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成木ミナのとある一日

 一章「成木ミナのとある一日」


 ある年の初夏の朝。長野県某所の松黒町はじっとりと汗ばんだ熱気に包まれていた。梅雨を間近に控えたその町は、この地域には少し珍しく、気温の高い六月初旬を迎えている。

 そこは松黒町の駅前。人々は皆一様に衣替えをし、半袖短パンで学校に向かう小学生の集団や、半袖のシャツに身を包んで脂ぎった汗をハンカチで拭っている小太りのサラリーマン。そして、白い半袖のシャツからさらに白い肌をのぞかせた女子高生が、髪をまとめ上げた背中に下着を透かせている。

 そんな女子高生の行きかう姿を見ながら、二人の男が若干鼻の下を伸ばしていた。

「おい勇。俺たちは今から学校をさぼってナンパをする。いいな」

「こんな朝っぱらのクソ暑ぃ日からナンパとかマジぱねーっす隆仁さん」

 真面目に学校に向かう女子高生たちを品定めするような目で眺めるその二人組は、両者ともボンタンに改造された真っ黒な学生ズボンを穿いていて、上は素肌に裾を短く切り落とされた学ランを羽織っている。その中の己の自慢の筋肉を見せつけているようだった。

 隆仁と呼ばれた背の高い男子学生は、相棒で後輩の勇と肩を組みながら後頭部のリーゼントを手で撫でる。前頭部のポンパドールが勇の頭にこすれた。

「いいか、人間ってのはな、朝は判断力が鈍るもんなんだ。だからちょっと強引に攻めればホイホイ釣れたりするんだよ。ポリ公が犯人の家に来る時は決まって早朝なのはこれが理由なんだよ」

「そんなことまで知ってるとかパイセンまじぱねーっす。超リスペクトっす」

 背の低い太鼓持ちの男に持ち上げられて、隆仁は鼻を鳴らしてドヤ顔を決める。体が高揚するのがわかった。

 パンチパーマを金髪に染めた勇は、道行く女子高生や女子中学生の背中を見て、血の流れが速くなった。あの白いうなじにどうしようもない欲望を刺激される。

「じゃあパイセン」勇は逸る気持ちを抑えようともしない「まずはどの子から行くんすか? 早くひっかけましょうよ。俺もう耐えらんねーっす」

「まあ待て。実はあらかじめターゲットは絞ってんだよ」

「ターゲットっすか?」

 後輩の言葉に隆仁は指をさして答えた。その指の先には茶色と黒のチェック柄が揺れる、プリーツスカートを履いた女学生が歩いていた。彼女は自分が指さされたのに気づくと、嫌そうな表情を隠しながら足早に去っていった。隆仁はその姿を視線で見送りながらも、あまり気にはしていない様子だ。

「あの子がターゲットなんすか? 逃げよったけどいいんすか?」

「ああ、いい。あいつ個人がターゲットじゃねぇ。あいつが通ってる学校の生徒がターゲットだからな」

 隆仁は組んでいた肩を離した。

「あいつのあの制服っつーと…、どこでしたっけ?」

「バカ野郎っ!」隆仁が声を荒げて勇に迫る。ポンパドールが彼の頭にささった「あの制服はボンボン校の阿兼智学園だろーがっ!」

 先輩の気迫を受けて、勇はへらへら笑って誤魔化した。

「ああ、名前くらいなら聞いたことあるっすよ。でも俺、こっちの方あまり来たことないんすよ」

「ちっ。まあいい。でもな勇。俺たちはあのボンボン校のおジョーサマを引っかけるためにわざわざバスと路面電車で二十駅も乗り継いできたことを忘れるな」

「押忍っ!」

 後輩に気合を入れさせた隆仁は改めて周囲を見回す。周りの人間は相変わらずこちらを横目でちらちらと盗み見ては絡まれるのを恐れてかそそくさを走って逃げていく。その根性の無い腑抜けた態度にむかっ腹が立った。いつもだったら声を荒げているところだが、今日はあんなしょうもない連中を怒鳴り散らすような日ではない。俺達にはあいつらとは違う、確かな目的があるのだ。

 駅前の雑踏の中、阿兼智学園の女子生徒で見た目の良さげな生徒を探す。隆仁がターミナルの方を向いていると、反対側の駅舎の方を向いていた勇が声を掛けてきた。

「お、隆仁先輩。あの子はどうっすか。かなりカワイーっすよ」

「あ? どこだオイ」隆仁が勇の肩に再び腕を回して彼が指す方向を視線で追う。すると、その先に確かに見目麗しい阿兼智の女子生徒がいた「やるじゃねーか勇。あいつは確かに上玉ってやつだぜ」

「あざすっ!」

 彼女は背中まで伸びるブロンドの髪をゴムやシュシュでまとめずに、そのまま蒸し暑い初夏の風になびかせていた。顔に垂れてくる髪の束をシックなデザインの髪留めで留めていて、前髪の先にある目は勝気な感じで、それでいて幼さの残る、まるで猫のような印象を与える。

 そのきりっとした相貌と、丁寧に着こなした制服、そして透け防止のために着ているのであろう毛糸のベストから優等生の印象を受ける彼女。彼女はたった今こちらに気づいたが、他の連中とは違い隆仁たちのことを避けようとせず、かといって至極気にしたりもしない。そのままこちらから視線を外し、気が付く前と同じように堂々と歩く姿は、一本芯の通った彼女の内面を現しているようだった。

「……」

「で、どうするんすか先輩。行くんすか?」

「あぁ? 行くに決まってるだろうがよ。見てろよテメーこの野郎。オラついてこい」

 芯の強そうな彼女を前に、少し怖気づいている自分がいた。まるで戦場に立つジャンヌダルクか巴御前のように威厳と威光を放ち続ける彼女の姿に胸を高鳴らせ、声を震わせる自分がいた。

 意識の遠くで「押忍っ!」という声を聴きながらずんずんと肩を揺らして隆仁は勇を引き連れて彼女の下へと近づく。彼女との距離が近づく度に鼓動が高鳴っている気がした。

 胸から飛び出そうな心臓を抑えて距離を詰める。こわばった彼の頬を一筋の汗が伝った。その汗の色は暑さではない。緊張だった。

 そんな汗を気にしないようにしながら歩を進める隆仁。やがて遂に彼とその後輩はブロンドの彼女の前に立ちはだかる。

 そして彼は、人生初のナンパを決行したのだった。

「なあねーちゃんよォ…」その声は上ずっていた。一度咳払いをして仕切りなおす「ちょっと道を教えてくれや」

 なぜかドスを効かせたその声に、返ってきた女子生徒の反応は短く「は?」だった。明らかに不愉快そうな顔をしている。

 やたらと低いその声に一瞬怖気づく隆仁。しかし彼は後輩の手前、自分のプライドの為にも引かず、心の中で檄を飛ばし、気合を入れなおす。

「だからよォ…ちょっと道案内してほしいんだよ…。俺らと一緒に来てくれねーかなァ?」

「ナンパの時でもドスを忘れないパイセンマジぱねーっす!」

 若干ずれた後輩の太鼓持ちを聞いて、女子生徒はますます警戒感を強め、肩から下げていた学生鞄を背負いなおす。このスカタン野郎。ナンパ中にナンパだと自分から言う奴がいるかボケが。内心で隆仁は後輩を恨んだが、今はそれを態度や言葉に表す時ではない。ともかくこの女子生徒を引っかけて、どこぞへ連れていくことで頭がいっぱいだった。

 だから彼は気が付かなかったのだ。

 三人の前に現れるもう一人の女子生徒の姿に。

「ちょっと~…アンタ達。あたしの連れに何ちょっかい掛けてんのよ」


 その女子生徒は黒いブーツをコツコツと鳴らして隆仁とブロンドの女子生徒の間に割って入った。両腕に白地に黒い柄のハンドカバーをつけている彼女は左手に持った鞄を肩から背中に回して提げている。彼女が着ている制服はブロンドの女子生徒が着ているものと同じだったが、スカートは階段でも見えないギリギリを攻めているし、シャツのボタンは上の一つが二つを外していて胸元を大きく見せ、リボンがだらりと下がっている。ブロンドの少女とは正反対の、素行不良の女子生徒という印象を与えていた。

 彼女は赤みががったミディアムヘアの頭を掻きながら眠たげな瞳で隆仁らを見上げる。緩くウェーブのかかった髪が風に靡いて、その間から深い緑色をしたエクステが二房、側頭部から覗いた。

「……」

 随分派手でパンクな格好をしている彼女だったが、その肌は瑞々しく、目鼻立ちも整っていて、ブロンドの少女と負けず劣らず美しかった。服装に反して化粧っけは少なく、リップやマスカラを使ったポイントメイクに留めている。そんな彼女からはむしろ清潔感さえ感じさせた。派手さと清楚さが上手く交差して自分だけにしか手に入れられない魅力を持った彼女に男二人が思わず見とれていると、眠たげな眼をそのままに少女がもう一度声を掛ける。

「ねぇ、聞いているの? アンタたち。こいつはあたしの連れなんだから、余計なちょっかい出すなっつってんの。わかる?」

 不機嫌そうな、それでいて相手を挑発するような口調。しかしその声色は三日月のように澄んでいて鋭く、地に足のついた声をしていた。そんな声にもう一度声を掛けられて、隆仁はいよいよ我に返った様子でハッとして自分を鼓舞するように一歩、彼女の前に足を踏み出した。

「ンだとテメェ。俺たちは後ろの女に用があンだよ。部外者はすっこんでろボケ。それとも何か? お前も後ろの女と一緒に『道案内』してくれるってのか?」

「はっ!」彼の言葉にパンクロックな服装の彼女は鼻で笑った「こんなクソ田舎でいっちょまえにナンパなんぞしてるダッサい連中を連れていくところなんて、サツか年少くらいしかないわ」

「…ん、だとォ~~ッ!」

 隆仁はカッとなって女子生徒の首に巻かれたチョーカーを掴み上げる。後輩の前で、しかも自分よりも年下の女子にひたすらにコケにされて、彼のプライドが吹き飛んだのだ。

「このクソアマっ! 女だからって俺が容赦するとでも思ってんのかボケがっ!」隆仁はチョーカーを掴んだまま自分に引き寄せる。顔と顔を突き合わせて、少女の額にポンパドールを突き刺した「あんまチョーシ乗ってっといてこますぞワレゴラっ!」

 彼が腹の底から怒鳴り散らすと一斉に周囲の注目を浴びた。その光景は完全に不良が女子中学生を脅している状況で、中には警察に通報しているのか、携帯を耳に当てている人間も何人かいた。

「調子に乗ってる…?」

 にわかに騒がしくなる喧騒の真ん中で、しかしパンクファッションの少女は怯えたり取り乱したりせず、ただ静かに口角を吊り上げていた。

「それはこっちの台詞よ、クソカスが」

 そして彼女は、空いている右手を隆仁の左太ももへ向けた。ブロンドの少女も、勇も、周囲の人も、そして隆仁もその右手は意識の外のあった。

 彼女は開いていた右手を、まるで握手でも求めるときのような形にすると、誰にも聞こえないほど小さな声量で静かに、こう告げた。

「デイジー・プリンセス」

 もしその言葉を周囲の人が聞いても何のことかわからなかっただろう。しかし、その言葉に反応するように彼女の伸ばされた右手が煙を帯びた。その煙はまばたき数度ほどで消え、それが消えるころ、彼女の右手には一丁の回転式拳銃が現れ、握られていた。

 その現象は手品と錯覚とかそんな次元のものではない。人類が現代まで積み上げて解明してきたこの世の理を、根底から覆すようなものだった。言うなれば、超自然的。あるいは、超能力とも呼べる現象であることは間違いがなかった。

 だがそんな現象が起こったのになお、周囲の人間は誰一人として気が付いていないようだった。

 そんな周囲のことは眼中にも収めず、少女は右手の中の拳銃の引き金に人差し指を掛けた。その動きに迷いはなかった。

「これでも食らいな」

 銃声が響いた。

 だが、弾けるようなその音を聞いたのは撃った本人だけだった。だが発射された弾丸は隆仁の太ももをボンタン越しに貫いた。ボンタンの裾から血が数滴垂れるのが誰の目にも見て明らかだった。

「い、いてぇえええっ!」

 細身の金づちで打ち付けられたような痛みがじんわりと走り、たまらず隆仁は声に出した。チョーカーから手を放し、うずくまって手で銃創を押さえる。

「せ、先輩っ?」突如として膝を抱えて悶えた先輩を前に、勇はあたふたと困惑しながらも駆け寄る「てめぇ今何をしやがったっ?」

「まったく、馬鹿ね」

 彼を撃った少女は勇の問いには答えない。右手の拳銃は煙になって消えていた。彼女はふんっ! と鼻を鳴らして軽蔑するような冷たい眼光で男二人を見下す。

「安心しなさい。死ぬことはないから」

 そして彼女は背を向け、背後にずっといたブロンドの少女の手を取って歩き出した。

 去り際に彼女は一つの言葉を残した。

「この成木ミナを侮るからそういう目に遭うのよ」


「あんたも災難だったわね~」

 ミナとブロンドの少女は二人で並んで歩いていた。向かう先はもちろん。二人が通う学校、私立阿兼智学園だ。

 ミナは鞄を持ったまま日光をいっぱいに浴びるように大きく伸びをする。それでも昨日の夜更かしのツケが溜まっていて大きなあくびが出たので、開いた口を手で隠した。

 二人は遊歩道に出た。この道をまっすぐ歩いていけばその先に学園があるのだ。この時期の遊歩道は桜の花はとっくに散っていて、瑞々しい緑の葉桜が川のようにうねる道を飾っていた。近くで雀の鳴き声が聞こえ、気温は高いけれどその景色や音だけを見ればさわやかな朝だった。その遊歩道の脇に青い色の自動販売機がある。

「あ、ちょっといい?」

 それを見やったミナは相手の返事を待たずに流れる動作でスカートのポケットからICカードを取り出して缶コーヒーを一本買った。

「あんた、コーヒーと紅茶、どっちが好き?」

「……紅茶」

「そ」

 どこか不満そうな声色には意識を向けず、そっけなく了承したミナはそのまま続けて紅茶を買う。取り出し口の中で缶コーヒーとボトル紅茶が打ち付けあった。

 ミナはそれを取り出すと、片手で缶コーヒーのプルタブを起こしながら紅茶をブロンドの少女に差し出した。

「ほら、あげるわ。あたしの奢りでいいから」

 言ってからミナはコーヒーを一口、口に含む。真っ黒な苦い液体が口内にその風味を広げて襲う。どうあっても舌に合わないその苦みに、ミナは不可抗力的に顔をしかめた。

「……」

 不機嫌そうな顔のままで紅茶を受け取った彼女は、それをしばらく見つめてからそのままの表情で口を開いた。

「わたし、あなたの友達になった覚えはなんだけれど」

「…あー。さっき、連れだって言ったこと? 別にいいじゃない。これから友達になれば同じことだわ。ところであんた、名前は?」

 彼女の言葉に、ブロンドの少女の一層不機嫌そうな顔を浮かべた。その表情の変化には、流石のミナも気づかざるをえなかった。

 ブロンドの少女は綺麗な折り目までつけた制服を風に揺らして低い声のままで決定的な言葉を言う。

「わたし、友達は選ぶ性質なの」

「…は? なにそれ、どういう意味よ」

 肩に担ぐように持っていた鞄をだらりと落とすように下げるミナ。コーヒーを飲んだ時よりも眉間にしわを寄せ、心の中に火花が散った。

「そのままの意味よ。名門校に通っているという自覚を持たず、そんなはしたない格好をして周りを不愉快にしているような人とは友達になりたくないと言っているのよ。わたしは」

 耳に光るピアスや首のチョーカー、黒いブーツ。その他ミナが自分を飾るために施したあらゆる装飾。そしてミナ自身を指して少女は言った。凛と通る氷のような声で言われたミナは、逆に心臓の奥で静かに燃え上がった。一瞬、こいつも拳銃で撃ち抜いてやろうかと思ったが、自分のことの為にそこまでするのは主義に反するのでそれは抑えた。

「…あんたね。あたしもあんまりこういう事は言いたくないけども、さっきのチンピラから助けてもらった相手にそういう事言うのは無いんじゃないの?」

 片手を腰に当てて片足に体重を預け、諭すような口調で言うミナに対して、ブロンドの少女は挑むような口調で言い返す。

「別に、あなたに助けられなくても自分でどうにでもなったわ」

「…ふぅん。あっそ」ミナはこれ見よがしに舌打ちして奥歯を噛み鳴らした「……ところで、あたしはさっきアンタの名前を聞いたんだけど、いい加減答えなさいよ」

 彼女の言葉にブロンドの少女は一つため息を吐いた。その不条理な反応が余計にミナの中の炎の薪になる。

「なんであたしがため息吐かれなきゃいけないのか、意味わかんないんだけど」

 そう毒づくミナの横を、静かに、しかし威圧的にブロンドの少女がローファを鳴らして歩いていく。彼女はすれ違い際に、ミナが奢った紅茶を突き返す。

「わたしの名前は姫神秋葉よ。自分の学校の今の生徒会長の名前くらい覚えておきなさい」

 葉桜の木漏れ日の中、黄金の長髪を風に靡かせて姫神秋葉はミナの先を歩いて行った。そんな彼女の背中を睨みながら、ミナは吐き捨てる。

「お礼くらい言えねーのかっつーの」

 そんな愚痴を聞くのは六月の風にそよぐ桜の並木だけだった。


     * * *


「成木さん。今やってる数学のところ、教えて欲しいんだけど…いいかしら?」

 その日の放課後、ミナは阿兼智学園中等部二年生の教室で、クラスメイトの女子生徒からそんなお願いをされていた。西日が教室に差し込んでいて、教室の中のすべてを橙に染め上げていた。阿兼智学園の校舎はは創始者の趣味が多分に反映されていて、基本は城のような純和風建築でありながら校舎としての機能性も重視された珍しい建築様式を取っていた。靴のままで入れるように床はほとんどが板張りでワックスが掛けられている。大きな窓からの夕方の風を浴びながら、ミナは教室の壁掛け時計を一瞥して友好的な笑みを浮かべた。

「三十分くらいだったらいいよ。どこがわからないの? 見せてみな」

「ありがとうっ」

 わずかに紅潮させて破顔したクラスメイトは、ミナの席の前に座ってノートを彼女の机に広げる。さっき終わりのホームルームが終わったばかりで、教室にはまだ多くの学生が残っていた。

「成木さんの教え方、先生よりもわかりやすいからわたし好きなのよ」

「はいはい、お世辞はいいから、わからないところはどこ?」

「あ、あのね……」

 そうして身を寄せ合ってノートに向かう二人。ミナの澄んだ声は各々好きなように雑談にふける教室の中でもよく響き、注目を集めた。

「あ、いいな。私も成木さんに教えてもらおうかしら」「そういえば私も化学でわからないところが……」「ミナっち~。わたしも教えてよ~」

 その集団の中から四、五人の生徒が寄ってきてミナの座る席を囲んだ。その人数を目の当たりにして、さしものミナも思わず顔をひきつらせた。

「う~ん…。教えてあげたいところだけど、あたし早く帰らなきゃいけないからまた今度でいいかな?」

 その返答に「えぇ~っ」と不満を露わにする声が一斉に上がる。その光景を見た、初めに教えを請いに来た女子生徒は得意げに鼻を鳴らし「早い者勝ちなのです」とつぶやいた。

 すると、そのタイミングで教室にチャイムが鳴り響いた。ビッグベンのチャイムではないので、放送のためのチャイムだ。

 しわがれた教師の声が学校中に響く。

『え~…。中等部二年C組成木ミナ。生徒会室まで来られたし。以上』

 ブツッ! という電気が無理に断ち切られる音を残して端的な放送は終わった。

 たったいま名を呼ばれた者は呼ばれる理由に心当たりがないので怪訝な顔をして首を傾げた。

「あたしが呼び出し…? しかも生徒会室って。なんなのよ」

 ともかく鞄をひっつかんで肩に担ぐ、そこでノートを広げていたクラスメイトがさっきまでの威勢はどこ吹く風とばかりに「えぇ~っ」と不満の声を上げた。

「ごめんね。勉強はまた明日見てあげるわ」

「本当? 必ずよ?」

 小首をかしげる彼女に「はいはい」と答えたミナは、彼女のサラサラの髪を軽く撫でて教室を後にした。


 左右に日本庭園の広がる渡り廊下を抜けた先の校舎にミナは入っていった。ついこの間までカーディガンを着ていたのに今週に入ってから一気に暑くなったようで、じっとりとした空気とジリジリとした日差しが肌を焼く。日焼け止めを塗ってきてよかったとミナは思った。しかし日焼け止めでは暑さを免れないので、ミナはたまらず両腕のハンドカバーを脱いで鞄の中に突っ込んだ。両腕の生の肌を外気に晒しながら彼女は木でできた階段へと歩を進める。生徒会室は、その校舎の三階にあるのだった。戦国時代の城と現代の校舎を足して二で割ったような景観の校舎。その階段を上り、ミナはついに生徒会室という看板の下に立つ。

 大抵の生徒はみなそうなのだが、その例にもれずミナも生徒会室の戸を叩くのは初めてのことだった。別に恐れる必要はないのに訳もなく脈拍が速くなっているのを感じた。

 ミナは木製の引き戸を叩きながら扉の向こうに言葉を飛ばした。

「失礼しまぁす」

 間延びした挨拶で戸を引いたとき、はた、とミナは思い出した。今朝チンピラから助け、不遜な態度で礼も言わずに立ち去って行った少女の肩書を。そのことが重荷になって一瞬引き戸に掛かった手が止まりかかったが、もう遅い。引き戸は開け放たれ、ミナの目に夕日に燃えるブロンドの長髪が飛び込み、ほのかに香る紅茶の薫りが鼻孔をくすぐった。

 ――うぅ~っわ。やっぱりいる…。

 ミナは心の中だけで毒づいた。姫神秋葉の他にはもう一人の女子生徒と生徒会の顧問の先生がそれぞれ両脇に立ってミナを待ち構えていた。

「いらっしゃい。まあとりあえずそこに座りなさい」

 顧問の先生はミナの姿を見、初老らしい皺の多い手としわがれた声で彼女を招き入れた。その声は紳士的だが、根っこに高圧的な色が含まれていた。その色を敏感に感じ取ったミナは若干癇に障ったが、この程度のことで突っかかっていてはキリがないのでこの場は返事の声に不満の色を混ぜるだけに留めた。

 指示された席は秋葉が座っているところの真向かいで、そこにはミナが来るよりも前に紅茶とケーキが用意されていた。純白の陶磁器に生ったままの苺があしらわれたティーカップとソーサー、それとプレートから美しい橙色の紅茶の薫りや、チーズケーキの甘い匂いが漂っていた。

「なにこれ、食べて良いわけ?」

「ええどうぞ」

 顧問の返答を聞いてミナは遠慮容赦なく手を付けた。そばにあったシュガーボックスから角砂糖を二つ入れてから、カップの持ち手の穴に指を引っ掻けるようにして口の中に流し込む。苺の甘酸っぱい香りとクセのないまろやかな味が口の中に広がって、この部屋に入ってから少しイラついていたミナの心を少しだけほぐした。

「成木ミナ。中等部二年。誕生日は十二月二十日」

 外から見てもわかるほどに態度を軟化させたミナに、秋葉の隣に立っていた女子生徒が手に持ったバインダーに留めてある資料に目を落としながらその内容を音読する。

「初等部、中等部、高等部、そして大学まであるこの阿兼智学園に中等部からの受験で入学した生徒で、成績はいつも上位。それによって学校からの給付型奨学金を受給し、また受験時に上位で合格したために学費も免除。しかしその素行は悪く、授業には真面目に出席しているものの、服装の乱れや教職員に対する反抗が色濃く目立つ……」

「ねえ、あたしの事を事細かく解説するのやめてくれない? むず痒くなるわ。っていうか、あんたどこの誰よ。名前は?」

 紅茶がまだ半分残っているカップをソーサーに置いたミナが音読していた生徒を指さして誰何する。受けた女子生徒は無表情のままでこちらに視線を移した。

「……ここまでの情報に間違いは無い?」

「こっちが訊いてんのに訊き返してくるんじゃないわよスカタン。生徒会ってのは自分の名前も名乗れないドアホしかいないわけ?」

 語気を少し荒くして早口でそう罵ると、その女子生徒は明らかに不愉快そうな顔をし、くぐもった小さな声で短く「……松島雪香。中等部生徒会の副会長よ」と答えた。

「松島雪香ね。しっかり覚えたわ」ミナは机に頬杖を突いて脚を組む「それで、どうしてわざわざ放送まで使ってあたしをここに呼んだのよ」

 松島雪香は漆黒のウェーブがかかった長髪を手で掻き上げた。彼女の形のいい耳が夕日に晒される。それから彼女が答えようとしたが、それを手で制して秋葉が口を開いた。雪香の犬のようなつぶらな瞳が生徒会長の方を向く。

「成木さん。あなたは最近、この学校の女子生徒の間に起こっているある事件を知っているかしら」

 彼女は自分の前にある紅茶を少し口に含んでからそう聞いてきた。カップやソーサー、プレートのデザインはミナと同じものだった。

「ある問題? 知らないわ。きっと聞いたことも無い。なんなのよその事件ってのは」

 秋葉は一呼吸置いてから淡々と言った。

「中等部から高等部までの女子生徒三十六人が立て続けに数日間、無断で家や寮を空ける事件が起こったのよ。そして、その家を空けた生徒達は開けていた間のことを『覚えていない』と言うの」

「……」

 ミナは彼女の言葉の続きを待った。

「……」

「……」

「……」

「……へ? それだけ…?」

 思わず気の抜けた声を出してしまった。うっかり頬杖のバランスを崩しかける。

 そんな彼女の反応に秋葉は怪訝な顔をする。

「…それだけ言えばそれだけだけれど…。……どうして今、呆れたような乾いた笑みを浮かべているのかしら」

「いやだって…ハハッ。やたらと神妙な顔してなに言いだすのかと思えば…。そんなこと? だって、その返ってこなかった子たちってみんな中等部か高等部なんでしょう? 夜遊びや外泊なんて今更取り立てて騒ぐほどの事でもないじゃない。みんながみんなとは言わないけど、そういう事をする子なんてごまんといるわ」

 ミナの軽やかな物言いに顧問の教師の表情がにわかに険しくなった。秋葉と雪香は互いを見合わせて何かを確信したような顔をする。秋葉が再びこちらを向いて少しだけこちらに身を乗り出した。

「それじゃあ、あなたも夜遊びや無断外泊をしたりするのね?」

「は? いやいや、あたしはそんなことしたことないわよ。そんな金や時間があるなら家でもっと別のことしてるわ」

「嘘はいけないよ成木さん」雪香が横から口をはさんだ。その口調は取調室の刑事のようだった「こういう場では正直者になるのが得策だと思うけど?」

「あぁ? 嘘なんかついてないわよ」

 心を穏やかにする紅茶の効果はとっくに切れていた。

「とぼけても無駄よ。どうせあなたが女の子達を誑かして悪い遊びを教えているんでしょう?」

「はぁっ?」あらぬ疑いを掛けられて途端に声を荒げる。頬杖を突いていた手を拳にして机を叩き、身を乗り出した「おいっ! なんであたしがそんなくだらない事で冤罪を掛けられなくちゃならないのよっ! 脳みそ腐ってんのかっ!」

 体が熱くなって喉が渇いたので残っていた紅茶を全部飲み干した。気分が落ち着くことはなかった。

 今日は朝から嫌なこと続きだと思った。昨日はいつも以上に夜更かししていたからいつも以上に寝不足だし、それでも人助けをしたら感謝もされずに邪険に扱われる始末。放課後、友達に勉強を教えようと思ったら中断されてここに呼び出されるし……しかも家に帰ってやることが山ほどあったのに今日はもうやりきれないこと確定だ。そして最後の最後に見たことも聞いたことも無い、事件とも呼べないしょうもない問題の冤罪を掛けられるなんて……。全く今日は厄日ってやつだ。だから多少言葉が荒くなるのも許してほしい。

「大体、なんで一般生徒のそんな問題に生徒会が関わろうとしてんのよ。そういうのは先公の仕事じゃない」

 威嚇する猛犬のように殺気を満ち満ちさせながら問うミナに、秋葉がたおやかに礼儀正しく紅茶を飲んでから答えた。

「生徒の問題を生徒会が解決すのがこの学校のやり方だもの。教師の雑用係に成り下がっている他の学校の生徒会とは違うのよ」

「そうだとしても、そこまでして解決したいんだったらサツでも使えばいいじゃない。非行女子たちは『覚えてない』とかぬかしてるんでしょ? だったら事件の可能性もゼロじゃないと思うけどね、あたしは。…まあ、十中八九ただの家出の言い訳だろうけどね」

「警察はダメなのよ」そう言う秋葉の言葉を隣の顧問の教師が引き継いだ「学校としてはあまり公にしたくないのだ。名門校としての名に傷がつくからな。それに、年頃の娘が一日二日外泊したくらいでは警察は動いてはくれんだろう」

「ハッ!」彼の言葉を聞いてミナは鼻で笑った「手前の保身ばかり気にしやがって。玉無しが」

 彼女の罵声に元々険しくなっていた教師の表情がますます険しくなって不快感を帯びる。

「…目上の人間いそういう言葉を使うものじゃないぞ。評価にも響く」

「奨学金の評価基準は成績と授業態度だけのはずよ。その評価に関わらなければあんた達にどう思われようがどうでもいいことだわ」

「君は奨学金の為に勉強をしているのか?」

「もちろん。対価が払われないのならあんなクソめんどくさい事わざわざ好き好んでやったりしないわ」

 歌うようにそう言い切ったミナの言葉に、教師が腕を組んで抑えきれんばかりの怒りを熱いため息で吐き出した。

「話が逸れたわね」

 仲裁するように秋葉が口を挟んだ。彼女の言葉を耳にして気を静めたミナは、一度息を大きく吸って吐いてから彼女のことを指で指す。

「…ともかく、その女子生徒連続神隠し事件のことなんてあたしは何にも知らないわ」

 秋葉はチーズケーキを小さく切って口に入れて、飲み込んでから彼女を見据える。

「でも、保護者会はそうは思っていないのよ。――あなたも知ってるでしょうけど、我が校は保護者会が強い力を持っている。……それは、もともとこの学校は現代の我が国の教育制度や教育者に見切りをつけたある富豪が、『自分の孫やその子孫をそんなところに預けられない』と言って自分で自分の理想の学校を作ったという歴史が要因で……。ともかく、多くの女子生徒をかどわかし、不届きを働いている犯人は誰なのか、保護者会はその答えを求めているのよ」

「それで、あたしを見てくれだけで判断して、あたしを犯人だと決めつけているわけね。この学校はお嬢様やお坊ちゃんばかりだから、あたしのような人間に妙な偏見を持っているというわけね……」

「そう、だからあなたは自分の無実を証明しなければならない。……さもなければ」

「さもなければ…?」

 一呼吸おいてもったいぶった秋葉の言葉をミナは急かすように促す。

「保護者会の多数決で、退学処分が下る可能性だってゼロじゃないわ」

 その言葉に目がくらむような絶望感がミナを襲った。視界が暗転し、熱病に罹ったかのような気分になった。

「そんなの無茶苦茶だわ! たかがそんな程度のことであたしの教育を受ける権利を奪おうだなんて横暴もいいところよっ! それに、疑いは掛けた方に立証義務があるっていう裁判のド基本も知らないのかっ!」

「これは裁判じゃないから」雪香がツンとした態度で言い放った「それに、あなたが本当に無実だっているなら簡単にできることだと思うけど?」

 彼女のその言葉にミナはいよいよ椅子を蹴り倒して跳ねるように立ち上がった。彼女はそのまま肩を怒らせてつかつかと雪香に詰め寄る。

「てめーとは関係ないことだからってよくもいけしゃあしゃあと言ってくれるわね。あんたは興味ないしどうでもいいことだろうけど。あたしにはこの学校の奨学金や学費免除制度が無いと超困るのよっ!」

 雪香の胸元のシャツとベストを乱暴につかんで引き寄せる。至近距離で二人は睨み合った。

「暴力沙汰はそれこそ退学案件よ」

「……。……チッ」

 雪香の言葉にミナは舌打ちして乱暴に突き放す。怒りの収まらない表情と態度で三人に背を向け、腕を組んだ。

 しんと静まり返った生徒会室の中に秋葉がケーキを食べる音だけが妙に大きく響いていた。そんな空間がしばらく続いて、やがて今にも爆発しそうなミナの背中に顧問の教師の声が届いた。怒りに燃えるミナを諫めるような、作られた優しさを帯びた声だった。

「――では、こうしようか」渋い声のした方をミナが視線だけを向けて応える「姫神会長と松島副会長も彼女の無実を証明する手助けをするというのは」

「はぁっ?」

 彼の折衷案に真っ先に声を上げたのは雪香だった。対してミナは一瞬驚いた後、獰猛な笑みを浮かべた。

 雪香はさらに抗議する。

「ちょっと待ってくださいよ。なんでわたし達がそんなことしなくてはいけないんですか。しかもこんな不良のためにっ!」

「おいおい中等部生徒会副会長の松島雪香さんよ。生徒の問題を解決するのがこの学校の生徒会の伝統なんじゃなかったっけ? だったらあたしの問題も一緒に協力して解決しなさいよ」

「……くっ!」

 吹き出しそうな笑い交じりに煽られた雪香は悔しそうに敵意丸出しでミナをしばらく睨みつけた後、縋るように秋葉の方を向いて机に手を突いた。

「会長も何か言ってくださいよ。わたし達には他にもやらなくちゃいけない仕事があるのにこんなことまでやっていられないですよっ!」

 彼女の言葉を受けて、秋葉は深く考え込むそぶりをした。ケーキを食べるのに使っていたフォークを皿の端に置いて手を口元に当てて小さな声で「う~ん…」と唸る。鈴を転がすような声にどこか色気のある仕草だった。

 そして彼女は答えを出す。

「別に、いいんじゃないかしら?」

「そ…、そんなぁ~…」

 裏切られたような顔をして落胆する雪香。そんな彼女を横目に秋葉は言葉を続ける。

「生徒会が生徒の問題を解決するというのはその通りだし、それに、自分の無実を晴らすために成木さんが何をするかわかったものではないわ。彼女を監視するためにもわたし達が協力するのも悪くないでしょう」

「ぐ…、まあ、会長がそういうならわたしは副会長として会長に従うしかありません」

「決まりね」雪香の言葉を聞き入れてミナはカツカツと歩んで自分の席のそばに立った「身に覚えのない疑惑を突然被せられてしかもその無実を自分で証明しろだなんてむかっ腹の立つ話だけど、この際やるしかないってやつだわ。あなたたちもしっかりあたしに協力しなさいよね」

 ミナは一切手を付けていなかった自分のチーズケーキを素手で皿から取り上げる。それからはたっ、と思いついた顔をして、悪意のある笑みを浮かべた。

「そうだ、それならその神隠し事件の真犯人をあたしたちで見つけ出してやろうじゃない。そんでその暴虐を振るうクソ野郎をあたしが直々に蜂の巣にしてやるわ」

 肉食動物のような悪辣な笑顔でミナはチーズケーキに齧りついた。最上級に行儀の悪いその食べ方を見て秋葉は少しだけ目を細めて睨んだ。それから彼女は目を閉じ「わかったわ」と静かに言った。それから彼女はケーキも紅茶も完食して立ち上がる。

「それでは、そういう事で。今後の詳しい方針や捜査はまた明日からにして、今日は解散しましょう」


 彼女の言葉を受けてミナは解放された気分になって安堵の息を吐いた。弛緩した空気の中でその成り行きを見守っていた生徒会の顧問の教師は「話はまとまったか。では後のことはすべて会長に任せよう」と短く、突き放すように言ってミナの脇を抜けて生徒会室を後にした。

 彼が出ていった扉を少しだけ睨みながら、ミナは小さな声で「まったく、勝手なオッサンだわ…」と呆れた息を吐いた。口を大きく開けてチーズケーキをもう一口食べる。

 すると、睨んでいたその扉が外側から二、三回叩かれて音を立てた。全くの不意打ちだったのでミナは少しだけ肩を跳ねさせた。

「秋葉、入ってもいいかい?」

 その声は扉の向こうから聞こえた。若い男の声だった。低く味のある声を聞いて、ミナはふと生徒会の会長と副会長の方を向いた。副会長はわずかに不愉快そうな顔で無言のまま扉を見つめ、会長の方は顔を紅潮させ、緊張と嬉しさの入り混じった表情をしていた。

「数馬さん、いらしたのね。どうぞ早く入っていらしてっ」

 その声は歓喜一色の声だった。例えるなら大ファンのアイドルに愛をささやかれた時のような、あるいはロミオとの大恋愛を両家の人間全員が諸手を挙げて祝福された時のジュリエットのような声色と表情だった。

 彼女の言葉を受けて数馬と呼ばれた男は引き戸を開けて生徒会室に入ってきた。ウェーブのかかった髪を後ろで束ねた長髪長身の男だった。椿油でなめしたような艶やかで肩甲骨まで伸びる髪と切れ長の双眸が秋葉を見据えた。ミナの目から見てもイケメンと呼べる面長で彫りの深い顔だった。

「嗚呼、早く会いたかったわ数馬さん」

 秋葉は髪を軽くかき上げて数馬の下に駆け寄った。彼女の好意に満ち満ちた瞳と、警戒心皆無の雰囲気を見て、ミナは即座にこの数馬と呼ばれている男が秋葉の恋人なのだと察した。

 そのまま抱きしめあって接吻までしそうなほど距離の近い二人を、チーズケーキを食べながら興味のなさそうな目で見つめていると、その視線に気が付いた秋葉が彼のことをミナに紹介してきた。さっきとは打って変わって友好的で楽しそうな、例えるなら子供が宝物のおもちゃを友達に紹介する時のような話し方だった。

「紹介するわね成木さん。彼は数馬さんと言って、阿兼智学園の大学に通ってる方なのよ。そうそれで……、わたしの恋人」

「でしょうねそれはすぐに察しがついたわ」

 最後の言葉を照れながらためらいがちに言った秋葉に、ミナは相変わらず無関心な反応を返した。そんな彼女にも数馬は深いそうな顔を一切浮かべず、入ってきてから一切変わらない柔和な態度と表情でミナの方を向いた。

「やあどうも、君は秋葉のお友達かな?」

「成木ミナよ。……友達じゃないわ。他でもない彼女がそれを拒否したもの。まあ、今は共同戦線を張ることになったけれどね」

 ミナの言葉に数馬は何がおかしかったのかわからないが肩を揺らして笑った。

「そうか、それではきっとこれから先、君と秋葉はかけがえの無い関係になるかもしれない訳だね」

「……そんな日も来るかもしれないわね」

 ミナは感情のこもってない声で返した。すると、白人のように肌の白い数馬の服の袖を、秋葉が少しつまんで引っ張った。彼女は急かすようなに、あるいはミナと数馬の会話を妨害するように数馬を自分の方に向けさせる。

「ねえ数馬さん。今日の生徒会の活動はもう終わったわ。早く行きましょう? わたし、数馬さんと一緒に行きたいレストランを見つけたの。きっと数馬さんも気にいるわ」

「ああ、そうだね。もう日も暮れてしまうし、もう行こうか。秋葉」

 彼女の言葉を受けて数馬は紳士的な笑顔を浮かべながら秋葉の腰に手を回して自分の方へ引き寄せた。お互いの腰と腰がぶつかり合って秋葉の顔は耳まで真っ赤になって、それから何かを期待するような色合いが表情の中に加わった。

 そして秋葉と数馬は身を寄せ合って生徒会室の扉を開けた。最後の去り際に、秋葉は首だけを雪香の方へ向けて申し訳なさそうな顔で言った。

「雪香。申し訳ないんだけど、そこのティーセットを片付けておいてくれないかしら」

 数馬が来て以来一貫して暗い表情のままだった雪香は、暗い顔をさらに濃く深くして、絞り出すような声で「……わかしました」と短く答えた。

「ごめんなさいね」

 秋葉はそんな言葉だけを残して数馬とともに生徒会室から退室した。扉の向こうから聞こえてくる秋葉と数馬が咲かせる会話の花が徐々に遠ざかっていくのがわかった。

「……はぁ」

 途端に静かになった生徒会室の中、ため息を一つ付いた雪香は一人で秋葉の使っていた食器を重ねていく。彼女がまとう雰囲気は相変わらず暗いままだった。

「……」

 チーズケーキの最後の一口を口に放り込んだミナはそんな彼女の姿を見て指についたケーキの欠片を舌で舐めとりながら自分の使っていた食器を重ねていく。

「あたしも手伝うわ」

「…そんな情けはいらない」

「そんなんじゃないわよ。あたしが手伝おうと思ったから手伝うの」

 ミナは雪香のやり方を真似して皿を重ね、ポットのそばにあった浅いかごに入れる。どうやら一旦ここに入れてから廊下の流し台で洗う方式らしい。

「あんた、相当あの生徒会長のことが好きなのね」

 流し台で自分の使った食器を洗いながらミナは隣で秋葉の使ったそれを洗う雪香にそう話しかけた。しかし雪香は無言しか返さなかった。

 構わずミナは話しかけ続ける。

「それは尊敬?」

「……」

「…それとも崇拝?」

「……」

「…もしくは敬愛?」

「……そのどれもが入っているけど、それらが一番じゃない」

 問いかけ続けられた雪香がついに折れて抑揚のない声でそう答えた。そんな彼女の答えを聞いて、ミナは不思議そうに首を傾げた。随分慣れた手際で洗われた食器は水気も拭き取られかごの中に逆さまにして入れられていた。

「そう…それじゃあ、どんな気持ちなのかしら…。あの生徒会長が男だったらすぐにわかるんだけど……」

 心底答えのわからなさそうな口調でそう呟くミナの横顔を、雪香は屈んで洗っていた手を止めて若干驚いたような顔で見上げ、それから作業を再開しながら話題を切り替えた。

「…ていうか、あなた。あたしのこと嫌いなんじゃないの? さっきまで掴みかかって睨んできたのに…」

「あたし、熱しやすく冷めやすい性格なのよ。あと、過ぎたことはあんまり振り返らないの」

 軽い口調でそう言い放った彼女に、雪香は「…そう」とだけ答えた。彼女は最後に残ったスプーンの水気をふき取ってかごの中に入れた。その姿を見たミナは床に置いておいた自分の鞄を拾い上げて肩にかける。

「それじゃああたしはもう行くわ。……帰ってやることあるし」

「そう、お疲れさま」

「ええ、おつかれー」

 背中越しに手を振ってミナはすっかり暗くなった学校の中を歩いて行った。


     * * *


 学校の最寄り駅である松黒駅から路面電車で数駅ほど揺られると、ミナの家の最寄り駅に到着する。駅の前に商店街があるのだが、買い物時だというのに人気は少なかった。この近くにできた大型商業施設のせいだ。ミナはもうずっと下がりっぱなしのシャッターの間を抜けて駆け足でアーケードの中をくぐっていく。行きつけの中古CD店の前を走り抜けてその先の小さなスーパーで手早く買い物をした。魚を四切れといくつかの野菜と豆腐が入ったビニール袋を提げてなおも小走りでアーケードの中を行く。最近野菜が驚くほど高くなっていて頭が痛くなった。

 そして彼女はやがて商店街の中のある店舗の前で小走りをやめて歩き出した。そこは小さな本屋だった。CDやレコードを扱っていたり、カフェを併設していたりしない純然たる町の本屋だった。彼女はその本屋の前で軽く息を整えると、慣れ親しんだ態度でその敷居をまたぐ。自宅の敷地内に入ると、嗅ぎなれた大量の紙のにおいがミナの鼻から体内に侵入した。

 ミナよりずっと背の高い本棚の森の間を通って彼女はその奥のレジの方へ向かう。そこでふと、レジの中に座って事務作業をしている彼女の父親と目が合った。彼の目を見るだけでミナの中にざわついた感情が芽生える。

 ミナの父親、幸作は柔和ながらも若干の緊張を孕んだ声で娘を迎えた。

「ああ、ミナ、おかえり。遅かったじゃないか」

「…………」

 相手に敵意も何もないのにその男の声を聞いただけで胸の中が黒く濁って嫌悪感に襲われる。だからミナは彼の言葉に耳を貸さず、視線をそらしてその脇を通り過ぎた。そしてそのまま彼を無視してレジの向こうの居住空間に靴を脱いで上がる。

「……はぁ」

 なぜこんなにも父親のことが癇に障って、視界に入るだけでイライラして、まるで汚いものを見たときのような嫌悪感と気持ち悪さに襲われるのか、その理由がミナにはさっぱりわからなかった。ただ知識として、それが反抗期というものであることだけは知っていた。しかしその現象から抜け出す方法も彼女には見当がつかない。

 ともかく彼女は居間にビニール袋を、自分の部屋に鞄を置くと、溜まっていた四人分の洗濯物を洗濯機に放り込んで洗濯を始めさせる。乾燥機付きの代物なのでこの子には凄く助かっている。ミナの強い味方だ。

 それから台所に入ろうと居間に戻ると、小学生の男の子と女の子が今にノートと教科書を広げて宿題をしていた。ミナの弟と妹である紫郎と乙葉だ。

 二人がミナの姿に気が付いて、乙葉が表情を明るくする。

「あ、おねえちゃんおかえり~」

「ただいま乙葉。ごめんね遅くなって。いまからご飯作るから」

「うんっ」

 小学三年生の乙葉はそうにっこり笑って再びノートに目を落とした。

「紫郎もただいま」

「…うん」

 小学五年生の紫郎は顔も上げすに素っ気ない態度を取った。最近はこの子も随分と生意気な態度を取るようになってきた。しかしミナはそういう時期なのだろうと思って特に気にしていない。ビニール袋の中身を台所に広げた彼女は制服の上にエプロンを着てゴムで髪をまとめ上げた。それから装飾の無い綺麗な手をよく洗って気合を入れた。

 彼女の一日はまだまだ終わらない……。


     * * *


 ミナが小学四年生の時にミナの母、小百合が死んで成木家は父子家庭になった。

 その頃からミナは相当なお転婆で、同級生の男の子による自分や友達の女の子のからかいにすぐカッとなっては殴りかかり泣かして回っていった。そんな喧嘩っ早い彼女だったが、泣かした男の子が逃げていって、一人になって家に帰るころ、自分が喧嘩に勝ったのに涙を流すことが多かった。なぜ涙が出るのかわからない。理由もわからないのに胸の奥が苦しくなって顔が熱くなって、気が付いたらぽろぽろと大粒の涙を零してしゃくり上げるのだ。

 黄昏時に泣きながら家に帰った時、いつも彼女を受け入れ、その腕で抱きしめて優しく髪を撫でてくれるのが母親だった。彼女の腕の中に入ると、不思議と気分が落ち着いて流れていた涙が嘘だったかのように引っ込んだ。

 毎日のように男の子と喧嘩しては泣かしていた男勝りなミナも、母親の前でだけは甘えん坊な女の子だったのだ。母親の腕の中にいれば、たとえどんな強い敵が現れたって必ず守ってくれる。そういう確信と安心感を、幼いミナは漠然と抱いていた。

 そしてある雨の日、ミナの母、小百合は唐突にこの世を去った。彼女の腕の中にはミナがいた。

 葬儀を終えて、段々と母親がいなくなった事を理解し始めてきたミナは、特に誰に言われるでもなく家事をやるようになった。父親は商店街の片隅で小さな本屋を営んでいたが、お客は少なく、それでも忙しそうだった。弟はまだ小学校に上がったばかりで、妹はまだ幼稚園児だった。そんな状況を幼いなりに理解すると、体が勝手に動いていたのだ。

 家事をやっていると、責任感が生まれ、自分が家族のためにできることを考えるようになった。さいわい情報は家の本屋の本棚にたくさん並んでいたので、立ち読みしてあれこれ調べてみた。父子家庭向けの国からの支援制度や、子持ち家庭に対する支援制度を学んでいくうちに、彼女は『給付型奨学金制度』という言葉を学んだ。

 そしてその制度は路面電車を数駅分乗ったところにある、とある名門学校も取り扱っていることを知った。


     * * *


 ついさっき時計は零時を指した。

 一日にやらなくてはいけない家事をやっとすべて終わらせたミナは自室で机に向かっていた。使い古した机の端にCDプレーヤーがあって、その中で一枚のCDが回転している。ミナはイヤホンを着けてCDの中の音楽を聴きながら勉強をしていた。CDのタイトルは『ロンドン・コーリング』。ザ・クラッシュのセカンドアルバムだ。

 彼女の部屋の本棚には行きつけの中古CD店で買い集めた、前世紀のCDが整然と並んでいた。クイーンやローリングストーンズといったバンドのアルバムもあったが、一番多いのはザ・クラッシュやトーキングヘッズ、セックスピストルズなど、パンクロックのアルバムだった。

 リズムを刻むストラマキャスターの音を聞きながら参考書の問題を解いていく。この分だと今日も布団に入れる時間は遅くなりそうだと思った。

 彼女の机の上には、学校で使うノートや教科書だけではなく、成木家の収入と支出をまとめた家計簿や、父子家庭に受給資格のある国や自治体からの支援制度に関する書類が立てられている。それらの管理を行っているのは他ならぬミナであるからだ。

 時計の長針が半周ほどしたころ、ミナの部屋の扉がノックされた。ミナがイヤホンを外して扉の方を向くと、部屋主の声を待たずして扉が開かれた。

 扉を開けたのはミナの妹だった。少女は栗色のくせっけを揺らして、パジャマ姿で枕を抱えてくりくりっとしたつぶらな瞳で姉を見上げた。

「乙葉。どうしたのよこんな時間に。早く寝なさい」

「うん…あのねおねえちゃん…」そのあどけない丸顔は不安そうだった「今日は一緒に寝て欲しいの…」

 ミナはその表情と今までの経験から大体のことを察した。

「あー…。また怖い映画を見たのね。眠れなくなるからやめなさいっていつも言ってるでしょう?」

「だって…。たまたまテレビでやってて、気になっちゃうんだもの…」

「今度はなにを見たの?」

「……仄暗い水の底から」

「あれか…」

 ミナは自分も昔同じ映画を見て母親と同じ布団で眠ったのを思い出した。それから彼女はやりかけの参考書に目を落として、心の中だけで「今日の分は明日に持ち越しね…」とつぶやいた。

「いいよ。今日はあたしのベッドで寝よっか」

 そう言って参考書を閉じたミナに、乙葉は眠たげな眼で嬉しそうな顔をして「ありがとう。おねえちゃん」と言って部屋に入ってきた。

 ミナは乙葉と一緒に自分のベッドに入った。電気を消すと月明かりが部屋に差し込んできて二人の姉妹を青く優しく照らした。そんな光の中でミナは乙葉の肩まで布団をかけてやった。自分も布団を被ると、溜まっていた疲れがミナを襲って途端に瞼が重たくなった。

「ねえ、おねえちゃん」

 自分を呼ぶ妹の手を、姉は両手で包むように握ってやった。それだけで妹の心の中にあった怖い気持ちはどこかに行ってしまう。それはまるで魔法のようだと、幼い少女は思った。

「なぁに…?」

 ほとんど眠りかけているような意識でミナが応える。

「明日の朝ご飯は乙葉もお手伝いするね。……それと、いつもお料理とかお洗濯とかお掃除とかやってくれて…ありがとう」

「ん……」

 最後の言葉は、転げ落ちるように眠ったミナの耳には届かなかった。


     * * *


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