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デビルズ・デリバティブ ~悪魔の派生商品~  作者: 小澤文庫


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第6話 消される側と消す側の72時間

 六月十五日(事故から三日後) 

 午前八時二〇分。黒瀬グループ本社・特別危機管理室。

 ブラインドは下ろされ、白い卓上に印刷の束が並んでいた。ニュース配信予定表、各社社会部の動き、ネットの火点。


「——明日、十六日の朝イチで出る。地方紙の特集がトリガーになって、キー局と週刊が被せる。軸は“陸橋事故の管理責任”と“旧河上組系の取引口座”。止めるなら今日中しかない」 事務局長が短く言った。


 永田修司ながた しゅうじは紙束の端、小さく記された「川辺新報 社会部 柴田玲奈」という文字に目を止める。胸の奥で、昨夜の息子・隆司の声が再生された。


* * *


「お父さんさ、“橋渡るなよ”って学校メール来たけど、うちは届いてなくて…。でもネットで“陸側から撮るのが映える”って記事を見たから、みんなあっちにいたんだよ。あれなかったら橋の上にいたかもって、先生が言ってた」

「その記事、書いた人の名前、わかるか」

「え、名前? レナの一押しって記事だよ。ネットだよ」

 妻が「そういうのは先生からの連絡を優先しなきゃだめよ」と話を切った。永田はうなずいたふりをして自室へ戻る。


* * *


——いま目の前の「消去候補」の一番上にいる女記者は、息子を橋から遠ざけた当人だった。

 その文字列を見た瞬間、視界の奥で、別の白が立ち上がった。



 六月十二日。紙灯籠の光が川面にほどけ、金属が嫌な音を立てた、あの白い粉——コンクリの粉塵だ。


 まつりの事故の時間、永田は現場にいた。黒瀬の現金が動く日だった。祭りの雑踏に紛れて、輸送車の動線を目でなぞる。誰が立ち止まり、誰が視線を寄越すか。警備の無線がどこで途切れるか。——見張り役の仕事は、何も起こらないように“起こっている”ふりを続けることだった。

 川風に紙灯籠の匂いが混じる。橋の上は人と車で詰まり、歩道の帯がゆっくり揺れていた。

 次の角を曲がれば、金が動く。そう思った瞬間、足元から金属が擦れるような音がして、橋の腹がわずかに沈んだ。誰かが笑い、誰かが「気のせいだ」と言い、次の瞬間、音がひとつ増えた。鈍い破裂。悲鳴。車列が止まり、歩道の人波が一斉に押し返す。柵が鳴った。照明が揺れた。落ちたコンクリが路面で砕け、白い粉が宵の空気を曇らせた。 


 永田は“輸送”のほうへ戻ろうとしたが、背中から群衆が押し寄せ、身体が勝手に事故の中心へ流された。押し返す群衆の肩に押され、仮設柵の脇をすり抜け、落ちてきた破片で頬を切った。

 沈んだ橋の縁で、誰かが叫んでいた。

「子どもが——!」

 見下ろすと、瓦礫の隙間に小さな腕が挟まっていた。白い肌。指先が震えている。

 永田の体は先に動いた。理屈は後から追いかけた。鉄筋に手を突っ込み、掌を裂き、肩でコンクリ片を押し上げた。重い。音が鳴る。二度目の崩れが来たら自分も終わる。わかっていて、やめられなかった。

「大丈夫だ。息をしてる。——こっち、引くぞ!」

 誰かが反対側から支え、永田は腕を引いた。ぬるりと抜けた。女の子の体温が腕に残る。顔は灰で汚れ、目だけが異様に大きく開いていた。

 ——中学生くらい。

 その年頃の顔を永田は知っている。息子の顔が勝手に頭をよぎった。

 搬送の列に押し込む直前、彼女の手が永田の袖を掴んだ。爪が食い込み、痛みが走る。

「……お父、さん……」

 声は風に攫われ、サイレンに溶けた。

 搬送先の病院の廊下で、警察官が受話器に怒鳴るのを聞いた。

「佐伯さんの娘さんは今——!」

 そこで初めて、救い上げた“女の子”に名前がついた。佐伯——。

 永田は自分の手の裂け目に包帯を巻かれながら、ひとつだけ思った。

 ——あれが隆司だったら、俺は何をした。誰を殴り、誰を潰し、どんな線を越えただろう。


* * *


 机の上の紙束が、いまは瓦礫に見える。

 その瓦礫から、誰かの子を引き抜いた手で。いま、自分は別の誰かを“瓦礫に戻す”書類に判を押そうとしている。

 永田は呼吸を整えた。胸の奥で、あの日の粉塵がまだ舞っている。

 ——息子が、あそこにいたと思え。

 想像は一瞬で喉を塞ぎ、胃の底を冷やした。

 そして、目の前の「柴田玲奈」という文字が、ただの記者名ではなくなった。


「——永田さん、やり方は例の通りです。事故の余波に見せる。今回は初めにオドシを匂わせ、そのあと“地元で追加取材中の転落”か“搬送先での混乱による小競り合い”が筋ですね。そっちで台本を」若い職員がためらいなく言う。

「……事故の中に混ぜるのか」永田は確認だけした。

「はい。事故のせいに見える形で、との上意です。直接は触らない。現場処理は向こうの人間がやりますから、こちらは“そう見えるように”環境を作るだけです」

 “向こうの人間”——末端の実行班。永田はその顔を一度も見たことがない。鍵を開け、動線を切り、予定をかぶせて相手を一人にする。記録を一枚抜き、後で見た人間に「こういうことだった」と思わせる。自分は、直接はやっていない。——そう思い込むことで、ここまで来た。

「……わかった。書類をこっちに送ってくれ」

 会議は二〇分で終わる。廊下で本家の番頭筋からの着信。低い声はいきなり本題に入った。

「修司くん、今回は落とすよ。わかるね」

「はい」

「迷いそうなら言っとく。これはグループ全体で“なかったことにする”案件だ。ひとつでも漏れたら外に繋がる。外に繋がったら、君がいちばん困る。君の昔のことも、ぜんぶ」

「昔の、こと……」

 男は淡々と列挙する。


 ——早良建設の入札情報の差し替え。

 ——港湾倉庫火災での搬出リストの整理。

 ——フリー記者の飲酒転倒の席の設定。


「どれも致命的じゃなかった。だから君を上げた。だが今回は違う。致命的にする。スイッチを押すのは君だ」

「……承知しました」

 通話を切り、永田は白い空を見上げた。梅雨明け前の、やけに淡い光。下では何も知らない社員たちがエレベーターを待っている。

 ——俺はまだ、人を殺してはいない。

 だが、このまま進めば玲奈は「事故の一部」として処理される。最初のスイッチを押すのは自分だ。もう「まだやってない」ではない。



 ——同日 午前九時五五分

 黒瀬グループ本社・駐車場スロープ脇。車に乗り込もうとして、異物感に気づいた。視界の端でオレンジのパイロンが一本だけ不自然に向きを変えている。スロープのミラーには、さっきまでなかったはずの白い擦過線が小さく×印を描いていた。 ——倉庫火災のときの“合図”と同じ匂い。

 アイドリング音。路地の奥で黒いバイクが一瞬だけ姿を見せ、短く二度クラクション。つづいてミラー下の配管に貼られた古い工事札が風に揺れ、「駅前立駐P3 14:00」の文字が覗く。

 永田は誰にも見られていないことを確かめ、目線だけで合図を飲み込んだ。——こういう押し方は、黒瀬の人間の癖ではない。

 ——同日 午前十一時三〇分

 川辺新報社屋・配送口脇の路地。永田は離れたところから実行犯の見張りをする。

 搬入口のローラー台がきしむ。紙束を載せた台車が二台、陰で待機している。

 帽子を目深にかぶった女が社屋から出てきた。灰色のリュック、イヤホン、細い肩——柴田玲奈。

 すぐ後ろから男が二人。距離の詰め方でわかる。片方が肩を押して「つまずき」を作り、もう片方が携帯を落とさせる——転倒事故の型。今回は、柴田自身に危険が差し迫っていることを俄かに気づかせるオドシの入口。とうとう動き出した。

 その瞬間、ローラー台のストッパーが外れ、紙束の台車が自重で転がり、男たちの前を斜めに塞いだ。

 同時に、路地奥でクラクションが短く二度鳴る。黒いバイクが柱の影から半身を覗かせ、ヘッドライトを一瞬だけ強く照らす。警備員が搬入口から顔を出し、「おい、台車!」と声を張った。

 男たちは舌打ちして身を引く。玲奈は振り返らず、社員証をかざして内扉に消えた。誰にも話しかけられていない。陰の手だけが、道を変えた。

 永田は息をつき、腕時計を見る。——バイクの奴が止め、奴が誘導する。こちらは見届けるだけだ。


 ——同日 午後二時〇〇分

  川辺駅前立体駐車場・三階。夏前のコンクリは湿り、排気ガスの匂いが熱気に溶ける。黒いセダンのドアが音もなく開いた。

 「どうも。はじめまして。悪戯な商品を扱っている者です。まあ、ここでは“悪魔”と呼ばれていますけどね」企業コンサルのような、ごく普通の日本語だった。

「……誰の差し金だ。うちの人間ならこんな手は使わない」

「“委員会”の紹介です。あなたのところで、名前を出すとややこしい人が一人いる。その人づてに」

「委員会?」

「ええ、寿命を集めている委員会。あなたの会社みたいなもんですよ。“上が欲しいものを下が集める”という意味では」男は薄い透明のボードを広げた。

 回りくどいが自分の家業をほのめかすセリフ回しに、同業の筋であるかを探るよう、永田はその男の顔だけを見ていた。

「もう引き返せない場所に来てしまった、と後悔している人に、お節介をするのが仕事でして。報酬はそれなりですが」

「誰でも長く生きてれば、多少の後悔はあるだろう。そんなトークでは詐欺稼業に向いてないよ、あんた」

「あちら側の人間になるというのは、多少の後悔ですかね?」

「どういうことだ」

「あなたはまだ殺してない。しかし、これからその道を否応なしに進まないといけない。過去の事、家族の事」と男は少しだけ笑って見せた。

「——三日前なら、行ける。」

 そこで男が持っている透明のボードに目を落とした。目の前で不思議なことが起こっているのは間違いなさそうだ。今の状況なら乗りかかってしまえという勢いが先行した。

「俺は十五日の朝に戻りたい。会議が始まる前に——“やめる”と言える場所に」


「戻れます。ただし規約がある。“戻りたい日”の三日前に送られる。あなたが望む『六月十五日(水)午前』に対して、実際に送るのは六月十二日(日)午前八時三〇分。そこから七十二時間、線を組み直す。代償は——残り寿命の半分」

「……“直接のほう”に踏み込む前に、線を戻せるのか」

 永田は数秒だけ迷い、会議室の白い卓上と、若い職員の無邪気な「はい、事故に見せるやつです」を思い出した。——もう一度は無理だ。

 ボード上に署名する。

「では、行ってらっしゃい。七十二時間です。経てば契約の詳細は忘れます。“やり直した”という手触りだけが残る。砂がこぼれるみたいに。——でも、やり直した現実は残る」

「……ああ」

「目を閉じてください。戻るとき、胸が少し冷たくなりますよ」

 永田は目を閉じた。


 * * *


 六月十二日 午前八時三〇分(事故の当日)

 川辺丘陵区・自宅団地 ダイニング。薄い朝の光。リビングの奥で洗濯機が回る。

「戻った」

 時計は八時三一分。スマホに事故はまだない。氷を落とした麦茶をひと口。この三日で、“柴田に触ると面倒になる”空気を先に作る。それが自分の仕事だ。 

 最初に県警の旧知へ私用電話。

「おはよう。——すまん、きょうの祭りの件で。こっちで取材をかけられたくない筋がある。そっちで“この記者、別件でマーク中”という名目を立てられないか。名前は……」

「きょう? 急だな」

「急で悪い。事案が起きたとき、どの記者を通すかの順番が崩れるとややこしい。“そっちが押さえてる”形にしてくれれば、こっちも触らなくて済む」

「……名前は聞いたことがある。地方紙の若いのだろ。で、なんで嫌う?」

「あとで話す。きょうは——触らないでくれ」

 “警察が噛む案件”を末端は極端に嫌う。表に出るのをいちばん嫌がる。これで一段、入りづらくなる。

 つづいて危機管理室の共有システムへ“匿名情報”。

 《川辺事故関連、記者一名が県警筋と情報連携の模様。この記者への接触は“官との軋轢”の恐れ。事故処理・遺族対応を優先するなら、今回はスルー推奨》

 “官と揉める恐れ”は、上層に効く。

 三つめ。迷ったが、戻ってきた意味を考えればやるしかない。

「……もしもし。永田です。今、出られますか。——ええ、三年前の倉庫火災の件で名前が出かけた方の。あのときは本当にすみませんでした」

 受話器の向こうで沈黙。

 「川辺まつり。毎年、姿を見かけていましたが、声をかけられませんでした。きょう、祭りに行っても橋は渡らないでください。あの橋は危険です。信じがたい話なのは承知ですが、あのときの埋め合わせだと思って、聞いてください」


* * *


 ——同日 午後四時四十五分。

 川辺大橋・市外側バリケード手前。「——橋の上、いま人乗せすぎてるぞ!」

「おーい、徐行させろ、徐行、間隔あけて!」

 市の土木班の怒鳴り声が風に乗る。永田は仮設トイレの影から警備の近くで現場を見た。——あのままなら橋は沈み、人が落ちる。

 祭事の警らの無線が鳴る。

『本部本部、こちら県警。対象記者は仮設テントで対応継続中。現場からの勝手な接触は控えよ』

 小さいが確かな一文。共有ログに「県警が当該記者を把握・接触中」と残れば、十五日の朝に「柴田を事故に紛れさせろ」という理屈は立ちにくい。彼ら自身が日々、“警察が動く相手に手を出すな”と言っているのだから。

 金属の嫌な音。橋が沈みはじめる。

 ——この事故は変えられないのか。拳を握る。とっさに別方向へ視線を移す。

 川の手前の広場は「映えるスポット」としてロープで広く囲われ、KAWABE FES 66のオブジェがまだ陽が落ちていない中で白々しくライトアップされていた。広場の人々は、非日常の気配に橋のほうを見守っている。隆司の姿もあった。

 この広場ネタを流したのが、危うく消されそうになっている記者だ。——やはり、消してはいけない。


 六月十三日(事故の翌日)

 永田は「柴田に触ると後で面倒になる」という空気を撒き続けた。

 危機管理室チャット:《地方紙の記者、地検にも顔があるらしい。ここで変なことになるとそっちから来る。注意》

 総務決裁:《この記者、過去にうちのOB記事あり。“狙ってやるタイプじゃない”。無用な接触は控えるように》

 本家の番頭筋へは“あとで便利”を差し出す。《ここを表で潰すとOBルートが切れます。“沈静化の素材”として泳がせたほうがのちのち有用》

 合間に息子へメッセージ。  

 《お前が見た“陸側映えスポット”の記事、記者さんの名前わかったら教えてな。お礼を言っときたい》

 《レナの一押しの人だよ。しばた れな さん。カワベしんぽうって》

 永田は画面を見て、ゆっくりとうなずく。——守るのは、ここだ。


 六月十五日 午前八時二〇分

  黒瀬グループ本社・特別危機管理室。

 同じ光景がもう一度始まる。だが最初の一言が違った。

 「——川辺の件、地方紙が明日一面でやるようですが、県警が一部の記者と連携してます。名前は……柴田玲奈。ここを触ると向こうの線とぶつかるので、今回はスルーで」

 「スルーで?」

 「はい。代わりに匿名ブログのほうを落とします。あっちは身元がはっきりしないのでまだ調査中です」

 複数の違う名前の候補が消去対象のリストに置かれているようだが、どれもたどり着きなそうにない。永田は紙を見ることすらしない。胸の奥で何かがふっと軽くなる。——あの記者は死なない。

 同時に、頭の奥で砂がさらさらと崩れはじめた。

 さっきまで、三日前の朝の湿った空気も、橋の軋む音も、電話の女の沈黙も、すりガラスの向こうに退いていく。

 ——ああ、これが言っていたやつか。七十二時間経つと、契約の記憶が一旦なくなる。

 「永田さん?」

 「……ああ、悪い。聞いてた。スルーでいい。こっちはブログで進めよう」


 六月十五日 午後三時〇分

 川辺駅前立体駐車場・三階 エレベーターホール脇。

 午後の熱気がコンクリにこもり、冷却ファンのうなる音が途切れ途切れに響く。エレベーターホールの壁面に、黒いセダンの艶が淡く揺れた。

「お疲れさまです。精算の時間です」

 男がいた。軽い口調。ネクタイはしていない。

 永田は足を止め、眉を寄せる。

「……どちらさまですか」

 男は微笑し、指先で空の一点を示す。透明なボードが一瞬だけ光を帯び、文字列が浮かぶ。

「契約の再確認です。あなたは六月十五日午前に戻りたいと望みました。目的は三つ。一つ、直接殺しの線を越えないこと。二つ、息子を橋から遠ざけた情報の源——柴田さんを生かすこと。三つ、やめることで家族に“飛ばない”保証を得ること。

 規約により、実際に送付したのは三日前の六月十二日午前八時三〇分。あなたはそこで手を打ち直し、目的を達成しました」

 永田は口を開きかけ、言葉を失う。

「……俺は、あなたと——」

 男は首を横に振る。

「覚えていなくて大丈夫です。そのために設計されています。対価は“残り寿命の半分”。規約に従い、本日この時刻をもって徴収します。二十一年」

 言葉と同時に、胸の奥で冷たい指先が水面をなぞるような感覚が走った。視界のコントラストが一瞬だけ落ち、耳鳴りが細く伸びる。肺の奥が、少し軽くなった気がした。

 男は短くうなずく。「はい、お預かりしました。効用は既に発現しています。家族には飛びません。あなたの線も、今のところ守られている。——良い選択でした」

 黒いセダンのドアが静かに開き、また閉まる。アイドリングの音が斜路に溶け、車体は影の帯に紛れていった。永田はしばらく、エレベーターホールの金属枠に手を置いた。掌に残るのは、ほんのわずかな冷たさと、胸の真ん中に生まれた空洞の手触りだけだった。

 

 六月十六日 午前六時五五分

  川辺丘陵区・自宅ダイニング。朝刊がポストに届く。

 地方紙「川辺新報」一面——

 

 《橋崩落、管理の甘さ 市と民間に安全確認の“ねじれ” 事故前から指摘も》

 記事署名:柴田玲奈。

 永田は目を走らせ、グループ名が出ていないことを確かめた。

「どうしたの、そんなに早くから」

 妻がコーヒーを置く。

「いや、ちょっと気になる記事があってな」「へえ。会社の?」

「いや、息子を助けてくれた人のやつだ」「え?」

「いや、なんでもない」

 小さな顔写真を見つめる。若い。目がまっすぐだ。

 ——どうして俺は、この人を守ろうと思ったんだっけ。

 そこだけが、どうしても思い出せない。だが“守るべき人だった”という手触りだけは、胸の真ん中に丸い石のように残っている。

 ポケットのスマホが震えた。朝練へ出た息子から。

 《パパ! この人この人! ありがとうっていっといて!》

 写真付きのメッセージ。

 永田は口元をゆるめ、写真に小さく呟く。

「……助かったよ。ありがとう。——それから、すまん」

 なぜ「すまん」と言ったのか、自分でもわからない。だが、言わずにはいられなかった。

 昼、番頭筋から電話。

「修司くん、きのうの処理、よかった。警察が噛んでるってのは効いた。やっぱり君は現場の勘がいい」

「ありがとうございます」

「これからもお願いしたかったが、残念だな。申し出は受理されたよ。君も精神的にも体力的に良いタイミングだな。これから孫会社の管理になるが、望んだ実家の面倒も見られる場所らしいし。今後はこちらサイドから連絡することはないが、機密順守だけだ。よろしく」

 通話を切り、永田は窓の外をしばらく見た。自分はまだ、この家族を危険に晒せない。だから、この仕事から完全には抜けられない。


——それでも、自分の中の線は元の場所に戻せた。 直接、人を殺す側には行かない。“消す側”にいながら、“消される側”の顔をもう一度見られる位置に——。

 遠くで救急車のサイレン。あの日と同じ音。だが今回は、その音が、自分にまっすぐ向かってくる気はしなかった。


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