スミレ色な贈り物
彼女は思わずつぶやいた。
「……どうしたものか……」
となりの校舎と渡り廊下で併設している食堂に設置された自販機。それを前にして、ズボンのポケットに両手をおさめる女子高生の湊川は、人生の岐路に立たされたようなくもり顔を浮かべていた。片方のポケットから手が出て黒髪を悩んだふうにすいてみせる。
いつもならば人が並び、今はたまたま彼女のそばには誰もいない。だが、すぐにも知っている顔が自販機のところへ何かを買いにくるのではと、気配をさぐり食堂の中を見回す。
彼女は、自販機にサンプルとして並べられた缶ジュースや紙パックの乳飲料を品定めしながら、ブレザーのポケットへ手を差し入れて財布を取り出した。革の表面は、使い込みすぎて角がすり減っている。何度も感慨深く見てきたものだが、特に雑貨屋のガラスケースに陳列されていたそれを初めて見たとき、共にした友人のなんとも正体のよくわからない笑顔を思い浮かべた。
(ああ……そんなことはともかく、早く買わねば……)
財布から硬貨を必要な分だけ探り選んでつまみ出そうとするが、運の悪いことに都合があわず見つけることができない。唇が不機嫌に引き締まる。
(……ついてないな……)
しかたなく紙幣を一枚とりだして、自販機へ一歩すすみより、投入口へ吸い込ませようと手を伸ばした。
そのとき、食堂の方々から聞こえる雑談の声に混じり、背後の遠くから、同じ年頃の少女たちが奏でる無秩序で小鳥のような高い声が耳に入りこんできた。
「きゃあ! いつ見てもお美しいわ!」
「素敵なセーラー服ですね!?」
「……今日も美しいですね……」
「わたし、見ていると美しすぎて、胸が苦しいわ。どうしよう」
(いやいや、振り向いてはいけない……急がねば……そして立ち去らねば……)
湊川は騒ぎへ聞き耳を立てながら、自販機に陳列されている商品へ目を凝らす。まばたきをした。
(ミ、ミルクティーがない! でもせっかくお金を入れたし……)
「……一鐘院さまあ!……」
背後で飛び交う少女たちの声は止まない。それどころか喜んだ声なのか悲鳴なのか判然としない声が、しだいに自販機で戸惑うブレザーとズボンの女子高生へ近づいてきた。
(ああ……きっと、たぶん私のところへ……)
とっさにミルクティー以外の飲み物を考えなく選び、人差し指が跳びはねたように一つのボタンを押す。商品が取り出し口へ落ち、ほぼ同時に釣り銭の硬貨がかたい音をたてて次々に落下する。その金属と金属があたる無機質な音とともに、湊川の小さな肩を背後から何者かの手の平が、軽く叩いてきた。
(うわぁ! 逃げられない!)
後ろから白く細い指のそろった手が現れた。襲うように湊川の胸にまわってくる。身を守る余裕もない瞬間、湊川は抱き締められてしまう。続いて柔らかい紫のかった黒い髪が彼女の視界に現れた。空気の流れを表すように紫と黒がつややかに揺らめく。
「捕まえた! ここにいたのね」
気立てある声質と共に抱きつかれた少女の心臓は、一度大きな心拍をたたいた。
「うわっ! 一鐘院! おねがいだからやめてくれ!」
不幸な事態の予想を他人事のように口にしていたにも関わらず、怯えた声をあげた湊川は一瞬、呼吸の仕方を忘れてしまう。喉の奥で空気がつっかえてしまった。
「ゴホッ! ゴホッ!」
湊川を捕まえていた細い両の腕は、ほどかれてしなやかに後ろへさがり、咳き込む背中をさすってきた。
「これはこれは、まだまだ成長期ね……」
「む、胸のことか?」
「そうそう。うふふ……」
拘束からとかれた湊川は、助けを求めるように自販機の表面へ片方の手をあてて、不快な表情の中にくいしばった歯を見せる。そのまま抗議を示した顔で後ろに振り返った。目の前に、古風なセーラー服を着ている背の高い女の子が一人。冷酷な切れ長の目で暖かそうな笑顔をつくっていた。長い髪の毛一本一本から知的な顔立ち、他の女学生はほぼブレザーかカーディガンを着ているが、それとはまた異なるセーラー服の着こなし、汚れ一つとしてない靴のはき具合まで、何もかも茶道で使われる茶室のたたずまいを思わせ無駄も隙もない。
湊川の視線は最後、セーラー服のふくよかな胸とスミレ色のスカーフに止まる。財布を握りしめた。
「余計なお世話だ」
「おどろかせてしまいましたわね。湊川さん、許してくださるかしら?」
「ううむ………」
「だめかしら? わたくし反省しておりますのよ」
許しをこうために、両手を閉じた羽根のように身の前に重ねる。しおらしい姿を見せてくる少女を前に、湊川は不快を露にしていた白い歯を唇の中にしまった。
(見た目は確かに完璧だが……)
「ひさしぶりね。白馬に乗る王子様でも期待していたかしら?」
「一鐘院……ひさしぶりだねっていうけれど、今朝も校門であったばかりなのだが……」
「あら、そうでしたわね。フフフ……」
湊川は、自分をわざとらしい思惑がらみな目で見つめてくる少女を、口を切り結んで見返す。財布を握り締める指の一本がゆるんだ。
「……そうだった。ちょっと待ってね一鐘院」
さっきまで何をしていたところか思い出した湊川は、自販機からイチゴ味の豆乳が入っている紙パックをつかみ出した。
「あらあら、イチゴ味の豆乳なんて珍しいですわね」
「私に合わないのか?」
「フフ、そんなこと言っていませんわよ。いつも九割の確率でミルクティーだから」
「……よく見ているな……」
ブレザーとズボンの怪訝な顔と、セーラー服の正体さだかでない微笑が数秒間見つめあう。
「湊川さん、時間があるのでしたら、ちょっとご一緒しませんこと?」
「あ? ああ……私でよいのなら」
一鐘院は、隣にあるもう一台の、紙コップにコーヒーをそそぐ自販機の前に立つ。すると遠くから、人の形をした影が床の上を水切りする小石のごとく跳んできた。影は一鐘院のすぐ隣で止まり本当の姿をあきらかにする。そこにはワンピースにエプロンをかけたメイド服を着こなす一人の少女が現れた。手を前にそろえたかしこまっている姿勢。その手が一鐘院の前に出る。
「お嬢様、これを」
「うわっ! どこから?」
メイドに驚いている湊川をよそに、一鐘院は自販機を見たまま、だまって差し出された財布を手に取る。中から硬貨を取り出して次々と自販機の投入口に入れていく。枚数は表示されている金額にぴったり合わせていた。湊川は、セーラー服の少女が見せるしとやかな振る舞いを見ていたが、わずかの気持ちながら自分と同じ財布を持っていることに着目する。
「ご苦労様です」
一鐘院は当たり前の顔をしてメイドに財布を返す。瞼を閉じて一礼したメイドはまたどこかへ残像のような影となり食堂を後にしていく。ところが、一鐘院を遠く取り巻く少女の一団のところで立ち止まった。
「お嬢様に、失礼があってはなりません」
やわらかい声で嗜めると姿を消した。
「あのう、一鐘院……」
「あら、どうしたの? 財布のことかしら? スカートにポケットはあるけれどかえって不便なのよ」
「いや、なんでもない」
「あそこのテーブルに座りましょうか?」
一鐘院の導きで湊川は、近くの備えてある白一色が際立つテーブルに移動する。
「一鐘院、みんなが見ている」
「かまいません」
すすめにしたがって湊川は、周辺をそれとなくうかがいながらエンジ色の椅子に腰掛けた。それでも細かいことであってもしたいようにやらせてみるという湊川の配慮も顔色として現れている。
「それにしても一鐘院は人気があるな。女子たちの声が嫌になるほど聞こえていたぞ」
「……フフフ……」
昼休みからはずれた時間である。食堂は広い空間の中に三々五々と制服姿が談笑している。高級なものを求めない者がそこでくつろげば、どことなくカフェの雰囲気を皮膚に感じとりそうだ。電灯は点いているけれども、それにもまさって、大きな窓から入るまぶしい陽光が、広い空間の磨かれた床の一面を満たしている。
さきほどまで歓声をあげていた少女たちは、ひそひそ話し合いながら遠巻きでセーラー服とズボンの女の子を観察している。一鐘院が振り返り、切れ長の目を細くした。
「心配いりませんよ。みなさんも、ご一緒に」
一鐘院が清らかな声でさそうと、彼女らは、空いているいくつものテーブルへ散らばるように座った。中には、はにかんだ顔で立ち去る者もいた。
(いかん……一鐘院はここでは余計に引き立つ……とばっちりで私も注目の的だ)
清潔感を象徴したいためか、食堂の内装は、細かいところでもたびたび修繕され、白ペンキの匂いがまだ残っているところもある。食堂の壁や柱は白がよく目立っている。それがまた、湊川の前に座っている清楚なたたずまいの少女は、背景となる白さの中で、スミレの花が一輪だけぽつんと咲いている風情である。周辺の女子高生たちの目にはより神々しい存在として写っているのだろうか。
ところが湊川は、羨望の眼差しなど持ち合わせていなかった。
(……確かにおしとやかに見えるが……)
長い髪の一束を、束の間に指で触れていた一鐘院は、紙コップを薄いピンク色な唇の先につける。すする音も立てず、習い事をそのまま表現するような行儀で一口飲んだ。
「はじめて聞くが、最近の一鐘院はいつもブラック・コーヒーだね?」
「今はこれがいいのよ」
湊川の尋ねに彼女は、コップの中をコーヒー以外になにかあるといった遠目で見つめ、ふたたび紙コップを唇へとはこぶ。
(なにやらものありげ……だな)
湊川は、イチゴの絵が印刷してある豆乳の紙パックにストローを刺した。味を確かめるように唇でくわえる。その前でコーヒーを飲む少女が、目を鋭い刃物のような形にして見ている。一見して冷たい眼差しにもかかわらず胸に寂しいものがあるようにも見受けられた。
「湊川さん、わたくしは今、悩みがあるのだけれど聞いてくださる?」
「それで私をここに座らせて?」
「そうそう」
「部活のことかい?」
「洞察力があるわね」
「いや、最近は会うとその話が多いから……」
紙コップをテーブルに置いた一鐘院は、身を前に傾けて両の肘をテーブルに着ける。泣き出しそうな表情をわずかに見せて頬杖をついた。
「アニメのことなんだけれど……今のところ、背景画はあまり注目されていないのよね。年々技術も上がっているから、良い背景画がたくさん現れているの。学園ものに注目しているのだけれど、校舎の外観とか、廊下や教室の内装とか、それに中庭の風景や植物も……」
「ふむ、アニメではどんな作品がある?」
「中二病にかかった女子高生に翻弄される男子の涙ぐましい姿。女の子だけで軽音楽部を立ちあげるけれどもほとんどケーキ食べながらの雑談ばかりな話。恋人同士のふりをして実のところ主人公は煮え切らない男の代表。宇宙人や超能力者、魔法少女が学校でテンヤワンヤ。異世界でもゲーム世界でもハーレム。サバゲか戦争ごっこに夢中になってマニア度を競う話。……それに……一人ぼっちの女の子が、立体映像を生み出す部屋で友達を作るお話」
「ふーん、私は推理系かな、あとはたとえばラヴクラフトみたいに血も凍るような怪奇小説を元にしたものなら興味をそそるのだが」
「その方向の学園ものはあるのよ。だけれど……そうね、あなたの対象はライトノベルにおさまらないものね……」
「どうも、特に学園を舞台にしている喜劇は……」
「そうかしら? そこに登場する人物のセリフや振る舞いの描写が楽しいし、丁寧に作られたものは細かい色々な伏線が節目の見所へとつながっているのだけれど?」
湊川は、相談してきた相手の表情を、心なし距離を取るように観察する。考えた目の次に写ったのは豆乳の紙パック。一旦は結んだ口にストローをさしいれた。半透明なストローの中で薄い赤色が流れていく。それは一口だけで、紙パックを掴む手は膝上に。
「それで、一鐘院は部活で背景の絵をどうしたいのかい?」
「主人公を中心として登場人物には人気が集まるのだけれど、あ、最近はモブにも密やかな人気が出てきたみたいですね。それに比べると背景画はまだまだなの。アニメーターは苦労して丁寧に描いているけれど、一つのカットで使ってそれで終わりだったり。でも背景画は登場人物の心理描写に欠かせない場合があるのよね。それを思うと何とかしたいと思うわけです。それでなのだけれど一つのアイディアが浮かんで……」
長い前置きが終わり要点に入ろうとしたそのとき、女の子二人が向かい合って会話するテーブルへ、一人の男子学生が恐る恐るの足取りで近づいてきた。顔と耳が赤い。
「あ、あのう一鐘院さま。こんにちは!」
「あら、ご機嫌いかが?」
「こ、こ、これを是非、これを読んでください! お願いします! 一生のお願いです!」
思いを遂げたく一途な眼差しを隠さない彼は、白く清潔感のある封書を一通、令嬢の前に差し出してきた。
「うん? ああ……ありがとうございます。そこに置いといてくれるかしら」
「よ、よろしく、お願いします!」
「あとで読ませていただきますわね」
手紙の差出人は、面接試験が終わったときのようなお辞儀をして踵をかえした。足取りはいくらか軽やかに変わっているがぎこちない歩き方である。立ち去る背中の向こう側に幸せな笑顔が隠れていそうだ。その姿が見えなくなると一鐘院の目付きは変わり、手紙の表面を冷ややかに見つめる。湊川は彼女の変化を気にした。
「ラブレター……だよな?」
「……そのようね」
一鐘院は手紙を取り、封を開かぬまま手慣れたように両手で破りはじめた。
目の前で突然起きた惨劇に、湊川の両目が意識を失ったような点になる。自分が何かの重大な犯罪に手を貸してしまったような感覚に襲われた。
「一鐘院! ちょっと! かわいそうだぞ!」
「正直に話すと、わたくしはセリフのあるモブにあまり興味ないのよね。そこまで広い度量はないから」
「まてよ、さっき学園ストーリーの登場人物が面白いと言っていたし! それに今のは現実の人間だぞ!」
「モブと科白のある脇役、主役は別。しかも人生はドラマだから」
「……意味がわからん……」
「でも、じかに渡してきて科白を使うところは褒めてあげるべきかしら」
「非道だ」
「わたくしを見ている彼女たちがいるでしょ? 彼の身を案じればこのような処置も仕方のないことなの」
「うーむ、わかる気もするが……いや、違うような……」
紙パックをテーブルに置いて黒髪の頭をかかえた湊川は、一鐘院の前に無惨な姿をさらすいくつもの紙片を、自分のところへ引き寄せ、一塊にまとめる。
「騒ぎにしたくない……私がなんとかしよう……」
「お任せいたします」
「………」
受取人の目を通すことがなかった恋文をどう葬ればよいか、湊川は眉をよじらせる。気にもかけないふうで一鐘院はコーヒーを味わう。それから一度まばたきした。
「そうそう、話しの続きだけれど」
「あ、うん、そうだったね……」
「どうかされて? 湊川さん?」
令嬢が覗きこむ湊川の顔はうろたえていた。ここに座っていることをとても後悔している様子である。
「湊川さん、わたくしを見てくださらないかしら?」
「え? うん……」
顔色よいとはいえない湊川の前で、セーラー服の少女は、右手を高くあげて指をカスタネットのごとくパチンと鳴らした。どこかへ合図するしぐさだ。すると、食堂内に音楽が流れ始める。湊川は苦く笑いかけた。
「令嬢のことだけあって手配がいいね。ピアノだけの曲に聞こえるけれどクラシック? 何の曲?」
「バド・パウエル。……ジャズよ」
ひとつ大きな呼吸をした湊川は、鼻の頭を人差し指でかいた。少しの間、音楽に耳を傾け、紙パックの飲み残しに気づくとストローの先を口に運ぼうとする。しかし、その手は止まる。
「そうだった。部活の話しの続き。要点は?」
「学園ものに使われたあと棄てられてしまった背景画を集めているの。それで一つ展覧会もできる量までは集めてあるの。でもそれで人に見せるだけで終わりにしたくはないのよね。背景画を基に組み上げた仮想の学園空間を物語の舞台として利用できるように貸し出すのはどうかしらと思って。どこでしたか、栃木県で江戸時代を再現したロケ地みたいにしてね。どうかしら?」
「うーん、自作は良いとして他人のものだと著作権は?」
一鐘院は顔をくもらせ、喉をごくりと小さく鳴らしながらコーヒーを飲み下した。
「……それが問題よね……」
「一鐘院のクラブだけで描いてすべて用意することはできないのか?」
「私が見たところ、うちの部だとレベルがまだまだなの」
「だが描き続けて腕をみがく以外にないだろうな」
「それはそうだけど、皆は二次創作で主人公を描くことに夢中で、他に脇役を主人公にして描くこともよくあるけれど……」
悩み事の少女からあきらめの吐息がもれでる。
「……一鐘院が考えている仮想のロケ地は、名前はつけた?」
一鐘院の口がひたむきな笑みをみせた。
「空中庭園ならぬ空中学園というのはどうかしら」
整った細身の湊川はちぢこまる。愛くるしい三頭身の人形が、椅子の上に捨て置かれたような寂しさにつつまれた。
「思い付くことだけは実に壮大だね……」
と、そこへ今度はカーディガン姿の女子が近づいてきた。一人だけのように見える。けれども、離れたところから親友らしきもう一人の同じカーディガンの少女が立っていた。行く末を見守るこわばった顔色。カーディガンの長い袖の先にほとんど隠れている両手は、胸の高さで白い貝殻のように握りしめている。
「あ、あのう……一鐘院さま」
「あら、ご機嫌いかがかしら?」
「一鐘院さま。これを、クッキーです。あたしが焼いてきました。作ってきたのですけれど……」
顔を赤くした彼女は、小さな袋づめのクッキーを令嬢に渡そうと見せてきた。手が震えている。
「あらまぁ、ありがとうございます。そこに置いといてくださる?」
「し、失礼します! ありがとうございます!」
花模様をあしらいリボンのついた小袋。それをテーブルに置いた訪問者は、深くお辞儀をするなり見守っていた友人のところへ駆けもどっていく。
「やったね! がんばったね! さゆりん」
「うん!」
歓喜にわく二人の声は湊川たちにも聞こえている。カーディガンの二人が野原を駆けるように手をつないで食堂を去った後、一鐘院は男子のときと同じように顔の様子を変えてクッキーの袋詰めを手にとる。ところが、湊川の反応をうかがうようにじっと見つめ、ポケットへしまうしぐさをする。が、入るわけではないので困惑した。
「そうか、女子からのクッキーはいいんだね?」
見逃さない湊川の問いかけに、一鐘院の切れ長の目の端が釣り上がる。その目は刃物になって湊川に斬りかかりそうな勢いがある。
「聞かないでくださる?」
「なるほど、それで最近はコーヒーをよく飲むのか? でもラブレターだったらどうするの?」
「口を閉じなさい」
まだ次に出てきそうな湊川の言葉を、一鐘院は怒った声で制し止めた。怒りをみせるままかと思われたが、袋の口をひらき、クッキーを一つ、つまみ出す。それを中腰に身をのりだして湊川の顔へ近づけてきた。
「毒味をしていただける?」
「え?」
「あなたに食べさせてあげたいの」
湊川は、目の前に出されたクッキーから思わず顔を引いてしまった。食堂のあちらこちらへ視線を向けて、他の学生たちの様子を確かめる。
「なにをやっているの? はやくしなさい」
思わぬ要求に躊躇した湊川は、一鐘院の手からクッキーを取ろうとした。
「だめ、このままおクチをあーんして」
「みんなが……」
「意外といくじなしね」
引き下がらない一鐘院のよせた眉。降参した湊川は、細い首も使い、顔を前につき出して口をあける。そこは思い切りがあり、医者に自分の扁桃腺を診てもらうような口のあけかただ。目はクッキーではなくセーラー服のつんと立つ鼻を見つめた。
ハート型のクッキーが、ブレザーの少女の舌にのる。目は一鐘院を見つめたまま、閉じた口は不器用に動いて咀嚼した。
「どうかしら?」
「うーん、シナモンがきいているけれど、ちょっと砂糖を使い過ぎているかな?」
「そうよね……」
「それがブラック・コーヒーを欲しがる一鐘院の理由か……」
「近ごろ、いただくことが良くあるの。他の子からもね。味にあきているのよ」
「……ふーん……」
「はじめの一人から、こころよく受け取ってしまったからかしら」
「なるほど……」
「だから、モブに興味はないの」
「うむ………、一鐘院、君はいくつなんだい?」
「失礼ですわね」
「そうではなくて、姿といい、ときおり見せる振る舞いといい、私よりずっと年上に感じるから。実際にそうなのだろう?」
「まあ、そんなこと?」
「いつまで女子高生をやっているのかなんて考えてしまうことがあって」
「ふふふ……わたくしは、時間が止まっているのよ」
「止めよう。この話は」
「わたくしは続けてもいいのよ。そうね、それなら条件として、またクッキーを一つ食べてくださいな」
令嬢の乳白色にきらめくしなやかな指がまた一つのクッキー。ふたたび湊川の口を求める。親鳥が雛に餌を与える様子に似てクッキーを与えた。湊川はどこかを見ながら考えている顔で味わう。
「一鐘院から見て私はどういう立場かな?」
「……そうね、わたくしの創作の、とても大切なモデルかしら」
「ゴホッ!」
湊川は喉をつまらせそうになり咳き込んだ。一鐘院は、理由もなさそうな顔で立ち上がる。咳をする少女の後ろへまわり込み背中をさすりはじめた。
「ゴホゴホッ……たぶん他の人からは、一鐘院は神秘的に見えるだけなのだろうけれど……で、でも私は」
「あらあら、それくらい察していますわ」
次第に咳はおさまってきた。代わりに胸の奥がやんわりと温かくなってくる。
(だが私には分かりやすい子だ……だからときどき戸惑わせる……)
湊川の咳がおさまったのを見届けた一鐘院は自分の席へもどらず、紙コップを取り上げる。立ちながら残りのコーヒーを飲み干そうとした。しかし、紙コップは空になっていた。
「いつのまに……」
一鐘院は紙コップの底を悩ましげに瞳をこらす。左手を腰にそえて、そのポーズは支配者が従うものをたしなめるさまに似ている。
「……しかたないわね」
紙コップを静かに置いた。テーブルの表面が軽くて固い音をたてる。他に聞こえるのはピアノ曲と、そこかしこの一つのリズムに合わせたような雑談の声。
「そうそう、今日は帰りに雑貨屋へ寄りませんこと?」
「ああ……まぁいいけれど」
「わたくしがプレゼントしたお財布はもうボロボロでしょ?」
「うん、まあな……でも今度は自分で買うよ」
セーラー服を隙なく着こなす令嬢の、これから起こる楽しいことを期待していそうな一つな笑顔。湊川は視線を何もない宙へとそらしてしまう。財布をしまったポケットに、湊川はそれとなく手を重ねた。
(……どうしたものか……)
彼女は、思わずつぶやきそうになった。
─了─
「うーん……」
半ズボンをはいているその小さな女の子は、雑貨店の前で立ち止まっていた。ガラスの向こうへ、物欲しげな光に帯びた目差しを注いでいる。ほうっておくと、いつまでもそこにいそうだ。パーカーのポケットから右手を出したり入れたり。左手は、彼女よりも高いところから垂れている腕の、細い乳白色の手を、たよるようににぎっている。
「どうしたの?」
「うーん、まあ、いいよ。お金がないから……」
「あれが、欲しいのね?」
「うん、来月、中学生になるから、お金も使うことになるよね」
「そうね、それなら、わたくしが買ってさしあげましょう」
小さな女の子に応えた乳白色の手の持ち主は、背が高く、紫色のセーラー服を着こなして、腰まで長い髪をおろしていた。
春の、高くなりはじめた日射しで、顔は影の中に隠れてよくみえない。だがどこか淋しそうだ。
だから、半ズボンの子は機嫌をとる笑顔で見上げた。
「えへへ」