3-1 第一の人生
朝ヶ丘奈津は、日本の中枢であるこの大都市に生まれた。
両親と二歳上の姉の四人でマンションに暮らしていた。家庭内環境は良好だった。両親は共働きで同じ会社に勤めていたため、家事は家族全員で協力していた。
週末には家族四人で外出することが多かった。あまり遠くへは行けなかったが、いろいろな所に出かけ、さまざまな物を見て、美味しい物を食べ、いつも楽しい時間を過ごしていた。
小学校は姉の綾香と同じところに通っていた。二人とも元気がよくて真面目で、困った人を見過ごせない性格だった。どんな人にも分け隔てなく接する二人は、同級生や他学年の児童、教師からの信頼も厚く、学校の秩序を守るのに欠かせない存在となっていた。
奈津は学校でも家庭でも充実した生活を送っていた。
だが、それは唐突に終わりを迎えた。
小学四年生の冬、両親が一家心中を図った。
キャンプ場の車内での練炭自殺だった。それはどういうわけか奈津がトイレに出かけている最中に行われていた。奈津が出ていったことに気付かないまま、一酸化炭素を発生させたのかもしれなかった。
トイレから戻り、車内で両親と姉が倒れているのを見つけた奈津は、周囲の大人に助けを求めた。ドアは鍵が締まっていて開かなかった。
救急車が到着したときには、三人はすでに息を引き取っていた。
幸か不幸か、奈津は生き残ってしまった。
それからしばらくした後、親戚の手によって両親と姉の告別式が行われた。
奈津は家族の死を受け入れられず、式場の片隅でずっと泣いていた。両親におかしな様子はなかった。両親はどうして心中なんてしようとしたのか。どうして自分だけ残されたのか。なにもかもわからず、静かに涙を流し続けた。
そんなとき、ふと、誰かの噂話が聞こえた。
「朝ヶ丘さんの自殺、パワハラが原因だって。成果を奪われたうえに、失敗をなすり続けられたって」
「ああ、神崎さんか。あの人、俺も嫌いだなあ。あんな汚い奴が出世するんだよなあ」
「朝ヶ丘さん、遺書もなかったって。耐え続けたけど、限界が来ておかしくなったんだろうね。娘を巻き込んで死ぬなんて。残された方もかわいそうだよな」
「俺、神崎健太郎ってやつが上司じゃなくてよかったっすよ。朝ヶ丘さんは気の毒ですけど」
噂をしている人たちに悪気はないのだろう。話が聞こえる範囲に生き残ったほうの娘が居るなんて思うはずがない。
その話を聞き、奈津の感情はある一点に集まった。
「神崎、健太郎……」
奈津はその男を知っていた。両親の上司で、家を訪ねてきたこともあった。いかつい顔の腹の出た中年で、身長は百八十センチくらいあった。
そして、その娘も知っていた。
「神崎、麗華……」
奈津と同じ小学校で、三つ上の学年にいた。常に威張り散らし、いじめの主犯格の常連だった。姉の綾香と対立していた。姉が居なければ、学校の秩序は麗華によって乱されていたかもしれない。そのくせ、今は私立の中学に通ってお嬢様の真似事をしている。
二人の顔を思い浮かべるうち、奈津の感情に色がついていく。
奈津は、その感情が怒りだと自覚した。
だが、その怒りをぶつける術などなかった。奈津はその感情を原動力に、生き続けると誓った。
両親の死後は近場の叔父に引き取られた。
同じ都市だったが、そのなかでも治安の悪い地域に暮らすことになった。
初めは上手く事が進んでいたが、やがて叔父夫婦とその娘に疎ましがられるようになった。
娘からは暴言を吐かれ、叔母からは理不尽なまでに家事を押し付けられ、叔父には暴力を受けた。学校でも、両親と姉が一家心中で死んだことが明らかにされてからはいじめを受けた。治安が悪いこともあり、暴力は日常茶飯事だった。
奈津は人生を恨んだ。だが、生への執着は大きかった。
家族を奪った神崎健太郎とその娘の麗華に対する憎悪は増すばかりだった。
そんな生活が一年経った頃、奈津はあることを思い立った。
誰も救ってくれないなら、自分で自分を救うしかない。暴言暴力しか取り柄のない連中が渦巻くこの地獄から抜け出すために、勉学に励むしかない。
奈津は学校での暴力は暴力で返し、かつていじめの加害者だった生徒を被害者に回させた。奈津は一匹狼となり、学校では勉学に励んだ。
それでも、家では耐えるしかなかった。悔しかったが、叔父の力を借りなければ生きていけない。誰も引き取ろうとしないから、ここに来るしかなかったのだ。大学進学までの辛抱だった。
奈津は中学生のうちに高校の勉強を自主的に進めていた。中学校の授業は復習の場として真面目に受けた。
高校は、公立の平凡な学校を選んだ。勉強しながら大学進学の資金を稼ぐためにアルバイトをしなければならなかった。公立の進学校にも入学可能な学力を持っていたが、特別な理由がない限りアルバイトを禁止されていたため、受験することはなかった。
高校入学後は、アルバイトと勉学と家事と睡眠以外にはほとんど時間を使わなかった。同級生は部活動や放課後の遊びで青春を謳歌していたが、奈津にとっての青春は地獄を抜け出すためのアルバイトと勉学だった。
奈津の貯蓄額は順調に上がり、模擬試験の偏差値も向上していった。
高校二年の冬には、日本トップの大学を目指せるレベルに到達していた。
努力に対して必ず結果がついてきた。奈津の士気は上がる一方だった。このままいけば一流大学に受かり、学びを広げて社会に有用な人間になれる。両親や姉がいたときのような幸福が再び訪れる。そう信じていた。
自分の人生は一度堕ちた。
だが、自分の手によってもう一度光が差してきた。
その高校二年の冬のある夜、奈津はアルバイト先から叔父の家へ帰る途中だった。その日のアルバイトには何の問題もなく、奈津は上機嫌だった。
その日は雨が降っていた。
冷たさが体に染み込んでくるが、奈津の心は熱いままだった。これから帰って少し勉強して、十分な睡眠をとって、学校の授業で基本事項の復習をする。それが現状の打破に繋がると信じ、奈津は希望を持ち続けていた。
横断歩道に差し掛かる。
赤信号だったので立ち止まった。
折り畳み傘に雨粒が絶え間なく落ちてくる。そのリズムと振動が何故か心地いい。うるさいほどに明るい都会の夜光が、雨でぼやけて幻想的な雰囲気を醸し出す。色とりどりの光が、奈津の未来を祝福しているかのように思えた。
これから訪れる幸福な人生に思いをはせ、奈津は目を閉じた。
その時だった。
水が跳ね上げられる音とともに、自動車のクラクションが奈津の耳を貫いた。
警笛を聞き、奈津は目を開ける。
自動車が猛スピードで突っ込んでくるのが見えた。雨の中、速度超過によるスリップ。重量のある車体が滑り、奈津に迫る。突然の出来事に、奈津の頭は空白に染められた。
動けなかった。
車のライトが、眩しかった。




