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不幸少女と死神メジロ  作者: 武池 柾斗
第四章 歪んだ世界
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4-2 拡張

 メジロのもとから飛び去った奈津は、しばらく浮遊した後、南区に降り立った。


 敵の莉多がいるこの区域に、どうして来てしまったのかは奈津にもわからなかった。ただ、なんとなく西区には戻りたくはなかった。


 行く当てもなく、夜の街を歩く。

 雨はさらに弱まり、小雨になっていた。


 歩行者はまばらだった。奈津が下を向いて歩いていても、誰にもぶつからない。ほとんどの人間は、先ほどの豪雨から避けるために屋内にいるのだろう。街の灯りは晴れの夜よりも明るい。雨の音も自動車の音も少なく、街は静かだった。


 奈津はふと、自分の右手に目を向けた。


 力を込める。すると、手のひらから黒い霧が湧き上がってきた。意識すると、その不幸因子は手の上で渦を巻いた。


 メジロとの精神結合により、不幸因子を操る能力が開花したようだった。いや、正確には能力の幅が広がったというべきか。開花以前も、飛行や戦闘では不幸因子を動力源として使っていた。それが今は、死神のように不幸因子そのものを操れるようになった。


 奈津はすれ違った男性に目を向ける。

 後ろに振り返り、彼に向けて右手を伸ばした。


 体内の不幸因子が解き放たれ、スーツ姿の男性にまっすぐ向かっていく。傘を差していて顔は見えず、彼が人だという認識が薄れている。このまま不幸因子をとりつかせたら、男性はどうなってしまうのだろうか。奈津は興味があった。


 男性の背中に不幸因子が迫る。

 そこで奈津はまぶたを上げた。


 黒い霧が男性に触れる寸前で止まる。それから数秒後に、奈津の右手にすばやく戻っていった。

 何も起こらず、男性の姿は遠くなっていく。


 奈津は右手を下ろして大きなため息をついた。


「なにやってんだろ、わたし……」


 その言葉は自らに対する失望だった。不幸因子を操る力を手に入れたとはいえ、それを興味本位で人間に試そうとするなど、やってはいけないことだ。調整量を間違えれば、彼は確実に死んでいた。


 寸前で思い留まることができたが、それでも恐ろしいという気持ちは消えなかった。あの世のエネルギーは、人の体内に侵入するだけでその命を終わらせる。操れるようになって初めて、その危険性が理解できた。


「だからなんだっていうんだ……わたしはもう、遣いには戻れない」


 奈津は力なく首を横に振って、再び歩き始めた。


 遣いの使命は、不幸因子から人間を平等に救うこと。奈津はそれを破った。新しい人生を始めたつもりだったのに、実際は生前の悔恨を引きずったままだった。だから、神崎親子をこの手では救えなかった。見殺しにするつもりだった。


 そんな人間が街の人々を再び守ろうとするなど、奈津自身が許せなかった。


「でも、莉多さんのことはどうする? わたしがやらなかったら、誰が止めるっていうの。メジロ一人でやれっていうの? でも、本当に止める必要があるの?」


 奈津は頭を抱えた。


 彼女は社会に見捨てられた側だった。パワハラを放置した人間社会が奈津をどん底に叩き落し、遣いの制度を作った死神社会が彼女を殺した。そんな社会を変えてくれるというのであれば、莉多とカラスの妨害をする必要など無いのではないか。


 その思考を振り払うかのように、奈津は首を大きく横に振った。


「今は何もしない。それが一番。とりあえず頭を冷やさなきゃ」


 奈津は大きく息を吐き、何も考えないようにした。

 だが、周囲の不幸因子が奈津の心を乱す。


 不幸因子はただそこにあるだけで、人間に危害が及ぶ濃度ではない。しかし、奈津の感覚は敏感になっていて、その気配を感じるだけで居ても立ってもいられなくなる。


 奈津は空を見上げた。


 建物の屋上付近に黒い霧がかかっている。濃度は薄いが、放っておくのは気に障る。いつもなら不幸因子のもとまで飛んで吸引するところだろう。しかし、今の奈津は飛ばず、地面に足を着けたままだった。


「ちょっと、試してみようかな……」


 彼女は覇気のない顔で呟き、その場で両手を広げた。

 手に力を込め、不幸因子の吸引を開始する。


 それと同時に周囲の黒い霧が動き始めた。奈津の手が届く範囲にあるものはもちろんのこと、屋上付近のものや死角に潜んでいたものまでが、奈津の両手に吸い込まれていく。そして、周辺の不幸因子は、あっという間に吸い尽くされた。


 奈津は自分の両手を見下げる。


「数十センチまでだったのが、数十メートルにまで広がってる。便利になったもんだね」


 彼女は蔑むような笑みを浮かべた。


 これで何も考えなくて済む。そう思ったが、次は街の喧騒が目と耳に障った。どこか静かな場所に行きたいが、この辺りに落ち着ける場所などありはしない。かといって、遠くまで行くのも面倒だった。


 奈津は妥協点として、路地裏を選んだ。


 彼女は忌々しそうに街を睨み付けた後、人の気配がまったくないところに入った。暗くて汚く、細い通路だった。


 奈津は黒ずんだ木箱に腰かけた。

 何も考えずに、じっと地面を見ていた。


 どれだけ時間が経ったのかわからない。数時間経ったような気もすれば、数分しか経過していない気もした。ただ確かなのは、雨が上がったということだけだった。それにともなって、奈津の体も乾いた。


 ふと、足音が聞こえた。


「こんなところで何をしているのかしら? 奈津」


 聞き慣れた声がして、奈津は顔を上げた。


 足音が大きくなってくるとともに、声の主の輪郭が浮かび上がってくる。そして暗闇から、莉多と人の姿をしたカラスが現れた。





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