1-1 朝の空気
翌朝。
奈津は昨夜と同じ高層ビルの屋上に立ち、眼下に広がる光景を眺めていた。
禍々しい黒い霧が充満している夜とは違い、空気が澄んでいて遠くまで見渡すことができる。穏やかな日差しのなか、街では電車や自動車がせわしなく行き交っていた。
「わたしも、生きてたときは電車に押し込まれてたな」
彼女は生前のことを思い出す。
雨が降る夜の街。体を刺すような冷たさと、心地良い水音。ぼやけた照明。歩道に突っ込んできた自動車。自動車とシャッターに挟まれた自分の体。血まみれの制服。投げ出された鞄と傘。人々の悲鳴。自動車の上に立つ、黄緑コートの少女。
満員電車のことよりも、人間としての生を終えた時のことが最初に思い浮かんだ。
「あれが、わたしの最期か……」
奈津は遠い目でぽつりと呟く。
他にも記憶はあるものの、これ以上は思い出したくない。幸いにも、死の記憶が強力な防波堤となって、忌々しい生前の事は容易には浮かばなくなっていた。
奈津が死ぬ寸前の事を反芻していると、黄緑コートの少女が彼女の隣に着地した。
人の姿になった死神のメジロは、奈津の顔を不思議そうにのぞき込む。
「奈津、なにしてたの?」
「んー? ああ、死んだときのことをちょっとね」
「あ、そ、そう」
メジロは奈津から顔を離し、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべた。
奈津は悪戯っぽく笑う。
「なに? その顔? 別に気を使わなくてもいいんだよ」
「だって、こっちの都合で奈津をこちら側の存在にしてしまったんだ。本当にすまない」
「なーに言ってんの」
奈津は両手でメジロの顔を挟み、目を自分に向けさせた。
「わたしはメジロには感謝してるんだよ。今のほうが、生きてたときの何倍も楽しいんだから。それに、メジロの手下になったのもわたしの意志なんだから。そう何度も何度も謝る必要なんてないって」
「そ、そうかな」
「そうだよ」
メジロは少し困惑したが、奈津の明るい顔につられて口元を上げた。
しかし、それも束の間。メジロは吹きだしてしまった
「あー! なに笑ってんの! もー!」
「ごめんごめん。奈津が真面目に言うものだから、ついおかしくなっちゃって」
メジロはなんとかして笑いを抑え、自分の手を奈津の両手に添えた。
「そろそろ集会の時間だよ。ぼくたちも行かなきゃ」
「そうだね。見回りもあるし」
二人は手を下ろして街に顔を向け、屋上から飛び降りた。
歩道に向けてゆっくりと下降する。奈津もメジロも足を下に向けたままで、昨夜のように急ぐ様子はない。メジロは鳥には変化せず、少女の姿のままだった。
空気の流れで奈津の黄緑マントが逆立ち激しく揺れる。青色のチェックスカートもめくれそうになっているが、こちらは奈津が両手で押さえつけている。
朝の爽やかな空気でコートをはためかせながら、メジロはニヤつく。
「人には見えないんだから、スカート隠さなくていいんじゃない?」
「そういう問題じゃない!」
奈津は顔を赤らめ、体を半回転させて頭を下に向けた。
「やっぱりこっちにしよっと。パンツ丸出しとかカッコ悪いし」
「お好きにどうぞ」
などと軽口を叩き合っているうちに、地面はすぐそこまで来ていた。
二人は下降速度を大きく落とす。人々が行き交うなか、歩行者の途切れるタイミングを狙ってメジロは着地した。彼女に続き、奈津は地上一メートルの地点で後ろに半回転してから足を着けた。
奈津とメジロは人の流れに乗って歩き出す。
スーツ姿の男女が無数にすれ違い、追い越していく。殺気立った雑踏のなか、奈津は呑気に鼻歌を歌いながら周囲を見渡していた。
赤信号の横断歩道で立ち止まり、奈津はメジロに話しかける。
「周りの人に認識されないの、やっぱり変な感じだね」
「まだ慣れない?」
「うん。でも、人混みの中だと生きてた時も今も変わらないかな。他人なんかいちいち気にかけないし」
奈津は悪戯な笑みを浮かべ、前に居る男性のリュックサックを人差し指で軽く突く。
「わたしたちは霊体なのに、こうやって実体のあるモノに触れるって面白いね」
「こら。余計な事しないの。その人が不快になったら申し訳ないだろ」
メジロは奈津の人差し指を手で掴んで動きを止める。
奈津はメジロの行動を予想し、指を掴まれた瞬間に力を抜いていた。メジロに目を向けると、彼女は少し怒ったような顔をしていた。もちろん本気で怒っているわけではない。奈津は笑みを崩さなかった。
「真面目だね~メジロは」
「奈津がふざけすぎているだけだ」
「はいはい、ごめんなさいね~」
奈津は反省の色なしといった様子で手を引っ込めた。
二人なりの暇つぶしが終わった直後、信号が青に変わる。人々は一斉に動き始め、再び歩行者の濁流が生まれる。奈津とメジロも足早に歩道を進んでいく。
ビル街を抜けると、大きめの公園が見えてきた。
緑が多く、ベンチも充分に設置されている。中央には噴水があり、その周りにはよく手入れされた花壇やプランターが並んでいる。この公園が平日の昼間や休日には多くの人が訪れる憩いの空間だが、メジロたち死神の集会場所でもある。
奈津とメジロは公園に足を踏み入れた。
噴水から少し離れた場所が所定の位置なのだが、彼女たちが到着したときには誰もいなかった。
メジロは頭をかきながらため息をつく。
「ちょっと早かったかな」
「そうでもないよ。ほら、あそこ」
奈津は斜め上を指差す。
彼女が示した先には、飛行する二人の影があった。一人は黒いコートに身を包み、もう一人は紺色のセーラー服を着て、その上に黒いマントを羽織っている。
黒色の二人は公園に近づくと速度を落とし、奈津とメジロのそばに降り立った。
「カ、カラスさん! おはようございます!」
「カラスさん、莉多さん、おはようございまーす」
メジロは上ずった声で頭を下げ、奈津は笑顔で明るく挨拶をする。
「うむ、おはよう。メジロ、奈津」
カラスと呼ばれた黒いコートの少女は挨拶を受けて微笑む。
「おはよう、奈津。あなたは今日も元気ね。それから、おはようございます、メジロ様」
莉多という少女は奈津に小さく手を振り、メジロには深々と礼をした。
カラスと莉多の身長は同じくらいで、奈津よりも少し高い。カラスは黒色のショートカットで、凛とした顔立ち。莉多は艶やかな黒髪を腰まで伸ばしていて、気品のある顔つきをしている。
メジロは緊張しながらカラスに話しかけた。
「カラスさんは、今日もその姿で飛んで見回りをしてきたのですか?」
「ああ、そうだ。エネルギー消費は激しいが、いざというときは俺も人の姿に戻って働かねばならんからな。朝はこうして慣らしているのだ。メジロも毎朝人の姿でここに来ているのも同じ理由か?」
「いや、ぼくは奈津に付き合って歩いているだけで、見回りの時は鳥の姿になって奈津の肩に乗っています」
「そうか。遣いの者と良好な関係を築いているのは素晴らしいことだ」
「あ、ありがとうございます……」
カラスに褒められ、メジロは照れを隠すように頭を下げた。
その一方で、奈津は莉多と話していた。
「莉多さんって、死神の遣いになって今年で何年目なんですか?」
「確か、十年目ね」
「大ベテランじゃないですか」
「そうね。普通の遣いは五年で限界が来てしまうけど、私は不幸因子の限界量が多いから二倍は長くやれているわね。でも、遣いとしての人生も今年で終わりそうだけど」
そう言う莉多の表情にはどこか寂しげな雰囲気があった。
「そうなんですか……リーダーの後継者はどうする予定なんですか?」
「カラスが選んだ子か、あなたでしょうね。奈津は私と同じ限界量らしいから、私としてはあなたを後継者に推したいのだけれどね」
莉多の言葉に、奈津は目を丸くした
「わ、わたしですかっ!? わたしに務まるとは思えないんですけど」
「大丈夫よ。朝の集まりで司会をする以外に特別な仕事はないから。奈津ならきっと上手くやれるわ。あなたとメジロ様は期待の星だもの」
「そこまで言われたら、頑張らないわけにはいかないですね!」
奈津と莉多は互いに微笑んだ。
「そろそろ時間ね。準備しましょ」
莉多は空を見上げて奈津とメジロに指示を出す。
奈津も上空に視線を向けると、三人の少女の姿が目に映った。彼女たちは少し速めに降下し、速度を緩めてから奈津たちの近くに着地した。