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遊牧史 Ⅳ 天を裂く双龍  作者: 神箭花飛麟


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Ⅳ 再起

風は、常に西から吹いていた。

チャガタイの後裔の血を引く、ティムールの玄孫の王子・バーブルは、その風に乗ってインドの地を駆けていた。十二歳で父の遺した小国を継いで以来、故郷サマルカンドを三度得て、三度失った。安息など、この男の人生には一度もなかった。


雪を食らい、泥にまみれて山脈を越える夜。その傍らには常に、影のごとき男、遼真がいた。遼真の手には、先祖・遼厳が編纂した「ティムール紀」がある。そこには、破壊神ティムールの凄惨な覇道と、バーブル自らが語り遺した回想録「バーブル・ナーマ」が克明に記されていた。


「先祖はここを略奪の荒野として捨てた。だが、俺は違う。俺はここに根を張る」

一五二六年、四月。パーニーパット。

地平を埋める十万の軍勢を前に、バーブルは自らの名である虎のごとく静かに身を沈めた。

これは、一人の男が先祖の影を超え、自らの手で歴史を書き換えるための、最初の一歩である。

1526年、四月。

北インド、パーニーパットの荒野。

地平を埋め尽くす陽炎の向こうに、十万の軍勢が蠢いている。

ロディー朝の(スルタン)、イブラーヒームが率いるインドの巨龍だ。その中心には、天を衝くような千頭の戦象が、岩山のように鎮座していた。

対するバーブルの軍勢は、わずか八千余。

 バーブルは鞍の上で、乾いた喉を鳴らした。

十二歳でフェルガナの小国を継いで以来、故郷サマルカンドを三度得て、三度失った。

裏切り、逃亡、飢餓。

そのすべてが、この男の皮膚を硬く、瞳を鋭い硝子のように変えていた。


傍らには、影のごとき男、遼真がいた。

その懐には、先祖・遼厳が編纂した『ティムール紀』が収められている。

「遼真。俺はここで、至高の王(パードシャー)になるか、あるいは名もなき狼の死体となるかだ」

「殿。先祖の書にはこうあります。

『王の器とは、流した血の量ではなく、その血を何のために流したかで決まる』と。あなたはもはや、略奪者ではありません」

「ふん、綺麗な言い草だ」

バーブルは自嘲気味に笑ったが、その手はしっかりと、先祖ティムールの口述を記した『ザファル・ナーマ』を握りしめていた。

そこには、ティムールがインドを蹂躙しながらも、ついに根を張ることができなかった後悔が、呪いのように刻まれている。

「俺はモンゴルの血を継ぐ者。だが、この地では『ムガル』と名乗ろう。誇りも、血の汚れも、すべてを呑み込んで俺はここに帝国を創る」

バーブルの宣言は、乾いた風に溶けていった。


ロディー軍の陣営では、猛将カースィム・ハーンが、鉄鎖で繋がれた巨象の背の上で吠えていた。

「見ろ、あの惨めな軍勢を! カブールの山猿どもが、数に絶望して震えているぞ!」

イブラーヒーム・ロディーは、黄金の天蓋の下で退屈そうに扇を動かしていた。

「カースィム。象どもに酒を飲ませろ。一気に踏み潰し、サマルカンドの夢ごと砂に埋めてやれ」

インドの巨龍は、自らの巨体に溺れていた。

彼らは知らない。

バーブルの軍勢が、荷車を七百台も連結し、牛革のロープで繋ぎ合わせた城壁を築いている意味を。

そして、その影に隠された火の正体を。


「遼真、始めろ」

バーブルの短い言葉。

遼真が旗を振った。

その瞬間、世界が裂けた。

オスマン流の大砲が一斉に火を噴いたのだ。

轟音。振動。空を覆う硝煙。

一二〇年前、アルタイの地で永楽帝がティムールに見せつけた「天の火」が、いま、時を超えてバーブルの手によって放たれた。

 

「な……何だ、この音は!」

カースィムが叫ぶより早く、千頭の戦象が狂乱した。

象の巨大な耳は、火薬の爆音を増幅させ、脳を直接灼く。

パニックに陥った象たちは、突撃するどころか、後方の自軍兵士を巨大な足で踏み拉ぎ、鼻で引き裂き始めた。

「退くな! 槍を立てろ!」

カースィムの号令は、狂った獣たちの絶叫にかき消された。十万の軍勢は、戦う前に自ら力によって自壊を始めていた。


「今だ。虎の牙を見せてやれ!」

バーブルが長刀を抜き、突撃の先頭に立った。

彼に従う騎兵たちは、サマルカンドの雪山を越え、アフガンの荒野を這いずり回ってきた精鋭だ。

彼らにとって、この熱風は死地ではなく、新たな故郷への入り口だった。

「ムガル! ムガル!」

モンゴルの誇りを異郷の響きに乗せた勝ち鬨が、戦場を支配した。


遼真は、混乱の極致にある敵陣の中に、カースィム・ハーンの姿を捉えた。

「……先祖の敵ではないが、沈んでもらおう」

遼真が放った矢が、カースィムの喉笛を貫いた。巨躯が象の背から転げ落ち、自らが誇った獣の蹄に踏み潰される。

一方、バーブルの刃はイブラーヒーム・ロディーの親衛隊を、一刀の下に斬り捨てていた。

「俺は壊しに来たのではない! この地に、永遠の都を築きに来たのだ!」

バーブルの絶叫が、ロディー朝の最期の王に届いたかはわからない。

イブラーヒームの首が宙を舞い、インドのある時代が終わった。


戦後。夕刻のパーニーパットは、朱色の光に包まれていた。

死臭と硝煙。だが、バーブルの瞳には、かつてない静謐が宿っていた。

「遼真。俺は、勝ったのか」

「はい、パードシャー。あなたは今日、影を脱ぎ捨て、真の王となられました」

遼真は膝をつき、血に汚れた『ティムール紀』を差し出した。

「これを書き換える必要はありません。これからは、あなたの歩む道が、一族の史書となります」

バーブルは、懐から自らの記録である『バーブル・ナーマ』を取り出した。そこには、今日の勝利などまだ記されていない。

「……俺は、この地の暑さを終生嫌うだろう。メロンの味を懐かしみ、サマルカンドの風を求めて泣くかもしれん。だが、俺はこの土を離れない。ここが、俺の、そしてムガルの国だ」

バーブルは、遼真の手を取った。

「遼真、お前も地獄まで付き合え。一族の使命だ何だと言う前に、俺という一人の男の轍を見届けてくれ」

「……御意に。この命、尽きるまで」


二人の男は、沈みゆく太陽に向かって馬を歩ませた。

背後には、死体の山と、崩れ落ちた戦象の残骸。

だが、その先には、かつてティムールが夢想し、永楽帝が守り抜いた秩序を超える、新たなる帝国の夜明けが待っていた。

ムガルという名の咆哮が、インドの大地に深く、深く刻まれていく。

歴史という名の河が、その流れを変えた瞬間であった。


それから数年後。アグラの都。

バーブルは、自らが造らせた四分庭園チャハル・バーグに座っていた。

インドの熱を和らげる水の流れを見つめながら、彼は静かに筆を走らせる。

「人生とは、瞬きの間の夢である。だが、その夢に形を与えるのが、王の務めだ」

遼真は、その傍らで墨を磨り続けていた。

バーブルという一人の男が、敗北と流浪の果てに掴み取った生の証言として、遼真の魂に刻まれている。

「遼真。俺が死んだら、カブールへ帰してくれ。あの涼しい風の中に」

「……承知いたしました。パードシャー」

二人の旅は、まだ終わらない。

血脈が続く限り、そして男たちが己の意志で荒野を行く限り、その轍は途切れることなく、次の世代へと受け継がれていく。

蒼き狼の末裔たちが辿り着いた、熱きインドの地。

そこには、誰にも消せない火が、今も静かに燃え続けていた。

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