急激な痛みがせり上がってきて綾香はたまらず絶叫し、蹲って撃たれた場所を押さえる。傷口から滝のような流血が広がった。

「…はっ」

 その真っ赤な色を見て和泉は冷静さを取り戻した。そして途端に自分がとんでもないことをしてしまったと感じて、銃を握る手が震え、だらりを下がった。

「銃弾一発分でいいの?」

 そんな和泉にミナが聞く。

「あなたが受けた痛みは銃弾一発分で釣り合うのかしら?」

「……全然足りません。わたしの傷ついた誇りの痛みはこれでは全然足りません」

「い…いやぁ…。やめて…」

 そして和泉は引き金を何度も引いた。轟音は五回鳴って、それ以降はハンマーが空振る金属音だけが鳴った。しかし飛翔した弾丸が綾香の体に着弾することはなく、彼女の周囲の地面に穴を開けて白煙を上げた。

 悲鳴を上げていた綾香は、和泉が気が付いた時には動かなくなっていた。息が聞こえるので死んだわけではない。恐怖からくる心拍数の高まりで気を失ってしまったのだろう。

 そんな様子を見て、和泉が静かに言う。

「でも…、こんなに弱々しく怯えている人…、わたし撃てません」

 そして和泉は自分の絆創膏を現出させて、綾香の太ももの傷口にそれを貼り付けた。

「あなたはやっぱり優しい子ね、和泉。…あたしだったら気が晴れるまで撃っていたわ」

 それにしても、人に貸した場合のミナの拳銃は装弾数が六発に限定されるらしい。ミナにとっても新発見だった。

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