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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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ブラック・エコーチェンバー

掲載日:2026/08/13

 海は青い空を映したかのように、波穏やかで晴れ渡っていた。

 海上に座標を固定し、停止した地球深部探査船。

 人工照明に照らされた船内研究室。

 そしてブラック・チェンバー(BC)。

 最大長で二センチメートルにも満たない、黒い方状結晶体。

 色は煙水晶よりも暗い黒。幾つもの結晶体が針状に平行に立体的に並び、中空の隙間を覆い囲んでいる、不純物を含んだダイヤモンド結晶体。その名の由来だ。

 発掘限界深度一〇キロメートルの海溝の鉱床から発掘された、これまでで最大の発掘物となるそれは、地球深部探査船『こんぺき』内部に四つある研究室の一つに厳重に保管されていた。

「BC内の音を聴く?」と伊佐坂は同僚に訊いた。

「ああ。X線検査でBC内の中空部に揺らぎがあるのを発見している。内部に水が溜まっているのは明らかなんだ」と有藤が答えた。

「五億年前の海水が封入されているのか」

「なかなかそそると思わないか。成分だけじゃない。その当時に封じ込められた音を減衰させずに抽出させる事が出来る可能性というのは」

「音のタイムカプセルか……」

「外から検査しただけでは解らない、微弱で複雑な波なんだ」

 音というものは発生したら様様な物理要因に干渉されて徐徐に薄れて消えていく。

 しかし発生した音が完璧に近い密閉空間に封印されて、何億年も完璧な保存状態のままで反響が消えないままだとしたら。

 硬い内面で減退しないで液体を反射し続ける波は、半永久的に音のエネルギーが維持されたバッテリーみたいな物だ。

 伊佐坂は研究室の備品であるタブレットの幾つかを囲い込み、この研究実験を主導する有藤がどういう研究をしようとしているかを入念にチェックした。

 五億年前のカンブリア紀。地球の海が独特の生物相で満ちあふれていた古代紀だ。

 伊佐坂は思わず重いゼラチンの様な古代の海の姿を幻視する。

 有藤はかなり前から実験の準備を進めていたらしい。カーボン・ナノワイヤーを応用したマイクロドリルとマイクロマイクを既に用意していた。両方とも太さは髪の毛ほど。

「船長は知っているのか」と伊佐坂。

「許可はとっている」と有藤。「研究主任にもだ。貴重なBCを掘削させてもらえてるんだ」

 外からはかろうじて微弱な音波が捉えられる程度。

 有藤は実験機器に固定したBCに、分厚い手袋で掴んだマイクロドリルを近づけていった。

 髪の毛の太さのマイクロドりルを近づけ、超純水の細い噴射で粉塵を拭いながら髪の毛分の直径の最小限の穴を空けていく。微妙な衝撃や熱が、BC内の音波に影響を与えるかと伊佐坂はヒヤヒヤしたが、有藤は雑作もなく作業を進める。

 マイクロドリルが内壁を貫通し、引き抜かれる。その穴からマイクロマイクが挿入された。

「これで五億年前のカンブリア紀に、どんな音が海中を支配していたかが解るぞ」

 録画の準備をすませた有藤は、マイクロマイクに繋いだ音波分析機のスピーカーのボリュームをひねった。

 最新型オシロスコープのモニタが複雑に閃くと同時に、スピーカーがBC内に封入されていた音を電気信号に変えて発音した。

 五億年前の地層から発掘された音。

 それは死人が呟く重重しい呪いの言葉の様に思えた。


 ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ うがふなぐる ふたぐん――


 それは音というよりは一連なりの節回しの様に聞こえた。

 吐き気を催す不気味さ。

 伊佐坂は足元の床が開いて奈落への口を開けたような、ゾッとする感覚に陥った。

 神を讃えるように交響楽的で、呪詛の様に冒涜的で禍禍しく、荒波の如く破壊的で、歪んだフルートから流れ出すような混沌の旋律を思わせた。

 スピーカーが吐き出す、空気の揺さぶり。

 これは、カンブリア紀の悪夢の様な生物達の、信仰する神を讃える呪文だ。

 五億年前にあったカンブリア紀の邪悪なる禍禍しい信仰の。

 五億年前の化石でしか今は見られない非人の知性。

 カンブリア紀には信仰があったのだ。

 不快感が耳道を這い上がる。

 思わず耳をふさいだが無駄だった。

 伊佐坂には深く信仰する宗教があったわけではない。

 しかし。

 深層心理は、自らの正気の置き場所からこの音量が流れ込んでくるのを拒んだ。

 

 ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ うがふなぐる ふたぐん――ふんぐるい

 ふたぐん――ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ うがふなぐる ふたぐん

 うがふなぐる ふたぐん――ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ うがふなぐる

 るるいえ うがふなぐる ふたぐん――ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ

 くとぅるふ るるいえ うがふなぐる ふたぐん――ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ

 むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ うがふなぐる ふたぐん――ふんぐるい むぐるうなふ


 呪いの連弾。

 最悪の音色。

 スピーカーから繰り返される声量の塊が、岩壁の様に研究室の空気を押し潰した。

 背筋が刻みつけられるような怖気に、全身の汗が熱病にかかったように噴き出す。

 この音を浴びながらでは、精神が正常ではいられない。

 発狂。

 狂う。

 気が狂いそうだ。

 五億年前のカンブリア紀の海域はこの呪文で満ちていた、という光景が脳裏に実写映像として焼きつく。

 脊索を持つナメクジウオ――ピカイア。

 五つの眼と長いチューブ状の吻を持つ、オパビニア。

 二本の付属肢と無数のヒレを持つ、円環状の口の捕食者、アノマロカリス。

 沢山の足と棘を持つ、触手状の悪夢、ハルキゲニア。

 三葉虫の始祖、マーレラ。

 それらを含めた、現在は化石でしか眼に出来ない悪夢の生き物達が無限の広がりの海中で口口に呪詛を呟く光景は、伊佐坂の意識野全てを黒く濁らせた。

 それらが古代の神を讃える。その音で研究室は埋め尽くされる。

 恐らくは人の哲学とは相容れれぬ邪神を。

 伊佐坂は耳を固くふさいだ。脂汗の流れる顔は裂けそうなほどに顎を全開する。

 有藤もそうであった。

 

 ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ うがふなぐる ふたぐん――ふんぐるい

 ふたぐん――ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ うがふなぐる ふたぐん

 うがふなぐる ふたぐん――ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ うがふなぐる

 るるいえ うがふなぐる ふたぐん――ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ

 くとぅるふ るるいえ うがふなぐる ふたぐん――ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ

 むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ うがふなぐる ふたぐん――ふんぐるい むぐるうなふ


 五億年前の海がこんな冒涜的な音で満ちていたなんて――。

 二人の研究者は床に膝をつきかねないほどに姿勢が不安定となる。

 地球深部探査船が大きく揺らいだ。

 船外に嵐が来ている。つい先刻まで気持ちいくらい晴れ渡っていた海に。

 五億年前の祝詞が、現代の天候を支配していた。

 力を振り絞って、やめろ!と叫んだ。

 伊佐坂の手はようやくスピーカーまで届いて、BCに通じるその電源をOFFにした。

 ――。

 研究室内の空気は不意の静寂に包まれていた。まるで時間というものからすっぱり過去を切り落としたかのように。

 伊佐坂は床に屈みこみ、声を立てて嘔吐した。ようやく身体の自由な操縦が可能になる。

 船外の嵐はまだ続いているが、停止している地球深部探査船を揺るがすほどの攪拌はない。

 船内に平穏な静寂が戻ってきた。

 ――いや違う。

 静寂は狂人の声の呟きによって破られた。

「……ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ うがふなぐる ふたぐん――」

 有藤だ。

 眼を見ると血走った白眼が、病的なオレンジ色に輝いている。

 繰り返す祝詞は、滝の様に唾液をこぼす口腔からその液量に負けないほど無遠慮に流れ出ていた。

 古代の呪文に感化されたのか、研究室内はただ一人の狂信者の指揮による狂気の呪文で蹂躙されていた。

 おぞましさが堂堂と響き渡る。

 伊佐坂は覚った。

 この世には二種類の人間がいる。邪神と相容れぬ人間と、古代の祝詞に魂揺さぶられるものだ。

 または捕食者とそれに捕食される者。

「やめるんだ……!」

 止めなくては、と伊佐坂は力を振り絞った。

 暴力的な拳によって、思わず有藤の顔面を正面から殴打した。

 殴り続ける理由には嫌悪感があったかもしれない。

 伊佐坂には誇れる腕力はない。しかし数を叩いた。

 一撃。

 二撃。

 八撃までは数えていた。

 有藤の鼻は潰れ、鼻血が糸を引くほどに顔面を血まみれにした。

 だが暴力的な叩音は、狂人の情熱を突き破る事は出来なかった。

 いつのまにか有藤は身を守るように手で顔を覆っている。肌が白く濁っている。服の外から白カビがまんべんなく皮膚を覆うように。

 人間というよりは、白く張りつくビニールで身体を隙間なく覆っている、細部がはっきりしない人形の様だ。まるで一本の太い棒の如く、強張らせた手足を胴に張りつかせた稚拙な芸術家のマトリョーシカにも見えた。

 それは既に人間の造形ではなく、身を守る白いさなぎの様であった。

 太古の血がよみがえる。


 ……ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ うがふなぐる ふたぐん――


 頭髪をも白く硬い外皮に覆った頭部から声ならぬ音が聞こえる。血を吐くようなあぶくと共に。

 伊佐坂は同僚の不気味な奇態にさらに嘔吐した。

 どれだけの時間が経った事だろう。

 水死体の様に純白な肌が割れた。さなぎならば羽化だ。しかし羽はない。ヒレだ。

 伊佐坂は見たくなかった。

 だが見たくないと思っても見させられる事になる。

 殻と共に服が破け、裸の有藤の青灰色の肌が現れた。現れたそれは人間の形を残しながらも、全く違うフォルムになっている、

 服ごと殻を脱ぎ捨てた有藤は、元の身体より筋肉質だった。

 ヒューマノイド態の肌には波打つ硬いヒレが身体の縁に沿って並び、頭部は眼柄に支えられた複眼が左右に飛び出している。首の両側にはえらが飛び出している。

 左右に節足状の長くがっしりとした平たい付属肢が生えた口の形は人間とは全く違う、絞りの様だ。歯は円状の縁に三角形の三放射構造として並び、顎のないそれが獲物を食い潰すのを助ける構造になっている。

「お……おぉ。アノマロカリス……」

 伊佐坂は稲妻に打たれたような衝撃を受けた。

 人間とカンブリア紀の肉食生物の合成体となった有藤は、まっすぐに両腕を伸ばして伊佐坂の頭部を捕まえた。

 次いで頭部にある二本の付属肢に伊佐坂の頭部を巻き込み、その額に円状の口の歯を当てる。

 伊佐坂は覚悟した。


 ……ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ うがふなぐる ふたぐん――


 奇妙な海老の口が、呼吸と共に呪われた音を出す。

 伊佐坂は五億年ぶりに円状の口に肉をえぐられる、悠久の時間を隔てた獲物となるはずだった。

 だが、ならなかった。

 エコーチェンバー。

 反響増幅。

 有藤の呟きはこの研究室内の空気で反響し、まるで子守歌の如く伊佐坂の心を穏やかに捕らえていた。

 伊佐坂の肌もいつの間にか白い硬質の外皮に覆われていた。

 彼もさなぎとなっていたのだ。

 同族の匂いを感じとった有藤が、伊佐坂から手を離す。

 カリカリと内側から引っ搔くような音。

 さほど時間をかけずに新しいさなぎが割れた。

 二人目のアノマロカリス・マンが出現した。

 心地よい、と伊佐坂は思った。

 なんて心地よい祝詞なのだ。

 古代の神を祭る気持ちが内側でよみがえる。

 エコーチェンバー。

 同種の意見による増幅。

 それ以外いらなかった。

 祝詞の反響が、伊佐坂の正義哲学を歪めていた。

 船が揺れている。

 伊佐坂の指が、研究室でBCを固定している器具からそれを取り出した。

 ブラック・エコーチェンバー。

 黒い反響室。

 五億年前の海神に捧げる純然たる呪句。

 それを額に押し当て、祈りを捧げる。

 有藤の手が卓上の音波分析機を操作して『こんぺき』の艦内スピーカー全てに回線を繋げた。

 マイクロマイクはBC内に繋いだままだ。

 これで艦内の全ての人間に祝詞が届く。

 仲間を増やそう。

 艦内の者は捕食者とそれ以外の者に分かれるのだ。

 そしていつか皆で海へ帰ろう。

 船は再び激しく揺れ始めている。

 二人で音波分析機のスピーカーの電源をひねり、ボリュームを最大にした。

 ON。

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