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ゴースト  作者: 鏡完
ゴースト第二章
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過ぎし日に送る鎮魂歌(レクイエム)

五月九日(土)午後三時四十三分。



明菜は何やら分厚い本を手にしていた。


広辞苑の一・五倍はありそうな見るからに重々しい本だ。


タイトルは……判らない……英語ではなさそうな横文字が書いてある。




「あ、これ?…これはね~、フロイトのドイツ語版なのよ。日本語に訳されてるのもあるんだけと、微妙に私の解釈と違う気がするのよね~、だから、こっちが私の愛読書なのよ」




僕の視線を観察していたのか、彼女は訊いてもいないのに僕にそう説明した。


明菜…ドイツ語までできるのか…。


外見といい、中身といい、この人は一体どれだけの才能ギフトを貰って生まれたんだろう…。




「す、凄いですね…ドイツ語、わかるんですか?」


「何も凄い訳じゃないわよ?ドイツ語なんて、ドイツにいれば、二才児だって普通に使ってるもの。日本語の方が何倍も難しいわよ?」


「お姉ちゃんとわたしは、小さい頃にお母さん方のおばあちゃんの家に住んでたことがあるんだよ?だからドイツ語は日本語の次に得意なの。わたしはさすがに、お姉ちゃん程には出来ないけどね?」


「そ、そうなんだ…」




恵里菜は、僕にそう説明してくれた。


それじゃあ、恵里菜もドイツ語できるわけね…。




「あ、じゃあ、おばあさんはドイツに住んでいたんだ?」


「そうよ?ドイツ人だもの」


「え?」


「じゃあ、君たちはハーフって事になるのかな…?」


「違うわよ!ハーフだったのはお母さん。私達はクウォーターになるのよ」




あ…そっか!おばあさんがドイツ人なんだもんな…。


しかし、ハーフとかクウォーターの人って、美形が多いよな…。


やっぱり遠い血が混ざると、いろんな意味で優れた人が出来るのかな?




それから明菜は、小型のデジタルレコーダーを出してスイッチを押した後、僕に様々な質問を浴びせて来た。


なんか、本格的なんだな…。


もしかして、メンタルクリニックとかって、こんな感じに診察していくのだろうか?


行ったことのない僕には分からないけど…。


明菜の僕に対する質問は、まさに『浴びせる』という表現がぴったりのもので、ひとつ答えれば次、ひとつ答えれば次と、まるで矢継ぎ早のように、実に二十数項目にも及んだ。


その中で、下の名前は?とも聞かれたが、これは面倒なのでわからないと答えておいた。


時々、フロイトの本をめくっては、頷いている明菜に関心しながら、僕は宇津見さんが運んできてくれたハーブティーを飲み、彼女の質問に対して、時には考えながら慎重に答えていった。


僕は、一週間くらい前から三度笠の頭の中で意識が別れた事にしたという事にして、今日の二人との出来事(決して暴力とは言ってない)で三度笠が気を失い、その時に自分という自我が表面化できた事にした。


どうせ嘘をつくなら、簡単且つ明解なものにすべきだ。


詳細化した嘘には必ず綻びが生まれるものだから。


迷うような質問に対しては「わからない」とはっきり答えた。




「へえ…珍しい多重化だね~。うん!!いい!あなた、スゴく面白い!」


「それは、どうもありがとうございます…」




今の僕はきっと、明菜にとって実験道具にすぎないんだろな?…




「二度と!三度笠に戻らないで、このままずっと浅倉さんのままでいてくれればいいのにね!まあ、見た目はちょっと、まだ『アレ』だけど、中身が今のままだったら何とか耐えられなくもないし…」




今はまだ耐えてるんだぁ~…。


さすがに姉妹ですね…言葉遣いは違えど、表現がそっくりです…。


でも、今の僕の顔って、やっぱり『アレ』なんですね…。




「こうなると、もう一人の浅倉さんにも面接をしたくなってくるわね…ウザいけど…なんでアイツがあんなことになってしまったのか、今となっては学術的な興味が湧いてくる気がしなくもないわ?惜しい事したわね…」



…もう…過去の人になってるんですか?


しかも、三度笠ではなく、もう一人の浅倉になっていますが…。




「あの人いっつもあんな感じだったからね…?かなり鳥肌ものだったもんね…?」


「そうそう、ぁあぁぁ…もう!思い出しただけで…う…」




見ると明菜の顔は少し青ざめて、ふるふると震えている。


半袖の腕には小さなブツブツが出来ていた。


本当に嫌だったんだな…。




「あの歩くトリハダ製造機の中に、よくもまあこんな普通の人が入ってたよねぇ~」


「ほんとに良かったねぇ、お姉ちゃん!」


「そうね!私の精神衛生上、とても素晴らしいことだわ!」




僕はその後も様々な質問を受けては答えて、結局、木戸家を後にする頃には時計が午後七時半を指していた。


話の内容は、そのほとんどが明菜の僕に対する質問に始終していたから、恵里奈とは話す機会がなかった。


恵里奈は、僕を駅まで送ることになり、その間に姉の明菜は、僕に関する資料をまとめると言っていた。


彼女は木下刑事に携帯で連絡を取って、これから男性と二人で家を出る旨を話していた。


僕は、くるくると家事の仕事で動き回っている宇津見さんに、美味しいハーブティーのお礼を言って、恵里奈と木戸家を後にした。




そして、午後七時三十九分。


僕は今、恵里奈の運転する赤いBMWの助手席に乗っている。


最寄りの駅までは車で十分と掛からない。


その間に、僕は誰か他の人のいる前では出来ない話を、恵里奈に言っておきたかった。




「恵里奈ちゃん?この何日かの間で、大変なことになってしまったけど、君のおかげで僕は…手紙でだけど、家族にちゃんとお別れを言えた…。でも、かえって、手紙で良かったのかもしれない。そのおかげで間違えることなく、きちんと自分の思いを家族に伝えることが出来たと思う。だから、本当にありがとうございました」




ハンドルをしっかりと握って、前を見て運転する恵里奈の目には涙があった。


その涙が頬を伝って恵里奈の胸に落ちる。




「大変だったよね…浅倉さん。ごめんね…あなたは、あんな危険な思いをしてまで、わたしを守ってくれたのに、わたしはあなたに何もしてあげられなかった。慰める言葉ひとつ…かけてあげられなかった…。ごめんなさい…」


「そんな…!それこそ、恵里奈ちゃんが謝ることなんか全然ないよ!訳がわからない内だったとはいえ、僕は君の身体を勝手に借りてしまった…君の大切な家族の中に紛れ込んで、あんなすばらしい家族の大切な時間を奪ってしまっただけだよ…。謝まらなきゃならないのは僕の方だ…」


「浅倉さん…そんなことないよ?ちゃんと聞いてたよ?お父さんが、わたしを思って言ってくれた言葉も、お姉ちゃんのあったかい励ましも…ちゃんと聞こえていたよ?…浅倉さんがわたしと一緒に、わたしの為に泣いてくれてたこと、ちゃんとわかってるよ?…あなたは、全然…わたしの時間なんか奪ってないよ?それどころか、これからのわたしの時間を守ってくれたんだよ?お礼を言わなきゃならないのは…わたしの…方だよ…」




恵里奈の涙はさっきよりずっと多く流れていて、彼女の美しい頬を濡らしていた。


彼女は、少し幅の広くなった側道にゆっくりと車を止めた。


そして、ハザードを出したあと、僕の顔をしっかりと見つめる。


その両方の目から大粒の涙が次から次へとこぼれていく。




「あなたがいてくれた時、本当に安心できたの…守ってくれるって言ってくれた時も本当に嬉しかった。…でも、これ以上私たちの為に…危険な思いをしないで……。だから…だから…」


「僕は、君たち家族を守るって言ったでしょ?」


「でも…でもそれは…」




それは…。


その次に恵里奈が言いたいことが、なぜかその時、僕にはよく解っていた。




「君の身体にしか僕の居場所がなかったからじゃないんだ…僕は君たちを守りたいんだ…今でもね…」




恵里奈の目が涙でいっぱいになる。




「浅倉さん…わたし、寂しい…それに、怖い…。この四日間、ずっとあなたが守ってくれてた…怖くて、怖くて動けないわたしを…もう、ひとりじゃ怖いよ…独りは…嫌だよ……」




僕は恵里奈の肩に両手を置いた。


やっぱり彼女は、ずっと独りで戦ってきたのだろう。


彼女に対して家族の支えがあったのは間違いない。


でも、それでも…彼女の中では、あの事件以来一年半以上も、たった独りで悩んで、苦しんで、戦っていたのだろう…。


僕の心に、苦しいほどの彼女の思いが、痛みが伝わってきた。




「恵里奈ちゃん。君は今までもこれからも独りじゃない!僕は約束する…。君と、君の家族に危険が及ばなくなるまで、君のそばを離れない。雨宮刑事も、木下刑事も…あの国分寺さんも君たちを守ろうと頑張ってくれているし…それに、何よりも『君には君の事をあんなにも思っていてくれる素晴らしい家族がいるじゃないか!?』恵里奈ちゃん、君はずっと独りじゃなかったんだよ?」


「……うん……そうだね……そうだよね?……」




そう言うと、彼女は僕の右手を今の僕の手よりもずっと小さな両手で握りしめて自分の頬に押し当てた。


僕の手の甲に恵里奈の涙が沁み込んでくるのがわかる。


そして彼女は、まるで幼い子供のように大きな声で泣いていた。


僕にはそれが、自分の殻を破ろうとする恵里奈の必死な叫びにのように聞こえたんだ。



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