表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
デビルズ・デリバティブ ~悪魔の派生商品~  作者: 小澤文庫


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/10

第8話 審判の72時間

 ——静かな部屋に、ひとつだけ光る頁があった。

 首からさげたネックストラップ。手のひらの黒い手帳。最後のページを開くと、数字が音もなく立ち上がり、やがて明滅する。


 報酬:240/240


「……やっとだな」

 比良坂時雄——いまは“悪魔A”と呼ばれる男が、独り言のように呟いた。

 人間として残っていた四十年の六倍。二百四十年分の報酬が、白く満ちていく。頁の隅に次行がにじむ。


 次回必要:1320(=20×66) 


 背後の空気が一折れして、事務的な気配が入ってきた。

 阿久真が、透明な板状の契約書を指で弄びながら言う。

「二度目の帰還はここまで。三度目を望むなら“六十六倍”。しかも——どちらを選んでも寿命は半減する。戻るにせよ戻らないにせよ、手数料は変わらない。君の人間としての残りは二十年。契約を行使すれば十年だ。規約は、ずっと同じだよ」

 時雄は目を伏せて笑った。笑いは、久しぶりに人間のものに近かった。

「戻る先は決めている。家族の最後の夜だ。今度こそ、あの部屋の温度と息づかいごと看取り切る」

「了解。じゃあ、条文の再周知を」

 透明な板が、時雄にだけ見える角度で突き出される。


 『戻った瞬間から七十二時間、本契約の記憶が残る。

 再訪(今日と同じ日)に契約内容と余命を告知。告知後も七十二時間だけ記憶が残る。

 自分以外の寿命は変わらない(亡くなり方や場所は変わり得る)』

 そして

 『再訪日に契約の理由と半減した寿命を本人に告知する。口外すれば無効——引き落としは戻らない』

 『次回以降の帰還に必要な報酬は66倍→666倍→6666倍……桁ごとに増える』


 時雄が板に指を伸ばしかけた、そのときだった。部屋の外側で、別の“説明”が薄く重なった。ここは“あいだ”の場所だ。説明が同時に行われている場どうしは、互いに薄く見える。

 白い床の向こうに、もう一人の悪魔と、その依頼者がいる。乾いた声が響いた。

 ——湯田健吾。再訪を受けた。戻ったが、やり残しがある。もう一度、三日前に。

 湯田は頬の影が浅く、目だけがやけに深い男だった。


 もう一人の悪魔が静かに首を振る。

「申し訳ないが、君の残余は一年を切った。規約上、もう悪魔にはなれない。報酬を貯めての再帰還はない。つまり、ここで終わりだ」

「まだ、黒瀬の核に手が届いていない」

 その名に、時雄の背骨に微かな電流が走った。黒瀬グループ。橋。病院。用水路。学校。——そしてキャンプ場のボイラー。


  湯田は続ける。

「家族を失ったのは、あいつらの“仕事”の連鎖だ。——俺は黒田グループの社員だった。一回目で入口まではこじ開けた。rev0066の監査ログ。酸素ボンベLOT:B-03。保守報告の改ざん箇所……でも、核までは。」

 苦い息が床に落ちる。

「保障基金を先に出して世論を抑えた。『全面補償』のポーズで、金は県と市の税。和解を急がせて、本質は潰す段取り……。六月十六日に全部出せるはずだった。間に合わなかった」

 阿久真が時雄を見る。

 ——あれだけやって。裏返ったのか。

 時雄はほんの少しだけ首を振り、境目に歩み出た。


「権利を譲る。規約十二条。報酬で得た“帰還権”は、他の悪魔/他の人間に譲渡可能」

 湯田の悪魔が念のため頁を繰り、白い光で肯定が灯る。湯田は顔を上げた。

「……なぜ俺に」

「お前の方が近い。黒瀬の心臓に」

 時雄は胸ポケットから名刺大の薄片を取り出した。紙のようで紙ではない光が、湯田の指先でいっときだけ温度を持つ。阿久真が淡々と言い添える。

「確認する。ここで君の寿命は半減する。譲っても、譲らなくても」

「分かってる」

 言葉よりも先に、視界のコントラストが一段落ちた。こめかみに一本の白。膝裏に、階段を一段抱えたような重さ。

 

 手帳の数字が音もなく繰り上がる。


 権利移譲先:湯田健吾

 比良坂時雄・残余予定:20→10年

 次回必要報酬:1320 → 達成状況:0/1320


「三日でやれることだけ書け」時雄は湯田の目を見る。「理由は書くな。書けば消える。行動だけが残る」

 湯田は短く頷いた。透明な板に自分の名を刻む。空気が反転し、足元に六月十三日の朝が現れる。


 * * *


 六月十三日 午後一時〇六分

 灰色の雲。湿った風。黒瀬設備のゲート前で、湯田は無地の作業服に袖を通した。胸ポケットには薄いメモ帳。最初のページに、彼は太い字でこう書く。

 「撮る」「写す」「抜く」「渡す」

 次の行に書こうとした二語——**悪◯と契◯**が、にじんで黒く潰れた。紙の繊維が、砂のようにさらさらと落ちる。彼はペン先を止め、行動だけを残すことにした。

 ゲートが短く鳴る。

 バーが——開かない。

 警備員の視線が湯田の胸元をなぞった。無地の作業服は誰の味方でもない顔をする。だが、首の汗だけは裏切る。

 端末の表示が一度消え、次に、遅れて緑になった。

 ——一拍遅れて、開く。

 その一拍が、寿命を削る音に聞こえた。


 

 午後一時三十分

 酸素ボンベの封印タグとLOT:B-03の原紙台帳。スマホで無音連写。台帳の端に押された朱肉のにじみ、担当者印の欠け、時刻欄の空白。

 写真の中に、紙の重みが残る。

 背後で紙が擦れた。

「……どこの班だ?」

 警備服の男が一歩近づく。

 湯田はスマホの画面を、わざと“別の台帳”に移した。呼吸を落とす。脈が暴れて、手が震えそうになる。

「応援です。昨日の棚卸し分、回収だけ」

 嘘は短く。理由は言わない。言えば崩れる気がした。

 警備員は目だけで湯田を測り、通り過ぎる。

 湯田は台帳の端の番号をもう一枚だけ押さえ、メモ帳に書く。

「写す」「保存」



 午後四時四十六分

 品質管理室の端末。監査ログrev0066.csvを差分ツールで開く。

 ——その瞬間、画面の右下が、微かに点滅した。

 “監査アラート”。

 マウスが止まる。背中に、冷たい針が刺さる。

 黒瀬側には“狩人”がいる。

 火消しのためではなく、火種を見つけるための男だ。

 黒瀬グループ危機管理室長、槙原啓司。

 彼は現場で怒鳴らない。机上で、世界を静かに殺す。

 


 同刻 午後四時四十六分

 黒瀬グループ本社・危機管理室。

 槙原はコーヒーに口をつけず、モニターだけを見ていた。

 “rev0066”へのアクセス。

 “差分ツール起動”。

 ——いつもと違う指紋。

「誰だ」

 彼は声を荒げない。

 ただ、指を一本動かす。

「KSEの端末、画面録画オン。入退室ログ、直近四十八時間を抽出。警備のカメラ、当該廊下だけ音なしで回せ」

 狩人は走らない。包囲だけを早める——はずだった。

 槙原は、さらに指を一本折った。

「“rev0066”の同名ファイル、三分後に差し替え。閲覧者固有の透かしを焼く。目に見えない印でいい」

 画面のどこにも出ない。だが、印は残る。

 捕まえる必要はない。捏造した顔にして、黙らせる。

 

 湯田は差分の一行を見た。

 KSE_quipment——綴りの崩れた編集IDが、二十二時〇六分に二重記録。

 “誰かが”同じところを二度触っている。しかも、触ったふりではない。——消し残しだ。

 だが、アラートが生きている。

 ここで抜けば、捕まる。

 湯田は画面を閉じた。USBを抜かない。動かない。

 代わりに、画面に映った“二重”を、スマホで撮った。

 写真は、弱い。だが、今は生きる方が先だ。

 メモ帳に書く。

「控える」(失敗)

 その二文字に、喉の奥がざらついた。

 ——第一手が、もう潰れた。


 * * *

 

 六月十四日 午前九時三十分

 県立中央病院ER。

 在庫室の前で、白崎智子が湯田を待っていた。白衣の袖口に、消毒の匂いがしみ込んでいる。

 彼女は封筒を差し出す。言葉が少ないのは、忙しいからではない。言葉が多いと、震えが出る。

「B-03の“満タン札”と、ガス圧ゼロの写真。封印の浮きも」

 この町の購買も、保守も、委託も、どこかで黒瀬に繋がっている。

 白崎は目を伏せたまま続けた。

「事故時の切替弁の交換記録も、コピーしておいた。……渡したってこと自体が、私の首を締める」

「分かってる」

 湯田が封筒を受け取った瞬間、視界の端が白く欠けた。

 立ちくらみではない。——時間が薄くなる感覚だ。

 膝が折れそうになる。

 そのとき、救急のアラームが鳴った。

 白崎の顔が一瞬だけ“医者”に戻る。目の焦点が、いま目の前の命に合う。

 白崎は封筒から手を離さないまま、扉の向こうを見た。

 渡すか、行くか。

 彼女は呼吸を一度だけ切って、封筒を湯田の胸ポケットに押し込んだ。

「行って。私は——戻る」

 白崎は走った。

 走る背中を見送った湯田の胸に、石のような罪悪感が落ちた。 

 メモ帳に書く。

「受け取る」「隠す」



 午後一時

 市役所・道路河川課。長谷川隼人の机に重ねられたバインダーは、指で弾くと沈む厚さだった。

 臨時観測のリクエスト、バリケード鍵の管理簿、三者合意差し戻しの履歴。

「通行止めを“徐行”に上書きしたのは、PRの共通端末だ」

 隼人は言い、鍵束の在りかをメモ用紙に描いた。

 その指が、ほんの少し震えている。

 彼は発注者側だ。事故の線の内側にいる。

「……俺は、橋を守ってるつもりだった。守ってたのは、数字だった」

 隼人は言い切らず、紙を折って湯田に渡した。

 折り目が、罪の重さみたいに固い。

 湯田は書く。

「写す」「覚える」



 午後四時一〇分

 県警本部・監察。佐伯慎一は、湯田の出した紙の束に目だけを動かして言った。

「所轄は通すな。迂回令状でいく。同報先を作る。第三者機関にミラーリング」

「——漏れませんか」

 湯田が言うと、佐伯は一度だけ黙った。

 沈黙は、答えだった。

「漏れる。だから、漏れても死なない形にする」

 佐伯は紙束の角を指で叩いた。

「紙だ。紙は、止められない。止めるなら燃やすしかない。燃やせば、それも証拠だ」

 湯田は、その言葉を胸の奥に落とした。

 自分は燃やされる側になり得る。——だからこそ、燃やせない形にする。

 


 六月十四日 夜

 地方紙「川辺新報」社会部。柴田玲奈の机に、封筒が二つ置かれていた。

 一つは記者クラブのラックに差すための紙の要約。もう一つは彼女にだけ。中にはQRコードとタイムロックの説明、そして短い文。

 ——理由は書かない。行動だけを出して。六月十六日 午後一時〇六分、同時解放。

 玲奈は封筒の角を親指で撫で、ただ「分かった」と言った。

 声が平らなのは、平らにしないと泣くからだ。

 机の引き出しを開ける。

 そこには、別の紙束——“事故リスト”のテンプレがある。

 匿名が混ざる場所。出所不明ほど、最初の三時間はよく読まれる場所。

 玲奈は小さく息を吐き、封筒を引き出しの奥へ押し込んだ。

「出す。止められても、出す」



 六月十五日 午後三時〇分

 川辺駅前立体駐車場・三階 エレベーターホール脇。

 午後の熱気がコンクリにこもり、冷却ファンのうなる音が途切れ途切れに響く。

 黒いセダンの艶が、壁面に淡く揺れた。

「お疲れさまです。精算の時間です」

 阿久真が穏やかに言った。

 黒瀬グループ危機管理室の実行ライン、永田修司は足を止め、眉を寄せた。

「……俺は、あなたと——」

「いえ、覚えていなくて大丈夫です。この商品はそういう設計です」

 阿久真は透明な板を差し出した。

「あなたは“記者への接触を事故のせいに見える形でやれ”という指示を実行する前に戻ることを望み、寿命の半分を差し出した。残りは四十二年が二十一年。理由を口にすれば無効になります。だから、行動だけを書いてください」

 永田は額に掌を当て、ゆっくり息を吐いた。

「……分かりました。今夜中の和解は止める。導線を引き直す」

 その“引き直す”が、永田にとっては命綱だった。

 止めると言えば殺される。従えば誰かが消される。

 だから言い方で、生き残る穴を掘る。

「お願いします」

 セダンのドアが静かに開き、また閉まる。

 アイドリングの音が斜路に溶け、車体は影の帯に紛れていった。

 永田はしばらく、エレベーターホールの金属枠に手を置いた。

 掌に残るのは、ほんのわずかな冷たさと、胸の真ん中に生まれた空洞の手触りだけだった。

 ——その空洞に、別の気配が差し込む。

 背後の扉が開いた。

 靴音が一つ。急がない。迷いもしない。

 黒瀬グループ危機管理室長、槙原啓司。

 怒鳴らない。走らない。——ただ、世界を静かに殺す男が、何も見ていない顔で立っていた。

 槙原の視線が、永田の指先と、さっきまで揺れていた壁面の“艶”をなぞる。

「……今、ここに車がいたな」

 永田の喉が鳴る。

 言い訳が、理由が、口から出かけて——出せない。出せば崩れる。

「分かりません」

 槙原は頷きもしない。否定もしない。

 ただ、結論だけを置く。

「永田。——今夜中に“和解”だ。遅れるな」

 永田は一瞬、喉を鳴らした。

 断れば消される。従えば誰かが消される。

 息子の顔が、胸の奥に浮いた。

 ——守るために、どれだけ殺す。

 永田は答えを口にしないまま、ただ頷いた。



 午後九時四十分

 河川敷の暗がり。二輪の影が、街灯の境目で切れる。

 ライダー——黒瀬淳一が、シート下から封筒を三つ取り出した。封筒には万年筆で「審判」とだけ書いてある。

「落合地点三か所。電源が落ちても、紙は消えない」

 玲奈は、そこにいた。

 直接会うつもりはなかったはずなのに、足が来てしまった。

 夜風の中で、ライダーの横顔が一瞬だけ昔に戻る。

「……淳一」

 呼んだ瞬間、ライダーの肩が固まった。

 彼は振り向かない。振り向けば、過去がこぼれる。

「今、俺を名前で呼ぶな」

 玲奈は息を止める。

 喉が、言葉を吐きたがる。——聞けば、戻れる気がする。

 でも、聞いた瞬間に壊れるものがある。

「あの封筒の筆跡で分かった。……何してるの」

「するしかないことを、してる」

「——私、——」

 ライダーは封筒を一つ、玲奈に押し付けるように渡した。

「これ、会見場の外に回せ。中は切られる。槙原がやる」

「槙原……?」

「黒瀬の狩人だ。怒鳴らない。燃やす」

 ライダーは二輪に跨り、ヘルメットをかぶる。

 玲奈は追いかけようとして、足が止まる。

 追いかけると、過去に引きずられる。今は、紙を運ぶ。

 封筒の角が、夜の湿気を吸って重くなる。

 その重さが、玲奈の胸の奥を支えた。

 メモ帳に、玲奈は書いた。

「運ぶ」「外」



 六月十六日 午前八時

 湯田はタイムロック投稿の設定を確認した。

 同時解放:午後一時〇六分。

 同報先:地方紙、独立系サイト、ラジオ、記者クラブ掲示、匿名ブログ。——複数の河口。

 メモ帳に書く。

「待つ」

 待つ、と書く行為は祈りに近い。

 祈りが届かないことを知っている人間ほど、祈りに縋る。


 午前一一時〇〇分

 県庁・記者会見室。

 演台の上に掲げられたボードには、柔らかい金色の文字がある。

『黒瀬まつり事故・緊急『地域連帯』基金』

 黒瀬の広報が、抑揚の少ない声で読み上げる。

「被害者のみなさまに全面的に補償を——スピード感をもって、地域の絆を——」

 背後のスライドには、資金の出どころがどこにも書かれていない。

 理事予定者は県の外郭団体の元理事長、地元の名士、黒瀬の役員OB。

 和解書の雛形の末尾で、守秘義務だけが太字に光る。

 会見場の後方で、何本もの電話が同時に震えた。

 佐伯が見た合図。監察が回した許可。所轄を飛ばす。

 だが、槙原はそれすら読んでいる。

 槙原はインカムに短く言った。

「回線、切れ。出力、切れ。——“出ていない”ことにする」

 次の瞬間。

 プロジェクターが一瞬まぶたを閉じた——のではない。閉じさせられた。

 スクリーンは青に沈み、会見室の空調だけが一段うるさくなる。

 司会が咳払いをし、広報が笑った。

「機材トラブルです。復旧まで——」

 そのとき、会見室の扉の外で、別の音がした。

 紙が擦れる音。

 足が止まる音。

 人が“読む”呼吸の音。

 玲奈が会見場の外に回した封筒が、手から手へ流れている。

 電源が落ちても、紙は消えない。

 槙原の目が細くなる。

「……燃やせ」

 燃やす。

 それは“止める”ではなく、“痕跡を作る”ということだ。

 槙原は燃やす覚悟がある。——燃やした後の責任すら、別の誰かに背負わせる覚悟がある。


 午後零時四十五分

 会見場の外。玲奈のスマホが汗で滑る。

 湯田からの指示は、理由がない。行動だけがある。

 だから迷わない——迷えば、止められる。

 玲奈は同時掲載の“待機”を再確認する。

 地方紙、独立系、ラジオ、記者クラブ掲示、匿名ブログ。

 一つを潰しても全体は止まらない。

 だが、槙原が“止める”のは媒体ではない。

 人だ。

 信用だ。

 そして、恐怖だ。


 午後一時〇五分

 会見室の外廊下で、湯田の肩に手が置かれた。

「湯田健吾。——不正アクセスの容疑。任意でいい。来い」

 槙原の作った縄が、先に首へかかる。

 湯田は振り向かない。振り向けば、崩れる。

 ただ、視界の端が白く欠ける。——砂時計が底へ近い。

 佐伯が割って入ろうとした瞬間、槙原が静かに手を上げた。

「令状は?」

 会見場の空気が、そこで一度止まった。

 その止まりを——紙が突き破る。

 後方で、紙が鳴った。

 一枚、二枚ではない。束だ。

「審判」とだけ書かれた紙束が、椅子の下を走り、膝に当たり、手に渡る。

 QRが読めない? 関係ない。

 紙面の四隅に番号。太字。タイムスタンプ。印影。

 照明が落ちても読めるように、最初から“紙で読む設計”になっている。

 槙原が低く言う。

「……回収しろ」

 回収できない。

 紙は、読める人間の数だけ増える。

 読んだ人間は、もう“見た”になる。

 会見室の外で、玲奈がスイッチに指を置いた。


 午後一時〇六分

 七十二時間の端。

 ——押す。

 地方紙、独立系、ラジオ、記者クラブ掲示、匿名ブログ。

 同時に出る。

 ——紙を潰しても全体は止まらない。

 回線を切っても、紙がある。

 その瞬間、会見室の扉が開いた。

「県警本部監察です。令状」

 佐伯の低い声。

 透子が準備した保全手順に従い、サーバと端末が封印される。

 隼人が描いた鍵束メモが、机の下へ滑り込む。

 白崎がERからトリアージ指示ログと死亡小票のコピーを送り、医療面の連鎖を静かに示す。

 永田は、黒瀬危機管理室の指示書に取消線を引いた。

 「和解、今夜中」——その行の上に、別の行を書く。

「事実関係の公表を最優先」

 それは転向ではない。

 生き残るための“告白”だ。

 だが、告白は一度出れば引っ込まない。

 ライダーが二輪の鍵を差し出す。

「次の投下点まで十五分」

 槙原が永田を見る。

 永田が見返す。

 その目の奥に、息子の顔がある。 

 前列で理事候補の顔色が失せる。

「この資料は捏造だ」

 だが、紙は捏造に向かない。

 物理印影とタイムスタンプと監視映像の時刻と、誰かの手の震えが一致してしまう。

 燃やすなら燃やせる。——燃やした瞬間、それも証拠になる。

 銀色が、ひとつの両手首をつらまえた。

 審判は、鐘で始まるのではなかった。

 準備の積み重ねの先で、勝手に鳴るものなのだ。


 午後三時三〇分

 湯田は基金定款の差し替えログの押収確認を済ませる。

 その場で、視界が白く欠けた。

 体がふっと軽くなる。

 ——落ちる、と思った。

 だが、佐伯が肩を掴んだ。

「倒れるな。倒れたら、ここで終わる」

 湯田は頷く。頷いただけで、首の内側が痛む。

 頷きの途中で、胸の奥からさらさらと砂の音がした。

 記憶が、端から剥がれていく。


 午後六時〇〇分

 県議会に資金フローを紙で投下する。

 税金→外郭→基金→黒瀬関連会社へ事務委託。

 “善意”の顔をした循環。

 紙は、議場の空気を変える。

 誰かが声を荒げる前に、誰かが紙を掴む。

 掴んだ手が震える。

 震えが広がる。

 それが、止められないということだ。


 深夜

 メモの端のいくつかの語が、黒くにじんで消えた。

 七十二時間は、もう返らない。

 湯田はメモ帳を閉じる。紙の角が風でめくれそうになる。

 胸の奥で、薄い砂がさらさらと崩れる音がした。

 ——契約の記憶が、七十二時間の端で静かに薄れていく。

 湯田は最後のページに、たった一語を書いた。

「続ける」

インクが乾く前に、その一語だけが残った。



 事故は、小さく抑えられた。

 隼人のバリケード、白崎の導線、玲奈の“紙の先回し”、透子の内部ログ、佐伯の迂回令状、永田の取消線、ライダーの投下点。

 多くが、三日前に送り込まれた行動の結果だった。

 それでも、寿命は変わらない。

 川に落ちるはずだった人が、地上で圧死した。

 橋の事故の後遺症で逝くはずだった老人が、二週間後、自宅の階段で息を引き取った。

 重軽傷を逃れた命もあれば、場所だけが変わった終わりもある。

 そして、時雄の家族。

 橋へ向かわせまいと、別のタイムラインで彼らはキャンプ場へ行った。

 一酸化炭素は透明だった。整備不良という、黒瀬の別の顔がそこにあった。

 ——譲渡を選んでも、彼らの死は変わらない。


 夕暮れ

 陸橋を見渡す川辺の空き地に、悪魔Aは立っていた。

 子どもが夜空に向けて鳴らす紙の笛が、遠くで一度、二度。

 手帳の頁には、『0/1320』が静かに並ぶ。

 残り十年。次は“六十六倍”。遠い。だからこそ、やる。

 阿久真が脇に立つ。

「後悔は、終わらせるための燃料だ。燃やし続ければ灰しか残らない。——いまは、よくやったと思っていろ」

「俺がやったんじゃない。三日前に戻った連中がやった」

「その導線を作ったのは?」

 時雄は答えず、ネームカードが夜風に柔らかく鳴った。

 答えた瞬間に、自分の“理由”が消える気がした。


 六月十六日 深夜

 川は黒く、町は静かで、画面の向こうだけが騒がしい。

 「審判」という単語が、いくつもの紙面の見出しに載る。

 地域連帯基金は設計やり直し。黒瀬は役員の拘束と家宅捜索。

 事故の規模は、たしかに小さくなっていた。だが、人が生まれ、死ぬという勘定は元のままだ。

 悪魔Aは手帳を閉じ、透明な板を上着の内ポケットに戻す。

 七十二時間の砂は、また上へ返される。

 彼は再び“営業”に戻る。誰かの三日前へ、理由を書かせず、行動だけを書かせるために。

 遠くで、サイレンが短く鳴って、すぐに消えた。

 風が橋の上を渡る。

 審判の鐘は、もう鳴っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ