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遊牧史 Ⅳ 天を裂く双龍  作者: 神箭花飛麟


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Ⅴ 土木

明の都・北京を包むのは、栄華の残り香ではなく、死に瀕した巨大な獣が放つ腐臭だった。


永楽帝・朱棣の死から二十五年。帝国の屋台骨は内側から蝕まれていた。

若き皇帝・正統帝の瞳には、かつての苛烈さはなく、宦官が囁く甘い虚飾だけが映っている。

この帝国の瓦解を、特等席から見つめる一族がいた。遼一族。

彼らは戦わず、ただ歴史を歪みなく紙に刻む叙述者である。


かつて先祖・遼寧は永楽帝の傍らで「理」を記した。

だが時は流れ、一族もまた分かたれた。

一人は、腐敗した明の宮廷に残り、沈みゆく龍の最期を記録する遼遠。

一人は、北の荒野へと去り、牙を研ぐオイラトの猛将エセン・タイシの影となった遼崇。


 「理は、どちらにある」


遼遠は、五十万の家畜同然の兵を引き連れた無謀な親征に随行し、泥濘の行軍の中で自問する。

一方、遼崇はエセンの傍らで、数という幻想に溺れた明軍が、自ら死地――「水なき高地・土木堡」へと足を踏み入れるのを静かに見守っていた。


エセンはまだハーンではない。

明の冊封体制下で甘んじながらも、その野心は万里の長城を越え、北京の玉座へと向けられていた。


これは、二人の叙述者が土木という名の地獄で再会し、帝国の崩落と、草原の再興を目撃する記録である。

砂塵の向こうに歴史の裂け目が見える。

叙述者たちは筆を執り、その死の瞬間を抉る準備を整えた。

1449年七月。北京、紫禁城。

遼遠は、湿り気を帯びた風の中で、蠢く五十万の軍勢を眺めていた。

皇帝・正統帝の親征。

それは、宦官・王振が己の権勢を誇示するために仕組んだ、巨大な狂言だった。

永楽帝が築いた最強の軍、神機営の火器、五軍営の精鋭。

それらすべてが、いまや王振の私兵のように扱われている。

遼遠は、一族の掟に従い、ただ記録を続けていた。

懐にあるのは、一族が百数十年書き継いできた『明実録』の未定稿だ。

「皇帝陛下は、オイラトの無礼を許さぬと仰せだ。遼遠、お前はその偉業を余さず記せ」

王振が、耳元でねっとりとした声を出す。

遼遠は答えなかった。

ただ、目の前の五十万の兵たちが、砂上の楼閣のように脆く見えていた。


一方、万里の長城を越えた先、草原の果て。

オイラトのエセン・タイシは、馬上で静かに風を読んでいた。

彼はまだハーンではない。

ハーンの位にあるトクトア・ブハを立てつつ、実権を握る冷徹な軍略家だ。

その傍らには、北方へと流れた遼一族のもう一人の末裔、遼崇がいた。

「崇よ。南の龍が、大仰な音を立てて近づいているぞ。奴らの腹の中が見えるか」

エセンの声は、低く、乾いていた。

「タイシ。龍ではありません。あれは、ただの肥えた羊の群れです。数という名の重荷に耐えかね、自ら首を差し出しに来る」

遼崇は、羊皮紙に墨を落とした。

彼にとって、この戦いは略奪ではない。

歴史が、ふたたび草原へと還る瞬間の記録であった。


行軍は、最初から破綻していた。

北京を出立した五十万の明軍は、王振の身勝手な指示により、右往左往を繰り返した。王振は自らの故郷に皇帝を連れて行き、錦を飾りたいという矮小な欲望のために、行軍ルートを大幅に変更させた。

遼遠は、泥にまみれて歩く兵士たちの背中を見ていた。

大同まで来たが、兵糧が届かぬ。神機営の火薬は雨に濡れ、銃はただの杖と化した。

遼遠は、揺れる馬上でも筆を止めなかった。

八月一日。大同近く。オイラトの伏兵に襲われ、先鋒部隊が壊滅。軍内に動揺走る。

 

その頃、遼崇はエセンの影として、明軍の動きを完璧に把握していた。

「彼らは恐怖に怯えています。五十万という数は、一度崩れれば巨大な重圧となって、自分たち自身を押し潰すでしょう。タイシ、彼らを土木堡どぼくほうへ追い込みましょう。あそこには、水がありません」

エセンは頷いた。

「羊を囲いに入れろ。喉の渇きが、奴らの魂を焼き尽くした頃に、俺が行く」

遼崇は、エセンの冷徹な知略を紙に刻んだ。かつて永楽帝が火器の力で草原を制したように、いまやエセンは情報と機動力という、草原本来の理で明を圧倒しようとしていた。


八月十四日。土木堡。

明軍は、逃げ場のない高地に陣を張った。

王振が、自らの私財を積んだ荷車の到着を待つために、軍の移動を停止させたのだ。

「遼遠、書け! 皇帝陛下は、ここを死守し、賊を迎え撃つとな!」

王振が叫ぶが、その顔は蒼白だった。

陣中に、水はない。

五十万の人間と、それ以上の馬が、渇きに悶えていた。

遼遠は、地面を掘り、一滴の泥水を啜る兵士たちの姿を、ただ記録した。

 

夜、遼遠は月明かりの下で筆を走らせた。

「理は失われた。皇帝は、ただ砂の上に座している」

 

翌、八月十五日。

エセンは、偽りの和議を申し出た。

「水を分けてやる。和議を結び、兵を引け」

その言葉が陣中に伝わった瞬間、明軍の統制は完全に消滅した。

兵士たちは王振の制止を振り切り、水を求めて一斉に高地を下り始めた。

「今だ。狼を放て」

遼崇の目の前で、エセンの旗が大きく振られた。

草原の騎兵たちが、突撃を開始する。その咆哮は、大地を震わせた。

 

遼遠は、その地獄の只中にいた。

「逃げろ!」

「皇帝陛下を護れ!」

怒号と悲鳴が入り混じる。

だが、武器を捨てた明の兵たちは、味方の馬に踏み潰され、オイラトの矢に射抜かれていった。

遼遠は、落馬した王振が、憤怒に燃える明の将軍・樊忠はんちゅうの手によって、槌で頭を砕かれる瞬間を見た。

「この国賊め!」

王振の死骸が泥にまみれる。

その横を、遼遠はただ、懐の記録を抱えて通り過ぎた。

 

そして、その数歩先。

正統帝が、地面に座り込んでいた。

黄金の甲冑は泥に汚れ、天子としての威光は塵ほども残っていない。

 「……龍が、地に堕ちた」

遼遠は、その瞬間を書き留めた。

 

同じ頃、戦場を馬で駆け抜けてきた遼崇が、その場に到着した。

エセンの兵たちが、皇帝を囲んでいる。

遼遠と遼崇。二人の遼が、戦場の血飛沫の中で、再び視線を交錯させた。


「遼遠。生きていたか」

 遼崇が、馬の上から声をかけた。

その瞳には、かつての一族の絆よりも、勝者の叙述者としての峻烈な意志が宿っていた。

遼遠は、血のついた筆を握りしめたまま、静かに答えた。

「崇か。お前は、この惨劇をどう記す。勝利の詩か」

「違う。これは理が戻っただけだ。龍が家畜を支配する時代は終わった。また、狼が勝つ時代だ」

遼遠は、捕らえられた皇帝を見た。

エセンの前に引き出された正統帝は、もはや一人の弱々しい若者に過ぎなかった。

「……書き残すのだ。この日は、明の滅亡が始まった日ではない。人間が、自らの虚栄によって滅びることを証明した日だと」

エセン・タイシが近づいてきた。

「崇。これが明の皇帝か。あまりに小柄で、拍子抜けしたぞ」

「タイシ。器とは、中身がないほど軽く見えるものです。ですが、これを連れて北京へ向かえば、城門は自ら開くでしょう」

遼遠は、連行される皇帝の後に続くことを選んだ。

叙述者の使命は、結末まで見届けることにある。

北京へ戻るのか、それとも草原へ連れ去られるのか。

遼遠の筆は、まだ止まるわけにはいかなかった。


それから数ヶ月。

土木の変の衝撃は、北京を震撼させた。だが、国はまだ死んでいなかった。

于謙うけんという新たな剛直な臣が現れ、捕らえられた正統帝を「太上皇」として切り捨て、新たな皇帝を立てて北京を死守する道を選んだからだ。

 

遼遠は、エセンの陣営の中で、捕虜となった皇帝の傍らにいた。

そして遼崇は、エセンの軍師として、北京の城壁を見上げていた。

 

「遠よ。お前が記した年は、後世にどう読まれると思う」

 ある夜、遼崇が尋ねた。

「……誰が読んでも構わぬ。だが、この血と砂の味だけは、後世の者に伝えねばならん」

遼遠は、自らの記録に最後の一節を加えた。

 

――正統十四年、土木。天、その眼を閉じ、地、その口を開く。

龍は捕らわれ、狼は吠える。だが、真の理は、まだ誰の手にも握られてはいない。

 

土木の砂塵は、いまも荒野に舞っている。

かつて永楽帝が放った大砲の響きが、いまは虚しく、歴史の空隙に吸い込まれていった。

 

遼遠と遼崇。二人の男は、それぞれの暗闇の中で、再び筆を執った。

歴史とは、勝者の叫びではなく、沈黙を守る叙述者たちの、血の跡そのものである。

彼らの旅は、まだ、終わらない。

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