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デビルズ・デリバティブ ~悪魔の派生商品~  作者: 小澤文庫


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第5話 刑事の72時間

 六月十二日 十七時四〇分(事故の当日)

 川辺県立中央病院・救急外来は、まだまつり会場のざわめきを引きずっていた。ストレッチャーが次々運ばれ、床には水と泥と血が筋をつくる。自動ドアの向こうで、「赤一! 黄二!」と声が上がる。

 

 刑事・佐伯慎一さえき しんいちは、その場で立ち尽くしていた。

 ドア上のモニターには「手術中 14歳 女性」と表示されている。娘ののぞみ、中学二年。今日は「ボランティアで受付を手伝うだけ」と言って出ていったはずだった。


 橋が沈んだのは十七時ごろ。


 川辺まつりの車列が橋にさしかかったタイミングで、人の波が片側に寄った。あの橋は以前から「定員に対して余裕がない」と噂されていた。警備計画は県警に上がり、佐伯も目を通していた。——にもかかわらず、だ。

「佐伯さん」

 生活安全課の元同僚が駆け寄ってきた。声が申し訳なさそうだ。

「本部長から。きょうの警備の件、あなたが現場を外れたことは責任にしないって」

「そうか」

 短く答えたが、胸の中は燃えるようにざらついていた。消毒液の匂いが、喉の奥の熱をいっそう乾かす。救急外来の廊下は、担架のキャスター音と、誰かの泣き声と、テレビのニュースが同じ高さで流れていた。


 佐伯は視線を上げ、ガラス越しの待合の隅で、見覚えのある横顔にぶつかった。黒瀬の汚れ役——永田修司。

 

 昔から、妙な火災や、消えるはずのない帳簿や、事故の“帳尻”のそばに、必ず影だけ置いていく男だ。

 永田自身も今回の事故に巻き込まれたのかわからないが、軽傷のようで額の端に白いガーゼが貼られている。

 永田は、佐伯の存在に気づくと、一瞬だけ目を細めた。言葉は出さない。出せない、というより——出さないことを選んだ顔だった。次の瞬間、彼は椅子から立ち、誰にもぶつからない角度で人波を切り、非常口の表示へ吸い込まれていく。足取りだけがやけに軽い。

 追う、という反射が肩まで上がったところで、佐伯は止まった。娘の場所を離れるわけにはいかない。


 それでも、白いガーゼが、記憶の底の別の白と重なった。——あの夜も佐伯は現場にいた。雨とライトに洗われた路肩で、青いシートの下から運び出されたものを見届け、そして同じように、永田の背中だけが人混みの外へ消えていった。



 ——六年前。

 黒瀬グループの資金洗浄に絡んだ強奪があった。裏金を積んだワゴン車を別の車に受け渡す直前で捜査線が入り、逃走車が市街地に流れこんだ。追尾中のパトカーが二台、一般車を避けるために膨らみ、真ん中にいた小さなワゴンがはさまれた。

 そのワゴンが、佐伯の妻・美奈子の車だった。夕方の買い物帰りで、後部座席にはスーパーの袋が転がっていたという。衝撃で助手席側を強くぶつけ、搬送された。医師は「即死に近い」と言った。現場にいた係官も「これは“被害者 四”で上げます」と言っていた。

 だが、だ。

 事件の三日後、事故記録が内部で回ってきたとき、そこには「人的被害 三名(うち軽傷 二)」と記されていた。妻の名前は、事故記録からは外されていた。

 理由は分かっている。黒瀬側が、運んでいた金の素性を隠すために「人身を小さく見せたい」と言い、県警の中にもそれに乗る者がいた。裏金がらみの事故で「巻き込まれた一般人が死んだ」となれば、資金の出どころまで遡って捜査が広がる。だから「死者 三→被害 三(うち軽傷 二)」に書き換えたい——そういう“話”が上から降ってきた。

 そのとき佐伯は、署内の会議室で、上席にこう言われたのをまだ覚えている。

「お前の家族の件は、お前の胸にだけ置いとけ。組織を守る線はこっちで引く」

あの瞬間、妻は「実在した被害者」から「書類には載らない人」に落とされた。佐伯は、机を叩いてでも拒めばよかったのだ。妻の遺体に土をかける前に「被害者4名です」と外に出せばよかったのだ。だがその場で彼は、刑事としてのほうの顔を選んでしまった。


 結果として、妻は死に、しかも「いなかったこと」にされた。葬式に来た同僚は「奥さんのことは分かってるから」と言ってくれたが、県警の公式記録上は、彼女はその日そこにいなかったのだ。

 あのとき娘の希はまだ小学二年で、事情など分からないまま、母の遺影を見上げていただけだった。佐伯は「警察は正しいことをしている」と言い聞かせ続けたが、内心では「自分が見なかったことにした」と分かっていた。


 そして今日。また仕事を優先して、娘を危ない場所に行かせてしまった。「二回目」は、許されないはずだったのに。

「お父さん、手術に入りました。あとは……」

 担当医の言葉は、途中で遠くなった。


 そのとき、廊下の一番奥、面会禁止の札の前に、黒い上着の男が立っていた。泥も汗もない。病院の空気から浮いている。

 男は佐伯をまっすぐ見て、顎をわずかに動かした。「……お忙しいので、手短に」

「今は警察は——」

「警察の話ではありません。あなた個人と、六年前から続いている“見なかったことにされた被害者”の話です」


 その言い回しで、佐伯の背中が冷えた。男はごく事務的に続ける。

「時間を戻せます。戻る地点は、あなたがやり直したい日の七十二時間前。きょう、六月十二日の十七時ごろをやり直したいなら、六月九日の十七時に戻ることになる」

「……代わりに、何を取る」

 自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。 男はうなずく。

「あなたの残っている寿命の半分を受け取ります。数字は言えません。規約です。知らないほうが動きやすいので」

「半分持っていかれても、生きられるのか」

「生きられます。残りの寿命をね。六年前にあなたの奥様の記録が“消された”あの処理——あれも、きょうの現金移送も、まとめて潰せる可能性があります。戻る価値はあると思います」

「……きょうの現金移送のことも知ってるのか」

「祭りの協賛金という名前で、六年前の捜査関係書類と決裁印の実物を、別の帳簿に“載せ替える”つもりでしたね。黒瀬側と、県警の中の一部が組んで」

 図星だった。祭りの日は、警察も役所も「現金が動く日」だ。そこに、六年前に問題になった証拠書類の「生き残り」を紛れ込ませて処分すれば、あとで調べる者はいない。

 つまり、きょうの事故も、その混乱にまぎれて「六年前の隠ぺいを完了する」計画とくっついていた。娘が巻き込まれたのは、その一番ひどい日に、彼がまた「仕事を優先したから」だ。

 男は、空気の上に薄い板をすっと出した。光を受けて、そこだけガラスを立てたように冷たい面が見える。

「ここにサインを。六月九日に戻る。そこで、娘さんを橋に行かせないようにし、同時に、隠ぺい前の原本を抜いてください。捜査一課・保管庫の棚A−3に、まだ差し替え前の『被害者一覧』『関係車両接触報告』『黒瀬関連資金送信記録』が残っている時刻があります。六月九日の朝なら間に合うはずです。あなたは位置も鍵も知っている」

「……俺が抜いて、それをどうする」

「あなたは警察なので、正面からは出せません。ですから、外に投げてください。そう、川辺新報の粋がよい女性記者さん。警察も煙たがってる有名人いますよね。彼女宛てに、匿名で。——あなたが三日間動けば、“差出人不明の束”が、より重くなります。そうすれば、この事故の“あれは本当に事故だったのか”という線が、後々にね……」

「……誰に向かって説明してる」

「未来の整理のためです。あなたはあなたの後悔だけを考えてください」

 医師が「ご家族の方!」と呼んだ。男は顎で板を促した。

「決めるなら今です」


 指先が板に触れ、板は水面の反射のようにふっと揺れ、視界が水をかぶったように反転した。


 * * *


 六月九日(事故の三日前)

 朝五時三〇分。佐伯は、寝室で跳ね起きた。スマートフォンの表示は「6月9日」

 リビングに出ると、テーブルに学校からのプリントが出ている「六月十二日 川辺まつりボランティア募集」。

 その横に、娘の黒いリュック。すべてが「やり直す前」と同じ場所にある。


「希、起きろ」

「……まだ六時前でしょ」

「起きろ。今日のうちに学校行って止める」

 むくれた顔で出てきた希に、佐伯はプリントを突きつけた。

「これ、出すな。今回は行かない」

「えーなんで。みんな行くし——」

「行かない。警察の要請だ。一般ボランティアは減らす」

「お父さんの都合じゃん」

「お父さんの都合だ。だから聞け」

 強めに言うと、希はしぶしぶ「……分かったよ」と言った。だがこの「分かった」は信用できない。学校ごと止める必要がある。


 午前七時四〇分。川辺県警・本部棟。

佐伯は、まだ人が少ないうちに資料保管室に入った。カードキーで開けられる時間帯を知っているのは、六年前にこの棚を見に来たからだ。棚A−3。

 そこにあった。

「H23/6/14 強奪逃走車両接触報告(加害:黒瀬グループ関連)」。

「H23/6/14 被害者一覧(※機密・外部送付不可)」。

 妻の名前が載っている最終版だ。これが、六月十日の「処理」で「参考(非公表)」に格下げされ、翌週には「未送付」扱いで消える予定だった。

 さらにその奥に、きょう処分予定の「別件決裁書類」の写しが差してある。黒瀬の関連口座から祭り実行委に不自然な寄付をつけるための「表向きの根拠」だ。これも抜く。

 佐伯は、それらをポータブルスキャナで順番に読み取り、USBに落とした。小さな封筒に入れて、あらかじめ用意していた便箋を一枚だけ添える。

「六年前の事故は、被害者が三人ではありません。書類を消す動きがあります。川辺まつりの資金に、同じ人たちが関わっています。」

 差出人名は書かない。これを昼休みに、地方紙「川辺新報」の投書口へ投げ込めばいい。文屋が後は動かすだろう。それで警察内部の実物になる。隠ぺいの線は、あとで誰かが拾える。

(これで、あのとき見なかったことにした分は——少しは戻せる)

 心の中でつぶやいた。

 その足で本庁に上がり、十二日の警備計画に「橋上滞留の時間短縮」と「現金移送を橋から外す案」をねじ込む。

 上司は最初、「黒瀬の話を今出すな」と言った。佐伯は静かに告げる。

「六年前に、うちで事故記録を書き換えた件がある。今回も同じところが動いている」

 それを聞いて、上司は顔色を変えた。

「お前、あのときの原本、まだ見られるのか」

「見られます。だから今止めるべきだと言ってます」

「……分かった。“地域の混雑対策”って名目で出す。黒瀬の名は出すな」

 こうして、橋の上に人をためない警備に計画が変わった。

 


 六月十二日(事故の当日)

 天気は晴れ。人出は多い。だが、橋の上は五分ごとの通行で流れている。

 土木の現場では警察からの支援も入り、橋に人をためるなという指示が前倒しで共有され、まつり実行委のルートは一部が短縮された。

 橋の歩道入口には、黄色いバリケードが三本置かれ、「重量物進入禁止」、「10人ずつのお願い」と書かれた大きなボードサインが掲げられている。

 陸側の救護テントの外には赤十字マークのある硬いケースボックスが幾つもテントからあふれている。

 新聞社発信の「橋を渡らず陸側で映える写真が撮れる」という町ネタが飛び交った。橋の手前の展望広場で駐車している幼稚園バスから降りてきた園児たちが橋をバックに全体写真を撮っている。

 問題の現金は、橋の手前で「別ルートに回せ」という指示が出た。黒瀬側の男は不満そうだったが、警察官に囲まれれば従うしかない。


 十七時〇二分。橋は、やはり一度、ぐっと沈んだ。


 歩道側の人が数名落ち、複数の車が玉突きをし、歩道に乗り上げた車もある。しかし、幸いなのか橋から転落した車はなかった。中学生のボランティアらしき姿もない。

 無線が飛ぶ。

「歩行者、多数負傷、重傷複数名の模様! 崩落は部分的! 通行遮断!」

 佐伯は、現場で想定どおりの負荷分散になっていることを確認し、すぐに回線を切り替えた。

「橋上、車両はそのまま西へ流せ。歩行者は南側へ誘導。——救急、あと五分で追加が来るぞ」

 六月十二日午前五時を過ぎた時点で、彼の頭からは「なぜこの三日間をここまで細かく段取りしたのか」という一番の動機はうすれている。だが手は、三日前に決めたとおりに動く。まるで、そこにそう書いてあったかのように。


 夕方、現場の指揮テント脇。十七時四〇分を少し回ったころ。

 空気がひやりと曲がり、黒い上着の男——悪魔Aが、誰にも気づかれずに立っていた。

「ここであなたと契約しました。なので、この時刻まで来れば、契約時に言えなかったことを告げられます」

 佐伯は、男を見た。

 (……どこかで会ったような気がするが……)

 男は事務的に言う。

「あなたの残りの寿命は、この告知をもって半分になります。残りの寿命は二十年。お仕事の性質と肉体の消耗を考えると、実働で十数年です」


「……やっぱりそんなもんか」

「今回、あなたは“家族を現場から遠ざける”だけでなく、“六年前に消されるはずだった被害記録を外に出す”ということまでしました。契約は完了しています」

「隠ぺいを止めた分で、寿命が伸びるってことはないのか」

「ありません。人が何かを守ったからといって、時間が増える仕組みではないです。それとも他人の寿命を貯めてみますかね。——まぁ、それはあなたの仕事ではないでしょうけど」

 佐伯は、少しだけ笑った。

「いや、俺は警察で、悪魔じゃない」

「でしょうね。ですが、今回あなたが抜いて新聞社に投げた束は、のちに必ず効きます。あのままなら誰にも届かなかった話が、今回は“届く側”の机の上で止まります。あなたが六年前に見逃した隠ぺいは、これで『なかったこと』にはできなくなりました」

「……なら、やっといてよかった」

「よかったとお考えください。——なお、もう一度別の時期に戻ることもできますが、残りはさらに半分になります。人生としてはかなり短くなりますがね」

「二回も、同じ後悔はしたくない」


「了解しました。記録します」悪魔は指先で透明の契約書をチェックし、まるで伝票を処理するみたいに頷いた。

 

 悪魔はペンを置き、思い出したように付け足した。

「あ、そういえば。前回——あなたの娘さん、瓦礫の縁から腕を引きずり出され、陸まで抱えられて救助されたらしいですね……永田修司って男に」

 “らしい”が、妙に刺さった。確かめようがないのに、映像だけが勝手に具体になる。

 悪魔は肩をすくめる。

「世の中、そういうのが混ざります。帳尻のつけ方ってやつです」

 そういうと、悪魔の姿は、六月の夕方の熱気の中にすっと消えた。


 あの男が娘を——。そう思った瞬間、胸のどこかが礼の形を探しにいき、すぐに途中で迷子になる。

 数秒後、現場指揮から無線が飛ぶ。

「佐伯さん! こっちの証言、さっき押さえた運び屋が“六年前と同じ連中だ”って言ってます!」

「すぐ行く!」

 佐伯は走った。走りだした瞬間、胸の奥に、わずかながら“削れた”ような鈍さが残っているのを感じた。長く引っ張れる呼吸ではない、と体の方はもう知っている。それでも足は軽かった。


 ——六年前に置いてきたものを、やっとこちら側に引き寄せた。

 ——娘が今日は無事に家に帰る。



 その実感のほうが、削られた寿命の重さより先にあった。

 そして、なぜそれができたのかという一番根っこの記憶は、やはり少しずつ、砂のようにこぼれはじめていた。


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