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ゴースト  作者: 鏡完
ゴースト第一章
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見慣れた治療室の白いジプトーンの天井には、いつものように黒いアメーバのようなあながたくさんあいている。


よくよく見ると、黒いぶつぶつのあなの端っこにすすのようなほこりのような汚れが見えた。


昼間はまだ良いのだが、夕方から夜になると天井にへばり付いた二本の蛍光灯の明かりで、そのぶつぶつがより強調されて、なんだか気持ち悪い模様に見えたりする。


末期の肝臓ガンと診断されてから半年…。


手術をしても、完治の見込みはなく、多少の延命処置にしかならないというので、僕は抗癌剤の投与と痛み止めだけ処方してもらっている。


完治の希望がなければ、チューブに繋がれて何もできない時間を延ばしても仕方のない事だ。


まだ、モルヒネを貰って残された限りある時間を有効に使いたかった。


それに、僕は今まで必死に働いて、微力ながらも家族に対しても自分のできる限りの事はやってきたつもりだった。


一生懸命に生きてきたつもりだったから、この時はまだ、自分の人生に後悔はなかったんだ。


残りわずかな人生で今の自分に何ができるのか、それがこの時の僕にできる最後の『ええ格好しい』だった。





医師も含めて、周囲の人間からは抗癌剤による治療というものが、かなり大変だと聞いていたが、実際に治療を受けてみると、思った程ではなく多少の吐き気やめまいは有るものの、それほど辛いと言う訳でもなかった。


抗癌剤が身体に合っているのかも知れないと医師は言っていたが、それはそれで、かなり幸運な事らしい。


治療が終わって病院を出ると、入り口のロータリーの前にシルバーの車が停まっていた。


元嫁が乗っているハイブリットカーであった。


その車の助手席から十二歳になるはずの娘が、久しぶりに会う僕に気が付いて車の中から僕に向かって大袈裟に手を振る。


白い毛糸の帽子のてっぺんに付いた赤いポンポンが元気よく揺れている。


その嬉しそうに満面の笑みを浮かべた顔を見ると、なんだか胸が切なくなってくる。


僕は、この笑顔を見るのが楽しみで頑張ってきたんだと今更ながらに思う。


でも、このはまだ僕の未来を閉ざすドアが、すぐそこにある事を知らない。


車まで歩いて行ってドアを開けると、シートベルトを外すのに手間取っていた娘が、それをやっとのことで外せたようで、車から降りて飛び付いてきた。




「父ちゃん、大丈夫?痛くなかった?」


「ああ、平気だよ。父ちゃんは強いから、全然痛くなかった」




娘を降ろした乗用車は、元嫁の「じゃあね…」という冷ややかな言葉を残して走り去って行った。




「父ちゃん、お昼ご飯食べた?」


「いや、父ちゃんはまだだけど蓮葉はすはは?」


「うん。ママと食べたよ?でも、少しだけにしておいた。父ちゃんとも一緒に食べたかったから…」




と、にこにこしながら楽しそうに話す娘。


こういうところが可愛いと思ってしまう。




蓮葉はすはは何か食べたいものあるのかな?」


蓮葉はすはは別になんでもいいよ。父ちゃんは何が食べたい?」


「さあて、じゃあ何にしようか?」




蓮葉むすめはいつもこうだった。


食べたいものは特にないと言っていても、マグロのお寿司が大好きで、よく一皿百円の回転寿司屋に行ったものだ。




「ママとは何を食べたの?」


「うん・・・とね・・・近くのダミエスでちっちゃいドリア」




ダミエスというのは、近所にある低価格のイタリアンレストランの事だ。




「そっか。じゃあ、お寿司屋さんでも行く?」


「うん!蓮葉はすはマグロ食べるぅ!」




思った通りだ。


僕は、娘に笑って見せた。


そして、僕たちは親子仲良く手をつないで、病院の駐車場に向かった。





走行距離十万キロを軽く超えたシャンパンゴールドのポンコツ車は少し微妙な始動音を立てたが、それでも快調に動き出した。


中古車屋を営む友人から格安で売ってもらったものだったが、普段からオイル交換やエアーフィルターなど必要な個所を細々(こまごま)と交換して良く整備してくれていたので、今のところ普通に乗るには全く支障がない。


それも大の車好きの友人のおかげである。


そして、この車が僕の人生で最後の所有車になるのだろう。


去年あたりから、その友人に、『いくらなんでもそろそろ買い替えろ』と言われていたけど、残り少ない人生なのに、今更車などに興味を持てる訳もなかった。


そもそも、友人に僕の病気や余命の事は話していないから、彼が新しい車を勧めて来るのも仕方のないことかもしれないけど…。




「最近学校は楽しいかい?」


「うん。先生がムカつくけど。すっごいデブな先生なのに、蓮葉の事を太ったっていうんだよ?教室の、しかもみんなの前で言うんだよ?ありえないよね?失礼だよね?」


「そ…そうだね…」



蓮葉はすははガリガリに痩せているというわけではないけれども、決して太っているわけでは無いと思う。


この年代の子供らしいぷくぷくとした、単なる幼児体型だ。


それを太ったというのは、いくらなんでも酷評に過ぎる。


しかも、その先生は、僕と同じくらいの背丈で三桁の体重を誇るらしいから、自分のだらしなさを棚に上げたうえで、娘に酷評を下すなど笑止千万!


今ここにその先生がいたら、文句の一ダースもビール瓶に詰め込んで、ぶつけてやるのに…。


そう伝えると娘は「でも、蓮葉もちょっとは痩せないと…」と小さく笑いながら言っていた。




「まだ小学生なんだから、もう少し身長が伸びてから考えた方がいいんじゃないか?今からダイエットなんて考えてたら、栄養不足で身長が伸びなくなっちゃうぞ?ただでさえおチビちゃんなんだから…。さあて、着いたぞ?好きなもの食べるんだよ?父ちゃんと外食する機会はなかなか無いんだから…」




そう…もしかしたら、これが最後かも知れないんだから…。





店内は思ったよりも混んでいたが、並ぶほどではなく、僕たちは待たずに席につけた。


さほど空いていないお腹を、いくつかの寿司で満たしてからジュースを注文して、僕たちはちょっと深刻な話をした。


離婚については娘には何の責任もないこと。


蓮葉がママのお腹に出来たことが分かったときは、父ちゃんもママもすごく喜んだこと。


離婚をして僕と離れて、ママと二人で暮らしていても、父ちゃんはいつまでも蓮葉の父ちゃんで、それは一生変わることがないことなどだ。


離婚前にも、娘とはその話をきちんとしておいたから、三年も経った今、またその話をむしかえすのもおかしいのだけれど自分がこの世からいなくなる前に、父親と母親の関係はともかくとして、両親二人から愛されていることを、僕はこの愛娘にもう一度きちんと伝えておきたかったのかもしれない。




「お父ちゃん…蓮葉はちゃんとわかってるよ?父ちゃんとママは仲が悪くなっちゃったけど、蓮葉は父ちゃんもママも大好きだから!だから蓮葉は大丈夫だよ?」




僕は目頭が熱くなるのを感じ、軽い嗚咽をこらえた。


そして食事を終えた僕らは会計を済ませて娘と一緒に店を出た。





その日、蓮葉は僕の家に泊まっていった。


離婚してからずっとだ。


ほとんどと言っていい程、毎週週末になると娘は泊まりに来ていた。


母親とは今も毎日元気に喧嘩をしながら暮らしているらしく、それでも両親の離婚にめげずに頑張っている娘を見ると、本当に健気に思えて切なくなる毎日だったが、結婚していたころよりも蓮葉は明るくなったように思う。


今思い返しても、離婚してよかったのだと思う。


それがベストの解答ではなかったとしても、よりベターな解決策ではあったのだと思うのだ。


結婚していた当時、ほとんど毎日のように両親の喧嘩を見るのは、物心がついた子供にとって何よりもつらいことだったのだろう。




「蓮葉ね・・・父ちゃんの所にいるときはいつも楽しい。ママといるときは、つまらないことも多いけど安心するんだ!」




そう言いながら、娘は僕と一緒の布団で眠りに落ちた。


天使のような寝顔で眠っている娘を見て、それでいいのだと思う。


母親と暮らす毎日は平凡でつまらないものかも知れないが、蓮葉が安心できる大事な場所であり、それはこの成長には絶対に欠かせないものだ。


だからこそ、たまに僕の所に来たときには思い切り楽しく過ごせばいい。


それが、限りある時間だとしても…。


この時僕は本気でそう思っていた。






死期が近いせいなのか判らないが、最近僕はあまりよく眠れない日が続いている。


隣で腕枕をしながら眠っている娘の顔を見ながら幸せを感じている自分がいても、この時間はほんの一瞬の幸せで、決して永遠には続かない。


それは解っている。


頭では理解しているんだ。


だけど、無性にさびしくなる。


こんな風に幸せを感じいる時ほど、その寂しさは強くなる。


それではいけないとわかっているのに…。


幸せな時はそれを目一杯享受して、どっぷりと浸ることが出来ればいいのにと本気で思っているのに、なかなかそういう風にできない自分がいる。


それに、最近はこんなパラドックスに悩んでいるからなのか、ありもしない『何か』を昔のように、よく見かけるようになった。


病院でも…交差点でも…お寿司屋さんでも…運転中の車の後部座席にも。


それは、時にはモヤモヤした白い煙のようなものだったり、白っぽい大きな顔だったり、顔のつぶれた女性だったり、こちらをぼーっと見ている赤いジャンパーを着たおじさんだったり。


そして、『それ』は今もこの部屋の角に立っている。


じっと僕を見ているおばあさん。


僕を、悲しそうな目で見ている。


早く消えてくれないかと願っていると、そのうち消えていく。


一度目線をずらすと、いなくなっている感じだ。


昔はよくこんなお化けじみたものを見たものだ。


その当時、最初は怖かったけれど、彼らは僕に対して何を仕掛けて来るでもなく、ただそこに見えるだけで特に害もないから、慣れていくうちにだんだん気にならなくなって、そのうちにごくまれにしか見えなくなっていった。


悩んでいるからじゃなくて、死期が近いとこういうものをよく見るようになるんだろうか?


それとも、眠れないせいで幻覚を見ているのだろうか?


いやいや、今はそんなことより、かわいい娘の天使のような寝顔を見ながら一瞬の幸せを大事にしないといけない。


この切ない思いと一緒に…。


僕は部屋の電気を消して、昔より一回り大きくなった娘の頭を抱きしめながら、静謐せいひつで温かな眠りについた。







「父ちゃん!起きろ~!!」




けたたましい娘の声で、何もない安息な暗闇の世界から現実へと引き戻される。


それが僕の人生にとって最後のゴールデンウィークの始まりの鐘だった。


布団の中でもじもじしている僕の足元に娘がもぐりこんでくるのがわかった。




「痛てっ!!」




また蓮葉が僕のすね毛をむしり出したようだ。


昔からそうだった。


僕が休みの日にいつまでも寝ていると、娘は決まってすね毛をむしりに来る。


一時はあまりにむしられるので、睡眠妨害対策のために、すね毛を剃っておいたこともあった。


ある日、娘が起きない僕を起こそうとすね毛を狙ってきたところ、目標であるすね毛がなかったので、男の急所に一撃を加えられたことがあった。


さすがに怒りを覚えて飛び起きて娘を見ると、




「父ちゃんのすね毛がない…」




そうつぶやいて、さびしそうな顔をしていたので、結局怒ることも出来ず、それからはすね毛を剃らずにいたのである。


楽しそうな娘の顔を紡ぎだす、ささやかないたずら心を満たす材料を取り上げてはいけないのだ。


僕は冬眠から覚めたクマのように起きだして、出かける準備を整えた。


今日は娘と水族館に行く予定だった。




ゴールデンウイーク初日ということもあり、都内の水族館は結構にぎわっていた。


大きな水槽にはジンベイザメが気持ちよさそうに泳いでいる。


娘は買ってあげたばかりの携帯電話で一生懸命に写メを撮っていた。


はしゃいで回る姿を見て、やはり温かな幸せを感じる。


人間は限りある命とはよく言うが、余命宣告を受けた人間にとってそれはとても重い言葉になる。


どこかで聞いた言葉がある。


『あなたが何気なく過ごした今日という一日は、昨日死んだ人があれほど生きたかった明日』


正確な記述ではないかも知れないが、心に残った言葉であり、今となっては実感している言葉だ。


来年の今日、僕は間違いなく生きてはいないだろう。


それでも、娘は生きている。


僕がこの世からいなくなっても、世界は何事もなかったように時間を重ねて毎日を紡ぎ出して行くのだろう。


ただ、そこに僕がいないだけの事だ。


娘は悲しむかもしれないが、彼女はいずれ親の死から立ち直って、それを乗り越えて自分の人生を歩んでいくのだろう。


そうあるべきであるし、またそうあって欲しかった。


今まで気が付かなかった事だけど、自分の死が間近に迫ったことで、自分の子供が生きていることを本当に有難いものに感じる。


どう説明したらいいのかわからないけど、自分が死んでも、自分という存在がすべてなくなってしまうわけでは無い事を実感できる。


僕が生きた証が現実のものとして、形となってここにいる。


そんな感じだと思う。




「父ちゃん、あれ見て!かわいいよ!チンアナゴって言うんだって!」






喜びを体全体で表現しながら一生懸命に僕の手を引いて、反対側にある水槽の前に連れて行く娘。


体長十五センチにも満たない、ひょろひょろとした何匹もの小さなアナゴが水の流れのためなのか、砂から体を出してゆらゆらと揺れているのを見て興奮している。


蓮葉の少し汗ばんだ、温かく小さな手は、命の躍動感に溢れているように力強く僕の手を握っていた。


子供の記憶力は素晴らしい。


自分の興味のあることを片っ端から覚える力を持っている。


まさに好奇心のかたまり。


脳みそが柔らかいというのはこういう事なのかもしれない。


仕事に追われていないで、もう少し自分の興味のあることに自分の好奇心を向けていたなら、僕にももっといろいろとできることがあったのかもしれないけど、今となっては、自分に残された時間をできる限り娘と一緒に過ごしていたかった。


僕たちはこのゴールデンウイークに、今まで一緒にいられなかった時間を取り戻すかのようにいろいろな話をして、過ごしたんだ。




それから、三日目の夜。


医師の死の宣告よりも早く僕の身体は、病気と闘うための最後の力すらも…失った。



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