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デビルズ・デリバティブ ~悪魔の派生商品~  作者: 小澤文庫


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第4話 最後の目の72時間

 五月十日 夕方(事故の一か月ほど前)

 ログの行が、一つだけおかしかった。

 黒瀬設備・本社ビルの4階。品質情報管理室。川辺まつりまでは、まだちょうど一か月ほどある五月十日だった。

 昼でも蛍光灯をつけておかないと手元が暗い、窓の細い部屋だ。天井に貼られた消音ボードはところどころ黄ばんでいて、壁際の棚には「2016年度 橋梁点検」「2017年度 公共施設 点検」「2018年度 特定入札案件」みたいな背表紙がみっしりと並んでいる。どれも中身はExcelとCSVとスキャンPDFでできていて、最後の最後で「どの版を公式にするか」を決めるのが小早川透子こばやかわ とうこの仕事だった。

 その日、「祭事開催準備事前点検(6月12日開催)」のファイルが、ひとつだけ前に出ていた。


 bridge\QC\log_20190612_rev0066.csv


 六月十二日に行う川辺陸橋の開催前整備の点検ログ。黒瀬グループの中核である黒瀬インフラが元請けで、黒瀬設備はうしろで補機と配管と器具を触る。毎年似たような写真が来て、毎年似たような「昨年同様・適合」で終わるやつだ。透子はマウスで開いた。画面にはいつものように、日付、時間、点検担当者ID、写真ファイル名、判定ランク、備考……と続いている。最初に読んだときは、本当に何の変哲もなかった。

 ——はずだった。

 ちょっと目を離して、電話を一本取り次いで戻ってきたら、判定ランクの列が一行だけ変わっていた。ID「066」。ハンガー第7支点。編集者IDは「KSE_quipment」。

 社内にそんな端末名はない。三年前の体育館のときも、昨年の用水路のときも、この変なIDが最後に触って“昨年同様・適合”に直していった。


 ——父がよく言っていた。父は元・県の設備監査の人で、退職して数年で亡くなった。

 父の言葉には、出来事がくっついている。

 まだ透子が学生だったころ、県の「地区公民館と隣接公園の総合整備」の案件があった。裏手を流れる川に、園路をつなぐ小さな橋を新設する——名目は「地域の回遊性向上」。父は、その最終検査の書類を、珍しく自宅の台所に持ち帰ってきた。

 夜の蛍光灯の下で父がめくったのは、施工写真とチェックリストの束だった。ページの端に細い穴。いったん外して差し替えた跡。判定欄の文字だけ、インクの艶が違って新しい。赤鉛筆で囲まれていたはずの「要再確認」が、いつの間にか消えている。

「“並べ替え”だと」

 父は小さく笑ってみせたが、目が笑っていなかった。透子は視線を外した。父はそのページを指で二度こすり、ぽつりと言った。


「最後の目が濁ってたら、全部が濁る」


 ほどなくして、あの公園は開園式を迎えた。ニュースは明るかった。だが最初の増水の夜、川沿いの遊歩道が一部えぐれ、橋の継ぎ目が鳴った。名前は出ない。父はテレビの音を消して、台所で湯気の立たない味噌汁をただ見ていた。


 透子は、父の葬式のあと、あの言葉を思い出しては台所で泣いた。紙の差し替え跡と、父の“笑えない笑い”が、喉の奥に残っていた。でも仕事では、二度も濁した。だから三度目にこれを見た瞬間、身体のどこかで「ここでまた黙ったら、もう私は“あっち側”になる」と分かった。


 透子はモニターを見つめたまま、しばらく何も打たなかった。

 このまま「問題なしで」押印してCSVを閉じてしまえば、一日静かに過ぎる。営業にも感謝される。黒瀬インフラの広報にも「助かりました」と言われる。けれど、それは三年前と昨年に自分がやったことと、まったく同じことだ。

「……直すしかないよね」

 そうつぶやいたとき、画面の右下で共有フォルダの通知がぽん、と弾んだ。


 ——【社外持出厳禁】川辺まつり関連・点検ログについて/総務


 ほぼ同時に内線が鳴る。総務課長の声。

「小早川さん? さっきの川辺のログ、一回閉じといて。元請けさんのほうで“並べ替え”が入るって。うちのほうでは操作しなくていいから」

「……並べ替え?」

「そう。表示順。実害ないから。いまの版で押すとややこしいから、いったん閉じといて、って」

 実害ないなら、今、何を慌てるんだろう。

 透子は内線を切って、ディスプレイを見た。判定ランク「C(要閉鎖)」が、目の前で「B(注意喚起)」に変わった。備考欄の「歩道側荷重、祭事当日要観測」が、ふっと消える。代わりに「昨年同様」に統一される。時間は16:06。


 ——これが“並べ替え”?

 三年前——体育館の屋根が落ちたとき。

 一年前——用水路があふれたとき。

 どっちも、最後にこの「KSE_quipment」が触っていた。どっちも、自分は黙っていた。

 その日の夕方の会議室は、初夏で冷房が弱い。黒瀬グループの四社合同インフラ定例。設備・インフラ・PR・総務。机の上には紙灯籠の見積もりと、六月十二日の導線図が並んでいる。

「県の観光が、今年は“渡り”を細くするようにって」

「いやいや、スポンサーの顔が立たんでしょ」

「通行止めは出さないって市役所が言ってたじゃないですか」

 言葉の流れは毎年同じだ。透子は端っこの席で、議事録用のノートPCを開いたふりをしていた。

 さっきのログのことを言うか。

 言えば、場が止まる。

 三年前には、そこで黙った。

 今回は、黙れなかった。


「すみません、一点だけ。——六月十二日の開催前整備のログで、第7ハンガーの判定が一度Cに出てました。いまはBに戻ってますけど、“KSE_quipment”っていう、過去の事故のときにも出てた編集IDが触ってます。……一応言っときます」


 会議室の空気が、一段だけ下がった。

 だが結局この日は、技術側が「もう一回見ます」で終わり、PRは「表には出さないで」と言い、総務は「情報システムに投げます」で閉めた。

 つまり——五月十日のこの時間軸では、透子は“言った”が、“通らなかった”。


 * * *


 六月十二日(事故の当日)

 そして、一か月後。第66回川辺まつり当日。

 夕立のあとの湿った風。橋には紙灯籠を持った人たちが、ほぼ当初設計のままの導線で並んでいた。

 透子はその橋渡しが見える「川べりホテル」の最上階、黒瀬グループが社員や家族、お得意先を招待する懇親会場にいた。乾杯のグラスが鳴り、名札の紐が首元で擦れる。会場の壁際のテレビには、川辺まつりの特集が流れている。事前に収録した編集された映像が流れている番組だ。画面の隅には、協賛:黒瀬グループ。司会者は、橋のイルミネーションや紙灯籠の由来に混ぜて、黒瀬インフラの「地域貢献」まで語っていた。

 懇親会のフロアは最上階。外の音は届かない。二重窓と空調とBGMが、外の世界を薄い膜で遮断している。ここから見える橋は、風景画みたいに静かだ。

 その静けさを破ったのは、外の音ではなかった。テレビの画面だった。


 ぴっ、と短い電子音。画面下に、ニュース速報の帯が走る。


 《川辺陸橋 一部崩落か》

 誰かが「え?」と声を漏らした。会場の音楽は途切れない。乾杯の余韻も、料理の皿も、そのままだ。ガラスの向こうの現実は、音のない映像としてしか届かない。

 透子は反射的に窓へ寄った。

 橋が——沈んでいた。正確には、橋の一部が“いま”ほどけていくところだった。紙灯籠の光の帯が、途中で切れる。人の列が、点の集まりみたいに止まり、逆流し、押し合う。落ちた部分の手前で、光だけが宙に滞留しているように見えた。音はない。悲鳴も、金属音も、こちらには届かない。ただ、惨事の形だけが、遠景のジオラマみたいに、静かに進行していた。

 ——「歩道側荷重、祭事当日要観測」

 あの一文が消されたところで、そのまま実施した結果、想定よりも長く人が橋の上に滞留した。ニュースは、のちに「警備側の見込み違い」と書くのだろう。けれど透子の目には、見込みでも偶然でもなく、“消された文字”が作った滞留にしか見えなかった。


 ——またやった。

 ——三回目。

 体育館、用水路、そして橋。

「最後の目」が濁ったから、全部が濁った。

 懇親会場は事故の大きさが伝わると人が消えていき、開催者が閉会を言うまでもなく自然解散となった。透子は懇親会場にいた社員とともに、今後の対応のためにとオフィスに待機を命じられた。


 黒瀬設備・本社ビルの夜のオフィスは、昼よりも音が少ない。夜の窓は黒い。ガラスは鏡のように部屋の中を映す。透子はそこに立って、自分の顔を見ていた。蛍光灯の白が、頬骨の影を硬く切る。名札の紐がねじれている。窓の中の自分は、目を開けたまま、瞬きを忘れているように見えた。

 この目が、最後の目なんだ、と透子は思う。


 夜になってもニュースは続いた。

「早期の原因究明を——」

「開催前整備についても、契約業者に——」

 会社名は出ないが、自分の会社だ。胃の奥がきゅっとなった。

「一回でいいから、五月十日のあの部屋に戻れたらな……」

 つい、口に出た。

 ——あのとき、まだ一か月あった。

 ——あのときなら、社外にも、匿名にも、新聞にも、役所にも、ぜんぶ“前倒し”で投げられた。


 蛍光灯がぶん、と一度だけ明るくなる。空調の風が逆に流れたように感じた。


「——三日前なら、行ける。あなたが戻りたい日から三日前だ。代わりに、あなたの残り寿命の半分をもらう」


 背後で、事務連絡みたいな平板な声がした。

 振り向くと、反射テープの入ったベストの男が立っていた。透明なフェイスシールド。現場の人間のようでいて、そこにいるのを透子以外の誰も見ない。

「は?……あなた、誰」

「悪魔。とだけ名乗っておく」

 男は続けた。

「あなたが本当に戻りたい“とき”には送れない。規約で、三日前だ。だから——あなたが戻りたい日を、まず決めてほしい」

 男の背後、夜の窓ガラス。透子は、自分が映る窓にその男がいないのに気づいた。

「戻りたい日を……私が決めるの?」

「そう。たとえば、今日の事故の結果を見せられて“やっぱりあのCSVを通したからだ”と分かった直前に戻りたい、と言うなら、送れるのは六月九日の同じ時刻だ。「三日分しか覚えていられないから、あなたはそのあいだでできることだけをやることになる。市役所と県と新聞には回せるが、動くのはギリギリだろう」

 悪魔はすぐに、もう一つの案を出した。次に男の口から出た数字で、透子の息が止まった。

「もう一つは。あなたが本当に息をのんだ瞬間、一か月ほど前の五月十日十六時六分 ——ID『066』。第七支点。判定欄は『C(要閉鎖)』から『B(注意喚起)』に落ち、編集者IDは“KSE_quipment”。あのCSVが“勝手に”書き換わったのを見た瞬間、—— を戻りたい日に指定するなら、送れるのは五月七日のその時間だ。そこから三日間覚えていられる

 つまりその三日間で、外に出す手当てを“全部セット”しておけばいい。六月十二日までに一か月あるから、役所の回答期限も、情報公開の受理も、社内のワークフローも、全部現実のスピードで回る。あなたが忘れても、紙とシステムが覚えている」

 喉が乾く音がした。その数字は、まだ誰にも言っていない。会議室でも、せいぜい「Cが出た」としか言っていない。IDも、あの綴りの欠けた端末名も——口に出す前に飲み込んだ。


 窓ガラスに映る自分の顔が、青白く見えた。口は開いているのに、声が出ない。 “当てられた”というより、“見られていた”に近い。

 ——この男は、知っている。

 少なくとも、私が見たものと同じものを。

 透子は黙った。どちらも理屈は通っている。けれど、どちらにも穴がある。

「……でも、一か月前に戻ったら、私、五月十日の夕方にはあなたのことも、納得した理由も忘れるんでしょう? そこから祭りまで一か月もあるのに、私が“ほんとうにそう思って書いたメモ”として動けるか、分からない」

「そうだ。七十二時間を過ぎたら、あなたは“なぜこれをやると決めたか”を忘れる。『悪魔』『契約』の語も書けない。残るのは“行動だけ”だ。だから、三日で“行動が自走するように”組んでおく必要がある。たとえば——」

 男は指を三本だけ上げた。

「 まず、市への情報公開請求をオンラインで出してしまう。受付時刻が残るから、あなたが忘れても向こうは出さざるを得ない。

 二つ目、 社内の匿名通報フォームに、ログのファイル名と場所だけ書いて投げる。あなたの名前は出さない。だがシステム上のチケットが勝手に走る。

 そして三つ目、 地元紙と県記者クラブに“6/12開催前整備ログを見てください”というFAXを物理で送っておく。これはFAX機が覚えている」

「……三日で、そこまで」

「三日なら、あなたは理由を持ったまま動ける。三日を超えたら、“これは一か月前の自分が立てた段取りなんだな”とだけ思って、機械的に確認するだけになる。だが、そういう仕事をするのは、あなたは得意だろう」

 得意だ。言われなくても、得意だと分かっている。六月九日に戻れば記憶はあるが、三日では外を動かしきれない。五月十日に戻るなら、外は回るが、途中で自分は「なぜ」を失う。


 父の声が首の後ろでよみがえる。

 ——最後の目が濁ってたら、全部が濁る。

 だったら。

「……五月十日に戻したい。あのとき。『rev0066おかしい』って思ったとき」

 悪魔はうなずいた。

「了解。では、五月十日 十六時六分を“戻りたい日”として登録する。送るのは三日前、五月七日 十六時六分。そこからの七十二時間は、きょう話したことを覚えていられる。七十二時間以内に“紙とシステムにやらせる段取り”を全部載せてしまうこと。忘れてからも、あなたの手は動く。——それが、あなたに向いているやり方だ」

「……でもさ」

 透子は、ちょっとだけ口を尖らせた。

「ログ一個まともに通すだけで、寿命半分とられるって、ちょっと可笑しくないですか。もっとこう、世界を救うとかじゃなくて、社内の品質ログですよ?」

「そう感じる人は多い。だがこれは“人生をやり直すために三日前に戻れる”商品の標準価格だ。安売りはしていない。あなたの場合はなおさらだ。体育館、用水路と二度、見て見ぬふりをしている。三度目でやめるなら、ここで代価を払うしかない」

「……はいはい。分かりましたよ」

「本来の余命の半分が対価になる。戻ったあとの七十二時間だけ、いま話したことを覚えている。『悪魔』『契約』などの語は書き残せない。残るのは“やることを先にやる”というメモだけ。——では、五月七日 十六時六分に送る」

 風が逆さに流れた。

 

 * * *


 五月七日 夕方

 黒瀬設備・本社ビル4階。品質情報管理室。透子は、ディスプレイを見ていた。机の上には、あらかじめ用意してあった自分の字のメモがある。


 《6/12ログは外部にも》

 《市役所夜間収受》

 《新聞社》

 《匿名投函》

 《監視センター閲覧申請 前倒し》

 《川辺は10人ずつ 歩道側に重ねるな》


 自分の字だ。けれど「なぜそうするか」は、七十二時間で消えることになっている。透子はすぐに動いた。

 ログを開き、CランクのままPDFに落とし、私物のUSBに入れる。

 一か月も前の整備でCが出ていること、過去にも同一IDがC→Bに下げていること、同じIDが過去の二件の事故でも触っていることを、箇条書きのままにして、封もせずに四通プリントする。


 十七時半のチャイムで会社を出て、まず市役所の夜間収受に無言で投函する。

 帰宅してすぐ、地方紙「川辺新報」社会部宛に、短いメールを予約送信の設定をする。

 ——件名:祭事向け整備ログについて

 ——本文:陸橋点検のログが、外部から書き換わっています。過去の体育館と同じIDです。


 差出人のところに会社の名前は書かない。だが、あの記者なら開くだろう、という目星はついていた。七十二時間が過ぎるころには、透子の“なぜ”はもうだいぶ薄い。けれど六月十二日当日には、

 

・市役所の机の上に匿名の「6/12のCを下げるな」の紙があり

 ・川辺新報の柴田玲奈の受信箱には「6/12の橋のログが書き換えられてる」というメールが入り

 ・黒瀬設備社内の匿名通報にも「KSE_quipmentがまた触ってる」という文面が入り

  ・監視センターには「当日、歩道側荷重のリアルタイム閲覧を」の申請が“なぜか一か月前に”届いている

 ——という状態になった。


  でも、事故そのものは消えない。寿命の並びも変わらない。


 

 五月八日~九日

 透子は手順や段取りの人だと自分でもしっている。事故当日に向けた行動を計画的にすすめた。でも、もう一手、いる。証拠とは別の、もっと軽くて、もっと外側に回る一手。

 ——あの記者。

 透子は、地方紙「川辺新報」のサイトを開く。特集ページの端に小さくある欄 ——《レナの一押し 質問・投書》

 黒瀬グループにもよく取材に来る記者で、記事が出ると社内のチャットがざわつく。面倒だ、と誰かが言う。上層部からは煙たがられていることも漠然と知っていた。 

 ——だからこそ、ここだ。

 匿名で、投書フォームに文字を打つ。“橋”とも“黒瀬”とも書かない。書けない。書いたら、通らない。ただ、導線を変えるための「町ネタ」を、玲奈の机の上に置く。

 「質問です。川辺まつりって、どうしても『橋を渡る』が主役になりますが、橋以外の“撮りどころ”って作れないんでしょうか?川沿いの空き地とか土手に、紙灯籠と相性のいいフォトスポットがあれば、観光としても発信しやすいと思います(匿名)」

 


 五月十日 夕方

 午後の空気が、乾いていた。蛍光灯の白が、やけに薄い。

 透子は何度も時計を見た。見たくて見たんじゃない。目が勝手に、16時06分を探してしまう。 

 頭の奥で、薄い砂がさらさらと崩れる感覚がした。言葉が、砂に埋もれていく。透子は窓ガラスを見た。映っているのは自分だけだ。

 名札の紐、肩の線、指先のインク汚れ——全部、はっきりある。

 なのに、“もう一人”の余白だけが、最初から存在しなかったみたいに黒い。

 ——忘れる。

 そう思った瞬間、怖さより先に、奇妙な安堵が来た。忘れてもいい。

 紙とシステムが、覚えているから。

 ——16時06分。

 透子はログを開いた。

 ID「066」。第七支点。判定欄の文字。

 そこを見た瞬間、頭の奥が、ひとつ音を立てて空になった。砂が全部落ちたみたいに、軽い。 代わりに、机の端のメモが、急に濃く見えた。


 《6/12ログは外部にも》

 《市役所夜間収受》

 《新聞社》

 《匿名投函》

 《監視センター閲覧申請 前倒し》

 《川辺は10人ずつ 歩道側に重ねるな》

 ——これは、自分の字だ。


 なら、自分がやる。

 透子は、迷いなくマウスを動かした。理由はもう、手の届かない場所にある。

 でも、行動だけは、ちゃんとここに残っていた


 

 六月十二日 (事故の当日)

 品質情報管理室の午後は、いつもより静かだった。エアコンの風が弱く、蛍光灯の白が机の上で少しだけ乾いて見える。透子は点検ログの一覧を開き、いつもどおりに列を揃え、版数のフォルダを確認していた。

 やることは決まっている。決まっているから、考えなくていい。考えなくていいのに——今日は、指先が落ち着かなかった。机の端に、折り目のついた紙がある。自分の字だ。


 《6/12ログは外部にも》

 《市役所夜間収受》

 《新聞社》

 《匿名投函》

 《監視センター閲覧申請 前倒し》

 《川辺は10人ずつ 歩道側に重ねるな》


 いくつかは右にレ点チェックが記載されている。なぜ書いたのか、思い出せない。けれど消したという事実だけが残っていて、紙はそれだけで「やった」と言っている。

 午後五時を少し回ったころ、透子は何気なくニュースサイトを開いた。休憩でも、暇つぶしでもない。指が勝手に、タブを増やした。


 速報の赤い帯が、画面の下を走った。

 《川辺陸橋 一部崩落》

 息が詰まった。


 音はない。ここは四階で、窓は細い。外からは何も届かない。届かないのに、体のほうが先に知ってしまう。血がひゅっと引く感覚。胃の奥が縮む感覚。

 透子は画面をスクロールした。続報。写真。見出し。

「祭り」「紙灯籠」「人の滞留」「一部崩落」。

 文字が並んでいるだけなのに、どこかで“既視感”があった。見たことがある、ではない。知っている、に近い。頭より先に、指先が知っている。

 ふと、机の端のメモが視界に入った。


 《6/12……》

 《市役所……》

 《新聞社……》


 透子は、メモを手に取った。紙が、指に吸い付く。インクの跡が、妙に生々しい。 書いたのは自分だ。字がそう言っている。でも、書いた自分の気持ちが、どこにもいない。


 ——私、何を“前倒し”してた?

 思い出そうとした瞬間、頭の奥で薄い砂がさらさらと崩れた。言葉が掴めない。輪郭が立たない。けれど、代わりに別のものが立ち上がる。

 “この事故に関係がある”。

 理由じゃない。説明じゃない。ただ、そうだと分かる感覚だけが、確信みたいに胸に落ちた。

 透子は椅子を引き、立ち上がった。膝がわずかに笑う。ニュースサイトの見出しを見ながら、同時に自分のメモを追う。


 《市役所 夜間収受》——投函した。消えている。

 《新聞社》——予約送信した。これも消えている。

 《監視センター 当日閲覧》——申請した。だから今日は、誰かが見ている。

 《川辺は10人ずつ 歩道側に重ねるな》——どこかで誰かが、その紙を手にしているはずだ。


 胸の中で、二つの時間が重なる。

 いまの自分は、何も知らない。でも、紙の上の自分は、知っていた。知っていて、動いた。 窓ガラスに、自分の顔が薄く映った。蛍光灯に青く照らされて、目の下の影が濃い。

 その顔は驚いている。なのに、どこかで「来た」とも言っている。怖いのに、準備ができている顔だった。 透子は、メモのいちばん上の行を指でなぞった。


 《bridge\QC\log_20190612_rev0066.csv》


 指先が、そこだけ熱くなった。

 ——私が動いたのは、この日だ。

 そう直感した瞬間、ニュースの文面が少しだけ違って見えた。

 《事前に注意喚起があったにもかかわらず——》

 その一文が、胸の奥を叩いた。

 “注意喚起”。それは、誰が出した? いつ? どこから?

 透子は、自分の机の端の紙を、もう一度、握り直した。理由は思い出せない。

 でも、あの字は嘘をつかない。嘘をつけるほど、器用な字じゃない。でも「書いたからそうしたんだな」とは分かる。それで仕事は回る。そういうふうに、自分はずっと仕事してきた——私がやった。


 ——何かを、少しだけ、ずらした。

 その確信だけを残して、透子は画面の赤い帯を見つめ続けた。


 * * *

 

 蛍光灯の白の中で、またあの布擦れの音がした。

「——小早川透子さん」

 呼ばれて、透子は顔を上げた。反射テープ入りのベスト。透明のフェイスシールド。現場の人間のような恰好なのに、まわりの誰もこっちを見ない。

「え……どちらさまですか? 総務の方?」

「きょうの時点での報告に来た」

「報告……?」

 透子は眉を寄せた。なにか“こういう人がまた来る”とあらかじめ聞かされていたような気が、一瞬だけした。けれど、その「誰に言われたか」や「なにを頼んだか」は、霧がかかったみたいに思い出せない。

「あなたは一か月前に送られる形での前倒しを選んだ。きょう、その結果が出た。だから告知する」

「……えっと、すみません。そういう……手続き、私、したんでしたっけ」

「した。だが、あなたは“なぜそれをしたか”を覚えていられない。契約どおりだ。覚えているのは“やることを先に紙とシステムに載せた”という行動だけ」

「あー……」

 透子は自分の机の端を見た。


 《6/12ログは外部にも》

 《市役所夜間収受》

 《新聞社》

 《匿名投函》

 《監視センター閲覧申請 前倒し》

 《川辺は10人ずつ 歩道側に重ねるな》


 自分で書いた字だ。理由は分からないのに、指が勝手に納得してしまう感覚がある。

「……そうか。じゃあ、あれはやっといたほうがいいやつだったんですね」

「やっておいたから、当初の時間軸よりも事故は小さくなった。滞留も分割され、救護も一段多く準備された。だが、人の寿命の並びは変わらない。そこは変えられない」

「やっぱり、誰かは亡くなっちゃったんですね」

「そうだ」

 悪魔は、事務的な口調のまま続けた。

「告知する。本来の余命は五十七年。引き落とすのはその半分、二十八年と半分。残る寿命、二十八年半」

「……二十八年半」

 透子は、思っていたよりは短くない、と一瞬だけ思った。けれど口から出たのは別の言葉だった。

「え、あの、ちょっと待ってください。私、ログ一個まともに通しただけですよ? それで半分って、ちょっと高くないですか」

「そう感じる人は多い。だがこれは“人生をやり直すために三日前に戻れる”商品の標準価格だ。安売りはしていない」

「いや、やっぱ高いでしょ……。スーパーの特売直したわけじゃないのに」

「あなたは三度目で濁すのをやめた。それには価値がある。あなたがやめなければ、ここでまた“CをBに下ろしておいて”と言われたときに下ろしていた。あなたの父親が言ったとおり、“最後の目が濁ってたら、全部が濁る”。それを止めたぶんの代価だ」

 父の言葉を、なぜかそこだけははっきり思い出せた。


 ——最後の目が濁ってたら、全部が濁る。


 そこだけは、契約の外の記憶みたいに残っていた。

「二十八年くらいあれば、まあ、いいか」

「二十八年半のあいだに、同じような“前倒しの人間”を何度か見るはずだ。そのたびに、いまのような感覚——“これ、前にも見た”——だけが残る。だが“悪魔”や“契約”という語は思い出せない」

「……会社のまわりでそういうの増えたら、ちょっと面白いですけどね。みんな急に一か月前から申請してたりして」

「それで十分だ。人は行動だけで世界を変えられる」

 悪魔は指を一本上げた。

「いまから七十二時間、きょう話したことは覚えている。だがこの間に“こういう者が来た”と具体的に言えば、契約はなかったことになる。引き落とされた二十八年半は戻らない。メモを残せば、いまのように“やることだけ”が残る」

「はいはい。なんか、それは……そういう決まりのやつですね。——あ、もしかして私、これ前にも聞きました?」

「前にも聞いた。だがそれは戻る前の話だ」

「そっか。じゃあ、もういいや。二十八年半、ちゃんと濁さないように仕事します」

「そうするといい」

 男はそれだけ言うと、また蛍光灯の白の中に薄く溶けた。

 

 すぐそばの島では、誰かが「川辺の橋、凄いことになってる」と騒いでいる。誰も、ここに誰がいたかを見ていない。

 透子は、机の端のメモをもう一度見た。 

 理由はすでにぼやけているのに、行動だけはちゃんと残っていた。

 それで十分だ、と透子は思った。

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