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婚約破棄? 結構ですわ。マイナスよりゼロのほうがプラスですもの

作者: 藤村 キャレット
掲載日:2026/10/12

「くそっ、これで負けが金貨50枚だ!」


 エリックがテーブルを叩いた。


「エリック様、もうおやめになられては?」


 ルクレティアの心配する声も、彼の耳には届かないようだ。


「ここでやめられるか!」



 ──貴族の集まるサロンでは、ゲームと称してギャンブルがよく行われる。貴族たちは交流目的でのゲームをたしなみとしていた。


 しかし、中にはゲームにのめり込む者もいる。


 ルクレティアの婚約者、エリック・ヴァン・クラプト伯爵令息もその1人だった。今日のエリックの負けは金貨で50枚にもなっていた。庶民なら1年は暮らせる額だ。


「くそっ! なんとか流れを変えないと。……そうだ、ルクレティア。お前、やってみろ」


「え? 私、どのゲームもやったことありませんわ」


「そもそも、ゲームは貴族のたしなみなんだ。簡単なやつを少しくらいやってみろよ」


 ルクレティアは気が進まなかったが、エリックの機嫌をこれ以上損ねないように、おずおずと人気《ひとけ》のないテーブルについた。



 ゲームは単純で、配られた5枚のトランプカードから好きなものを選び、ディーラーより数字が大きければ勝ちだ。

 同じ数字なら、スペード、ハート、ダイヤ、クラブの順に強い。



「じゃあ、これで……」


 ルクレティアはそっと金貨1枚を出し、ディーラーが配ったカードから1枚選ぶ。結果はルクレティアの勝ちだった。


「お、やったな。もっと続けてみろよ」


 エリックが横で口出しする。


「でも……」


「いいから、やれよ!」


 ルクレティアは2枚に増えた金貨をそのまま賭けると、また勝った。その次も、と次々に勝つ。


「……す、すげえ。6連勝だ!」


 エリックがうなる。ルクレティアの金貨は64枚に増えていた。その頃になると、周りの貴族たちもテーブルに集まってきていた。


「けっこうおもしろいですわね、このゲーム」


 ルクレティアがわずかに微笑んだ。


「お嬢さん、もっと続けられては?」


「そうだ、今度はあなたが勝つ方に賭けよう」


 貴族たちが口々にルクレティアを促す。このゲームは、周りで見ている者も誰が勝つかに賭けることができるのだ。


「じゃあ、もう少しだけ続けますわ」


 ルクレティアがベットすると、貴族たちも続々と彼女に賭ける。


「……あ。お、俺もルクレティアに賭けるぞ!」


 エリックが思い出したように声を上げ、金貨をテーブルに叩きつけた。



 ──結果、またルクレティアの勝ちだった。貴族たちから歓声が上がった。



 その次も、次もルクレティアは勝ち、気づけば10連勝だった。勝ち馬(・・・)に乗った貴族たちは、異様な熱気に包まれた。ルクレティアの金貨は1000枚にもなっていた。


「お、おい、これで負けを取り戻せたぞ、ルクレティア!」


 エリックは飛び上がらんばかりに喜んでいる。


「よろしゅうございましたね、エリック様」


「勝った気分だぞ。なんせマイナスからゼロにまで取り戻したからな」


「え? ゲームを始める前に戻っただけでしょう?」


「わかってないな。マイナスよりゼロのほうがいいに決まっているだろうが」


 エリックは早口でまくし立てる。


「マイナスからゼロになるのは、プラスってことなんだよ! わかりきったことだろうが」


「ま、まあ、確かにそうですわね……」


「そんなことより、早く次のゲームをしろよ」


 エリックの理屈に半ば呆れつつ、ルクレティアは他の貴族たちに確認した。


「はい。それではみなさん、よろしゅうございますか?」


 貴族たちが次々にルクレティアに賭ける。


「次も頼みますよ、お嬢さん」


「そうです。あなたは勝利の女神だ」


「女神の導く船に、みんなで乗りましょうぞ」


 貴族たちがルクレティアをほめそやす。


「さあ、エリック様も、どうぞ」


「よーし、じゃあ俺はその船から降りるとしよう。俺はディーラーが勝つほうに金貨を50枚賭けるぞ」


 貴族たちがざわついた。


「エリックどの、ルクレティア嬢の勝つ方に賭けないのですか?」


「ふん、もう10連勝だぞ? いい加減にこいつの運も尽きるころだ。俺は負ける方に賭ける」


「エリックどの、それは賢明とは言えませんな」


「そうだ、それがギャンブルってもんなんだ。俺は長年の経験で知ってるのさ」


 貴族たちは顔を見合わせる。ルクレティアは戸惑い、まだカードを選ばずにいた。


「なにしている、ルクレティア。さっさとカードを選べ!」


 喚くエリックに、ルクレティアは不安げな視線を向けた。


「……エリック様、今ならまだ賭けを変えられますわ」


「なに言ってる、俺は自分の勘を信じるぞ。さあ、さっさとカードをめくれ!」



 ためらいながらも、ルクレティアはカードをゆっくりとめくった。


 カードは【スペードの2】だった。2は一番弱い数字だ。


「ほら見ろ! ほら見ろ! 俺の勝ちだ!」


 エリックは大声ではしゃぐ。貴族たちもいっせいにため息をついた。

 だが、ディーラーがカードをめくると、どよめきが上がった。


 ディーラーのカードは【クラブの2】だったのだ。11回目のゲームもルクレティアの勝ちだ。


 一瞬の静寂の後、大歓声が上がった。


 ルクレティアと貴族たちに金貨が払われ、逆にエリックの賭けた金貨は没収された。


「うふふ。じゃあ、これくらいでやめますわ」


 ルクレティアが微笑むと、貴族たちが取り囲んだ。


「ありがとう、ルクレティア嬢。あなたのおかげで勝てた」


「ほんとうに強いお方だ」


「またお願いしますよ」


 次々に声をかける貴族たち。ルクレティアもつい笑みがこぼれた。

 気づくと、エリックが青い顔をして突っ立っていた。


「ルクレティア……何がおかしいんだ? 俺が負けたのがそんなにおかしいか?」


 エリックの低いがはっきりした声に、ルクレティアの顔から笑みが消え、周りの貴族も静まり返った。


「……エリック様?」


「お前、わざとだろう?」


「え?」


「わざと俺が負けるように仕向けたんだろう?」


「そんな……エリック様、私はご忠告したはずですわ。賭けを変えたほうがいいと……」


「黙れ黙れ黙れ! 俺のほうがな、ずっとゲームの経験が豊富なんだ。お前のはビギナーズラックってやつだ!」


「それはそうですが……」


「ルクレティア、お前、よくも大勢の前で恥をかかせてくれたな!」


「そ、そんな……私はただ……」


「このままではすまさんぞ! そうだ、破棄だ。お前との婚約は破棄だ!」


 会場は静まり返った。貴族たちの視線が集まるが、誰も口を利かない。


「男爵令嬢ふぜいが! お前にも大損をさせてやらんと、俺の気がすまん!」


 エリックはテーブルをバンバンと叩きながらまくし立てる。だんだん同じ事の繰り返しになってきた。


 その様子を、ルクレティアは静かに見つめていた。


「けっこうですわ。エリック様」


「……あ?」


「婚約破棄ですね。承知いたしました」


「ふん、強がりを言いやがって。後悔しやがれ!」


「いえ、後悔はいたしません」


「なんだと!?」


「……だって、マイナスよりゼロのほうがプラスなのでしょう? 婚約破棄はむしろプラスですわ」


「な、な……なんだ……と……!」


 それだけ言うと、ルクレティアは踵《きびす》を返して会場を後にした。エリックがまだ何か喚いているが、もはやルクレティアの耳には届かなかった。



 ◇  ◇  ◇



 ──サロンからテラスへ出たルクレティアは、夜空を見上げてため息をついた。安堵のため息だった。



「あの、すみません」


 誰かの声に振り向くと、2人の令息が立っている。


「さきほどは、ありがとうございました」


「そうです。あなたのおかげで勝つことが出来ました」


「あ……いえ、あれはまぐれですよ」


「私はビクター。ビクター・フランクストン侯爵令息です。こっちは友人のジャックです」


「どうも。ルクレティア嬢、あなたのおかげで助かりました」


「いえ、お気になさらないでください」


「あの……さっきのことですが」


 さっきのエリックの大声は会場じゅうに聞こえていた。とうぜん、ビクターとジャックも話を聞いていた。


「エリックどのはこのごろゲームにのめり込んでいたようですね。あれでは身を持ち崩すのでは、と噂されていました」


「ジャック、お前、人のことを言えないぞ」


 ビクターがジャックを肘でつついた。


「それを言うなって」


 ジャックがおどけると、ルクレティアがわずかに微笑んだ。


 ルクレティアの笑みを見てから、ビクターが口を開いた。


「だから、その、あまり気にしないほうが……。とはいえ、気にしなくなくてもいいんだけど……」


「ビクター、お前、何言ってんだよ」


 今度はジャックがビクターを小突いた。


「と、とにかく、お礼に送らせてください。我々の馬車があるんで。それで」


「……え。でも……」


「ご安心ください。侯爵令息の名誉にかけて、無事にご自宅までお届けしましょう」


「ビクター、お前、言う事が大げさなんだよ」


「いちいちうるさいんだよ、ジャック、お前は」


 ビクターがおどけた声を出すと、ジャックが笑い、ルクレティアも笑った。


「それじゃあ、お願いしてもよろしいでしょうか」


「お任せを!」


 ビクターが胸を叩く。ふと、ジャックが何かを思い出したような顔をした。


「あ、ビクター。オレ、ちょっとトイレに行ってくるわ」


「な、なんだよ、急に」


「今日は腹ぐあいが悪くてな。たぶん時間かかるから、オレは辻馬車で帰る。お前は先に行っててくれ」


「お、お前。なんだよ急に。さっきの話と違うぞ……」


 そう言いかけたビクターの背中を、ジャックはバン! と叩いて黙らせ、サロンへと入って行った。



 ◇  ◇  ◇



「ビクター様も、ゲームをたしなまれるのですか?」


 ルクレティアはビクターの馬車に揺られながらたずねた。


「うん。社交のためには少しはね。でもね、私は1日に金貨10枚までしかやらないんだ」


「まあ、10枚だけですか?」


「そうさ。ああいうゲームは引き際が大事だし、のめり込むもんじゃないからね」


「さっきはどうでしたの?」


「実を言うと、私は見ていただけなんだ。ジャックのやつが負けててね。それで、あなたに勝たせてもらったんでお礼を言おうと言い出したんだ」


「そうでしたの……」


「あいつは良いやつなんだが、賭けになると熱くなるくせがあってね」


 ビクターの馬車が夜道を進む。馬車灯が縁石をほのかに浮かび上がらせた。


「それにしても、ルクレティア嬢。あなたはゲームが強いんだね」


「どうぞ、ルクレティアとお呼びください。いえ、ゲームをしたのは初めてなんですわ」


「初めて? それなのに、なぜあれほど勝てたんだい!?」


「見えたんですよ」


「見えてた?」


「私、昔から目が良いんですの。動いているものがよく見えるんです。でも、だからって役には立たなかったんですけど」


「それで、何が見えたと?」


「ディーラーが切ったカード。それがどの位置にあるか見えるんですわ」


「な、なんと!? それなら全勝なのでは?」


 思わずビクターは座席から腰を浮かせかけた。


「いいえ、配られたカード次第では負けてしまいますわ。そういう時は少しだけ賭けるんです」


「な、なるほど。それにしても、ルクレティア、今日のことでもうゲームはこりごりかな?」


「いいえ、そんなことはありませんわ」


「……やっぱり。君は肝がすわっているね」


「え?」


「ゲームにおいて、冷静さを失ったらおしまいだからね。君はその視力といい、才能があるよ」


「そうでしょうか。私は……何の取りえもありませんのよ」


 ルクレティアはうつむいた。


「取りえだなんて……そんなもの、なくてもいいじゃないか」


「ビクター様?」


「ルクレティア、君はただ居てくれるだけですばらしいよ」


 その言葉に、ルクレティアは驚いた。エリックといたときは「居るだけ」では許されなかった。常に彼の機嫌を取るのが婚約者の務めだと思っていた。


 居るだけでいい。それは、取りえのない自分のままでいい、と言われたように思えた。


「……ありがとうございます」


 胸がいっぱいで、ルクレティアには他に言葉がなかった。馬車灯の明かりが彼女の頬を染めた。


 2人は無言だった。馬車が段差でがたんと揺れる。


「そ、そうだ。今度は別のサロンに行かないかい?」


「別のですか?」


「ああ、エリックのやつが来ないところさ。私とジャックの行きつけのところがあるんだ。そこに来る貴族たちもみんな常連でいい人ばかりさ」


「楽しそうですわね」


「行ってみようよ、ルクレティア」


「そうですわね。金貨10枚持って?」


「ああ、金貨10枚だけ持ってさ」


 ルクレティアの言葉に、ビクターはおうむ返しで答える。侯爵家の資産のわりに堅実な金額に、2人は一緒になって笑った。



 ◇ ◇ ◇



 ──こうして、ルクレティアとビクターは、エリックが通っているのとは別のサロンに行き、2人でゲームを楽しんだ。

 ビクターは金貨10枚までしか使わず、ルクレティアは初めてのときに勝った金貨だけで遊んでいたが、それは簡単になくなる額ではなかった。


 最初の何度かは、ジャックも一緒についてきた。


「なあ、ビクター。お前、まだ言ってないのか?」


 何度目かの時に、ジャックが何事かをビクターにささやいた。


「まだだって? 何やってんだよ。よし、オレが言ってやるよ!」


「わあ! ジャック、余計なことを言うな!」


 ビクターはジャックを羽交い締めにし、口を押えた。2人の滑稽さにこらえきれず、ルクレティアは声を出して笑った。


 こんなに笑ったのは何年ぶりだろう。ルクレティアは、自分でも驚くくらい大きな声で笑った。口を押え、目には涙が浮かんだ。


 その様子を見たビクターとジャックも、顔を見合わせ、一緒に笑った。



 ◇  ◇  ◇



 ──1週間後



「行こうか、ルクレティア」


「ジャック様は来られないのですか?」


「うん、あいつはまた別行動さ」



 ──馬車を走らせ、2人は行きつけのサロンに着く。会場にはすでに大勢の貴族たちが集まっている。



「なんだか、いつもと雰囲気が違うな」


 なんとなく張り詰めた空気がする。ルクレティアもそれを感じていた。


 どこかのテーブルでわっと声が上がった。誰かが大勝負をしたのだろうか。2人はそのテーブルに駆け寄った。


 見ると、テーブルでは誰かが差しの勝負をしていたようだ。1人はふんぞり返り、もう1人はテーブルに突っ伏していた。


「……まさか、あいつは……!」


 ビクターがテーブルに突っ伏している男の肩をゆすった。


「ジャック、ジャックじゃないか! どうしたんだ!?」


「ビクター、オレはもうだめだ……。負けちまったよ」


「どうして!? いったいいくら負けたんだ」


 ビクターの問いにジャックは答えず、うつむいたままだ。


「金貨1万枚だよ!」


 ジャックの対戦相手が喚いた。


 ビクターもルクレティアも息をのんだ。テーブルにいたのは、ルクレティアの元婚約者、エリックだったのだ。


「エリック、お前が……なぜここに!?」


 聞けば、ジャックはエリックとカードで勝負し、結果、ジャックは1万枚も負けてしまったのだった。


「ジャック……しっかりしろ!」


「ビクター。オレはもうだめだ。こんなに金を使ったら、よくて勘当、いや放逐《ほうちく》かな? とにかく、もうだめだよ……」


「なんでこんなことになったんだよ!?」


「つい熱くなって……倍づけを繰り返していたら、とんでもない金額になっちまって」


「もういい、オレに任せろ」


「……ビクター、どうする気だ!?」


 ビクターはテーブルを挟んでエリックに向かい合った。


「エリック、私と勝負しろ。金貨1万枚の勝負だ」


「へーっ、侯爵令息どの。大きく出ましたな。面白い、乗ってやろう」


 ビクターはジャックを抱えて別の椅子に座らせると、テーブルについた。


「しかし、ビクターどの。お前さんは金貨10枚しか使わない、みみっちい侯爵令息ってことでここじゃ有名だぜ? 1万枚も持ってるのかい?」


「ここでは貴族のみんなが見ている。たとえ口約束でも正式な取引と同じだ」


「それを聞いて安心した。じゃあ、ゲームを始めようか」


 エリックはカードをシャッフルし、5枚ずつ配る。ビクターはカードを見つめる。ルクレティアはビクターの後ろについて、肩にそっと手を置いた。


 エリックはカードに集中していて、ルクレティアがいるのにも気づいていないようだ。


 ビクターは5枚のカードを、順に選ぶ仕草をする。そのつどルクレティアが誰にもわからないようにビクターの肩をつねった。


 ビクターが3枚目に手をかざすと、ルクレティアは反応しない。


「これだ。このカードにするぞ」


 ビクターが宣言し、選んだカードを前に出した。エリックもカードを1枚選んで前に出す。


「よし、じゃあ勝負だ!」


 ビクターがカードをめくる。【ハートのエース】だった。


「やった! やったぞ、おい、ジャック」


 ビクターは大声で叫んでジャックの肩をゆする。


「ほ、ほんとうか? ビクター、や、やった!」


 騒ぐ2人、どよめく会場。だが、ルクレティアだけはじっとエリックを見つめていた。


「まだだ!」


 エリックが水を差した。


「まだ俺のカードを見ていないだろう? 決着はついていないぞ」


「バカを言え、エースだぞ。勝つに決まってる」


 エリックはゆっくりと腕を回し、芝居がかった大げさな仕草でカードをめくった。



 ──【スペードのエース】だった。



「な、なんだって!?」


「そ、そんなバカな!」


 ビクターは思わず立ち上がり、椅子が倒れた。


「けっ、バカはお前たちだ。さあ、約束だぞ。ビクター、お前にも金貨1万枚、払ってもらう。びた一文負けねえからな」


 ビクターは膝から崩れ落ちた。ジャックもだった。つかのまの喜びが、却って彼らを落胆させていた。


 ルクレティアはビクターのそばに寄り、体を支えた。テーブルのエリックをきっとにらんだ。


「あー、勝った勝った。さて、今日はお開きにするかあ」


 帰り支度を始めるエリック。ルクレティアはテーブルの前に立って、エリックと対峙した。


「まだです……!」


「ん……? お前、ルクレティアじゃないか? 何だよ、まだって?」


「もうひと勝負しましょう。私と」


「は~ん? お前と勝負だと?」


「はい。私は金貨2万枚を賭けます」


「なに言ってやがる。お前、負けたらその金額を払えるっていうのか?」


「たしかに。我が家の資産では難しいかと」


「ほらみろ。話にならんな」


「それでは、この身を担保にいたしましょう」


「……なんだと?」


「足りない分は、私の身分で払います。どこへ売られてもかまいませんわ」


 ルクレティアは胸に手を当てた。


「……お前、自分が何を言っているか、わかってるのか?」


「もちろんです」


「みんな見ているんだ。冗談ではすまんぞ。負けたからってあとからナシにはできないんだぞ」


「承知の上です」


「……いいだろう。金貨2万枚の勝負、受けてやる。座りな」


「ビクター様、しっかりしてください」


「ル、ルクレティア……! よせ、君がそんな勝負をすることはないんだ」


「いえ、やらせてくださいませ」


「ダメだ、君をそんな目に遭わせるわけにはいかない!」


「大丈夫です。必ず勝って見せますわ、ビクター様……」


 ルクレティアはビクターに顔を寄せると、耳元で何かをささやいた。


「おいおい! 何をいちゃついているんだ、お前ら。さっさと勝負を始めるぞ!」


 エリックが喚くと、ルクレティアはテーブルについた。


「どうぞ」


 エリックはにやにやしながらカードを切り、テーブルに置くと、ルクレティアがカットする。

 その後でエリックは互いに5枚ずつカードを配った。2人ともカードを選んで前に出す。


「よーし、勝負だ、ルクレティア」


 エリックは、また、大仰で芝居がかった仕草でカードをめくった。



 カードは【スペードのエース】だった。最強のカードだ。



 周りからどよめきがあがる。


「ああ……」


 ジャックが顔を押さえて崩れ落ちた。


「今日は大勝ちだな。金貨4万枚か。それと、ルクレティア。お前をどうしてやろうかな」


「お待ちを。まだ私のカードを見ておりません」


「バカを言え! もう勝負はついてるぞ!」


 喚くエリックにかまわず、ルクレティアがゆっくりとカードをめくる。



 ──カードは【スペードのエース】だった。



「ああっ!」


 周りの貴族たちが叫んだ。


「同じだ! 同じカードだ!」


「……ってことは!?」


「どっちかがイカサマをしたんだ!」


 ざわつく会場。エリックがよろめくように後ずさりした。後ろにいた誰かにぶつかった。

 ビクターだった。


 振り向いたエリックの両手首を、ビクターはがっちりと掴んだ。


「よ、よせ……やめろ!」


 もみあう2人。エリックの袖が音を立てて破れた。

 パラパラと、カードがこぼれだす乾いた音が響いた。


「ああっ!」


「袖にカードを隠していたんだ!」


「イカサマだ!」


 エリックは蒼白になった。顔には脂汗が浮かんでいる。


「お、お、お前の勝ちだぜ。ルクレティア。まあ、勝ち分はお前らにそっくり返すよ。よかったな、これで元通り(・・・)だ」


 エリックはあわててその場を立ち去ろうとし、誰かにぶつかって尻もちをついた。


「ラ、ライノ卿!」


 立ちはだかっていたのはライノ公爵、このサロンの主だった。


「エリック・ヴァン・クラプト殿、わしのサロンでイカサマをしていたとは、聞き捨てなりませんな」


「こ、公爵どの、違うんです。イカサマしたのはあいつらにだけで……」


「『あいつらにだけ(・・・)』? まあいい。他の方々が何か言いたいようですぞ」


 ライノ卿が目くばせをすると、他の貴族たちが一斉に集まってきた。


「エリック殿、あんた、今までイカサマをしていたのか!」


「返せ! 私からとった金を返してくれ」


「今までの分も全部返せ!」


 貴族たちが口々に叫ぶ。周りを囲まれ、エリックは逃げることもできない。



 その騒ぎを一瞥すると、ルクレティアはテラスへ向かった。ビクターとジャックが遅れてついて行く。


 ──


「ルクレティア、ほんとうにありがとう」


「ルクレティア、君は恩人だよ」


 テラスに出るなり、ビクターとジャックが口々に感謝の言葉を述べた。


「お気になさらないで。お2人がご無事でなによりですわ」


「ジャックを助けてくれてありがとう。このことは一生恩に着るよ」


「まあ、ビクター様。そんな大げさな」


「いや、一生だよ」


「……え?」


 ビクターが急に黙り込み、姿勢を正した。


「その、つまり、どういうことかというと……」


 ぽつりと言ってまた黙った。


「……あ、ビクター。オレ、ちょっとトイレに行ってくるよ」


「お、おいジャック」


「また後でな。ルクレティアも」


 ジャックはひときわビクターの背中を強くたたき、建物に入って行った。


「……ジャック様、よくトイレに行かれるんですわね」


 ルクレティアが微笑んだが、ビクターは真剣な表情だ。


「……それで、さっきの話だけど」


 ビクターは襟を正した。


「一生恩に着ると言ったね、ルクレティア。一生かけて、君に恩返しをさせてほしいんだ」


「一生……ですか?」


「君はさっき、自分の人生を賭けて助けてくれたんだ。だから、私も一生ずっとそばで君を守りたい」


「ビクター様……」


「……結婚してくれないか、ルクレティア」


 ルクレティアの表情が驚きから、一瞬、輝きに変わったが、くるりとビクターに背中を向け、黙り込んでしまった。


 しばらくの沈黙の後、ビクターが口を開いた。


「どうしたんだい? ルクレティア」


「いけませんわ、ビクター様」


「ど、どうして?」


「私とビクター様では身分も違いますし、なにより、いちど婚約を破棄された女と結婚なさっては、ビクター様のお名前に傷が付きますわ」


「そんな事、かまうものか!」


 ビクターはルクレティアの前に回り込み、両肩にそっと触れた。


「誰にも文句は言わせない。文句を言うやつは私が許さない」


「ビクター様……」


 ルクレティアはうつむいてちょっと考えてから、顔をあげた。


「わかりました、では、こうしましょう」


 ルクレティアは胸元から1枚の金貨を取り出した。


「このコインをトスして、裏表を当てる。ビクター様が勝てばおっしゃる通りにいたしますわ」


「よ……よし、じゃあ勝負しよう」


 ビクターは金貨を受け取ると、指ではじき、キャッチして手の甲に伏せた。


「裏ですわ」


「じゃあ表だ」


 ビクターはそっと手をどける。金貨は表だった。


「表だ!」


「ふふ……負けてしまいましたわ、ビクター様」


「じゃ、じゃあ、ルクレティア……!」


「はい、結婚いたします」


 ルクレティアはビクターの胸に飛び込んだ。ビクターはルクレティアを抱きしめる。


 ルクレティアは顔を上げてそっと目を閉じた。2人の顔が近づく。



 ──月光が2人を照らしていた。かすかに、サロンのざわめきが聞こえる。



「……中に戻ろうか。ジャックが心配している」


「はい、ビクター様」


 テラスの窓に貴族たちが集まっていた。ジャックもいる。ルクレティアたちが気づくと、全員が2人に拍手した。


「おめでとう」


 そう言ったのはライノ公爵だった。


「今日いちばんの功労者がどこへ行ったのかと思っていたんだよ」


 ルクレティアたちは、照れ臭そうに顔を見合わせた。


「ビクターどの。カードには負けたものの、金貨に変えられないものを手にしたようですな」


「はい……公爵どの」


 ビクターがルクレティアの手を握ると、ルクレティアも握り返して微笑んだ。



 ◇  ◇  ◇



 エリックは、サロンへの出入り禁止はもちろんのこと、他の貴族からイカサマの賠償を求められ、その金額は金貨数万枚に及んだとされる。


 もともとの浪費癖もあって、父親のヴァン・クラプト伯爵は、やむなくエリックを放逐した。


 後にジャックがとあるうわさを聞きつけ、鉱山労働者が集まる場末の酒場を、興味本位で覗いてみた。


 そこには、わずかな日銭をカードに賭け、「マイナスからゼロになったからプラスだ」などと喚く小汚い男がいるということだった。



 ──3か月後。ルクレティアとビクターは結婚した。結婚式には、ライノ公爵や他の貴族も参列して2人を祝福した。



 ──結婚後のある夜、ビクターの屋敷のテラスにルクレティアたちはたたずんでいた。空には月が浮かんでいる。



「ルクレティア、あの夜もこんな月だったよね」


「あの夜って?」


「うん、ずっと気になっていたんだけど、結婚を決めるときのコイントス、あれはどうして裏を選んだんだい? 今まで勝負に負けたことのなかった君が」


「あれは……わざとよ。だって、見えてたもの」


「じゃあ、わざと勝負に負けたわけだ」


「はい……。でも、負けてもマイナスどころか、プラスですわ」


「……君にはかなわないな、ルクレティア」


「そんなことないわ。あなたも立派よ、ビクター」


「いや、君のほうがすごい」


「いえ、あなたよ」


 しばらく繰り返すと、2人とも笑った。


「なんなら、賭ける? ビクター」


「いや、やめておこう、ルクレティア。僕にはもう賭けるものがないからね。全部、一生ぶんを君に預けてしまったからさ」



(おわり)


お読みいただきありがとうございました。

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