5-5 火炎
不幸因子の大量発生後も、奈津は高速を解こうともがき続けていた。
しかし、どうやっても解けない。今の彼女では力が不足していた。
奈津の顔に焦りが出始める。
街に大量の不幸因子が出たことにより、犠牲者が次々と生み出されているのは容易に想像できる。吸引能力が大幅に上昇した自分が動かなければ、この状況は変えられない。莉多を止めることすらできない。
縄状の不幸因子を全力で引きちぎろうと試みるが、すぐに元に戻ってしまう。
「もうダメなの? このままここに居るしかないの?」
奈津は歯ぎしりをした。
不幸因子は街に充満し、奈津の周囲にまで迫ってくる。今まで経験したこともないような濃度の不幸因子が、こんな路地裏まで来ている。大通りのほうはこれ以上の濃さだろう。今頃、街は地獄に変わっているに違いない。
守るべき五区が、不幸因子に破壊されている。
そう思ったとき、奈津はひらめいた。
不幸因子の操作能力が向上したのであれば、エネルギーを吸えば吸うほど強くなるのではないかと。周囲の不幸因子をすべて吸い尽くせば、この拘束を引きちぎることくらい朝飯前なのではないかと。
そして、限界近くまで不幸因子を溜め込めば、莉多を止められるかもしれない。
「イチかバチか、吸ってみるしかないよね!」
奈津は自らを奮い立たせ、不幸因子の吸引を開始した。
腕は縛り上げられているが、手首から上は自由に動く。薄汚い地面に寝転がりながらも手のひらに力を込める。その直後、近くの不幸因子が動き出した。
目の前が見えなくなるほどに立ち込めていた黒い霧が、猛烈な勢いで奈津の手に吸い込まれていく。その範囲は数十メートルにも及び、路地裏一帯の不幸因子が一分も経たないうちに消え去った。
周囲の不幸因子を吸い尽くし、奈津は深く呼吸をする。
体内に取り込んだ黒い霧を、自らのエネルギーに変えていく。それはやがて莫大な力へと変化し、彼女の全身に力がみなぎった。
奈津は雄叫びを上げ、手足を全力で広げた。
彼女を締め付けていた不幸因子が引き千切られ、四肢が自由を取り戻す。彼女はそのまま胴体の黒い縄を全力で引っ張る。不幸因子の拘束具は形状を維持できなくなり、すべて霧状に変化した。縛っていたものが消え、奈津は完全に解放された。
「よし! 強くなってる!」
奈津は歓声を上げて立ち上がった。
ただ、喜んでばかりではいられない。
路地裏の先を見つめながら、彼女はこれからの行動を整理する。
「確かに私の力は強くなった。でも、これだけじゃ莉多さんに勝てない。まずはメジロと合流して本来の力を取り戻す。そして、不幸因子を限界まで集めて、莉多さんを倒す。私にできるのはそれしかない」
奈津は冷静に現状を分析し、表情を引き締めた。
彼女は走り出し、路地裏から大通りに出る。
悲惨な光景が目に映った。街に雷が落ち、あらゆるところで火災が発生している。自動車の暴走が多発したようで、破損した車体が道路を埋め尽くしている。炎で赤く染まった街で人々は逃げ惑うが、そんな通行人に落下物が次々と襲い掛かっている。
奈津はすぐに不幸因子の吸引を開始した。
彼女の手によって黒い霧が瞬く間に消え去る。落雷は収まり、不自然な規模の火災は勢いを弱め、落下物の発生も無くなった。だが、すでに起こった不幸が消えたわけではない。何十にも及ぶ人間が道路に転がっている。そのうち数人はすでに息絶えていて、他の人間は大怪我をしている。
「クソッ! クソッ! なんでこんなことに!」
奈津は両拳を握り締め、歯を食いしばった。
彼女は己の無力を恨み、固く目を閉じる。
自分には不幸因子を吸引できる力があった。皆を助けられる力もあった。だが、それをもってしても、莉多が引き起こした大惨事から救えなかった。奈津は自分を責めずにはいられなかった。
「助けられなくて、ごめんなさい……でも、こんなところで立ち止まってなんかいられない!」
己の心に鞭を打ち、今為すべきことを思い出す。
不幸因子から人々を守る。それは死神の遣いになったときから変わらない。自責の念に逃げている場合ではなかった。
奈津は跳び上がり、不幸因子の吸引に向かった。
地上数メートル地点を翔け抜けながら、不幸因子を吸い尽くしていく。途中、まったく動かない不幸因子が多く見られた。それを吸い込むことはできなかったが、無害な様子だったため無視した。
だが、人々を守るには速度が足りなかった。無害な不幸因子が大半を占めるとはいえ、新しい不幸因子は湯水のように湧いてくる。それが悪影響を及ぼさない保証はどこにもなかった。
「やっぱり、メジロと合流するのが先だね」
奈津は苦い顔をし、人々の救助を中断することにした。
奈津は高く飛び上がり、最も近い高層ビルに向かった。
屋上に降り立ち、状況を確認する。
不幸因子と炎で視界が赤黒く染まる。街はとてつもない濃度の黒い霧に包まれているが、そのほとんどが動いていない。五区の外に不幸因子が広がっている様子もなかった。おそらく、莉多がそれらを支配しているのだろう。
がむしゃらに不幸因子を吸引していたせいか、奈津は今、南区の東側に居る。中央区の北側では、結衣と小夜が莉多と戦っているのが見えた。明らかに莉多が優勢だが、二組の奮戦によって彼女を食い止めることができている。だが、戦況が変わるのは時間の問題だった。
また、葉月の姿が見当たらないのが奈津の不安を煽った。葉月はすでに行動不能に陥っているに違いなかった。
「早く不幸因子を集めないと……あの二人も危ない」
奈津は焦った。
だが、今加勢しても意味はない。まずはメジロと合流することが先決。
彼女は感覚を研ぎ澄ませ、不幸因子の感知に専念した。
死神は現世で不幸因子を満足に扱うことができないが、その保有量は決して少なくはない。大きなエネルギーの塊が動いていれば、それが死神である可能性が高い。
そして、そのエネルギーの集合体はすぐに見つかった。
「この感じ、間違いない。メジロだ!」
奈津は死神を感知した方向に視線を移す。
かつての相棒は、西区から南区に向けて走っている。メジロが何のためにそうしているのかなど、どうでもいい。奈津にとっては、メジロと合流して本来の力を取り戻すほうが大事だった。
「メジロ! 今行くから!」
奈津は目標に向かって飛び出した。
黄緑色の死神ともう一度手を組むために、少女は燃え盛る街を翔け抜けていった。




