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ゴースト  作者: 鏡完
ゴースト第二章
31/36

約束の聖譚曲(オラトリオ)

五月十日(日)八時四十七分。




「三度笠君と言ったかな?今日は恵里菜がお世話になったね。どうもありがとう」




英国紳士を思わせる木戸家のあるじは、まだ礼服を着替えないまま、赤く腫れぼったい目を潤ませていた。


小ぶりだが、大理石で出来た高価そうなテーブルを挟んだソファーで、僕の向かいに座った彼の横には、やはりフォーマルを着たままの明菜が、やはり目を赤くして座っている。




「いえ…それよりこのたびは本当にご愁傷様です…」


「あぁ…そうだったね…」


「いえ…」




その話題に触れたのは間違いだったかと思った。


親父さんは、悲しげな表情で視線を落として、大理石のテーブルを見つめている。


いいタイミングで、パタパタというスリッパの足音と共に里菜が紅茶を用意して持ってきた。


ピンクと白の淡いギンガムチェックのエプロンが良く似合っている。


飲み口のところに金の縁取りがついた、まっ白な陶磁器のティーカップが四つテーブルに並ぶ。


そこに、やはり白いポットで琥珀色のお茶が注がれる。


芳しい香りが部屋の片隅を彩ると、彼女はそれぞれの前にティーカップを置いた。




「これも、もしよかったら摘まんでくださいね?」




そう言って出してくれた明るい色の木でできた菓子入れには、赤や青、黄色の銀紙で包まれた小さなチョコレートが入っていた。


配り終わると軽く微笑んで、恵里奈は僕の隣に腰を下ろした。




部下(?)から連絡を受けた雨宮刑事は、あのあとすぐに詳しい報告を受ける為に城谷警察署に向かった。


時間は時間なので、僕も恵里菜も恵里菜と一緒にアパートを出た。


木下刑事が僕たちの後に続いたのは、言うまでもない。


無口だけど、本当に真面目な人だ。




アパートを出るとき、恵里奈が親父さんに連絡を入れると、食事は通夜の後、清めで食べたとのことだったので夕食は外で済ませて来たから、お腹は減ってなかったが、僕はチョコレートを一つだけ頂いた。


…あ…美味い!




「私の手作り。カカオの粉から作るんだ」




僕の表情を読み取ったのか、明菜はそれをひとつ、指先でつまんで眺めながら、誰にともなくつぶやいた。




「そうなんですか?…うん!…とても美味しいです」


「レシピはね…加奈美さんが教えてくれたんだ…紙に丁寧な文字で書いてくれたのを、お父さんに渡してくれてさ…」


「そうだったな…あの人はそういうお菓子作ことりがとても好きな人だったからなぁ…」


「あ、そう言えば前に加奈美さんに手作りのケーキを貰ったことがあったよね?お姉ちゃんと二人で食べちゃったら、お父さんが『俺の分は?』って…困ってた」


「そうだ。私の分を二人が食べてしまってね。とても残念な気分になったものだ…あの時は、彼女に感想を聞かれて困ったよ…」


「わたしは会ったことはなかったけど、加奈美さん…いい人そうだったもんね?」


「私は今日、初めて顔を見せてもらったけど、うん…長い黒髪の人でね…とっても優しそうな人だったよ…写真の中で幸せそうに笑ってた」


「うむ。彼女もお前たちに会える日を楽しみにしていたのだがな…なぜ……」




親父さんはそう言ってまたうつむいてしまった。




「さて、こんなに遅い時間までお邪魔してしまって申し訳ありませんでした。僕はそろそろ、おいとまさせて頂きます」


「え?」




恵里奈が少し物足りなそうな顔で僕を見た。


親父さんの心中を考えると、あまり長居はできないと思ったからそう言ったのだが、恵里奈はまだ何か話があったのだろうか?




「あ、あの…」


「ん?どうかした?」


「いえ…今日は、どうもありがとうございました」




横に座った恵里奈はぺこりと頭を下げた。




「そんな…お礼を言われることは何もしていないよ。僕も久しぶりの休日を楽しく過ごせたからね。こちらこそありがとうございました」




そう言って僕は立ち上がり、親父さんと明菜にお茶のお礼を言って玄関に向かった。


恵里奈は、キッチンの方に行ってしまったが、親父さんと明菜は玄関まで見送りに来てくれた。




「三度笠さん、お疲れ様ね!またよろしく!」



明菜がいくぶんいつもの口調に戻ったようだった。


「三度笠君、今日は済まなかったね…お恥ずかしいところまで見せてしまった。また今度ゆっくりと遊びに来てくれると嬉しいのだが…」


「ありがとうございます。お言葉に甘えて、ぜひまた近い内にお邪魔させていただきます。では失礼します」




僕は頭を下げて玄関を出た。


恵里奈が見送りに来ないのは、片づけでもしていたのだろうか?


それとも、僕がなにか怒らせるようなことをしてしまったのだろうか?


などと考えながらガレージに向かうと、後ろから恵里奈が走ってきた。




「あの!…これ!…」




軽く息をきらせた彼女が僕に差し出したのは、包装紙に包まれた手のひらくらいの大きさの箱だった。


それは、恵里奈があの時計屋で購入していたものだったように思う。




「え?僕に?」


「はい…あの…余計な事かも知れないけど、役に立ててもらえたら嬉しいので…」


「あ、ありがとう…何かな…」


「あの…大したものではないんですけど、あの…家に着いたら開けてみてください!」




そう言って、僕の手に渡してくれた小さな箱には、可愛いリボンが付いていた。




「うん…ありがとう、恵里奈ちゃん」


「いえ…こちらこそ本当に今日はありがとうございました。…あの…気を付けて帰って下さいね」


「はい。気を付けて帰ります」




そう言って僕は車に乗り、恵里奈の自宅を後にした。


恵里奈はやはり、僕の車が見えなくなるまで見送っていた。


…本当にいいだよな…。




三度笠の家に着いた僕は、まずゆっくりとシャワーを浴びた。


身体はまだあちこち痛むが、今朝よりは少しましになったようだった。


部屋着を着て湿布を探したが、置き薬の影すら見つからず、仕方なく深夜までやっている薬局に向かうべく外着に着替えなおす。


五月と言っても夜はまだ肌寒いから、ジーンズにTシャツという訳にもいかずに、黒いカーディガンを羽織った。


…と…その前に…。


僕は恵里奈からもらったプレゼントのリボンと包装紙を取り、中から出てきた可愛いピンクの箱を開けてみた。


箱の中には、小さく折りたたんだ紙と、鈍く光る銀色の懐中時計が入っていた。


決して今風ではないが、レトロな感じで僕好みの形だった。


懐中時計のふたを開けてみると、文字盤には繊細なローマ数字と帆船を模した細かい曲線が描かれていた。


ん?…確か…恵里奈の時計の文字盤にも、この帆船が描かれていたような気がする。


同梱されていた手紙を広げてみると、そこには女性らしい綺麗な文字が書かれていた。






~浅倉さんへ~



この数日間、本当にありがとうございました。


命を救ってくれただけでなく、浅倉さんは本当にわたしを救ってくれたんですよ?


お礼と言うには果てしなく物足りないけど、浅倉さんが独りじゃないよ?という意味でこれを送りたかったんです。


わたしと今、同じ時間に、今を「生きている」浅倉さんに…。


これからもよろしくお願いします。


~恵里奈~





………。


…ちょっとやばい…これは…涙が出そうだ…。


こぼれそうになるものを何とか手の甲でぬぐって、嗚咽を抑える。


その時、インターホンが単調な音で部屋に響いた。


恵里奈にもらった時計を見ると、十一時を廻っている。


全くこんな遅くに何の用で人様の家に来るんだか…。


居留守を使おうかと思ったが、薬局に行く必要もあるので、まあ、ついでと言えばついでだから、僕は時計をポケットに入れて玄関を開けた。





「みぃ~どぉ~がぁ~さぁぁぁぁぁ~!!」




オールバックで小太りの口髭オヤジが玄関に立っていた。


…う!!…こ、このオヤジは…。




「しゃ…社長…」




それは、三度笠が勤めている会社の社長、森田修三だった。


ものすごい形相で僕をにらんでいる。


やばいな…すっかり忘れてた…。




「てめーはよー!!何なんだよあの態度…って…ん?…お前さんどうしたんだ?その顔…」


「すみません社長…今朝もお話した通り、昨夜暴漢に襲われまして…この有様です」




森田社長は、怪訝そうな顔で僕を見ている。


しかも酒臭いな…。


接待ゴルフの打ち上げでもあったのだろうか。





「こんな顔でお客様にお会いするのもどうかと思いまして…その…申し訳ありませんでした」


「あ…いや…なんだ、その…先方にはお前さんが病院にいたことになっているから、次に会ったときは話を合わせておいてくれよ?…本当に大丈夫かい?なんかお前さんらしくないぞ…その片目パンダみたいな顔の他に頭でも打ったのかい?」


「いえ…僕も色々と思うところがありまして…これを機に今までの自分を少しは見直そうかと…」





おそらく、僕の対応は普段の三度笠とは全く違うのだろう。


中身が全くの他人だから仕方ないのだが…。




「本当にお前さんらしくないな…自分を見直すだって?…どんなふうに変わろうってんだい?」


「それを今考えているところなんです。僕ももう二十八ですし、そろそろしっかりしないとと思いまして…」


「お、ついにお前さん、結婚でもしようってのかい?」




何を素っ頓狂な事言い出すんだか…。




「いえいえ、そんな相手はいないんですけど、とにかく少し自分を見つめ直して行こうかと思っています」


「やっぱりおかしいぞ?お前さん熱でもあるんじゃないかい?」


「そうかも、知れませんね…。体もだるいので、今から薬局に行こうと思ってたところなんです」


「…ところなんです…か…。病院には行ってきたのかい?」


「いえ…まだです。とにかく今日はあちこち痛くて…」


「そうか、そんな様子じゃあ、明日は会社には出て来れんだろう?」


「その事なんですが、社長…しばらく長期休暇を頂きたいのですが…」


「なんだよ、入院でもする気かい?それとも、その片方パンダになってる顔で未来の嫁探しでもするのかい?」


「そういう事ではないんですが…」




以前、結婚に失敗していた僕は結婚に対する夢を失っているから、再婚を考えたこともない。


何より今は、自分の身体でさえないのだから、それ以前の問題だよな…。





それから社長は、殴った相手は誰かやら、警察には知らせたのかやら、いろいろと訊いて来るので、僕は事の顛末を伝えて、明日病院に行ってから連絡すると言っておいた。


彼は心配そうな目を僕に向けてくれた。




「まあ、仕事は体と精神力が資本だからな。ちょっとゆっくり休んで、回復したらまた出て来い。ただし、国立くにたちの理事長には挨拶しておけよ?今日もずいぶん心配していたからな~」




ん?もしかして今日の接待ゴルフの相手って、国立病院の理事長だったのかな?




「わかりました。明日必ず国立病院に行って来ます」





口ひげの社長は、何度か僕を振り返りながら千鳥足で帰っていった。


薬局は歩いて五分もかからないところにあった。


チェーン店の薬局で夜の十二時までやってる店だったから助かった。



湿布と痛み止めを買って家に戻ると、小さな玄関の灯りの下に昨日のあの男が立っていた。


手には何か白い紙袋を持っている。


彼は僕を見て所在なさそうに笑い、顔のところで軽く手を振った。


この様子なら、今日は殴られるような事はなさそうだ。




「三度笠さん、昨日はすみませんでした。俺、エリナのこと…好きなんです。…だから、三度笠さんがあいつを傷つけたと思って、ついカッとなっちまって…」




なるほど…そういうことか…。




「本当にすみませんでした!…あの…これ、お詫びにもならないけど…」




そう言って彼は白い紙袋を渡してよこした。




「あぁ…もういいよ。多少痛むけど、大丈夫だから」


「本当に記憶無くなっちまったんですか?」




彼は心配そうな顔で言った。


なんだか昨夜と感じが違うから、彼よりも僕の方が面喰う形になった。




「うん…本当に覚えていないんだ。理由は分からないけどね…」


「そうですか…でも、本当にすみませんでした。あ、それ生ものなんで早めに食べてください。それじゃ…失礼します」




そう言って彼はあっさり背を向けて振り向きもせずに帰って行った。


彼が歩いていく方向は店の反対側だった。


道むこうのお店を見てみると看板も出ていないから、休みのようだ。


わざわざ僕に謝りにだけ来たのだろうか?


それなら、彼は案外律儀な奴なのか?


いかつい見かけからは想像できないものだ。


人は見かけによらないという言葉の典型かもしれない。


彼が角を曲がって見えなくなってから、僕は鍵を開けて家に入った。


一度死んでからの方が忙しい生活になったとしみじみ思う。


僕の死。


自分自身の葬式と家族との別れ。


恵里奈とその家族との出会い。


恵里奈の暴行事件から始まった連続誘拐事件に犠牲者による殺人事件。


親父さんの交際相手の自殺。


そして、三度笠という男のしがらみによる喧嘩や人との交わり。


僕が死んでから、たった五日間の出来事とは到底思えない。


人生とは不思議なものだ。


死を間近にして、可愛いむすめと会う時間が唯一の楽しみだった慎ましやかな僕の人生とはうって変ったことになっている。


鍵を閉めて二階に上がる前に男からもらった紙袋を開けてみる。


ブランデーケーキのようだった。


匂いを嗅いでみると、優しく甘いにおいがする。


包みを開けて箱から出してみると、銀色のビニールに包まれた長方形のブランデーケーキだった。


お腹は空いていなかったが、せっかくのお詫びの品だ。


僕はビニールの包みからそれを出して、指先でほんのちょっとだけつまんだ。


…うん!なかなか美味い!


…でも太るといけないから、これで終わりにしよう…また明日食べればいいのだ。


僕は痛み止めを飲んで、二階に上がろうとした。


その時だった。


こみあげてくる吐き気と胃の痛みが同時だった。


…なんだ!?これ…。


トイレに駆け込もうとしたが間に合わず、僕は階段の途中でうずくまる。


こ…これは普通じゃないぞ…なんだ!?…胃とのどが…熱い…。


かろうじて階段を降り、吐き気をトイレまで我慢できず、キッチンのシンクに嘔吐する。


蛇口をひねって水道の水を直接口に入れ、また吐き出す。


…ダメだ…救急車を……。


体中から汗が噴き出す。


僕は震える手で携帯を取り出して、一一九番をダイヤルする。


何回目かのコールで誰かが出てくれた。


目の前がくらくらしている。


相手がなんと言っているかよくわからないが、僕は何とか声を絞り出して住所を言った。


何度か繰り返した。


電話に出てくれた誰かの声は、何か言っていたが、耳の中で何かが鳴っていてよく聞こえない。


僕は、さらに住所を繰り返して、玄鍵を開けるために、這いずりながら揺れる視界の中を玄関に向かった!


意識は朦朧として、世界が回っている…。


胃とのどが焼けるように熱かった!


頭が混乱して、自分が何をしているのかわからない!


でも、鍵だけは開けないとまずい!!


救急車が来ても鍵が開いていなければ…。


それだけを考えながら這った…。


もう、歩くことすらできなかった…。


玄関の鍵はもう…目の前だった…。


もう…。


視界がぐるりと回転した。


倒れたみたいだった…。


僕は…ポケットの中の時計を…何とか…取り出す。


……まだ死ぬ…わけ…には…いか…ない…のに……。


…恵里奈…に…約束……くそ!……守るって…言ったん…だ…。


…そう…言ったのに……。








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