アンニュイなコントラバスの独奏(ソロ)
五月九日(土)午前九時四十一分。
『参りましたねぇ…』
電話口の雨宮刑事は正直困ったという口調で、呟いた。
僕が、恵里奈の姉、木戸明菜に事件の事を話すまでもなく、彼女は勝手に二つの事件を関連付けて考えようとし、あまつさえそれを調べようと行動に出るというのである。
僕はどうにかして明菜を事件から遠ざけることと、僕と同じようにボディーガードを明菜に付けることができないかという相談を持ちかけた。
『恵里奈さんも聡明な方だということは、わかっていましたが、お姉さんも恐ろしい程に明敏な方なんですね…』
…いや…僕と明菜は兄妹でもなんでもないから!…雨宮くん。
だいたい、聡明と明敏ってどう違うんだ?
いや待て…そもそも、どうして君は恵里奈を下の名前で呼んでいるんだ?しかもいかにも親しげに!苗字で呼べよ!苗字で!!
『仕方ありませんね…』
うんうん、そうだろう…そうだろう。
一般市民を守るのも警察の仕事だもんな?
『この際、お姉さんの明菜さんにも事情を話してご協力をお願いしましょう!』
…はいぃぃぃ…?。
「あの雨宮さん…」
『はい?』
「そうではなくて、私は姉を守って欲しいとお願いしたはずなんですが…」
『ええ…もちろん、確かにそのように伺いましたが?』
「それでは今のは?…」
『恵里奈さんは、やっぱりお優しい方なんですね?…本当はお分かりの事と思いますが、一応ご説明しましょう…ふぅ…』
おい!…なんなんだ?最後の『ふぅ…』は!?
溜息か?ためいきなのか?
やっぱり馬鹿にしてるだろ?雨宮くん!
『あなたのお姉さんが、いかにご家族にご不孝が起こったとはいえ、それを事件と関連付たのはおそらく感情もあると思いますが、お姉さんの明敏さゆえの結果です』
だからなんなんだよ…。
『はじめに言っておきますが、木戸明菜さんの推察通り、僕もこの二つの事件は関連していると考えています』
…な…。
『そして、お姉さんはその明敏さとご家族への愛情ゆえに、こちらが止めたとしても、何も知らない処からご自分で調査を始めて、ある程度の所まで突き止めるかもしれません』
明菜の頭が良いのは間違いない。
それに家族への攻撃対して恐ろしい程の怒りの感情を持っている。
彼女なら、たった一人でもある程度の事までは調べてしまうかも知れない。
その可能性は確かに否定できない…何せ二十四歳で、大手の会社の部長になるくらいだ。
『ここまでは分かりますね?』
「はい、おそらくそうなると思います…あっ!!」
『ご明察です、恵里奈さん。お姉さんは事件の真相に迫った時に命を落とすことになるでしょう…もちろんそれ以前にそうなる可能性もありますが…』
「た…確かにそうですね!」
『お姉さんにご協力いただくのはお知恵を拝借する事だけとお約束しますよ。でも、何も知らせずに日常生活を送るのは、今の段階では得策とは言えないでしょう?』
「…わかりました。今日、姉と一緒にそちらにお伺いしても構いませんか?」
『いえ、それはまずいですね?今後、警察署ではなく、今から木下に連絡を取ります。お姉さんを連れて、木下と一緒に来てください』
「わかりました」
「よかった。それでは僕も今から準備してそちらに向かいます。くれぐれも気をくけてくださいね」
そう言って電話を切ると、僕は……………てからトイレを流し、パンツとスカートを履いて、トイレのドアを開けた。
…!?
「うふふ…どこに向かうんだって~?」
そこには、意地の悪そうな笑顔を満面に貼り付けた明菜が立っていた。
僕は二階の恵里奈の部屋でジーンズに着替えながら、明菜にこれから刑事と会う事、僕には今警察のボディーガードがついている事などを簡単に説明した。
「恵里奈ぁ~?そんな簡単な説明で私が納得すると思う~?思わないよねぇ~?」
おぉ~…怖い怖い…。
幽霊の僕が怖いんだから、本当に怖いんだろうな…この人…。
「あの…お姉ちゃん?…」
「あたしが怖いの~?恵里奈ちゃ~ん…だったらぁ~…ちゃんと説明してくれるぅ~?」
…いや…本気で怖いんですけど…。
「わかったよ…!わかったから、これから行く場所に一緒に来てくれるかな…事情は車の中で説明するから…」
「あら、そういう素直な恵里奈ちゃんが一番好きよ?お姉ちゃんは…」
…あぁ…恐ろしかった…。
一番怖いのって、お化けじゃなくて本気で怒った時の美女だな…。
僕と明菜は、一生懸命大きな振り子時計の掃除に汗水を流している宇津見さんに出かける旨を話して玄関を出た。
一生懸命働く女性って魅力的なんだな…しかもメイド服…素敵だった。
歳も僕と近いしな、宇津見さんって!。
でも、メイド服って胸元の開きが少ないから残念だよな…もう少しこうデザインが…
「恵里奈?あの車?」
いかん、妄想に走っている場合じゃなかった。
「そ、そう…それで、あの人が木下刑事」
黒い覆面パトカーの脇に立ったジーンズとパーカーに着替えた木下刑事が車から降りるところだった。
木下刑事は自ら後部座席のドアを開けて僕たちが乗り込むのを待って、またドアを閉めてくれた。
結構紳士なんだな…この人。
移動中の車の中で、僕は木下刑事を明菜に紹介してから、事件の状況を説明した。
どうして相談しなかったのか、どうして二日間も黙っていたのかを明菜は時に、怒りを表しながら僕の話を聞いていた。
でも、その怒りも恵里奈の心配をしているからこそ出たものだ。
まるで、母親が娘の心配をしているかのような愛情を感じる怒りだった。
車は二十分ほどで、目的の場所に着いたようだった。
自他ともに認める方向音痴の僕には、ここがどこなのかさっぱりわからなかった。
仕方ない、人の能力はさまざまだ。
誰にでも得意不得意はあるものだから。
でも、僕の特技って何かあるんだろうか…?
…人への憑りつき?
…なんだか…とっても嫌な特技だ…。
僕たちは、ぼろアパートの一室に入って行った。
名前は…東南荘?
雀荘みたいだな…。
築年数は相当古い。
おそらく四十年以上は経っているだろう。
元建築屋の僕の見立てに間違いはない。
でも、外壁は板金で出来ていて、一応鉄骨建築のようだ。
見た目よりは頑丈そうだな。
リフォームすればまだまだ使えそうな感じだけど…見た目がな…。
四部屋あるこのアパートは結構廃屋じみた様相を呈していたが、誰も住んでいないのは好都合かも知れない。
木下刑事は僕たちを二階の二〇一号室に案内してくれた。
中は…ボロい…漆喰の壁は所々はがれおちていて、網戸は破けて隅っこの方で網がひらひらしている。
もう少しマシなところはなかったのだろうか…警察というより、貧乏で食い詰めた犯罪者に無理やり連れてこられるような場所だな…これは…。
一応掃除だけはできていたようで、かろうじて埃っぽさはないが、これから深刻な話をするのを考えると、かなり場違いな気がするのは僕だけなのだろうか?
「本当にここで話をするわけ?」
…みろ、明菜も僕と同意見だ。
「すみません。まだ改装前なので、こんな状態なんですよ…明日から工事が始まる予定なんです…本当にすみません」
木下刑事は本当に申し訳なさそうにしている。
すると、勝手口のような玄関ドアが開いて、コンビニの袋を持った、雨宮刑事が入ってきた。
相変わらずさらさらの髪が印象的な男だな…。
男にしては、ちょっと細すぎるけど。
「申し訳ないですね…明日から改装工事が始まるんですが、ここはまだこんな感じでして…あ、恵里奈さんのお姉さんですね?僕は特殊捜査部二課の雨宮と申します。よろしく」
「初めまして、恵里奈の姉の明菜と言います。こちらこそよろしくお願いします」
…お、お姉さま。
いつもと口調が違いますね…。
ビジネスライクのお姉さまは、かなり素敵な感じだった。
僕たちは、三DKのアパートの和室に案内された。
六畳の和室には中央に小さな丸いテーブルが、一つだけぽつんと置かれていて、他には何も見当たらない。
そのテーブルを囲んで、僕たち四人は座り込んだ。
雨宮刑事がコンビニの袋から五百ミリリットルのペットボトルのお茶と、スナック菓子を取り出した。
それぞれの前にペットボトルを配り、菓子の袋を開け、取りやすいようにだろうか、袋を開けるだけ全部開いてテーブルの中央に置いた。
あれ?四人のはずなのにペットボトルは五つある。
もう一人来るのか?
明菜を見ると、誰も座っていないところに置いてあるペットボトルを見て、やはり首をかしげている。
「ええ…実はもう一人来るんですが、あと十分くらいかかりそうなので、その間お菓子でも食べていてください。ああ、これ明太子味なんですけど、結構イケるんですよ?」
そう言うと雨宮刑事は片手で三つほどつかんでパクリと口に放り込んだ。
…なんなんだ…この空気は…。
「自分もいただいてよろしいでしょうか?」
木下刑事も二つほどつまんで口に入れる。
「ああ…木下君にはこっちのお弁当があるから、今のうちに食べちゃってください…これ、どうぞ…あ、お替りありますから、必要だったら食べてください。…いえね?本当は木下君に朝食を届けるつもりだったんですが、急に色々と予定が変更になったので、彼…まだ朝ご飯を食べてないんですよ…」
「ありがとうございます!いただきます!」
木下刑事はお弁当の包装を取って、おもむろに食べ始めた。
そうか…一人で僕の警護についていたから、自分でお弁当とか買いに行けなかったんだな…。
きっと、夜通し見張っていてくれたんだろう…。
そう考えると、がつがつと弁当を食べる木下刑事が頼もしく思えた。
『コンコンコン…』…「俺だけど、入ってもいいのかな?」
ドアをノックする音に続いて、玄関から声がした。
「ああ、どうぞ!入ってください!」
「おじゃましますよ~」
ガチャリとドアを開いて入ってきたのは、茶色のテンガロンハットをかぶった背の高い男だった。
肩幅は広くて、肩まであるボサボサの髪を帽子で隠し、Tシャツとジーンズに黒いカーディガンを羽織っただけの、かなりラフな格好だ。
雨宮刑事とは対照的な印象だった。
「木戸さん、彼は国分寺義正。私立探偵をやっています」
「国分寺です、よろしくね…お…お茶があるじゃない…これ、もらってもいいの…?」
詰まったような低い声で気怠そうに話す彼は、テーブルの開いている席(?)に座りこんで、答を待つまでもなく、ペットボトルを開けた。
ごくごくと半分近くを飲み干す。
「はあ…暑かったんだよねぇ…雨宮ちゃん、歩いて来いって言うからさぁ…」
「すみませんね…いろいろ事情があって…」
「まあいいや…で…雨宮ちゃんの言ってた例の件って、このお嬢ちゃんたちの事~?」
「そうなんです。お願い出来ますかね?」
「いいんじゃな~い?可愛い娘たちだしねぇ…。なんとかしてみようじゃないの…ねぇ…雨宮ちゃん…。まぁ、ボクが来たからには大船に乗ったつもりで……まあ…いっかぁ…」
…あの…雨宮くん?…だれ?この人…。




