Ⅰ 砂塵
風は、常に西から吹いていた。
アナトリアの乾いた大地を撫でるその風には、熱砂の喘ぎと、鉄が擦れ合う微かな鳴動が混じっている。
1402年、七月。アンカラ。
そこには、日の昇る地から日の沈む地までを自らの版図に収めようとする二人の男が対峙していた。
ひとりは、欧州の騎士団を恐怖の底に突き落とし、「雷光」と恐れられたオスマン帝国の主、バヤジット一世。
もうひとりは、中央アジアの荒野から這い上がり、足の不自由を抱えながらも、地平線のすべてを死者の塔で埋め尽くしてきた破壊神・ティムール。
これは、国を奪い合うための戦争ではなかった。
互いの矜持をただ競う、凄絶な殺し合いである。
バヤジットは最強の歩兵軍団イェニチェリの防壁を信じ、ティムールはインドから連れ帰った巨大な戦象と、調略という名の毒を戦場に撒いた。
陽光が照りつけるなか、砂塵の向こう側に、歴史の重力が一点に収束していく。
沈んだ王朝の記憶も、草原に散った反乱の火種も、いまはこの二人の男が振るう刃の煌めきに比べれば、淡い陽炎に過ぎなかった。
運命が、大きな音を立てて軋み始める。
砂塵が舞い上がった。それが、すべての終わりの始まりだった。
高原の風は、熱を孕んで肌を焼いた。
アンカラ近郊。地平線は、二つの巨大な意志によって埋め尽くされていた。
「来たか。西域の吸血鬼め」
オスマン帝国の皇帝、バヤジット一世は、馬上で低く呟いた。
その異名は「雷光」。
バルカンを蹂躙し、十字軍をニコポリスで屠り、欧州全土を戦慄させた男の眼には、絶対的な勝者の傲慢さが宿っていた。
背後には、最強の歩兵軍団イェニチェリが、鋼の壁となって控えている。
「奴の足は不自由だと聞く。まともに歩けぬ男に、この雷光を捉えられるわけがない」
バヤジットは傍らの将軍たちに笑ってみせた。
だが、その視線の先、砂塵の向こう側に揺らめく黒い影の群れを見て、わずかに頬が引き攣った。
そこには、秩序を超えた狂気が整列していた。
ティムールは、鞍の上で微動だにしなかった。
不自由な右足が疼く。
だが、その痛みこそが、自分が生きている証だった。
「バヤジットは、我らをただの略奪者だと思っているようだ」
ティムールは、隣に控える長子シャー・ルフに目を向けた。
「父上、敵の陣容は固い。イェニチェリの防壁は、生半可な騎馬では突き崩せません」
「固いものは、砕けばいい。砂のように、な」
ティムールの背後には、インド侵攻で手に入れた戦象が、異様な咆哮を上げていた。
その巨躯には火器が据えられ、工兵たちが導火線に火を寄せるのを待っている。
「この戦いに、名誉などいらぬ。欲しいのは、確実な破滅だ」
ティムールが片手を上げた。
それが、世界を塗り替える殺戮の合図だった。
戦端は、戦象から放たれた火炎によって開かれた。
轟音と共に、オスマン軍の先陣が吹き飛ぶ。
馬が狂い、男たちが悲鳴を上げる間もなく、ティムールの騎馬隊が砂嵐の中から躍り出た。
「押し返せ! 怯むな!」
バヤジットの咆哮が戦場を劈く。
だが、異変は内側から起きた。
オスマン軍の翼を担っていたアナトリアの諸侯たちが、次々と戦列を離脱し始めたのだ。
「裏切りか……!」
バヤジットの瞳に、初めて狼狽の色が走った。
ティムールは、戦う前から敵の心を「毒」で侵食していた。調略、懐柔、恐怖。
剣を抜く前に勝負を決めるのが、この老いた狼のやり方だった。
「雷光よ。光は強ければ強いほど、深い影を生むものだ」
ティムールは冷たく笑い、自らも馬を進めた。
乱戦の中、バヤジットの視界は血と砂に覆われた。
最強を誇ったイェニチェリが、四方から押し寄せる死の濁流に飲み込まれていく。
「陛下、お逃げください!」
忠臣たちの叫びも、バヤジットの耳には届かない。彼は、自分を包囲する騎馬の隙間に、一人の男を見た。
鞍に体を縛り付け、不自由な足を感じさせぬほど堂々と馬を駆る老人。
「貴様か。貴様がティムールか!」
バヤジットは剣を振るい、狂ったように突進した。
だが、ティムールの親衛隊がその行く手を阻む。
ティムールは、バヤジットと目を合わせた。
その瞳には、憎しみも歓喜もなかった。
ただ、使い古した道具を片付けるような、冷徹な光があるだけだった。
「バヤジット。お前の戦いは、あまりにも眩しすぎた」
それが、皇帝が最後に聞いた言葉だった。
日が落ちる頃、戦場には無残な静寂が訪れた。
バヤジット一世は、落馬し、泥にまみれた姿で捕らえられた。
「……殺せ。この場で首を撥ねろ」
バヤジットは、勝ち誇るティムールを見上げて吐き捨てた。
だが、ティムールは馬を下りることなく、檻を指差した。
「お前を殺しはしない。お前は、俺の旅の道連れだ」
バヤジットは、鉄格子の檻に閉じ込められた。
欧州を震え上がらせた皇帝が、見せ物として連れ回される。死よりも過酷な屈辱だった。
檻の中からバヤジットは、ティムールの背中を呪うように睨みつけた。
「貴様もいつか、同じ目にあう。この世に、永遠の勝者などいないのだ」
深夜。サマルカンドへ向かう行軍の火を眺めながら、ティムールは一人、地図を広げていた。
「父上、西は終わりました」
シャー・ルフが歩み寄る。
「ああ。だが、胸の渇きが収まらぬ」
ティムールは、東の方角、闇に包まれた地平線を見つめた。
そこには、南宋を飲み込んだ元の残滓を追い出した巨大な龍――「明」が座している。
「永楽、と言ったか。あいつもまた、血を吸って大きくなった男だ」
バヤジットのような純粋な武人ではない。
権力の影を歩き、叔父や兄弟を蹴落として玉座を奪い取った、自分と同じ匂いがする。
「檻に入れるのは、あいつが最後になるだろうな」
ティムールは、焚き火に薪を投げ込んだ。
炎が弾け、火の粉が天に舞う。
老いた足が、激しく疼いた。
「行くぞ。風が吹いているうちに」
1405年。破壊神は、最後にして最大の獲物を求めて、静かに動き出した。
全軍が動き出し、地響きがオトラルの寒村を震わせる。その喧騒から取り残されたかのように、静まり返った本陣の天幕に、ティムールの側近・遼厳は独り残っていた。
主君に差し出した密書は、すでに焚き火の中に投じられている。パチパチと爆ぜる火の粉が、かつて漢土の遼寧から託された言葉を灰に変えていく。
「……これで、満足か。遼の爺さん」
遼厳は、無骨な己の手と情報を差配する者を見つめた。
遼一族には、他者を圧倒するような武の才も、一国を傾けるような智略もない。あるのは、元祖・遼舜が草原に遺した「何者にも縛られず、己の役割を貫け」という、呪いにも似た教えだけだ。
大都で別れた遼海の一族は、漢土で明の龍を守る牙となった。そして、チャガタイ・ウルスへ流れた遼高の末裔である自分は、西域の狼を死の淵から引きずり出す引き金となった。
「遼寧、お前も向かってきているのだろう。永楽という龍の背に乗ってな」
遼厳は腰の刀を確かめ、天幕を出た。
外は、雪を切り裂くような馬蹄の音が鳴り響いている。
「剣をもって天を裂く。……あの方なら、本当にやってのけるかもしれん」
遼厳は冷たい風を深く吸い込み、闇の中へと馬を走らせた。
時を超えて繋がれた血脈が、いま、アルタイの麓で一筋の火花になろうとしていた。
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