通夜
目が覚めたのは、深夜を少し廻った頃だった。
この二日間は夢の中の出来事で、ここは僕の家で、いつもの布団で寝ていただけだった・・・と思いたかったが、窓から差し込む月明かりに照らされた見慣れない部屋と、見慣れないこの形の良い手が、これが現実なのだと訴えている。
もう少し眠りたい気もしたけど、先にやらなければならないことがある。
明日からしばらく休みだということは、昨夜の夕食のときに木戸恵里奈の家族に言っておいた。
身体はともかく、精神的な疲れを心配して師長がそう勧めてくれたことも話しておいた。
父親と姉は心配そうな顔をしていたが、正直に(?)話したことで、ある意味では安心したようだった。
あとは一刻も早くあの人達に本物の木戸恵里奈を返してあげなければならない。
それにはまず邪魔者である僕が、この身体から出ることが出来なければならないのだ。
入れたのだから、出ることだって出来るはずだ。
僕は、精神を統一する。
身体を動かさずに、天井の一点を見つめて、そこに自分が行けるようにイメージする。
・・・はあ・・・はあ・・・はあ・・・。
いかん・・・夢中になって、いつの間にか息をしていなかった。
気を付けながら、もう一度だ。
深く息を吐いて、鼻からゆっくりと空気を肺に送り込む。
何度か繰り返すうちに視界がぼんやりとぼやける。
そう、この感覚だ。
あの時のように、水の中に世界が沈んだような・・・。
もう少しで出られそうだと思った瞬間、水の中の世界が消えてしまう。
くっそ!!失敗か。
何か足りないのか?
気を取り直して、もう一度だ。
意識を集中させると・・・ぼんやり視界が歪みはじめる。
上半身を起こすようなイメージで、ゆっくり起き上がる。
そおっと・・・そおっとだ。
おお!できた!!
ゆっくりと寝ている木戸恵里奈の方を見る。
わあ!!
恵里奈の顔が僕のすぐ前に近づいてくる。
目を閉じたままの顔がぶつかって・・・あ・・・。
身体に引っ張られるように戻ってしまった。
ベッドの上で僕は上半身を起こした。
正確には木戸恵里奈の身体だけど。
でも、少しずつ上手くなっているような気はする。
もっと頑張ってみよう!あきらめるわけにはいかないんだ!!
それから、何度も何度も何度も失敗した。
でも、あきらめない。
失敗は成功の素のはずだ。
それから何十回目の挑戦だっただろうか?
僕は・・・僕は完全に木戸恵里奈の身体を抜け出すことに成功していた。
いつの間にか窓から朝の光が差し込んでいた。
木戸恵里奈の身体は胸の辺りがゆっくりと上下し、健やかな寝息を立てているようだった。
よかった・・・彼女はちゃんと生きている。
水の中での僕自身の身体は何も見えない。
自分の手を視界の前に持ってきたが、それは感覚だけで、実際には何もない。
匂いも感じない。
この前は無我夢中だったけど、今回は違う。
ちゃんと自分で意識してやっていることだ。
色々試してみよう。
まずは五感の確認だ。
視覚、これは大丈夫だ。
全てがプールの中に入ってしまったような感覚ではあるけど、見えないことはない。
次に触覚。
木戸恵里奈の顔に触れてみる。
・・・うん。
何もない。
感覚ゼロだ。
当たり前だよな・・・手・・・無いんだし・・・。
次は聴覚だ。
・・・うん。
何も聞こえない。
当たり前だよな・・・元々こんな早朝に音がするわけじゃないだろうし。
ん?でも、この前は確か家族の声が聞こえたような気がするぞ?
早朝だからって、完全に無音っていうわけじゃないだろうし。
僕は窓に向かって進んだ。
まるで平泳ぎで泳いでいるような速度での移動しかできない僕は、ゆっくりと窓に近づく。
窓を開けようとしても、見えない手では開けられなかった。
感覚的には、見えないはずの自分の手が窓ガラスをすり抜けた感じだ。
仕方なく、窓ガラスに特攻をかける。
・・・そんなにスピードは出ないけどね。
お!これも見事に成功だ。
広いベランダに抜けることができた。
朝日がまぶしいくらいの光で僕を照らす。
顔がある辺りを手探りしてみるが、まったく感覚なしだ。
おそらく瞼もないのだろう。
耳を澄ませてみると、鳥の鳴き声や車のエンジンの音がかすかに聞こえてくる。
おお!聴覚もあるみたいだ。
・・・でも、かなりボリュームは小さめだ。
補聴器とか欲しいな・・・。
余計なことはともかく、次は嗅覚か。
うん無臭だ。
何にも感じない。
次に味覚。
どうしよう、味か・・・。
冷蔵庫の所に行ってみるか。
ゆっくりではあるが、僕は方向転換して、壁を抜けて二階の床もすり抜けて、最短距離で冷蔵庫までやってきた。
うん、これは結構便利だ。
幽霊も悪くないな。
ええと、冷蔵庫の中身は・・・と・・・。
確か昨日の残りの卵焼きがあったはずだ。
あった。
ラップがしてあるけど、すり抜けるはずだから問題ないだろう。
・・・うん・・・味覚ゼロ。
当たり前だ。
べろがないんだから・・・。
でも、鼓膜もないはずなのに、なぜ音は聞こえるんだろう。
目も無いのに見えるし・・・。
・・・ま、考えてもわからないだろうな。
まずは理屈よりも、現状確認が大事だ。
これで、木戸恵里奈とはお別れだな。
彼女がどんな子なのか興味はあったけど、これ以上僕の都合で振り回すわけにはいかないし。
最後にあいさつだけでもしていこう。
僕はまた最短距離で木戸恵里奈が眠っているベッドに向かった。
眠っている顔も可愛かった。
胸元がはだけて、ふくよかな膨らみが少しだけ覗いていた。
いかんいかん。
そんなつもりで来たわけじゃないんだ。
ありがとう。恵里奈ちゃん。
君のおかげで、家族に遺言書を渡せたし、言えなかった事を手紙で伝えることができた。
本当にありがとう。
・・・ん?
何だろう?
く・・・苦しいぞ?・・・。
まるで水の中で呼吸ができないような感じだった。
まずい・・・本気で苦しくなってきた。
喉元に手をやろうとしたが、全く無意味だった。
う・・・本当にまずいぞ。
その時、木戸恵里奈の顔が目に入った。
これか!?
僕は恵里奈に向かって体当たりを敢行した。
・・・ふう・・・。
呼吸が戻った。
そして、僕はまた木戸恵里奈の身体に・・・。
もう一度抜け出そうとしたけど、さすがに集中力がもたないみたいだ。
ごめんよ。
もう少しだけ、僕に時間をください。
僕はベッドから起き上がって、机に向かった。
便箋とペンを取り出して、今までの事をまとめてみた。
幽霊になったとき、
視覚・聴覚だけが機能する。
移動は遅く、だいたい人間が歩くくらいの速度だろう。
遮蔽物は無視して通り抜けられる。
しばらくすると、肺も身体もないはずなのに、呼吸困難状態になる。
時間にして、およそ十分くらいだろう。
木戸恵里奈の身体に戻ると、何とか状態異常は治る。
ううむ・・・これはもっと検証が必要だな・・・。
ひょっとして、木戸恵里奈以外の人間にも入れるのだろうか?
たとえば、動物や昆虫の中には?
よし、これは実験だな。
もう少し休んだら、試してみよう。
そう考えていると、階下から物音が聞こえた。
そろそろ木戸恵里奈の家族が起きだしてきたのだろう。
僕も着替えて、一階に降りた。
「おはよう恵里奈。今日は家でゆっくりするのかな?」
「うん。そのつもりだったけど、少し出かけてくるかもしれない」
僕の家族が気がかりだ。
「そうか、じゃあ気を付けて行くんだよ?いいね?」
「うんわかった。ありがとう、お父さん」
木戸恵里奈の父親は行き先など細かいことを尋ねない。
ちゃんと娘を信頼してるのだろう。
本当に早く返してやらなくちゃだ。
姉も起きてきて、二人で朝食の用意をする。
トーストとハムエッグにホウレン草とベーコンのコンソメスープ。
それにサラダを簡単に作って三人で食べる。
相変わらず、朝から会話の途切れない家族だった。
社会問題の話題から最近起きた事件の話題。
今勤めている会社の問題やら、父親の会社の動向。
父親は娘の仕事の事についても熱心に相談に乗るし、娘たちも父親の会社の事についてちゃんとした相談役になっている。
まるで、役員会議である。
たった一週間の木戸恵里奈の予備知識では二人の話にはあまりついていけなかったから、聞き役に徹することになる。
意見を求められることもあったが、その時は自分の思った通りの意見を率直に述べた。
「恵里奈はこの数日ですごく大人になったなぁ・・・お父さんは、明菜の事も恵里奈の事もだが、これからもお前達を頼りにしているよ?」
「ほんと恵里奈、別人みたいになっちゃってさ。ほんとに何かあったんじゃない?」
ええ・・・とっても何かありましたも・・・。
「別にそんなことないけどね・・・いつまでも子供じゃないよ?私だって」
鋭い家族の指摘を軽くかわして、また聞き役に徹することにした。
「そうだ。二人も仕事やら何やらで時間が無い事だし、そろそろまた家政婦さんを雇おうかと思っているんだが、お前たちはどう思うかね?」
「賛成、賛成!!」
姉が即答する。
「ちょうど恵里奈の料理の腕も上がった事だし、そろそろ家事からは解放してほしいと思ってたのよ?」
「そうだな・・・恵里奈はどうかね?」
「うん、私も助かるかなぁ?一か月お休みはもらったけど、色々やりたいこともあるから」
「うむ。では決定だな。早速今日手配をしてみるからな」
朝食が終わり、後片付けを済ませると、二人は仕事に出かけて行った。
僕も部屋に戻って、幽体離脱の練習だ。
ベッドに横になると、早速集中力を高める。
・・・うん、成功だ。
水の中の景色は結構慣れてきた。
移動もはじめに比べればスムーズだ。
今度は時間をきっちり見ている。
ディズニーキャラクターの時計はきっちり八時を指している。
しばらくふらふらと木戸恵里奈の身体の周りをまわりながら、時間の経過を見る。
時計の針が八時十三分二十七秒を指した時だった。
あの呼吸困難のような状態が僕を襲う。
僕は、すぐに恵里奈の身体に戻る。
…ふう…。
幽体離脱できる時間は十三分ちょっとか…。
それから何度か練習を繰り返したが、やはり外に出ていられるのは、きっちり十三分二十七秒だった。
時計の針は今、九時半を指している。
そろそろ出かけるか…。
僕は、少しだけおしゃれをして、一番近い化粧品コーナーのあるデパートに出かけた。
目的は化粧のやり方を教えてもらうことだ。
何気なく化粧品の棚を見ていると、バリっと化粧した店員のお姉さんが話しかけて来た。
「こんにちは、何かお探しですか?」
歳は二十七かそこらだ。
栗色に染めた髪の美人のお姉さんだった。
「あの・・・私、今まであまりお化粧とかしたことなくて・・・どんな風にお化粧をしたらいいのかわからなかったのと、自分に合うお化粧を教えていただけたらと思って・・・」
「そうなんですか?もったいないわね?こんなに可愛い御嬢さんなのに。今まで一度もお化粧したことないのかしら?」
今の中身は男ですからね・・・化粧はしたことありませんです、はい・・・。
「そうなんです。教えていただけますか?お姉さんみたいに綺麗になれるとは思えないけど、少しでも近づけたら嬉しいです!」
僕のリップサービスは長い建築の営業経験から得たものだ。
相手の気分を良くすることで、自分にもメリットがある。
「まあ・・・うれしくなること言ってくれるのね?」
「ううん、本当です。お願いできますか?」
「そういう事なら喜んで協力しますね?」
にっこりとほほ笑んだそのお姉さんの顔は、お世辞ではなく本当に美人だった。
彼女は恵里奈の顔の形や目元の特徴を説明してくれて、それに合う色や化粧の仕方を細々(こまごま)と教えてくれた。
そして、実際に僕の顔に化粧を施してくれる。
僕は、その説明とやり方を必死で学び取ろうと真剣に鏡を見て、話を聞いた。
「ほら出来た。鏡を見てみて?」
向けられた鏡を覗き込むと、そこには信じられないくらいの美女が映っていた。
木戸恵里奈、恐るべし。
思わず、また鏡に見惚れてしまった。
「あ・・・すごい・・・」
「でしょう?あなた、本当に美人さんよ?」
ううむ・・・美人と言われてうれしくなる僕は異常なのだろうか。
もしかしたら本来、そっちの気があるのかな・・・。
いや、それは是非とも否定したいところだ。
僕は、それこそ話しをしたこともないが、この木戸恵里奈という女の子を間違いなく気に入っている。
だから、それを褒められてうれしいんだ。
きっとそうに違いない!
そうであるべきだ!
僕は、お姉さんが勧めてくれた化粧品を一揃え購入して、デパートを後にした。
結構かかったな・・・五万三千四百八十円。
化粧品って高いんだな。
やっぱり女の子って大変だ。
しかし、木戸恵里奈の財布にはまだまだ余裕があった。
違うな・・・金持ちは。
でも、無駄遣いはよくない。
出来るだけ節制しよう。
僕のお金ではないのだから。
それから、僕は一度木戸恵里奈の自宅に戻り、服を着替えて僕の家に向かった。
自宅から歩いて五分くらいにある大型家電のお店の駐車場に車を止めて、歩いて向かう。
服は恵里奈のクローゼットにあった黒のワンピースにしておいた。
万が一今日が僕の葬儀だったら普段着で行くわけにはいかないからである。
真珠のピアスとネックレスだけを身に着けてなるべく質素にまとめておいた。
一応、ご霊前も用意しておいて、午後五時半。
自宅に着くと、門と玄関のドアの横に「忌中」の札が貼ってあり、窓が開け放たれている。
今日はお通夜になる予定だったようだ。
いつも三台の車を止めている駐車場は空けてあり、人が集まっていた。
僕の親しい友人たちも何人か来ている。
そのうちの五人は親友と呼べる友達である。
遠藤高志、藤原善樹、塩谷昭雄、高木政己、栗原伸人、須藤茂太。
みんな神妙な顔で僕の通夜に来てくれていた。
僕は彼らの横を通り過ぎる時に、きちんと頭を下げる。
父さん・・・。
父さんは俺の友達にはロクな奴がいないとよく言っていたけど、違うだろ?
みんなわがままで個性派だけど、楽しい奴らだし、こうやって友達の死をちゃんと悲しんでくれているし。
ありがとな、みんな・・・。
「あの・・・失礼ですが、浅倉君とはどういう御関係だった方ですか?」
頭を上げた僕に、高木が話しかけてきた。
藤原と栗原は僕の顔と胸元をちらちら見ながら、様子をうかがっている。
気のせいか、刺さるような視線だ。
非常に気色悪い事この上ないぞ。
「あの、突然で申し訳ないんですが、僕たち浅倉君とは懇意にしていた友人一同なんですが、今度お友達も誘って頂いて、浅倉君のお悔み会をしませんか?」
嗚呼・・・父さん・・・僕の友達にはろくな奴がいませんでした。
いくら声を低めてもだめだぞ高木?
僕本人にまる聞こえだ、この軽薄男。
後ろで期待に胸を膨らませてる二人も同罪だ。
よし・・・ふふふ・・・見ていろ?
「そ、そうなんですか・・・わかりました。じゃあ、ちょっと待っててくださいね?番号をメモしてきますから!」
僕はそう言って、一度席を外した。
家の裏に回って、バッグから紙とペンとスマートフォンを取り出す。
ネットでリカチンの電話番号を調べると、リカチンの電話だけでなく、一覧に怪しい電話番号一覧が乗っている。
おお!!
あのホラー映画のS子の電話番号ってあるぞ?
090で始まる携帯らしき番号に一応かけてみると・・・。
[もう一度おかけ直しください!・・・お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって、もう一度おかけ直しください!・・・お客様の・・・]
残念ながら、S子は出なかったが、とりあえずこれでいいか・・・。
今の電話番号をメモ帳の切れ端に写していると、スマートフォンが鳴動し始めた。
さっきかけた番号だった。
・・・?
現在使われておりませんって言ってなかったか?
・・・電話に出てみた。
[ひっ・ひっ・・ひ・・・ザザ・・・ザァァァ・・・ひひひひひぃぃぃ・・・ぷちっ]
・・・何だったんだ?今の・・・。
まあ、いいや・・・。
とにかく、この電話番号を渡しとこう。
「お待たせしてすみません。はい、これ!後でかけてみてくださいね?」
目いっぱい可愛いらしく振舞って、小声でメモを渡す。
「え?まじっすか?嬉しいなぁ。きっと浅倉が俺たちを引き合わせてくれたんですね?・・・ぐすっ・・・」
馬鹿め・・・「ぐすっ」が芝居ってのは、わかってるぞ。
高木の奴喜んでいやがる・・・最低です。
死ぬまでその番号に掛けてろ!
ロクでもない友達に、ささやかな罰を与えた僕は心の中と裏腹な態度で小さく手を振って、焼香に向かった。
僕の身体はすでに白木の棺桶に収まっていた。
その脇に喪服姿の両親と姉夫婦、甥と姪、そして娘の蓮葉が座っていた。
みんな下を向いて、焼香に来てくれた人達に頭を下げている。
元気はないみたいだけど、みんな揃ってる。
良かった。
母さんが僕に気づいて、もう一度頭を下げた。
形式通りに焼香を済まして帰ろうとすると、母さんが歩いて僕のそばに来た。
「昨日はありがとうございました」
もう一度深く頭を下げる。
「いえ・・・そんな、私は何も・・・」
頭を上げた母さんは、「ちょっとこちらに来てくださいます?」と言って、僕を二階に案内した。
二階は何も変わっていなかった。
階段を上がると短い廊下の右にトイレがあり、突き当りのドアを開けるとリビングダイニングキッチンになっている。
僕を部屋に招いた母さんは、ダイニングテーブルの椅子に座るように言った。
向かいの席に母さんは腰をおろした。
二匹の猫がソファーでまるくなって眠っている。
「木戸さん、でしたよね?」
「は、はい」
「昨日は本当にありがとうございました」
「い、いえ、本当に私は何も・・・」
母さんは、昨日よりは少しだけ母さんらしくなっていた。
「木戸さんが届けてくれた息子の手紙を読みました・・・家族みんなで・・・」
「それは良かったです。浅倉さん、きっと喜びますよ?」
「ええ。あの子は・・・優しい子だったんです・・・本当に・・・」
母さんは、懐からハンカチを出して目元をぬぐった。
「息子の手紙にありました。短い間だったけど、あなたにとても良くして頂いたと・・・ありがとうございます・・・」
僕もつい目頭が熱くなって、バッグからハンカチを取り出す。
「息子は、手紙で幸せだったと言ってくれていました。私の、私たちの子供に生まれてこれて良かったって・・・あなたが持ってきてくださった、あの手紙にね?・・・そう・・・書いて・・・ありま・・・した。・・・おかげで、私たち夫婦も娘も、そして孫も・・・本当に救われました・・・息子のために、なんでもしてやりたかったのに、私たちは何もできなくて・・・本当になんにもしてやれなくて・・・」
・・・そんなことは決してない。
二度の大学受験に失敗して無駄飯を食べた僕に、怒りもせずに「試験は来年もあるのだから、やりたければ頑張りなさい」と励ましてくれた。
僕の仕事がうまくいかないときに、何度助けてもらったことか・・・。
僕が気落ちしているときに、何度優しい言葉をかけてくれたことか・・・。
離婚のときも、孫の蓮葉が離れて暮らす事になるのはさびしいだろうに、反対もせず見守ってくれた。
僕が病気で倒れた時、どれだけ心を痛めてくれたことか・・・。
いつでも僕の味方になってくれた両親。
何もしてあげられなかったのは僕の方だ。
こんなに僕を愛してくれていたのに、何の親孝行もできなかった。
その挙句に、息子の死を看取らせるような不出来な息子だ。
本当に、本当にごめんね、母さん。
でも・・・でも、今の僕には何も言えなかった。
ただ黙って、際限なく出てくる涙をハンカチに吸わせることしかできなかった。
「それでね、主人とも話して、あなたにこれだけはお渡ししたかったの」
そう言って、母さんは僕の前に包み紙にくるんだ何かを置いた。
「・・・これは?」
「それは、主人と私と亡くなった息子からのほんのお礼の気持ちなんです。お願いですから、どうか・・・収めてくださいませんか?」
・・・嫌な予感がした。
恐る恐る包みを開けると、一万円札の束が二つ入っている。
「こんな!?・・・ダメですよ・・・とても頂く訳にはいきません!申し訳ありませんが、お気持ちだけ、本当にお気持ちだけいただきます」
僕は思わず声を上げてしまった。
ダメだ。
絶対にダメだ。
僕の両親の老後の資金はいくらあったっていいはずである。
僕の保険金はたかだか六千万くらいだろうし、そこから税金も引かれる。
両親が一生懸命貯めていたお金を、僕がもらうわけにはいかないんだ。
しかし、さっきの嫌な予感はこれからの事だった。
僕の母さんは、この程度で引き下がるほどヤワな人では無い事も僕にはわかっていた。
それこそ母さんも、看護師長という立場で何十年も女の職場をまとめてきた人だ。
この人は国立病院の、『あの看護師長』よりも上手だった。
「あなたが受け取ってくださらないのなら、お金は今から近くの神社の境内に行って置いてくることにいたします。私たちの感謝の気持ちをあなたが受けてくださらないのなら、せめて・・・本当にいるかどうかわからないけれど、私たちの苦しみを和らげてくれた神様に感謝しなくてはなりませんからね?」
・・・こ、この人は・・・。
神社の境内にこんな大金を置いて来たら、ネコババされて終わりに決まってるじゃないか!
神様なんかこれっぽっちも信じていないくせに、平気でこういう事を言う。
普段は穏やかで、物静かなのに、こういう時は絶対に引かない頑固な人だ。
全く・・・はじめから僕に勝ち目はなかった。
「お母さん・・・わかりました。有難く受け取らせていただきます」
「ありがとう。木戸さん。本当にありがとうね?・・・あ、そうそう、このカバンに入れて行ってください」
そう言って、母さんは黒い小さなバッグをくれた。
「それと・・・もしあなたが嫌でなかったら、近くに来たときはウチに遊びに来てくださいね。なんだか、こう言っては失礼ですが、木戸さんとは昨日今日会ったような気がしないんです。不思議ですけどね」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせて頂いて、是非お伺い致します」
話が終わり母さんと下に降りると、蓮葉はすっかり疲れてしまったのか、中学三年生の姪っ子の膝で眠っていた。
いつもの・・・そう、天使みたいな寝顔で。
僕はこみ上げてくるものをなんとか抑えてその場を後にした。
父さんと母さんと姉さんは僕を見送ってくれた。
その向こうで、スケベ面を満面に貼り付け、こっちに小さく手を振っている三馬鹿トリオの姿もあったけど・・・。