遺言書
ロッカールームに入ってきた師長の三枝光江は、僕に向かって開口一番、お説教を始めた。
「昨日の今日なんだから、検査結果が出るまでは仕事しちゃダメよ?あなた自身の事もそうだけど、ちゃんと大丈夫ってわかるまではダメ。真面目なあなたの事だから、もしやと思って来てみたんだけど、いい?あなただけの問題じゃなくて、あなたにもしものことがあったら、患者さんに迷惑がかかることを忘れてはだめよ?昨日みたいに患者さんの前で倒れでもしたら、大変なんだから。いい?検査結果は遅くても夕方には出るから、それまではここのベッドで休むか、家の人に迎えに来てもらって自宅で休んでいなさい。わかったわね?」
「はい…わかりました。すみませんでした…」
つ、強い。
これが女の職場をまとめる看護師長の力というやつですね…。
本来の僕と六つしか違わないのに、その人間的な迫力は平伏せざるを得ない何かがある。
もっとも、たしかに師長の言う事に理があるのは間違いない。
客観的に判断すれば、医療ミスを起こさないためにも、身体に、ましてや頭に支障が有るかもしれない看護師を業務に着かせるわけには行かないのだろう。
僕は着かけていた看護服を脱いで、私服に着替えなおした。
しかし、木戸恵里菜。
すらりとした、とても美しい手をしている。
与えてるところには三つも四つも与えてるんだな、神様は。
…ゴホン…それはともかく、せっかく休みを貰ったのだ。
午前中の内に家族に会いに行って来よう。
その前に僕の身体が今どこにあるのか調べないとならない。
きっと、家族の誰かがそこにいるはずだから…。
死んでしまったとはいえ、僕を一人にしないために…。
ええと、そういう時は・・・と、搬出係?ってところで聞けばいいのか。
木戸恵里菜は、ちゃんと知っていたみたいだ。
僕は搬出係の窓口へ向かった。
搬出係は救急医療室の向かいにあった。
院内のリノリウムの床は、白い大理石調の柄になっていて、高級そうな雰囲気を醸し出している。
窓口では、光沢のある集成材で造られた枠の小窓から話し掛ければいいようになっていた。
「お、木戸ちゃんじゃねえか?おいおい、昨日は大丈夫だったのかい?」
昨日の今日でこんなところにまで話が来ているのか…。
話しかけてきたおっさんは、五十は過ぎているだろうぽっちゃりとした、白髪混じりの短い頭髪が、だいぶ後退してしまっている人物だった。
名前は江戸川修三。
作業服のネームプレートにも『江戸川』とある。
恐るべし、木戸恵里菜。
こんなおっさんのフルネームを覚えているなんて。
「うん、大丈夫です。ありがとうございます、江戸川さん」
江戸川は珍妙なものを見る目で僕を見た。
「江戸川さん?ありがとうございます~?…本当に大丈夫かい?木戸ちゃん…やっぱり頭打っちまったんじゃ…」
「あ、う、うん。本当に大丈夫だから。えっと、あ、そうそう、昨日亡くなった浅倉久美さんのご遺体はもう搬送されたんですか?」
さらに訝しげな顔で僕の言葉を繰り返すおっさんに、これ以上ツッ込まれるわけにいかないので、僕は要件を切り出した。
「ああ、昨日亡くなったあの男性の患者さんだね?リストが来たから女かと思ったら、「久美」って書いて「ひさよし」って読むらしいじゃねえか?」
大きなお世話だジジイ・・・
「あの患者のご遺体は昨日の晩の内にご家族が引き取って行ったよ。今時珍しいことに自分の家で葬儀を出すって言うんだよ?セレモニーホールの方がいろんな面で楽だって話してやったのによ?ここはもう一回俺がちゃんと言って…」
「あ、ありがとう。それじゃあ、急ぐから行きますね?」
話しが長くなりそうなので、速攻退却である。
裏口から出て職員専用の駐車場へ向かう。
木戸恵里菜の車は…と…えっ!?…。
BMWの赤のコンバーチブル!?
左ハンドルの車なんか、運転したことないんですけど…。
それにしても、目立つ車に乗っているんだな…。
僕は赤い車に近づいてドアノブに手をかけた。
おっといけない。
こっちは助手席だ。
回り込んで運転席のドアを開ける。
これってカギを挿すところが無いんだ?
ハンドルの左側にあるつまみを回すとエンジンがかかる。
外車って、思っていたよりも静かなんだなぁ・・・エンジン音。
僕はナビを操作して、目的地を自宅に設定する。
自慢じゃないが、僕はナビが無ければどこにも行けない方向音痴である。
アクセルを踏んで、車を発進させる。
駐車場を出て、左車線を意識しながら車を左折させる。
あ…ワイパーが動いてる。
この車、ウインカーの位置が逆になっているのか。
運転慣れしていない車は難しい。
木戸恵里菜の記憶も運転技術に関しては役に立たなそうだった。
まあ、記憶と技術は違う物だもんな。
遺言書を書くときにも、確かに僕自身の字だったし。
…ん?待てよ?
これから木戸恵里菜として生きて行くなら、文字が変わると不都合が出ないだろうか?
木戸恵里菜は友人に手紙を書くような人だから、僕みたいに中途半端に下手くそな字ではない可能性が高い。
そういえば木戸恵里菜は日記をつけていたはずだ。
恵里菜の家に行ったら、失礼ながら拝見させて貰おう。
…って、僕はだんだん木戸恵里菜のストーカーになって行くような気分だった。
と、とにかく、今は僕の家族に不審に思われないように行動と言動に気をつけことだけ考えよう。
病院から三十分程で自分の家に着いた。
バッグの中に遺言書が入っているのを確認してから、車を降りて鍵をかける。
インターホンを押すと、月並みな音が家の中から響いてくる。
ウチの家族は皆、モニター付きのインターホンに替えてからもモニターを確認することなく直接外に出てくる。
もちろんそれは、昼間だけのことだが。
案の定、母さんが家から出てきた。
「こんにちは。突然お邪魔してしまって申し訳ありません。国立病院で看護師をしております木戸と申します。昨夜の失礼をお詫び申し上げます」
木戸恵里菜の姿の僕が頭を下げると、母さんは疲れた顔をしていたが、どうにかこうにか笑顔を作っているようだった。
「この度は誠にご愁傷様です。すみません、こんな事しか言えなくて・・・」
母の元気の無い笑顔を見ると、居たたまれなくなり、目頭が熱くなった。
それでもなんとか気持ちを抑えて、それだけは言えた。
これ以上喋ったら、本気で泣いてしまいそうだった。
「身体の方は大丈夫なんですか?昨日の事だったら、気になどしてませんから、ご心配なさらないでくださいね。それより、ご足労をおかけしてしまって、こちらこそ本当にすみませんでした。どうぞ、中にお入りください」
僕は頭を下げて我が家に入った。
入院したのは、ほんの数日前なのに久しぶりに帰って来たような気がする。
親父が趣味で作っている庭の松や様々な木々や花々も、玄関の中に敷いてある緑色の人工芝も、二階から聞こえる猫の鳴き声も、なんだか懐かしいようだった。
玄関を入ってすぐ左手にリビングがある。
そのままリビングを突っ切ると奧には八畳の和室が二部屋つながっている。
僕の身体はその和室の一番西側にあった。
真っ白い布団で眠っている僕の顔は、なんだか自分ではないような、違う誰かを見ているような気がした。
「御焼香させて頂いてもよろしいですか?」
母さんはゆっくりとうなずきながら、
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
と言った。
線香を一本、火を着けて立てる。
手を合わせたけど、一体誰の冥福を祈れば良いのか、正直に言って複雑な心境だった。
焼香が終わって振り返ると、母さんはテーブルに座ってお茶を入れていた。
元々背の小さかった母だが、存在感は人一倍あったはずなのに、その母が今は本当に小さく見えた。
その顔には何の表情も浮かんでいなかった。
ちょっとした事にも、ころころと笑う母なのに、今はその面影も全く感じられなかった。
「大したものも無いのだけど、お茶でも召し上がってくださいね」
「いえ、そんな…お構い無く…」
「さ、こちらに座ってくださいね…ごめんなさいね。近い将来にこの日が来るのはわかっていたんですけどね…」
母はハンカチで目元を拭っていた。
「覚悟はしていたはずなのに…やっぱり…だめね?」
母はそのまま、ハンカチを両目に押し当てて、声を出さずに泣いていた。
…僕は本当に親不孝者だ。
こんなにも親を悲しませて…。
歯を食いしばって嗚咽をこらえているけど、僕の感情は今にも決壊しそうだった。
しばらくの沈黙の後、母さんはハンカチを下ろした。
「ごめんなさいね…今はまだ、きちんとお話もできなくて…」
「いえ……あの…これ、昨日お話した浅倉さんからお預かりしたお手紙です」
僕が四通の封筒を手渡すと、母さんは、それを押しいただくようにして受け取った。
「あとで、読ませて頂きますね」
「そうしてあげて下さい。あの、ところでお父さんと娘さんはどちらに?」
「主人は今諸用で出かけています。蓮葉…孫は今、眠っているところなんですよ。昨日の夜から泣き通していて、今し方やっと眠ったところなんです」
……だめだ…これ以上は耐えられない。
木戸恵里菜としてここにはいられない。
ここで、大声で泣いたりしたらおかしなことになる。
「そうですか…それでは、皆さまによろしくお伝え下さい」
辛うじてそれだけ言って僕は立ち上がった。
「何もお構い出来なくてすみません。本当にありがとうございました」
母さんは、丁寧に頭を下げた。
(また、来ても良いですか?)
(見た目は別人だし男でもないけど、本当は僕が久美なんだよ母さん)
(僕は生きているから、そんなに悲しまないでよ母さん)
様々な言葉が僕の頭をよぎって、背中の向こうにいる母さんに伝えたくなる。
しかし、その言葉のどれもが受け入れる事が出来ないのもわかっていたんだ。
僕はもう一度振り返って、お辞儀をしてから車に乗り込んだ。
やはり母さんはやっぱり、いつもよりも、ずいぶん小さく見えた。
それから僕は一度、木戸恵里奈の自宅に戻った。
鍵の掛かった机の引き出しから、日記を取り出す。
日記は五年分のものが書けるようになっているダイアリーだった。
A四サイズのこげ茶色のハードカバーになっていて、しおりが二つはさんである。
ごめんよ、恵里奈ちゃん。
でも、どうしても俺は今これを読んでおかなければならないんだ。
僕のためにも、君のためにも。
最終のページは一昨日の夜だ。
恵里奈の字は僕の予想通り、とても綺麗な文字だった。
~五月四日~
今日はちょっと疲れ気味。
四日前に急患から回ってきた患者さんがもう限界みたい。
黒木先生は、もう手の施しようがない患者だから、できる限り面倒を見てやってというけど、モルヒネでほとんど眠りっぱなしじゃん?困ったな…
仕方ないから、本とか読んでみたけど、反応ないし…
でも、ご家族はとてもいい人達みたい。
あの小さい女の子可愛かったなぁ…
蓮葉ちゃんって言ったっけ?
かわいそうにお父さんもうすぐ亡くなっちゃうのをまだ知らないんだよね。
わたしには何もできないかもしれないけど、できる限りはやってあげなくちゃだね。
それが私の仕事だから。
~五月三日~
ゴールデンウイークって言っても仕事ばっかり。
まあ、特に予定もないからいいんだけど?
ああ~、たまにはどこかに出かけて来ようかな?
次の休みは八日だから、温泉にでも行って来ようかな?
~四月二八日~
三度笠っていう人嫌い。
なんか、しつこく付きまとってくる。
ちょっとイケメンだからって、誰彼かまわず声かけてる感じがするし。
だいたい、今の男の人って軽すぎるし、人を見る目ないし。
わたしはそんなに軽い女じゃないぞ?っちゅうの!
それに、男なんて…
…ん?
途中で終わってる。
男なんて…何?
気になる終わり方だな?
ぱらぱらとページをめくっていると、携帯が鳴った。
バッグから取り出した木戸絵里奈のスマートフォンは、パールホワイトのシンプルなデザインだった。
着信名は柴田洋子とある。
「もしもし、恵里奈?検査結果が出たんだって!今どこ?」
「ありがとう。今自宅にいるよ?」
「そっか、誰かこっちまで送ってくれる人いる?」
「いないけど、大丈夫。今朝、病院から運転して帰ってきてるから、自分で行けるよ?」
「そうなんだ。よかった。じゃあこっちで待ってるから急がないで来なよ?昼休み中なら、黒木先生がすぐ診てくれるってさ。三時までに来れば大丈夫だから」
「うん、わかった!ありがとね洋子ちゃん」
「…まあ…いっか!じゃあ本当に気を付けてね?」
電話が切れた。
「…まあ…いっか!」って何だ?
普段の木戸恵里奈と反応が違うのか?
やはり、もう少し日記の検証が必要かもしれない。
恵里奈ちゃん、本当にごめんよ。
悪気は本当にないんだ。
できることなら、僕もこの身体を一秒でも早く君に返してあげたいけど…ほんとにごめんよ?
病院に着くと、電話をくれた柴田洋子が近寄ってきた。
「早かったね?調子はどう?大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「…やっぱりまだおかしいね…早く黒木先生に診てもらいなよ。先生、外来の三番にいるからさ。もう昼ごはんも済ませたんじゃないかな?」
「わかった。行ってみる」
柴田洋子は忙しそうに歩いて行ってしまった。
外来の三番というのは五つある診察室の一つだ。
この病院に人気があるのは、この五つの外来の診察室によるものが大きい。
この病院には、五人の診断医なる医師がいる。
一般人は体調が悪いとかで病院に通うが、実際に何の病気なのかを判断できない。
だから、通常はどの科の病院に行けばいいのかわからない場合が多いのだ。
僕も実際そうだった。
倦怠感と吐き気の自覚症状があるだけで、他は全く見当がつかなかった。
この病院に来ると、まず患者はこの外来の診断医に診てもらうことになる。
そこで検査をして、病気の種類を特定してくれるので、何科に行けばいいのかすぐにわかるのだ。
そして、検査結果はすぐさま専門医に伝えられるので、再検査などの煩わしさがない。
とても患者に親切な方式だと思う。
外来の三番の診察室には、黒木医師がいた。
まだ四十歳にはなってないだろう。
医師にしてはかなりの長髪で、知的に眼鏡をかけている。
どこかのお兄さん的な外見だった。
「やあ、恵里奈くん。調子はどうですか?」
くっそ。
声が甘ったるい奴だ。
「今のところ大丈夫だと思います。検査の結果はどうなんでしょうか?」
黒木医師は考え込んだように眉を寄せていた。
「う~ん…」
え?どこか悪いのか?
「レントゲンには何も異常は見られないんですけど、肩を打った時に、胸を痛めたんですって?」
「はい…少しですけど」
「じゃあ、着衣を脱いでみてください?」
「あ…はい…」
僕は言われた通りに薄いカーディガンとブラウスを脱ぎ始めた。
これで上はブラジャーだけになる。
黒木医師は、僕の肩に両手で触れて前後に動かす。
特に痛みはないが、黒木医師は真剣な顔で触診している。
「痛くないですか?」
「はい、大丈夫です」
「そうですか、じゃあ次は下の着衣もとってみてくれますか?」
「え!?」
思わず声が出た。
…ん?
今、この医師一瞬、ぎくりとした顔をしなかったか?
「どうして下も脱ぐんですか?」
「…いや…やっぱりちゃんと検査しないとでしょ?」
「何の検査を?」
「ゴホン…君は昨日昏倒していますからね。レントゲンで頭と胸と肩を撮ってありましたが、君の足腰に異常があったら大変です。だ、だから、ちゃんと診ておくんですよ」
…今、確か噛んだよな?
僕は立ち上がった。
「ひっ!?ごめんなさい恵里奈くん!!ほんの悪ふざけですよ!!大丈夫です!君はどこも悪くないですから!!」
黒木医師は椅子に伏せたような格好のまま両手で頭を防御している。
こっちが真相を訊く前に自爆しやがった…。
…てめえ、恵里奈の裸を狙っていたな?このスケベ医師。
「大丈夫なら、もう行っても良いですか?」
僕は、少し片目を吊り上げながら言った。
医師の確認をとる前にブラウスを着始める。
くっそ~、女物はボタンのつけ方が逆だから面倒だ。
「あれ?どうしたんですか?恵里奈くん…」
「なんですか?」
「いや、いつもならもっとこう…」
「?」
「…ふむ…確かにおかしいですねぇ…」
…何が?
眼鏡のスケベ医師は、真面目に考え込んでいるようだ。
「恵里奈くん。真面目に一度MRI検査をしましょう。昨日は本当に頭を打ってはいないんですか?」
一転してスケベ医師は真面目な質問を投げてきた。
実際、昨日はどういう風にして倒れたのかは分からない。
しかし、倒れた瞬間に脳震盪を起こした可能性も否定はできない。
「打ってないとは思いますけど…」
医師は僕の目を真剣に見た。
「うん、やはりMRI検査ですね?午後一番に予約を入れておきますから、ちゃんと受けてくださいね?では、これで診察を終わります」
そう言ってスケベ医師は、伸びをしながら診察室を出て行った。
本当に医者なのか?あれ…