あの世とこの世のエトセトラ
あの世とこの世、みたいな話ではありますが、人の死なない平和なお話です。
なにもかわらない。
なんにもかわらない。
きっとこのまま僕が終わっても、世界は変わらずに回っていく。
「あーあ、くだらない」
昼休み、ビルの屋上。
フェンスに寄りかかりながら、焼きそばパンを食らう。
傍らに置いたアイスコーヒーは、すでにぬるくなっていることだろう。
「本当、くだらない」
ぼそり、独り言。
僕から離れた場所で弁当を食う女性社員たちにも、おそらく聞こえない声で。
それこそ、僕にすら聞こえないくらいの声で。
「くだらない」
なあ、そう思わない?
サラリーマンの父親と専業主婦の母親との間に、優秀な兄の出がらしとして生まれて。
それでも分相応に生きようと、義務教育を終えて、それなりの高校に入って、それなりの大学を出て。
今はそれなりの会社で、それなりに働いて、それなりに生きてる。
なあ、くだらないと思わない?
きっと一生、こんなふうにくだらないまま終わるんだろう。
なら、今終わったって変わりはないよな。
いつ終わったって、思い残すことなんて、何も。
「本当に何もないのか?」
不意に聞こえたのは、気だるそうな男の声。
きょろきょろ、辺りを見回してみたけれど、何の姿も見えない。
気のせいだったか。
そう思って正面を向いたら、目の前にさかさまの顔があった。
「うわっ!?」
驚いて後ずさる。
そのさかさまの男は、空中でひっくり返った状態で、じっと僕の顔を覗き込んでいた。
その背中に白い翼。
……え、コスプレ?
「悪い悪い、驚かしたらどんな反応するかなーと思って」
「わざとかよ」
「ま、それはいいじゃん。それより、だ」
その男はそう言うと、空中で体を起こし、屋上のフェンスの上に胡坐をかいた。
よく座っていられるな、このバランスで。
「あんた、もう思い残すことなんてないとか考えたろ」
「……何でわかるんですか」
「そういうのは全部顔に出る。言っちまえば死相みたいなもんだよ」
「し、死相!?」
何、僕ってばいつの間にかそんな死にそうな顔してたの。
「でもさぁ……満足するには早すぎるんじゃねーの? ぶっちゃけ魂もスッカスカだし」
「魂スッカスカ!?」
「幸福に満ち足りた顔もしてねえし、むしろ楽しかった思い出なんて一つもねーぜみたいな?」
「そこまで言いますか……?」
「うん、本当ダメダメ、価値を感じねえ。例えるならこう……アボカド切ったらほとんど種だったみたいな」
「それはそれで希望に満ちてません?」
まじまじと僕の顔を見ながら、その男は面倒くさそうに、深く深くため息をついた。
「それに、贅沢を言えばもっと熟してから回収したいもんだなぁ。年齢的にも」
「回収って……あんた、死神かなんかですか?」
「は? あんなもんと一緒にすんなよ、この翼見りゃわかんだろ? 天使だよ、天使」
そう言いながら、男は自分の背中を指さす。
いや、こんな性格の悪い天使がいてたまるか。
「ま、お勤めとしては、心残りなくこの世とおさらばしそうな魂を天国にお連れする仕事なんだけどよ」
「死神みたいなもんじゃないか」
「それっぽい魂があったから来てみたけど、どうやらお前に関しては俺の仕事じゃないらしい」
ガシガシ、頭を掻いて立ち上がる男。
「んじゃ、俺は別の魂探しに行くわ」
「え、あ、はい」
「一通り見て回って、まだあんたがそういう状態だったら、仕方ねーから極楽に連れてってやるよ」
最後まで気だるげな顔で、その男はひらひらと手を振り、フェンスから飛び降りた。
あわててフェンスから眼下を覗き込んだけれど、そこにその男の姿はなかった。
「何だったんだ、一体」
「天使くんは面倒くさがりだから仕方ないよー」
「そんなもんなのか……って、次は誰だ!?」
ごく自然に会話が成立したことに驚いて振り向けば、今度は幼そうな少年。
少年は僕がデザートに食べようとしていたドーナツを一口、幸せそうな顔で食いやがった。
「ああっ、僕のドーナツ!」
「えー? 思い残すことなんてないんじゃなかったの?」
きょとん、心底不思議そうに首をかしげる少年。
「いや、それはまあ、そうなんだけど」
「だったらもらっていいよね!」
にこにこ、嬉しそうな顔でドーナツを頬張るその少年。
その頭には何やら角のようなものが生え、背中には何やら……コウモリっぽい翼が。
……この流れから来ると、あれか。悪魔か。
「なんかどうやらいい感じにこの世を憎んでる魂が見えたからさぁー、思わず来ちゃったよね!」
「ああ、そう」
「お兄さんつらいことでもあったんでしょ? 僕でよければ聞くよ、ほらドーナツお食べ」
「ありがとう、そのドーナツはもともと僕のだけど」
その少年からドーナツを受け取って、一口かじる。
それから僕は、これまでのくだらない人生について語った。
さらに、今現在置かれている理不尽な現状についても愚痴らせてもらった。
「こういう、人間同士のしがらみとかさ……死んだら楽になるのかなって」
「あーわかるわかる」
ドーナツを食べながら、少年は言う。
「上司と部下との人間関係のアツレキ的なものってしんどいよねぇ」
「まさか子供に共感されるとはねぇ」
「いやいや、僕も死んでからこっち、休みはないし上司からのパワハラはひどいし部下は言うこと聞かないしで大変で大変で……本当、しんどいんだよぉ」
死んでなおそういう問題はあるのかよ。
「あー、でもお兄さんは大丈夫、魔王様だってお兄さんみたいな無気力の塊は雇いたくないと思うし!」
フォローしているつもりなのか?
それとも純粋に貶しているのか?
「そういうわけだから、死後の世界に何かを期待するのはよした方がいいよ、と悪魔の僕が忠告します」
やっぱり悪魔だった。
いや、おかしくない? 天使と悪魔のビジュアル逆じゃない?
「そこまで言うなら、もう少し考え直してみようかなぁ……」
「お? 死ぬのやめる? ラッキー、仕事しなくて済んだっ」
にまにまと嬉しそうに最後のドーナツを食って、その少年は屋上のフェンスの上に立ち上がった。
「ドーナツごちそうさま! またお兄さんが人生に絶望したら、今度はちゃんと迎えに来てあげるね!」
ひらひら、手を振って、その少年はまた屋上から眼下へと飛び降りる。
いったい今日は何だというんだ。天使の次は悪魔って。いや、さすがにこれ以上はもう……。
「出遅れましたか」
「まだいた!?」
今度は僕の背後から、真面目そうなスーツ姿の青年。
青年は呆れたようにため息をつくと、僕の隣に立ってフェンスに寄りかかった。
「いい天気ですね」
「え……あ、はい、そうですね」
「こういう日に暗いことを考えるのは、野暮というものですね」
「……まあ、そうですね」
青年は小さく笑うと、僕の方を向いて、口を開いた。
「私は死神なんですよ」
「あ、何かもう、今さら驚かないです」
「ですよね。どうやらもう、天使と悪魔にいろいろ言われていたみたいですし」
苦笑を漏らしながら、青年はもう一度空を見る。
僕も、つられて空を見た。
いい天気だ。
「どうでもよくなってきたでしょう」
「へ」
「彼らと話したら、自分が今悩んでることとか、いろいろ、どうでもよくなってきたでしょう」
「あー……」
確かに、くだらない話をした。
無駄ともいえる時間を過ごしたような気がする。
「たぶん君には、心の余裕が足りなかったんですよね」
「心の余裕、ですか」
「だから今、気持ちがだいぶ楽でしょう」
青年はそう言いながら、僕の心臓の辺りを指さした。
「今、その気持ちで、自分自身の人生を振り返ってみてください。そして、その上で一つだけ、聞かせてください」
にっこり、微笑みをたたえたその青年は、僕に向かってこう言った。
「君は今、自分の人生を、誰かに自慢できますか?」
*
「……あれ」
おかしな夢を見ていた気がする。
きょろきょろ、辺りを見回してみても、変わった様子は何もない。
左手にあった食べかけの焼きそばパンを頬張って、空を見上げてみた。
『君は今、自分の人生を、誰かに自慢できますか?』
誰かに、そんなことを聞かれた気がする。
それに対する答えは『ノー』だ。
今の自分の人生は、人生と呼ぶことすらおこがましいほど、中身のないスカスカのものだと思える。
「くだらない」
本当、くだらない。
このまま終わってなるものか、などと思う程度に、僕の人生はくだらない。
「さて、と」
焼きそばパンを食べ終わって、大きく伸びをする。
うん、空が青い。すごくいい天気だ。
アイスコーヒーは完全にぬるくなってしまっていたけれど、そこまで腹も立たない。
何故だかわからないけど、気持ちに少しだけ余裕ができたような、そんな感じがする。
「もう少し、頑張ってみるか」
せめて、死に際誰かに、いい人生だったのだと自慢できるくらいには。
*
「結局、あいつはいったいなんだったんだよ?」
「本当それー。死にたそうな面してたくせに、見てみ? 今すっごい楽しそうだよ?」
あるビルの屋上を見下ろしながら、天使と悪魔がぶつくさと文句を垂れる。
その声を聴きながら、ついつい溜息を一つ。
「もともと本気で死にたいだなんて思っていなかったんですよ、あの人は」
「嘘だろ? ちゃんと死相出てたぜ?」
「なんだか現代社会、そういう人が多いんですよねぇ」
本気で死にたいわけでもないのに、軽い気持ちで人生をやめたがる、そういう人間が。
「とりあえず、今回はそう言うことだったので、お二人とも帰りなさい」
「えー、せっかく来たから遊んでいきたいんだけどー」
「あとで上司に叱られるのは嫌なんでしょう」
「ばれなきゃ平気だよぅ」
「私が申告しておきますのでばれます」
「死神め!」
頬を膨らましてから、悪魔はぷいっと視線を逸らし、どろんという音を立てて姿を消した。
「君もですよ。早く帰りなさい」
「わーってるよ、言われなくても帰ってすぐ寝るっつーの」
ガシガシ、頭を掻きながら、天使も同じようにどろんと姿を消す。
「さて」
ようやく一人になったところで、もう一度ビルの屋上を見下ろした。
先ほどの男が、ゴミ箱にゴミをすべて押し込んでいるところだった。
「今度会うときは、人生の自慢話を聞かせてくださいよ?」
それでは、大往生までごきげんよう。