残酷な指揮者による前奏曲(プレリュード)1
五月十日(日)午前十一時十二分。
今僕が左腕にしている腕時計は、もちろん三度笠直和人のものだ。
それは、僕がまだ二十代の頃に欲しいと思っていたものと似ていた。
『秒針がコンマ一ミリのズレもなく時を刻む…』
そんなフレーズが気に入って、欲しかったものだった。
考えてみると、僕は身体が無くなってからというもの、『物』に対しての興味が全く無くなっていた。
それどころではない毎日を送っていた事も、もちろんあるが久しぶりの休日を味わっている今もそれは変わらない。
次から次へと身体を移動する僕にとって、『物』に対しての興味が薄れるのは仕方ない事なのだとは分かる。
もし僕が今、身に着けるにしても、保管するにしても『欲しい物』を買ったとして、僕が急遽この身体を離れなければならない時に、身に着けていたものは離れた身体の方に残るわけで、その時には身体だけでなくその『欲しい物』まで手放さなければならなくなるだろう。
一方で、今は僕の事を覚えていてくれる人、認識してくれている人の『気持ち』がとても重要な事だと思う。
今まで形としても心としても存在していた僕に、心を砕いてくれた親、兄弟、愛娘や仲間たち。
死んでしまった僕のために涙を流してくれた温かい人たちの思い…。
そういう形のない『気持ち』が、今の僕にとってのかけがえのない宝物になっている。
今、目の前で大きな水槽の魚を楽しそうに見ているこの娘も、そんな宝物の一人だった。
ひょんなことから僕と知り合い、本当の僕(?)を知っているにも関わらず、怖がりもせずに目の前で笑ってくれる。
僕を僕として認識してくれている、おそらくはただ一人の存在だった。
世界は一人で存在るには、ものすごく寂しくて、寒い場所になるという事を今の僕は知っている。
誰か一人でも本当の自分を知っていてくれる事が、そしてそれを当たり前の事として認めていてくれる事が、この寒い世界の中で、どれほど暖かく自分を包んでくれる毛布のような存在なのかを、今の僕は知っているんだ。
だから大切にしたかった。
その存在を…。
水族館に入ってすぐ、恵里奈は僕に化粧を施してくれた。
サングラスを付けたままでは、水族館では目立ちすぎると言うので、目の下に痣があることを言わなければならなかったのだ。
当然のように恵里奈は痣の理由を知りたがり、僕は昨夜寝ぼけて階段から落ちた時に手すりの角で目元をぶつけた事にしておいた。
水族館の片隅の人目につかない陰で、痣を隠すために、僕の顔に化粧を施してくれている恵里奈は、始終面白そうに笑っていた。
反対の立場だったら、僕もおかしくて笑ってしまったかも知れない。
それから水族館を廻り始めて、もう三周目になるんだろうか?。
恵里奈は水族館を出口のところまで行っては、また戻ってを繰り返している。
時折、僕の手を取って自分が面白いと思った魚や生き物の水槽に引き連れて行ったりする。
まるで、大人になった蓮葉がここにいるような錯覚に、僕は陥ったりもすることがあった。
一緒に廻っている僕はともかく、木下刑事は本当に大変そうだった。
さりげなく着いて来ようと思っても、順路と逆に回られては目立つことこの上ない。
しかもあの体格である。
がっちりとした岩のような肉体は、いくら普段着に着替えていても、その存在感は否めない。
それが逆走してくればなおさらである。
僕は恵里奈に、木下警部に水族館の出口付近で待っていてくれるように、メールで伝えたらどうかと提案した。
海生生物を見るのに夢中になっていた恵里奈は、今更のようにその事に気付いて早速行動に移した。
ほどなくして、木下刑事の姿は見えなくなった。
僕は慎重に…でも、なるべくさりげなく周囲を警戒する目を強めた。
こういう時は、三度笠直和人の細い目は役に立つものだった。
まるで、にっこりと笑っている猫のような目は周囲に余計な警戒感を与えない。
時々、きょろきょろと周りを見ても、何かを探しているようにしか見えないだろう。
木戸家を狙う犯人は、あれだけの証拠を現場に残しながらも、本当未だ尻尾の先すら見せてはいない。
どんな人間に対しても警戒しておくに越した事はないはずだった。
それにしても、恵里菜を見る視線が多い。
若いカップルの男性、家族連れのお父さん、水槽の魚達を撮影しているカメラを持った男性。
すれ違い様に視線を送る者もあれば、じっと見つめている人もいる。
これはまさに、疑いだせばきりがないという典型だった。
しかしながら、取り立てて怪しい者は見当たらず、僕達は今度こそ出口を出て、かなり遅めの昼食を摂る事にした。
五月十日(日)午後二時二十八分。
樹脂で出来ている白い丸テーブルには、四つの白い椅子に囲まれていた。
昼食の時間にはだいぶ遅いので、三十卓近くあるテーブルは、半数近く空いていた。
「ねぇ、ねぇ!あのジンベイザメ見ました?」
「あぁ…あの大きい奴ね…?」
「そう!あんなにおっきいと思わなかったから、本当にびっくり!」
向かいの席に座った恵里菜は、久し振りに来たという水族館を目一杯満喫しているようだった。
そんな恵里奈の背もたれの向こうの席に、これ見よがしに競馬新聞を読んでいる怪しげな木下刑事がいた。
…日曜日の、水族館に、一人で、競馬新聞?…。
どう見ても僕が今日見た人の中では、とび抜けて怪しい姿だぞ…。
しばらく魚の話をしながら食事をしたあと、恵里奈は「化粧を直してきますね?」と言って席を立った。
少ししてから、新聞をくるくると丸めて木下刑事が恵里奈の後に続く。
うん…木下くん、君の尾行作戦の試験は失格だな…。
全くさりげなくなんかないぞ。
完全にバレバレだ。
後で注意しとかなくちゃなのかな…。
そんな事を考えていると、一組の家族が僕の横にある席に近づいてきた。
三人家族。
若いお父さんとお母さん、それに娘が二人と、お母さんのお腹の中にもう一人…かな?
楽しそうに話をするその家族に、昔の自分が重なる。
蓮葉と最後に来た場所もここだった。
この水族館。
母親に電話ですぐ帰れと言われ、お昼は帰りに高速のサービスエリアで二人でサンドウィッチを買って食べたんだ。
本当は前日の晩、僕の所に泊まってはいけないと言われたのに、娘は僕の前で、さも母親が許してくれたかのように振舞って、電話を切り、電源を落としていたらしい。
そして、翌日の水族館でそんな事情を知らない僕の携帯電話が鳴り、帰ることになってしまった。
あれが娘との最後になるのなら、母親の電話など切ってしまえば良かったのだと、今になって思う。
人間はまた次があると思う事によってチャンスを失ってしまうのかもしれない。
「すみません!!お待たせしました!!」
たっぷり十五分ほど掛かって恵里奈が戻ってきた。
もちろんその八メートルほど後には木下刑事の姿がある。
…困ったものだ…。
「あのね…木下刑事に状況を聞かれたんですけど…」
ひそひそ声だった。
「けど…?」
「ただいま奮闘中ですって言っちゃいました!」
「……。」
「だから、もうちょっとだけ付き合ってください!寄りたいところがあるんです!」
恵里奈の寄りたいところというのは、このビルにある時計専門店だった。
車が二十台は止められるくらいの、かなり大きなスペースに所狭しと様々な種類の時計が陳列されている。
店の壁には何百もの掛け時計。
支払カウンターの後ろ側には、木戸家にあるような振り子時計も十種類以上展示されている。
腕時計の陳列ケースは大小合わせて三十以上あるようだ。
見たこともない海外メーカーの時計もたくさんある。
着けていた腕時計にもこだわりがあったみたいだし、実は時計が好きなのかな…?
僕は恵里奈と離れた場所で、時計を見るふりをしながら、辺りを警戒することにした。
どこかに木下刑事もいるに違いない、今度はうまく隠れているようだ。
彼女は腕時計のコーナーでしばらく何か悩んでいたが、ふと、周りをきょろきょろしだして、何か見つけたらしく、また違うコーナーに移動してまた悩みだした。
ゆっくり三十分も悩んでいただろうか…恵里奈は店員を呼んで、何か購入したようだった。
「ごめんなさい…お待たせしちゃいました?」
「大丈夫。今日は何も予定が無いしね」
僕にはね…。
五月十日(日)午後三時五十五分。
特に何も起こらないまま、僕たちは車での帰路についていた。
僕たちの三台後ろには黒い覆面パトカー。
仕事に忠実な木下刑事は相変わらず、しっかりと後をついてくる。
高速道路に入ったところで、恵里奈の携帯端末が鳴った。
バッグからスマートフォンを取り出した恵里奈は着信名を確認したようだ。
「あ!…雨宮さんだ!…もしもし……はい。……はい。え!?本当ですか?……はい、大丈夫です。協力してくれるそうです。…はい、あ…でも今高速道路を走っているので、一度パーキングエリアで掛け直しても大丈夫ですか?……わかりました。それでは…」
「雨宮さん、なんだって?」
「被害者の女性たちの身元がわかったって…それから、浅倉さんの件はどうなったか訊かれました」
「そっか…身元がわかったんだ…」
その三人の字女性のうち、一人は右腕を失っているんだ。
本人の苦しみはもとより、両親や彼女の気持ちを思うと暗くなる気持ちを抑えられなかった。
「もしできれば、このまま帰りがけに昨日のアパートに寄って欲しいとのことでしたけど、浅倉さんはどうしますか?」
「僕も一緒に行くよ。いろいろ気になることもあるしね」
僕達はこうして、昨日のアパートへと車を急がせた。
雨宮刑事が言った通り、アパートは改修工事に入っていた。
とは言っても外側に足場が掛かっているわけでもなく、一階の内装工事を先行しているようで、開け放たれたアパートのドアの向こうから、工事に携わる人達の声が聞こえた。
雨宮刑事は僕たちが到着すると、昨日と同じの部屋のドアを開けて待っていた。
「すみません恵里奈さん、ご足労をおかけします」
昨日とは違う色のスーツを着た雨宮刑事は、僕たちの後から来た木下刑事を待って、アパートのドアを閉めた。
「初めまして。雨宮です」
「あ、初めまして、三度笠と言います」
一瞬自己紹介を忘れるところだった。
僕は、雨宮刑事を知っているから、ついつい昨日までの延長線上で話を進めてしまうところだったのだ。
三度笠と名乗ることについては、事前に恵里奈とも話し合っておいたことだ。
昨日まで三度笠だった男が、急に浅倉なる人物に替わってはまずいからだ。
雨宮刑事が今回の事件捜査の協力者について何も調べない訳がないのだから。
「三度笠さん…珍しいお名前ですね?」
「そうですね…確かに他でこの姓を見たり聞いたりしたことはないです」
「あの…つかぬ事をお聞きしますが、その痣はどうされました?」
「ああ…これはちょっと…」
「昨夜、ご自宅の近くの飲み屋の裏で何かありましたか?」
僕は思わず雨宮刑事を見た。
彼は、まったく表情を変えずに話をしている。
これはまいった…。
「ええ、実は恵里奈さんには階段から落ちたことにしていたんですが…昨日の晩にちょっとありましてね…」
僕は昨夜の顛末を『憑りつき』以外の事に関しては隠す事なく打ち明けた。
雨宮刑事は、僕の目を見ながら真剣な表情で聞いていた。
「わかりました。昨夜恵里奈さんと明菜さんから伺っている事でもありますし、僕としてもあなたを協力者としてお迎えしたいのですが…その前にお聞きしたいことがあります」
「ええ、なんでしょうか?」
雨宮刑事は、またしばらくの間、僕の目を見続けていた。
そして、もう一度彼の唇が開いた時、予想もしていなかった質問がその口から紡ぎだされた。
「三度笠さん…あなたは誰ですか?」




