六月の雨
序章「六月の雨」
長く深い六月の雨が降り注いでいた。
ざあざあ、ざあざあ、雨はどこまでも遠く降り続けていて、まるでこの世のすべてが滝壺になってしまったかのようだった。ところどころの道が池のように冠水しているし、空の向こうからは龍の咆哮のような雷鳴が轟いている。
梅雨の豪雨に包まれたずぶ濡れの町。その中のある路上。どちらを向いても人気はなかったが、一組の母娘が雨に濡れていた。
母親は、自分の娘を両腕で抱いて服が濡れるのも構わずに路上に横たわっている。彼女の息は細く、目はうつろで、血の気が失せていた。
「お…か、あ…さん…?」
腕の中の少女が母を呼んだ。しかし、母親からの返事は聞こえてこない。まだあどけない、母の腕の中にすっぽりと納まるほど小さなその少女。彼女の頬に、母親の瞳からこぼれた、雨ではない熱い雫が落ちる。
少女は己の細腕を動かして母の背中をさすった。雨に濡れて冷たくなった自分の腕に、温かいものが付いたのがわかったので、掠れた自分の視界の中でゆっくりとなんとか確かめてみる。
少女の手を、母親から流れた真っ赤な血が汚していた。
「これ…血だ…」
体の熱がすっかり下がって、その息は六月なのに白くなっていた。白い息が雨粒の間を避けて虚空に消えていく。
真っ赤な血。少女の白い手のひらに付いた真っ赤な血が、雨粒によってずるずると流されていくのを見ると、少女の心臓がバクバクと高鳴って、頭がおぼろげになる。心臓が鼓動するたびに自分の体からも赤く温かいそれが流れていくのがわかった。
娘から流れた血と、母から流れた血が混ざり合う。ずぶ濡れのアスファルトに広がって黒い海の中に赤い湖を作っていた。
どんよりとした灰色の雲の下。赤い湖の真ん中で重なり合って倒れる母親と幼い娘。娘からは白い息が流れていたが、母親からは流れていなかった。彼女らの周りを雨粒が幾重にも幾重にも降り重なって、丸い波紋や小さな飛沫を作る。さながら透明な花畑の中にいるようだった。
「……眠たいな」
降りしきる雨の世界。その姿が段々とおぼろげになってきた。少女の視界に霧がかかるようになって、瞼が重くなり、頭の中がぼうっとする。
やがて彼女の瞼はゆっくりと閉じられ、視界が闇に包まれた。遠ざかる雨の音を聞きながら、少女は赤く汚れていない方の手を少し握る。
その小さな手の中には一丁の、拳銃が握られていた。