遠い異国からの不思議な行進曲(マーチ)1
五月十五日(金)午前八時二十三分。
付添い用のベッドからは、恵里菜の小さな寝息が聞こえて来た。
彼女は、この三日間ずっと付きっきりで僕の看病に当たってくれていたらしい。
というのは、今まさに朝の検診に来ている恵里菜の同僚の柴田洋子からの情報だった。
癖のある長い栗色の髪を後ろで一本に束ね、看護師用の小さな帽子を頭の上にピンで留めている顔には人懐っこい猫のような目が瞬いている。
彼女は、夢の世界にいる恵里奈をよそに、僕のベッドの脇に立ち、手にした体温計をチェックしている。
「七度六分…まだ少し微熱があるわね?で…実際のところ、どうなの?三度笠くん?」
そう言う彼女は、何か興味深々な顔で僕を見ていた。
「おかげ様で、昨日よりもね…だいぶ良いと思います」
僕は努めて明るく言った。
「そっちじゃなくて!…恵里奈とは今のところどうなってるのよ?」
「え?どうなってるのって?」
体温計を白衣のポケットに戻し、手にした小さなボードに記入したあと、柴田洋子は頬にかかる後れ毛を耳に掛けながら意地悪そうな顔で僕に尋ねてきた。
おいおい、看護師なんだから、まずは患者の容体を気にしろよ…。
「あらあら、恵里菜が泊まり込みまでして看病してるのにオトボケするわけ?大体この前から恵里菜もおかしかったんだよね~?なんか、急に女らしくなったっていうかさぁ…」
僕は、柴田洋子が汲んでくれた白湯を飲みながら、彼女の話を聞き流そうとした。
すると、しらばっくれているのがわかったのか、柴田洋子は、僕の顔を隣から覗き込んだ。
「ぶっちゃけ、二人はヤッちゃった系!?恋人同士になっちゃった系!?」
「ぶぅぅ!!!………ゲホッ!…ゲホッ!…」
やばい!盛大に吹き出しちまった……「…ゲホ…」。
戻った水が鼻腔につーんと来る。
「あ~あ~!…なにやってんの?…もう…」
柴田洋子は、枕元にあったタオルで、パタパタと散らばった水滴を拭き取った。
「そんなに動揺しなくてもいいじゃない!?驚いてるのは、あたしの方なんだから!」
まだ咳き込んでいる僕を、まるで猫のような目で軽く睨んでいるが、口元が締まっていない彼女。
「あんたはあんたで、いつもと全っ然違うし、恵里奈は女らしくなったと思えば、いきなり泊り込みであんたを看病してるし、どう見たっておかしいじゃない?…ねぇ…洋子さんに言ってごらん?二人は一体どうしたのよ?」
なんとか、一度咳を静めて胸を押さえた僕は、涙目で柴田洋子を見た。
手術した腹が痛い。
…全く、傷口が開いたらどうするんだ?
「特になんでもないですよ…ゴホ……木戸さんは優しいから、アレじゃないですか?弱ってる僕を見捨てられ…げふっ…なかっただけなんじゃないですか?…ゴホっ…えふっ!!」
「…あんた…ナニ言ってんの?」
「…はい?」
「あんた、自分の立場わかってる?」
「…立場って…え?」
「あんたね…あっちこっちの女に声掛けまくってる…軽薄で!…薄っぺらの!二枚舌の!おまけに二十四時間年中無休で発情期の色魔猿みたいなあんたに、なんで恵里奈みたいなお嬢がつきっきりで看病しなくちゃなんないのよ!?その理由は何?」
「し…色魔猿って…」
酷い言われようだな…おいぃ…しかも完璧に造語だし。
さすがに自分の額に幾本もの縦線が入るのを自覚するが、もちろん怒りからではない。
色魔猿は僕ではなくて三度笠だしな。
「あら?何か間違ってる?」
「はぁ…」
それにしても、何も言い返せないのは僕が気弱だからなんだろうか?…。
「…なんっか…やりづらいわねぇ…」
いやいや…おねえさん…それは僕の方だから…。
頭をかきながら言う柴田洋子に僕はジト目をくれた。
そう言いながらも、彼女は携帯用の血圧測定器を台の上から手に取って僕の右腕に取り付け、測定し始める。
ヴィーン…と音を立てて、僕の腕が巻きつけた血圧計の帯に締め付けられる。
しばらくの間、銀色の腕時計と血圧計をみらめっこしていた柴田洋子は、ちょっと首をかしげた。
「上がちょっと高いわね…何か隠し事してる?ドキドキしてるでしょ…」
「そりゃあ…あんな質問してくるから…」
「え!?なになに!?やっぱり脈アリなわけ!?」
…だから…。
僕はちょっとため息をついて、柴田を見た。
「本当に木戸さんとは何にもないですからご心配なく!」
「あら、そう…」
と言うと、彼女は血圧をまた持っていたボートに書き込んでから、何事もなかったかのように血圧計を折りたたんで、
「今は忙しいから…あとでみっちり恵里奈に訊いておくわ!」
怖い表情に切り替え、僕に凄んでから「お大事にね」と言って病室を出て行った。
…なんだったんだ一体?…。
僕は尿意を催していたので、ゆっくりと起き上がり、鬼の寝ている間にこっそりトイレを済ませた。
「もう起き上がれましたか?三度笠くん?」
トイレから出た僕を待っていたのは、黒木医師だった。
午前八時五十二分。
あれから、およそ五分後にエレベーターホールの自動販売機で水を買い、黒木医師とベンチソファに腰かける僕がいた。
販売機の横には小さいヤシの木に似た観葉植物が置いてある。
窓から見える外の景色は雨に煙っていて、五月の太陽は顔を見せてはいなかった。
通りかかった若い看護師が僕たちを見て少し驚いた顔を見せ、チョコンと頭を下げると、逃げるように小走りで去っていく。
…変態が二人…ってか…。
「三度笠くん…少し真面目な話なんですが…」
黒木医師が、肩まで伸びた真っ直ぐな髪をかき分けながらヤシの木を見ている。
黙ってさえいれば、眼鏡をかけたその彼の横顔は、知性をすら感じさせる美男子に見える…。
「君は今まで、自分を演出していたのですか?それとも、変わらなければならない『何か』が君たちの間に起こっているんですか?」
「はい?」
…全く…黒木医師に限らず、恵里奈の周りにいる人間はどうしてこうも鋭いんだろう。
顔に出さないようにするのがやっとだった。
「気になっているんですよ。率直に言うとね、今、恵里奈くんの側で何が起こっているのかと、ボクは三度笠くんに聞いているんです」
黒木医師は執拗な物言いで僕に迫ってきた。
「ええと…一体何の事です?」
上手く誤魔化せたか?
「しらばっくれても無駄です。これでもボク、心理学の分野では結構有名人なんですよ?あなたの口元に今『隠し事』が見えています」
口元?…なんだってんだ?一体…。
カマをかけられているのか?
「一体僕に何を訊きたいんですか?」
黒木医師は初めて会った時や昨日とは違って、真面目な表情を作っている。
縁のない繊細そうな眼鏡に指をやると、僕の目を真っ直ぐに見てきた。
「恵里奈くんの事が心配です。これは男としてではなく、一人の人間としての僕の思いだと思ってください」
「はあ…」
「なにがあったんです?彼女に…そしてキミに」
いかんな…こうもストレートに質問されるとやりづらい…。
事件の事を正直に答えるわけにもいかないし、黒木医師の態度からも、答えなければ帰さないぞ的なオーラがびしびしと伝わってくる。
そのとき…。
「ああ!ここに居ましたか!」
黒木医師から目をそらして、考えていた僕に声を掛けてきたのは、雨宮刑事だった。
「三度笠さん。ちょっとお話を伺ってもよろしいでしょうか?…っと、黒木先生…でしたよね?少し彼をお借りしてもよろしいですか?」
「え、えぇ…もちろんです。あの…どちら様でしたか?」
「あぁ!これは申し訳ありません。僕は城谷警察の雨宮と申します」
「刑事…さん?」
「ええ、三度笠さんに少しお伺いしなくてはならない事がありましてね?お話の途中で申し訳ないのですが、ちょっと急いでいるものですから」
「そうですか…わかりました。ボクも仕事の時間でしたから、大丈夫ですよ」
そう言って、黒木医師は僕を見た。
その顔に、後で必ず話を聞きに来ます。
と書いてあった。
病室に戻った僕たちは、恵里奈の心配そうな顔に出迎えられた。
すっぴんのままで髪の毛だけ整えた彼女は、ほっぺたを膨らませていた。
「もう…起きたらいなくなってたから、心配したんですよ?まだ動いちゃダメなんですから…」
そうなのか?
黒木医師はそんな事言ってなかったけど…。
…ああ、それはいいか…。
僕は恵里菜に手伝ってもらいながら、ベッドに戻った。
「すみません、恵里菜さん。お二人に少しお話を伺っても構いませんか?」
雨宮刑事が、そう断りを入れると彼女は明るく頷いた。
組み立て式のパイプ椅子を二つ用意した恵里菜は、ポットに入った白湯を湯呑みに入れてくれて、雨宮刑事と自分には冷蔵庫から、「こんなものしかありませんが」と言ってヤクルトを出していた。
…ヤクルトか……。
懐かしいな…。
「早速ですが…昨日帰ってからいろいろ考えてみました。その結果、やはり三度笠さん…いや、浅倉さんにはどうしてもご協力頂いて欲しいと思いました。あの飲食店の女性をはじめ、三人の女性の行方も未だに明らかになっていませんし、昨日浅倉さんに伺ったお話で、もう我々の手だけで負える状況でない事を私は思い知らされました」
ひねり出すように言った雨宮刑事の顔には、苦痛の表情が張り付いていた。
トントン…と、病室のドアがノックされた。
朝の検診は終わっているから、来客なのかも知れない。
僕と恵里菜は、同時に雨宮刑事の顔を見ると彼は頷いた。
話が始まったばかりなので、部屋に招いて良いものかどうか確認したのである。
「どうぞ」
恵里菜が応えると、ドアはゆっくりと開かれた。
そこにはいかにも品の良さそうな、見知らぬ外国人の女性が立っていた。
「グーテンタ~グ、エリナ」
その女性の顔を見た恵里菜は、目を輝かせて椅子から立ち上がり、彼女に駆け寄って行った。
「グロスムッタァクヌドゥン!!」
意味が分からない言葉を叫びながら、嬉しそうに笑って女性に抱きつく恵里菜。
二人はその後、しばらく何か話していたが、恵里奈が僕の方を見て女性に何やら説明しているようだった。
大きな白い襟のついた明るい紫のワンピースに七分丈の濃紺のカーディガンを羽織った女性は、ほっそりした体型で、その淡いブラウンの髪は腰まで真っ直ぐに流れている。
外国人の年齢は良くわからないが、おそらく四十代後半くらいかもしれない。
恵里奈は彼女の手を引いてベッドで横になっている僕とパイプ椅子から立ち上がった雨宮刑事の前に引き連れてきた。
「この人、わたしのおばあさま!よろしくね?」
「こんにちハ、エリナがいつもお世話になっていますネ。エリナの祖母で、カイネとモウシマス」
そう言って彼女は、華が咲くような笑顔で笑ってから、丁寧に頭を下げた。
「…おばあ…さん?」
午前九時二十五分。
恵里奈のお婆さんだという女性のすぐ後ろには、明菜がついて来ていた。
今日は仕事を休んで、一緒に来たのだという。
という事は(あの)国分寺さん、もしくは木下刑事が一緒に来ていることになる。
僕と雨宮刑事が自己紹介をしている間に、恵里奈はまたパイプ椅子を調達してきたらしく、僕のベッドは男女合わせて四人に囲まれることになった。
恵里奈のおばあさんの名前は、カイネ・ロッケンマイヤーといった。
たしか、恵里奈の話ではドイツの人で、占い師さんだか霊媒師さんをやっていると言っていたっけ。
彼女の日本語は多少訛りがあるものの、日本に住んだことが無いにしては、非常に流暢で、普通に会話をするには全く支障のないものだった。
しかも…しかもだ。
恵里奈や明菜はともかく、雨宮刑事も英語・ドイツ語・フランス語・中国語と五か国語を話せるらしく、この中で日本語以外は話せません、などという言語的な鎖国状態を保っているのは僕だけということになる。
中年よ…大志を抱け…。
落ち着いたら、少し語学留学でもしてくるか…。
人づてに憑りついて行けば、ただで他の国の言葉を学べるかもしれないぞ…。
余談はともかく、恵里奈のおばあさまが今回日本に来たのには理由があった。
「木戸の家には、危険が迫ってイマス。エリナ、アキナはモチロンですが、いちばん危ないハあなた達の父親なのデス」
「「お父さんが!?」」
さすがに姉妹である。
見事にハモった。
「ソノ前に……はい!コレはアキナに…それと…コレはエリナにねっ!」
恵里奈のおばあさまは、ハンドバッグにしては大きめの黒い革のバッグから小さな箱を二つ出して、姉妹に渡していた。
「おばあさま?開けてみてもいい?」
「もちろんよ…さあ、早くあけてゴランなさい?」
明菜が言うと、彼女は不思議な色の目を細めてにっこりとほほ笑んだ。
二人が開けた箱の中に入っていたのは、僕の中指の指先くらいの大きさの石が革紐に留められたネックレスになったものと、一センチくらいの目玉のような石が数珠つなぎになっているブレスレッドだった。
ネックレスのトップになっている石は、指先の大きさで細長く磨かれていて、白い石に大きな十字型の茶色の結晶が包まれているような初めて目にする不思議な石だった。
二人とも不思議な光沢のあるその石たちに目を奪われていた。
「それは十字石と言ってね…魔除けの意味と、良き出会いを導いてくレルと言われる石なのヨ?カタチは無骨なのダケド、とても力のある石なのヨ?もう一つ、ブレスレッドになっているのは天目石と言って、強力な魔除けの意味がアルのよ?…今あなた達に必要なものだと思うカラ、身に着けて置いてネ?」
「おばあさま?これ…すごくキレイ…ありがとうございます!」
「ありがとう…大事にするからね?」
優しく話す恵里奈のおばあさんは、とてもお婆さんと呼ばれる年には見えない。
ちなみに、こうして聞き分けてみると、明菜よりも年下の恵里奈の方が言葉づかいが綺麗なんだな…。
感動の再会が終わると、カイネおばあさんは、雨宮刑事に向き直って言った。
「あなたは警察の人かしらネ?わたしの家族を守って下さっている方カシラ?」
「確かに僕は警察の人間ですが…明菜さんか…恵里奈さんから、それをお聞きになったんですか?」
お婆さん…と言っては失礼な気がするからカイネさんとしておこう。
カイネさんは、雨宮刑事の質問に笑って返し、そのまま僕の顔を見た。
…って、おいおい…雨宮さんをスルーかよ…可哀想だな…。
なんか、真面目な彼がズッコケてるぞ…。
「あなたは…そう…あなたが恵里奈を守って下さった方ネ?あの娘を守ってくれてありがとう」
カイネさんは僕を見るなり、そう言った。
そして、彼女は紫色に見える不思議な瞳で、悲しそうに僕を見るのであった。




