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デビルズ・デリバティブ ~悪魔の派生商品~  作者: 小澤文庫


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第7話 悪魔になる日の72時間

 六月二十二日 雨

 川沿いの道で、比良坂時雄ひらざか ときおは傘も差さずに歩いていた。歩道に溜まった水が、車のライトを受けて低く光る。

 十日間、妻と娘の遺体は見つからなかった。川辺まつり陸橋崩落事故の現場で、捜査本部の確認ポイントを訪ね歩いた帰り道だ。

 

「ご家族の行方については、引き続き……」 定型句は胸の中で音にならない。そのとき、背後で声がした。

「あの頃に戻れますよ」


 傘も差さずに立つ男が、濡れた靴のつま先で水たまりを割る。時雄は、男の声を雨の音から聞き分けた。

「あなたの寿命の半分。契約成立の“今”から亡くなるまでの残りの、半分だけで結構」

「……戻れるのは、本当に“あの日、あの場所”なんだな」


 男はうなずき、透明な契約板を差し出した。薄い光の欄に、時雄は名を記す。雨の音が一段静まり、足元の水たまりが奥行きを失う。

 世界の向きが、ひと呼吸ぶん巻き戻った。


 * * *


 六月八日 午前六時三一分

 トースターの焼ける匂いと、娘のヘアアイロンの音。

 妻は弁当を詰めながら「ごはん冷まして」と言い、娘は「マヨ入れないで!」と応戦する。

 時雄は、静かにコーヒーを注ぎながら二人を見ていた。

 ——あと四日後、この笑い声は消えてしまう。

 胸の奥で何かが、ゆっくりと削られていく感覚。 その痛みを隠すように、いつもの声で言う。

「今日の英語のテストは“structure”に関わるものだったよな?」

「うん、“橋”とか“ビル”とか出るかもって」娘が笑い、トーストをかじる。

妻が振り返る。

「あなたも会社、今日早いの?私は、もう出るから食べたら食器洗いに入れておいてね」

「ううん、いつもと同じ……」

(あと三日間。やれるだけのことをやる。)

 テーブルの端には、メモ帳とノートPC。

 時雄は深呼吸し、三日間でできる準備の全てを書き出した。

説得の台本——「今年の祭りは混雑が例年の1.4倍」「陸橋の補修遅延の記事の切り抜き」「キャンプ場ロッジの空き状況」


 即決の材料——既にロッジを仮押さえ(キャンセル規約も確認)/車検済み/高速のルート印刷

 安全装備——防災用グッズ一式と救急箱、よく使う薬(頭痛薬・胃薬・絆創膏など)

 近隣医療機関の把握——キャンプ場から最寄りの県立医療センター(救急外来)の 夜間受付、AED設置マップ、緊急通報テンプレ

家族の思い出企画——娘の好きな星座早見盤、妻のための朝コーヒー用ミル、写真を 撮るための三脚

 “未来の自分”宛の封筒——行程表/持ち物チェック/「今は不安でも、このリストを信じて」の一行



 六月八日 夜

「……キャンプ? あなたが、仕事で行けなくなったからって。だから、私たちは川辺の祭りに行くことにしたのに」妻が眉を寄せる。

「仕事、なんとかなって。キャンプ前から行きたいって言ってたじゃん。星、見たいって。それに、十三日は娘の学校の創立記念日で休みだし、ゆっくりキャンプできるよ」

  娘が乗りかけて、すぐに言い直す。「でも、川辺まつり……」

 時雄は切り抜き記事をテーブルに置いた。

 〈橋の伸縮継手、補修工事の遅れ〉

「今年は混む。危ない橋を渡るより、森の空のほうがきれいだ」

 妻は黙って記事を読み、携帯でロッジのサイトを開く。

「仮押さえ、してあるの?」

「うん。コテージ番号C-7。明後日の土曜チェックイン。直前なので、もうキャンセル料も発生しちゃうんだよ」

 娘が星座早見盤を手に取る。

「流星群、来るんだっけ?」

「少しだけね」

  三人の視線が、互いのため息の向こうで合った。

「……今年だけよ」妻が折れた。「来年は祭り」

「約束」娘が笑い、親指を立てた。


 六月九日〜十日

 朝の弁当、洗濯機のうなり、食器が重なる微かな響き。二人は元気で、世界は変わっていない——ひょっとしたら、このまま何も起こらないのではと錯覚するほどに。

 娘は単語帳を片手にトーストの欠片をつまみ、妻は出勤前にカレンダーへ細い字で「C-7」と書き足す。

 娘が靴紐を結ぶ小さな音、玄関の「いってきます」が重なる気配——いつもの家の、いつもの朝が淡々と流れていく。

 時雄は、仕事の合間に持ち物リストを磨き込み、防災用グッズ一式と救急箱一式+よく使う薬を一つのトートにまとめ、車の後部へ置いて重さを確かめる。

タイヤの空気圧を点検し、車載の消火器を買い足す。ブランケットに非常灯、バッテリー。もしものために。

 ロッジの施設について管理人に電話で確認し、避難経路、避難場所、器具設備の非常ベルの作動を聞き、電気設備のメーカー名をメモに記す。

(黒瀬設備工業の系列名が、メールの署名に——)

 土曜日には近隣の県立医療センターに偶然にも「救急体験イベント」があり、これにも申し込んでいる。

 星座早見盤、使い捨てカイロ、予備電池、紙の地図。小さなジップ袋に家族分の連絡メモを入れ、鍵の束に非常用の笛を結わえる。

夜はダイニングテーブルに地図を広げ、コテージ周辺の散策コースを色鉛筆でなぞる。妻と娘が笑いながら、星座の線をマーカーでつなぐ。

 一刻一刻が静かに過ぎる。

 ——もしかしたら、このまま何事も起きないのではないか。

 そんな錯覚が、ときどき胸の隙間へ忍び込む。だが、時雄は手を止めない。最後に家族で楽しい思い出を作ること——その準備に、自然と力が入る。

 信号待ちの横断歩道で、娘が指を絡めてくる。スーパーのレジで妻が「今夜はスープパスタにしよ」と笑う。

 湯上がりのドライヤーの風、ベランダに並ぶ洗い立ての白いシャツ、寝る前の「おやすみ」が重なって消えるまでの数秒。

 時雄はふいに思う。こういう何でもない匂いと音だけで、生きていける気がする。日常の幸福は、手のひらの温度のように確かで、そして容赦なく、時計の針と同じ速さで流れていった。

 準備の合間、ふと二人の笑い声が重なる角度に立ち会う。

(これが幸福の最小単位かもしれない)と、時雄は思う。

 封筒を作り、玄関ドアの内側にマスキングテープで貼る——“土曜の朝の自分へ”。


 六月十一日 朝

 目を開けると、薄い砂がさらさらと崩れるように、何かが手のひらからこぼれ落ちた。

 寝室を出て玄関の方を見る。玄関に白い封筒が、ドアスコープの真下にふわっと浮き上がるサインのように。

 いつもは無い景色に、何か得体の知れない不安が喉元に宿る。

 時雄はそれを開く。

『今日はコテージC-7へ。持ち物は封筒の中。心配ならこのリストを信じて。』

 自分の字だった。玄関下には、リュックを含めかなりの装備。

 妻が眠そうな目で、封筒を覗き込む。

「こんなに持つの?」

「念のため。山だし」

 娘は背伸びしてリュックの重さを確かめ、「本気のやつだ」と笑った。

 娘は地図アプリで星空指数を調べ、「今夜は晴れ」と親指を立てた。

 三人は車に乗り込む。

 昼前、車は街を離れ、山の影へ滑り込む。

 チェックイン。C-7の鍵を受け取り、寝具と食器を確かめ、非常ベルの位置と避難経路の紙を壁から剥がしてスマホで撮る。ロッジ裏手の換気口の網に、薄い埃。時雄は指で払ってから、もう一度風向きを確かめた。

 

 六月十二日 夕

 炭の匂い、川音。ロッジのテラスでホットサンドを分け、三人でまだ一等星ほどの星がかろうじて瞬く夕暮れの空を見上げる。

 ロッジのテレビが、緊急特番に切り替わる。

 〈川辺まつりの陸橋、崩落〉

 ヘリの映像。テロップに心肺停止が複数名、重軽傷者数多数の惨事。上空からの画面には、川べりホテルの煌々としたサインや黒瀬グループのロゴが光るビルも映りこむ。家族三人の動きが一様に画面に釘付けとなり黙り込む。

 妻が夫の手を握った。

「……キャンプにしてよかったね」

「……ああ。」

 夜、娘は星を数え、妻は湯を沸かした。六月でも夜の山中は冷える。

「いびきがひどくなるから、私は車で寝るよ」時雄は冗談めかして鍵を振る。

「じゃあ、明日の朝は私がコーヒーね」妻が笑う。



 六月十三日(月) 未明。

 鳥の声で目が覚めた。

 ドアを開けると、無臭のはずの空気が、舌の奥で金属を擦ったような味を残す。薄い頭痛。肌に重いものが張り付く。 呼びかける。返事はない。

ベッドサイドには、昨夜娘が置いた星座の紙。

二人は、綺麗な姿のまま、眠るように——。

 壁際の温風機のパイロットランプはまだ橙色に点いている。窓上の給気口のルーバーは閉じたまま固着し、外の換気フードは落ち葉と薄いビニール片で目詰まりしていた。

 室内側の通気口には清掃用の養生テープの端が半分残り、埃を抱えたまま空気の道を塞いでいる。排気は戻り、無音の気体だけが部屋を満たした。

 テーブル上の設備点検票を開く。製造番号の欄に、見覚えのある系列の名。

 黒瀬設備工業。

 備考欄の小さな字が目に刺さる——「強風時、逆流の恐れ/要換気」。誰も、そこまで気づけなかった。胸の奥で、なにかが静かに崩れた。


 * * *

 

 六月二十二日(水) 夜。

 雨脚は細くなり、街は同じ姿で彼を待っていた。理由もなく遠回りをしての帰り道、横断歩道の手前で足が止まる。

 傘も差さない男が立っている。濡れた靴のつま先が、また水たまりを割る。

「引き落としです。寿命の半分。」

 言葉が落ちた瞬間、頭の奥で、眠っていた砂が一気に崩れ、三日間の記憶が波のように押し寄せる。妻の掌の温度。娘の笑い声。ロッジの橙色の灯。封筒の字。設備票の欄外。黒瀬の名。

「——そして、あなたにはもう一つの道がある」

 男は淡々と「仕事」を差し出す。寿命派生商品を扱う側に回ること。顧客の寿命の半分が報酬ポイントとなり、一定が貯まれば、もう一度だけ“戻る”権利が手に入る。

「戻る理由は、まだ残っているでしょう」

「……ある。言葉にすれば、すべてが壊れる気がするが」

 時雄はゆっくりと、うなずいた。

 その夜、彼は悪魔Aとしての最初の契約書に、静かに署名する。



【もう一つの軌道:ライダー】


 六月十二日 二十一時一二分

 川辺新報社・夜間投函口。男は封の切れていない封筒の縁を指でなぞる。宛名は消され、差出人はない。封筒の内側に滲んだインク——“R”だけが残る。

 鍵のかからない投函スリットに、薄い封を斜めに差し入れる。中で紙が落ちる乾いた音。見上げれば、編集局の窓に蛍光灯の白。守衛の足音が遠のく。

「間に合う。——届く」

 靴音を夜に溶かし、黒いバイクへ戻る。エンジンはかけない。押して角を曲がる。

 通りで、帽子を目深にかぶった女——柴田玲奈が片手を上げ、流しのタクシーを止める。

「川辺の陸橋の手前まで、急いで」

 ドアが閉まる音と同時に、はす向かいの路肩でヘッドライトがひとつ、息を潜めたように点いた。

 黒いセダン。無線の短い声が漏れる。

「対象、タクシー乗車。西へ移動開始」

「尾行、距離三」

(追わせない)

 男は角をもう一つ回り、そこで初めてセルを回す。エンジンが低く目を覚ます。

先回りするように一本先の交差点へ出て、タクシーと黒いセダンの間に滑り込む。

黄色信号、減速。タクシーだけがすり抜け、セダンの鼻先にバイクが斜めに入って進路を塞ぐ。

 クラクションが短く二度。セダンの助手席の男が悪態をつき、フロントガラス越しにバイザーの下を睨む。

「前、どけ——」運転席の男が吐き捨て、次いで声が細くなる。

「……あれは確か——」

 喉の奥で潰れた名は、夜気に溶けた。

 バイクは一拍置いてウインカーも出さずに左へ寄り、さらに次の路地で急減速してセダンの視界から消える。

 視線が外れた刹那、タクシーは交差点の向こうへ小さくなり、尾灯の赤が雨に曳かれて薄まっていった。



 六月十五日 午前十一時三〇分

 川辺新報社屋・配送口脇の路地。

 帽子を目深にかぶった女——柴田玲奈が灰色のリュックで出てくる。背後で二人の男が距離を詰める。片方が肩を押し、もう片方が携帯を落とさせる——転倒事故の型。

(やらせない)

 ローラー台のストッパーを外す。紙束の台車が自重で転がり、二人の前を斜めに塞ぐ。路地奥でクラクションを短く二度鳴らし、柱影から黒いバイクのヘッドライトを一瞬だけ強める。

 搬入口から警備員が顔を出し、「おい、台車!」と声。男たちは舌打ちして身を引く。

 玲奈は振り返らず社員証をかざし、内扉へ消える。**声はかけない。**影だけが道を変える。


 六月十五日(水) 夜

 高架下の駐車帯。

 雨は細く、バイクの熱が金属の匂いを立てている。

 ロッカーに鍵を戻したとき、影がひとつ、街灯の輪から外れて立った。

「告知に参りました」

 レインジャケットの袖口から、透明な契約板が覗く。

「二度目の七十二時間が満ちました」板に薄い文字が灯る。


「第一契約——三十歳、余命五十六年。引き落とし二十八年、

 第二契約——本日満了。引き落とし十四年、

 残余寿命、十四年。——黒瀬淳一さん」

 名を呼ばれて、男は顎をわずかに引いた。「……間に合ったか」

「あなたの“間に合う”の定義次第です」悪魔は傘を差さない。輪郭が雨に溶け、ただ声だけが残る。「次の取引を?」

 男は首を横に振った。

「いや、もういい。……ここまでで十分だ」

「よろしいのですか」

「明日になれば、黒瀬の件は大きく出る。彼女は、もう一人じゃない」

 喉に乾きを覚え、肩が重い。二度の契約で四十二年、時間を差し出した。こめかみに白いものが混じり、指の節がきしむ。それでも胸の奥は静かで、不思議と軽い。十分だと思えた。

「——終わりでいい」

 悪魔は短くうなずき、「承知しました」とだけ残して雨の層に溶けた。

 バイザーに映る自分の目尻の皺が、わずかに深い。男は苦笑し、ハンドルに手を置く。

「よくやった」と、誰にも聞こえない声でつぶやく。

 エンジンの熱が冷え、遠くで線路がひとつ鳴った。

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