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遊牧史 Ⅳ 天を裂く双龍  作者: 神箭花飛麟


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Ⅲ 双璧

1405年、二月。オトラルの寒村。

死神の鎌が、ティムールの喉元に届きかけていた。

肺を焼くような高熱。意識の混濁。

百戦錬磨の老いた狼も、寄る年波と極寒には勝てぬはずだった。

だが、その枕元に跪く遼厳だけは、主君の死を許さなかった。

「殿、まだ目をお閉じになるな。これを見ても、眠れますか」

遼厳が差し出したのは、明の最新の機密地図だ。

南京、北京の守備兵力、さらには鄭和が率いる数万の船団の動向までが、遼一族の血の滲むような伝令網によって書き込まれていた。

「……朱棣、か」

ティムールは地図を握りつぶさんばかりに掴んだ。

「奴は、南の海を飲み込み、北の草原を己の庭にせんとしている。我らがここで果てれば、世界はあの簒奪者のものだ。……よかろう。奴の首を獲るまで、地獄へ行くのは預けだ」

死の淵にいた男の瞳に、再び獰猛な殺気が宿る。遼厳がもたらした知が、老いた破壊神の心臓に、最後にして最大の火を点したのだ。


一四〇五年、春。アルタイ山脈の麓。

地平線を埋め尽くすのは、ティムールが二十年かけて鍛え上げた二十万の軍だった。

その中央に巨大な影が揺れる。

インド遠征で獲得した戦象が、鎖帷子に身を固めて三十頭。

その後方のハウダーからは、火炎瓶や弩を構えた兵たちが眼下の明軍を射抜かんと待ち構えている。


迎え撃つは、明軍五十万。

永楽帝・朱棣は、かつて靖難の役で数多の官軍を屠ったあの「燕王」の顔に戻っていた。

「陛下、敵の象部隊……様子が変です。こちらの火器を恐れる素振りがない」

 遼寧が主君の傍らで報告する。遼寧は気づいていた。敵軍の陣形に、自分と同じ「遼」の、地形と敵の心理を極限まで読み切った冷徹な影があることに。

「案ずるな、遼寧。張輔、朱能、神機銃を構えろ。……火薬の味を教えてやれば、獣などすぐに狂う」

 朱棣の号令一下、明軍の最前列に数千の火筒が突き出された。



「放てッ!」

朱能の怒号。

大地を裂くような轟音が響き渡り、白煙が視界を奪う。

数千の鉄の弾丸が戦象の鼻先で爆ぜた。


だが、象は止まらなかった。

「何だと……!」

遼寧は目を見張った。象たちの耳には厚い革の覆いが施され、爆音を遮断していた。さらに鼻先には敵の銃火を反射させる鏡板。

遼厳が明の火器の弱点を徹底的に教え込み、対策を講じさせていたのだ。

咆哮を上げ、戦象が明軍の歩兵陣地に突っ込む。

「引くなッ! 長槍で足を狙え!」

 張輔が叫ぶが、象の足に踏み潰された兵たちの断末魔が戦場を支配した。

その背後から、ティムール直属の鉄鎖の騎兵が、崩れた陣形へ向かって雪崩を打つ。


戦乱の極致。

朱棣の盾となって馬を走らせる遼寧の視線の先に、一人の騎馬武者が現れた。

低く沈み込み、馬と一体化したような無駄のない動き。

遼厳だ。

二人は、主君たちの激突という巨大な嵐の中で、わずか百歩の距離で視線を交差させた。

「……遼厳。お前が、あの老狼に知恵を貸したか」

「遼寧。お前が、あの燕の牙をここまで守り抜いたか」


特別な言葉はいらない。互いの主君が天を掴むために、持てる情報のすべて、戦術のすべてをぶつけ合った結果が、この凄惨な殺し合いだ。


「陛下ッ、ここは私が食い止めます! 西へ!」

遼寧は長刀を抜き、遼厳の元へと馬を飛ばした。


その瞬間、戦場の中央の象の死体と壊れた神機銃が散乱する空白地帯で、ついにその二騎は向き合った。


黄金の甲冑を血で汚し、燕の鋭い眼光を放つ永楽帝・朱棣。

病に冒され、鞍に体を縛り付けてなお、アジア全土を震え上がらせた破壊神の威圧を失わぬティムール。

周囲の兵たちは、二人が放つ凄まじい「気」に圧され、剣を交えることすら忘れて立ち尽くしていた。


 「……跛行の老狼よ。わざわざ墓場から這い出して、俺の首を獲りに来たか」

朱棣が、低く、重い声で口を開いた。

ティムールは激しく咳き込み、鮮血を髭に散らせながらも、不敵に笑った。

 「簒奪者の若造が。貴様が築こうとしているのは、壁の中に閉じこもった安寧に過ぎぬ。俺が教えてやる……世界とは、奪い、壊し、また奪い返すための広野だ」


二人の会話は、そこまでだった。

ティムールが槍を掲げると、背後の戦象が最後の一頭まで咆哮を上げた。朱棣は長刀を構え、その切っ先を天に向けた。

激突は一瞬だった。

朱棣の長刀がティムールの槍を弾き飛ばし、その風圧だけで老いた破壊神の体から残った生気が剥ぎ取られていく。

しかし、ティムールの目には恐怖はなかった。あるのは、自分と同じ狂気を抱えて国を統べる男への、奇妙な共感だった。


「……遼寧。奴は、俺だ」

すれ違いざま、朱棣は背後の遼寧にだけ聞こえる声で呟いた。

「奴も俺も、返り血を浴びなければ立っていられぬ。……だが、俺は奴を越えて、血の流れない永楽を創る」


その瞬間、ティムールの体が崩れた。

遼厳が必死に駆け寄り、主君を支える。ティムールの瞳からは光が消えかかっていたが、その指は真っ直ぐに西のサマルカンドではなく、東の「北京」を指していた。


「……行け、遼厳。俺を……あの男が見るはずだった、地平の先へ……」


それが、ティムールの最後の言葉となった。

アルタイの山々に、老狼の死を悼むような突風が吹き荒れる。

朱棣は刀を引いた。逃げ惑う敵軍を追撃することはせず、ただ静かに、力尽きた宿敵に敬意を払うように見送った。


「陛下。追撃はなさらぬのですか」

遼寧の問いに、朱棣は西の空を赤く染める夕日を見つめたまま答えた。

「死んだ獅子を追い回す趣味はない。それに……」

 朱棣は自らの掌を見た。そこには、戦いの高揚ではなく、一国の主としての重い業が刻まれていた。

「奴が死に、俺が残った。それが天の答えだ。……遼寧、帰るぞ。国が俺を待っている」

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