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デビルズ・デリバティブ ~悪魔の派生商品~  作者: 小澤文庫


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第3話 紙の匂いの72時間

 事故の夜、編集局の天井はいつもより低く見えた。蛍光灯の白がゲラの端を硬く照らし、机の上には割付ゲラとFAX用紙、鳴り止まない内線の受話器が重なっている。社会部デスクの端に、差出人のない白い封筒が一通。開け口の内側にインクが滲み、一文字だけが残っていた——R。


 地方紙「川辺新報」社会部記者・柴田玲奈しばた れなは、一面会議で「黒瀬の名前まで出せるなら――」と言いかけて、のみ込んだ。

「黒瀬の全段が飛ぶ」広告からそう伝言が上がっていた。編集長は「今夜は公式を優先」「県警と市の発表を一面に」「企業名は続報で」とだけ繰り返す。


 県立中央病院に傷病者が殺到している、それだけでも紙面は埋まる。校了の時計が一分進むたびに、残っている余白が紙の縁から一ミリずつ削られていく。あの枠に“黒瀬”の二文字をねじ込むスペースは、あと数分で消える。

 そのとき、玲奈の受信箱が一つだけ震えた。件名なし。本文は一行だけ。


 \intra\kurose\bridge\QC\log_20190612_rev0066.csv


 添付はない。場所だけ。社内イントラの奥にあるはずのログのパス。事故発生からそう時間がたっていないのに、そこを指してくる人間がいる。黒瀬インフラか、黒瀬設備か、あるいはその周辺で不満を溜めている誰かだ。


 玲奈は息を吸い、吐いた。


 ここ数年、川辺の周辺で起きた小さな事故を追っていた。山側の壁面崩れで古い家屋が複数つぶれた件。小学校の体育館の屋根が雪で落ちた件。農業用水路の故障で、下流の一帯の畑と水田がまるごと水没した件。どれも表向きは「老朽化」や「現場のミス」で片づけられた。だが、発注先か、点検先か、資機材の納入か、そのどこかにいつも同じグループの名前がいた。いま来たこの“橋の点検ログのパス”は、そのバラバラな点に、もっとくっきりした線を足すものだと、玲奈は肩の奥で感じた。


 * * *


 六年前――。

 駆け出しの川辺新報の記者だった玲奈は、両親よりも歳上で定年間近の先輩記者と、ひとつの事件を追っていた。地域の有力土建が公共工事の談合を取りまとめているという疑い。だがこの町でそれは“悪事”であると同時に“雇用を回すための仕組み”でもあった。簡単に切れる線ではなかった。地方議員との癒着は選挙の季節にあらわになり、市長選のときには町が真っ二つに割れた。

 そのころの玲奈は、黒瀬グループの家族の男と婚約していた。彼の家の名字が紙面に載るかもしれない――という段になったとき、電話口の空気が変わった。取材の手が黒瀬側に回ったのか、自分の詰めが甘かったのか、たぶん両方だ。

 結果は婚約破棄。机の上に残ったのは印鑑の赤と、先輩の短い沈黙だけだった。「これはここまでだ」と先輩は言った。記事も、結婚も、同じ言葉で封がされた。あの赤は玲奈にとって「黒瀬に触るとここで止まる」という色になった。


 * * *


 分からなくていい――いまは紙を動かす番だ。玲奈はコートをつかんで、編集局を飛び出した。

 外はサイレンの色で明るかった。救急車が連なり、パトカーが交差点をこじ開けている。路上には見に来た人まであふれていた。

「すみません、県立中央の川べり。救護テントのところまで行けるとこでいいです」

 つかまえたタクシーの運転手は「人で入れんよ」と言いつつも、サイレンのうしろにくっついて進んでくれた。橋に近づくほど人は増える。救助する人、救護する人、SNSに上げるために撮る人、ただ名前を探して叫ぶ人。夜なのに音だけが昼の高さで渦を巻く。


 テントの手前で降ろされたとき、背中の丸い男が振り向いた。

「……柴田、か?」

「……先輩」

 川辺新報の元社会部。玲奈が新人のとき、談合めいた話を一緒に追っていた人だ。いまは完全に退職しているはずだが、その夜はジャンパー一枚で現場に来ていた。

「ばあさんと孫がな。先に祭り行ってて、あとでここらで会おうって言ってたんだ。で、これが最後」

 男はスマホを差し出した。画面にはさっきまでの橋の上。浴衣姿の女の子が紙灯籠をこちらに差し出して笑っている。欄干にはいま崩れたところと同じ装飾が見える。

「ここで撮ったすぐあとだ。ばあさんはな、孫を撮ったらかならず二人で自撮りしたやつも送ってくるんだ。今日はこれ一枚で止まってる。……だから、そのあとで何かあったんだと思う」

 男は目を細め、画面を拡大した。

「……あの橋はな、たしか、あの土建屋が――」

 玲奈は強くうなずいた。ここで名前を口にすれば、六年前と同じようにどこかで止められる。だから目でだけ“分かってます”と返す。

「……あのとき、あきらめてしまった……。おまえのこともあって、押せんかった」

 先輩は悔いるように言った。六年前に踏めなかった一歩が、喉につかえている顔だった。

 テントから担架が一つ出てきた。先輩は身を乗り出したが、運ばれてきた子は孫ではなかった。けれど年恰好は近い。先輩の顔が一段落ちる。事故の大きさを、記者ではなく“家族を探す人”として飲み込んだ瞬間だった。

「見てやってよ、柴田。おまえ、あの頃みたいに」

「……見ます。書きます」

 そう言ったときだ。テントの脇の光の死角に、反射材のついたベストの男が立っていた。透明なバイザー、現場作業員のような格好。だが——誰も、その男を避けない。

 救急隊員が担架を押して横切る。担架の端は、男の肩幅の位置をまっすぐ通ったはずなのに、当たった気配がない。ぶつかった音も、謝る声もない。隊員の視線は男の輪郭を一度も拾わず、ただ玲奈の胸元だけをすり抜けた。

「立ち止まらないで! 動いて!」

 誰かが叫んだ。声は確かに聞こえたのに、遠い。口の動きだけが先に見えて、音があとから追いつく。玲奈の鼓動だけが、異様に大きい。

 男の反射材だけが、サイレンの光を受けて鋭く返している。——返しているのに、そのきらめきで誰も振り向かない。まるで、そこに“空きスペース”が最初から用意されていたみたいに。

 玲奈は半歩さがって、背中でテントの支柱を探った。支柱は固い。地面の泥も、靴裏にまとわりつく。現実だ。なら、目の前の男だけが現実ではない。

 疲労が見せる幻だ。そう自分に言い聞かせようとして、言葉が舌の上で止まる。——幻なら、ここまで整って立っていない。幻なら、周囲がこれほど都合よく無反応にはならない。


「……誰」

 玲奈は咄嗟にスマホを持ち上げた。現場を撮る癖が身体に染みている。カメラを向ける。画面には——テントの布、担架、ライトの白、群衆の影。

 男だけが、映っていない。

 玲奈はスマホを下ろす。肉眼では、いる。画面では、いない。

 背筋に、冷たいものが走った。錯覚なら、画面にも“それっぽい何か”が紛れこむはずだ。なのに、きれいに空白だ。空白が、こちらを見ている。

「……冗談でしょう」

 玲奈は言った。自分の声が、自分の耳にだけ届いている気がした。

 男の声が返る。大きくない。むしろ平板で、事務連絡みたいに乾いている。だが、声は空気を震わせない。耳の奥に直接、置かれる。


「『戻りたい日』の三日前――そこまでなら行かせられる」

 救護活動で関係者や負傷者が交差する狭い空間、群がる野次馬そして報道関係者が交わり、混乱度の高い喧騒が一瞬に消され、男と玲奈の会話だけが存在している。

——私だけが、見てる。

 それが怖い。けれど同時に、妙に納得もする。

 六年前、“触れたら止まる”線の前で、誰も彼もが同じ方向を見ないふりをした。いま目の前にいる男も、そういう「見ないふり」を、この世界に強制している。


「……県警? 黒瀬? どっちの人間?」

「悪魔だ。必要なのは条件だけ」

「悪魔?条件?」

 玲奈は笑いかけて、笑えなかった。担架の金具がきしむ音が、膜の向こうで鳴っている。泣き声が、膜の向こうで割れている。現実があるのに、現実から切り離されている。

「……悪ふざけなら、場所が悪い」

「悪ふざけではない。あなたは戻りたい。いまのままでは“紙が間に合わない”と理解している」

 心臓の奥に、冷たい針が刺さった。図星だった。あの枠に“黒瀬”をねじ込む余白は、あと数分で消える。現場を見て、書く。その“いつもの正しさ”では、この町の線は切れない。六年前に封をされた赤い印鑑の感触が、指先に戻る。

「……戻るって、どこへ」

「あなたが本当に戻りたいその瞬間には送れない。必ず三日前だ。時刻までは合わせられる」

 玲奈は息を吐いた。吐いたはずの息が、胸のどこかに残ったまま落ちない。

「三日前……。三日前なら、止められるって言うの?」

「止められるかどうかは、あなたの行動次第だ」

「じゃあ、何が代償。……金? 記事? 口止め?」

 男は表情を変えない。目の焦点だけが、玲奈の胸ポケット——メモの位置に一度、落ちた。

「代償は、あなたの残りの寿命の半分だ」

「……寿命?」

 笑いが出そうになって、出ない。代わりに、紙の匂いがした。濡れたテントの匂いの底から、古い新聞紙みたいな乾いた匂いがふっと立つ。編集局の机の上。ゲラの端。あの余白が削れていく感覚が、ここにまで追ってくる。

「信じられない。……そんなの」

 玲奈は言いながら、自分が“否定”で逃げているのを知った。信じない、と言ってしまえば、この場を降りられる。いつもの正しさに戻れる。現場を見て、書いて、潰される。六年前と同じ場所で止まる。

 そして——この目の前の担架の数だけ、町はまた「老朽化」で片づけられる。

「……でも」

 玲奈は視線を上げた。男の透明なバイザーに、自分の顔が薄く映る。信じない顔だ。けれど、信じないままでは何も動かない顔でもあった。

「……信じない。あなたのことも、寿命の話も。だけど——いまは、信じがたいことでも受け入れさせて。ここで私が“正気”にしがみついたら、また止まる」

「信じる必要はない。契約は感情に依存しない」

 男は淡々と言った。

「戻ってからは三日間だけ、なぜ戻ったか覚えている。以後、理由は落ちる。『悪魔』『契約』のような語は書いても残らない。残せるのは“どう動くか”だけだ」

「……三日だけ?」

「七十二時間」

 玲奈は歯を食いしばった。三日あれば、紙は動かせる。三日あれば、足跡を役所に残せる。三日あれば、“誰も知らなかった”を崩せる。玲奈は不思議と、この男から過去に戻ってやるべきことがあると言われている気がした。

 逆に言えば——三日しかない。

「条件を変えられないの?」

「変えられない」

「戻り先は、三日前。時刻は合わせる。寿命は半分。記憶は七十二時間。——それで、私がやるべきことは一つ。紙を動かす」

 玲奈は自分に言い聞かせるように言った。震えはまだ指先に残っている。だが、その震えを握り込めば、ペンになる。

「紙を外に出すのが先です。後戻りできない形で」

 男はうなずき、薄い板を空中に差し出した。玲奈にだけ見える契約書。板の縁が音もなく光り、文字が浮かぶ。  

 『戻った瞬間から七十二時間(三日間)、本契約の記憶が残る』

 『再訪(今日と同じ日)に契約内容と余命を告知。告知後も七十二時間だけ記憶が残る』

 『自分以外の寿命は変わらない(亡くなり方や場所は変わり得る)』


 玲奈は指で自分の名を書いた。ガラスをなぞるような冷たい抵抗が指先を走り、板はふっと消えた。


 * * *


 六月九日 夜(事故の三日前)

 玲奈は編集局の自分のデスクにいた。外は静かで、文化部が「祭りの見どころ特集をどの面に乗せるか」で小さく口論している。記憶ははっきりしている――あと三日後で陸橋が落ちる。そのときに

『\intra\kurose\bridge\QC\log_20190612_rev0066.csv』

というパスが“誰かから”届く。いまこの時点では、そのメールはまだ存在していない。だから覚えているうちに、今の時間の紙に落とす。

 白紙を一枚引き出して、ペンでゆっくり書く。


 \intra\bridge\QC\log_20190612_rev0066.csv


 社名は本文には書かない。場所だけなら通る。これは“技術的なパス”であって告発文じゃない。

 黒瀬の名前だって書こうと思えば書ける。契約で消えるのは「悪魔と会った」「契約した」みたいな語のほうだ。でも、ここに社名まで説明調で書けば、回る前に誰かに止められる。だから、あえて書かない。

 玲奈はメモを引き出しに押し込み、椅子の背にもたれかけた。編集局の夜は、昼より音が濃い。コピー機の低い唸り、校閲机で紙をめくる乾いた擦れ、遠くの内線の呼び出し音。どれも、紙の匂いを増幅させる音だった。

 だが、それだけでは足りない。紙が動いても、橋の上の人は動かない。

 玲奈は机の片隅にあった去年の祭りの導線図を引き寄せた。橋の入口に赤丸。川べりの空き地に矢印。そこに“行き先”があれば、人は流れる。人の群れは正しさではなく、理由のある方向へ動く。

 ——フォトスポット。

 書きかけたところで、編集室のドアが開いた。

「お疲れさまです。川べりホテルの……祭りの懇親会の招待状をお届けに来ました」

 スーツ姿の若い男が、腕に白い封筒の束を抱えて立っていた。角の立った髪、名札のストラップ。手提げの紙袋には、控えめなロゴ——黒瀬グループの印字。

 こんな夜に招待状。急な差し替えか、急なご機嫌取りか。いずれにせよ、こういう動きの速さが黒瀬だ。

 夜番のデスクが「そこ置いといて」と言い、男は丁寧に頭を下げた。そのとき玲奈は、封筒の宛名の一つに自分の名前を見つけた。川べりホテル、懇親会場。祭り協賛各社。——黒瀬が“場”を押さえていることを、紙の厚みで思い知らされる。


 胸の奥で、六年前の赤い印鑑が、嫌な熱を持ってよみがえった。

 触れたら止まる。

 あの色が、あの匂いが。

 ——でも、いま止まっている暇はない。

 玲奈は立ち上がって、若い男の進路をふさぐように一歩出た。

「黒瀬のPR?」

「はい。黒瀬インフラ、PR推進課の——」

 名刺が差し出される。角の硬い紙。玲奈はそれを受け取り、いったん視線を落としてから、顔を上げた。

「ちょうどいい。お願いがあるんです。今夜ここで決めたい」

 若い男は、わずかに目を丸くした。だが、仕事顔はすぐ整う。黒瀬の“若手”は、こういうときの作法だけは早い。

「……何でしょう」

「祭り当日、橋の上、混みますよね。例年でも危ないくらい詰まる」

「はい、例年かなり……」

 男の視線が、一瞬だけ机上のスマホへ滑った。画面は伏せてあるのに、何かを思い出したみたいに、喉が小さく動く。

「だから、川べりの空き地に“フォトスポット”を置きませんか。簡易でいい。看板二枚と、撮影用のオブジェ一つ。『KAWABE FES 66 PHOTO SPOT』って。橋を渡らなくても灯籠が撮れる場所を、わざと作る」

 男の眉が一瞬だけ動いた。企画に聞こえたのだろう。黒瀬のPRが好きな単語が、いくつか並んでいる。

「……フォトスポット、ですか」

「そう。写真がアップされれば、黒瀬のロゴも一緒に拡散される。スポンサーとしては安いのに効く。しかも、橋の上の滞留が少し減る。安全配慮の形になる」

 「安全」と言った瞬間、男の表情が変わった。広報の顔が前に出る——というより、身構える。その目の奥に、「安全」という言葉が「善意」ではなく、事案として並んでいるのが見えた。

「……そこ、うちも今、すごく敏感で。ええと……“転倒”とか、“救急”とか、そういうのが一つでも出ると、翌朝に説明が要るので」

 言いながら、男は語尾を丸めた。口に出したくない単語を、舌の上で避けるみたいに。

「橋の上の混雑は、実行委員会も気にしてます。ただ、いまからだと——許可とか、予算とか……」

「予算は小口でいい。看板二枚、コーン数本。オブジェも段ボールと木材で済む。許可は“規制”じゃなく“お願い”の体裁にする。『川辺祭りの新映えスポット』って矢印を置くだけ」

 玲奈は机の上の導線図を指で叩いた。橋の入口から、川べりへ逃がす線。紙の上で線は簡単に引ける。現実の線も、同じように引けるはずだ。

「うちのWebコラムで記事にしますよ。『川べりからの映えるスポット』って。紙面にも小さく入れる。記事で背中を押して、現場で矢印を置く。三日でできることは、それくらいが限界です。でも、限界の範囲で一番効く」

 男は名刺入れを閉じる手を止めた。脳内で稟議のルートを走らせている顔だ。

「……社内の承認が」

「“祭り協賛の追加施策”扱いでいけませんか。額が小さければ、あなたの裁量で動く枠があるはず。なければ——上の人に口頭で取って。招待状、届けてるってことは、あなたも会場に出入りしますよね」

 玲奈は言い切ってから、少しだけ声を落とした。

「時間がないんです」

 理由は言わない。言えば止まる。

 でも、“時間がない”は現場の合言葉だ。広報も、現場も、同じ言葉で動くことがある。

 男は一瞬迷って——スマホを取り出した。

「……分かりました。いま、上にチャットします。企画の骨子、文面、ありますか」

「あります」

 玲奈はすぐ、裏紙を引っ張り出して走り書きした。矢印、文面、ロゴ位置。余計な装飾は削り、読ませる言葉だけ残す。

 『黒瀬グループ様への協賛のご提案:KAWABE FES 66 PHOTO SPOT』

 男はそれを覗き込み、頷いた。

「“安全配慮の取り組み”って文言、入れられますか。——そのほうが通りがいいので」

 さらりと言う。通りがいい。誰に。どこへ。

 玲奈は、返事の代わりに一度だけ頷いた。

 男がスマホを操作する指が速くなる。送信済みの表示が出た。

「……明日の午前中までに、正式な文案をメールでください。ロゴ使用も含めて通します。会場の担当にも話を回します」

「分かりました。朝一で出します」

 玲奈は名刺を胸ポケットに入れた。紙が一枚増える。増える紙は味方だ。

 男は封筒の束を抱え直し、最後にもう一度だけ玲奈を見た。

「……柴田さん、ですよね。すごいですね、こういうの。記者さんって」

「記者だからです。人が集まる場所の匂い、分かる」

 男は曖昧に笑って、編集室を出ていった。ドアが閉まると、夜の音が戻ってくる。

 玲奈は机に向き直った。

 黒瀬の名前を“紙面に載せる”ことに、六年前の自分なら吐き気を催しただろう。

 でもいまは——吐き気より先に、橋の上の密度を落としたい。

 ペンを取り、明朝出すコラムの骨子を短く書いた。

 


 六月十日(事故の二日前) 

 出勤してすぐ、玲奈は自分の持ち枠のコラムに、短い原稿を差し込んだ。紙面の片隅に載り、同じ文面がWebにも出るやつだ。

 ——紙灯籠渡しの穴場、川べりからの写真がお勧め。

 ただそれだけ。願いの形を、記事のふりにして公開のボタンを押した。 

 昼前に玲奈は市役所へ行った。観光振興課で「第66回川辺まつり」の実施要領を確認し、道路河川課で橋の直近の点検記録と通行規制の予定をきき、防災・危機管理課で祭り当日の臨時救護導線の図面があるかを確かめる。どこを見ても「予定どおり実施」で統一されている。中止の気配はない。

 最後に情報公開窓口で紙を一枚書いた。

 ——2019年6月12日付 川辺陸橋定期点検に関する監査ログ一式(電子データ含む)

 所属は「川辺新報」。個人名は本名。黒瀬のこととは書かない。だが「この資料を見たがっている記者がいる」という足跡だけは役所の中に残る。


 その日の午後、玲奈は庁舎の別フロア、議会担当の同期・古川のところへコーヒーを二つ持って行った。

「ねえ、今年の橋の警備と通行管理って、観光が表で土木が実務、でいいんだっけ?」

「そう。で、スポンサーが黒瀬。毎年いっしょ。……で?」

「いやさ。あのときの体育館の屋根と、用水路の水没のとき、点検入ってた会社、あれどこだったかなーって」

 古川は半目で玲奈を見た。

「お前、知ってるくせに。……あれも黒瀬だったろ。設備とインフラが年交代で食ってる。市が“地元優先で”って出してるやつ。あそこ切ると除雪も、学校のボイラーも止まるから、誰も切れん」

「そう。そうだと思ってた。助かった」

 わざと聞いた。古川の口から「黒瀬だったろ」を言わせておけば、議会筋に自然に回る。玲奈が言うより、そっちのほうが早い。

 

六月十一日(事故の前日) 

 玲奈は、議会ルートと市の情報公開窓口からの請求が「出た」という事実を確認して、並行して“紙で残せるもの”を作った。

過去3件の「老朽化で処理された事故」の記事コピー

市のHPから印刷した「橋梁等点検・委託業者一覧(要約)」

その余白に赤で「2019/06/12点検ログ(電子)あり。所在確認中」とだけ書いたメモ付箋で「実ファイルは事故後に出る見込み」と自分への注意。


 この時点では、ほんもののrev0066.csvはまだ存在していない。事故後の夜にしか落ちてこない。だから玲奈がやれるのは“そういう名前のファイルを誰かが欲しがっている”という信号を先にばらまくことだ。

 それを四通に分けた。「川辺新報 社会部行」「県記者クラブ 各位」「地元ローカル紙・川辺東ミニ通信」「自分用」。自分用には大きく日付と時刻を書き、こう添えた。

 ——この名前のCSVを見つけたらすぐ複写

 ——説明文は書かない

 そして編集長室のドアの下へ、さっきの束と短い付箋を入れた封筒を滑り込ませる。

 —— 橋梁点検ログ(2019/06/12)の公開請求を出しました。

 —— 実データは後に出るはずです。

 —— 早めに目を通してください。

 これで「誰も知らなかった」にはならない。

 

 事故前日の、夕方。

 玲奈は陸橋の土手へ向かった。紙を回す手とは別に、足で確かめておきたいものがあった。自分が書いた言葉が、どこかで現実になっているかどうか。

 土手に上がると、川の湿った風が頬を撫でた。河原の広い空き地が見える。去年はただの更地だった場所に、今日は輪郭が立っていた。

 フォトスポットが、もうできている。

 思わず足が止まる。

 急ごしらえのはずなのに、雑には見えない。土台が置かれ、枠はまっすぐに立っている。木枠の中央には切り抜かれた文字——KAWABE FES 66 。反射材が縁に貼られ、夕方の斜めの光を拾って、紙灯籠の淡い色に負けないであろう強さで光っていた。

 そして——黒瀬のロゴが、ちゃんと“いい位置”にある。「協賛」ではなく、「提示」だ。ここは黒瀬の舞台だ、と言わんばかりの配置。

 照明まで当たるようにされている。玲奈は視線を上げた。川べりホテルの懇親会場からフォトスポット、紙灯篭の橋を一度に見渡す角度。

 会場から見える。写真にも映る。SNSにも流れる。黒瀬は“安全配慮”を掲げながら、同時に“映る場所”を押さえている。

 あの若いPR担当の顔が浮かんだ。承認の言葉を引き出すのに、どれだけ「安全」という語を使ったのか。どれだけ「炎上」という可能性を、先回りして潰したのか。善意だけではない。計算だけでもない。黒瀬の広報は、そういう二枚重ねで動く。

 ——でも、仕事としては、うまい。

 玲奈はそれを認めてしまう自分が、少しだけ悔しかった。悔しいのに、ありがたくもある。急造のはずのものが、ここまで整っているなら、人は吸われる。橋へ行く前に、足を止める理由になる。橋の上ではなく、ここで。

 玲奈は土手の上から、空き地に立つ枠を見つめた。

 明日、この町の人たちがここで笑って、灯籠を背に写真を撮って、橋へ向かう流れがほんの少し薄まればいい。ほんの少しでいい。担架の本数が一本でも減ればいい。

 祈りは、記事にはならない。けれど、記事のふりをした言葉と、こういう“行き先”なら、祈りに近い形で残せる。

 玲奈は胸の奥で、静かに願った。この枠が、明日の重さを、ほんのわずかでも軽くしてくれますように。


 * * *


 六月十二日(事故の当日)

 そして、三日後の現在へ戻る。

 あの夜と同じように、橋が沈む。

 祭りの車列が徐行で橋にさしかかる。歩道には紙灯籠を持った子どもたち。川面に、光の帯。バリケードは建っているのに、人は押す。

 二日前に玲奈が発した「橋を渡らず陸側から祭りが映える」という町ネタは、何割かには届いたが、すべてには届かない。

 崩落の音は、新聞の紙面で読むよりもずっと重かった。テントのビニールが揺れ、担架が揺れ、別の少女が運び出される。玲奈はそれを、三日前に見たときよりも冷静に見た。いま、一連の資料はもう「待っている人の手元」には行っている。遅くとも翌日には、どこかの記者が「この事故、点検ログが変じゃないか」と言いだすはずだ。いま度胸があるのは、実ファイルがこのあとに本当に出る、ということを玲奈だけが知っているからだ。

 玲奈は胸ポケットのメモを開いた。

 —— 受信監視

 —— パスを物理に

 —— 編集長箱

 —— クラブへ

 —— 同系列事故並べ

 そのとき、空気が一段、低くなった。

サイレンの高いところだけがすっと遠ざかる。メモの別の行で、細いインクがにじんで消えた。



 頭の奥で、薄い砂がさらさらと崩れる。

 書いても残らない単語が、予定どおり落ちていく。

 ——悪m……

 ——契y……

 何の単語だったか、半秒前まで知っていたのに、もう思い出せない。なぜ自分が三日前からこんなに急いでいたのか、その“きっかけ”のかたちだけがぼやける。それでも、「このファイル名を出す」「この封筒を回す」という行動のほうは、体に残っている。

 ああ、これで七十二時間が終わるんだな、と玲奈は思った。理由は消える。けれど動線は残る。あとは紙がやってくれる。人より長く残るのは、だいたい紙だ。

 テントの影に、またあの反射ベストの男が立っていた。

「再訪だ。三日前、あなたは私と契約した。三日で紙を動かした。だから、いまここで説明をする」

 男は帳面を開きもしないで言う。

「本来の余命は三十九年。契約により引き落とすのは十九年と半年。——残る寿命、十九年と半年。いま引き落とした」

 玲奈の視界のコントラストがわずかに落ちた。こめかみに白いものが一本、光を拾う。指先がさっきより冷たい。膝にも、階段を一段ぶん抱えたような重さが落ちる。

「十九年半。記者としてはまだ走れる。けれど、思い描いていた“結婚”や“家族を持つ”というやわらかい未来は、少し遠のいた。」

「このあと七十二時間は、さっきのことを覚えている。この間に第三者へ“悪魔との契約”を口外すれば、契約はすべてなかったことになる。時間もあなたも契約前に戻る。ただし、いま引き落とした寿命は戻らない。メモは残るが、『悪魔』『契約』の語は消える。残せるのは“行動”だけだ」

「三日で外には出しました。あとは、どこかが拾います」

「拾う人がいるなら、そうなる」

 男はそれだけ言って、視界から薄く溶けた。


 * * *


 事故の翌朝。県記者クラブのロッカーに、複数の封筒が入っていた。中を見た記者が言う。

「これ、おとといは“公開請求出しました”だけだったのに、今日はCSVの名前まで書いてある」

「夜のうちにどっかが回したんじゃないの。事故前から狙ってたやついるでしょ、絶対」

「うちも“橋、黒瀬じゃねえの”って市役所筋からきたよ」

 ——そう。実ファイルそのものが流れたのは事故の夜だ。玲奈が三日前にやったのは、その着地点を先に紙の上に置いておいたことだけだ。

 自分のデスクには未読のメールが四本あった。ひとつは独立系ニュースサイトから「例のログ、ほんとにあんのかだけ確認させて」。ひとつは古川から「川辺やっぱ黒瀬。土木で“今回も設備のほう”って漏れた」。そして黒瀬内部からのものかもしれない「祭事向け整備ログについて」、最後の一本も差出人不明のまま短かった。

 ——これで、動くはずだ。

 署名はない。けれど送り主が“事故の夜に外から投げられる人間”だとしたら、おそらくは同じ方向に押している誰かだろう。いまは追わない。追えば名前が出る。名前が出れば、またどこかで止まる。

 

 * * *


 告知から三日目の夕方。まだ、言葉の輪郭が残っている時間だった。胸ポケットのメモのいくつかの語が、黒くにじんで消えかけていた。

 ——受信監視

 ——パスを物理に

 ——編集長箱

 ——クラブへ

 ——同系列事故並べ

 「悪魔」「契約」は最初から書けなかった。けれど、やることのほうは残る。それで十分だ。

 県立中央病院の通用口のベンチで、あの元先輩が座っていた。天井を見上げたまま、両手を組んでいる。

 「どうでした」

 「べつの病院に回されたらしい。ばあさんもいっしょに」

 先輩は小さく笑った。

 「おまえ、やっぱりあの会社のにおい、追ってたんだな。あのときの続きを、やっと書けるんだな」

 「書けるとこまでは、出しました。うちが書けなくても、どっかが書きます」

 「そうか。……そうだな」

 それ以上は聞かない。玲奈がなぜ“三日前を知っていたか”も、どうやって“パス”を先に握っていたかも、聞かない。六年前にはできなかった距離の取り方だった。

 廊下のモニターでは音を消したニュースが流れていた。『川辺まつり陸橋崩落 点検記録に“改ざん”か 県警が関係先を捜索』。テロップの隅に「黒瀬インフラなど」と一瞬だけ出る。先輩はそれを見て、肩を一つ落とした。うれしさと悔しさの、ちょうどまんなかの落とし方だった。

 川べりには、まだ濡れた紙灯籠と折れた提灯が残っていた。橋には黄色いテープ。来年は、もうあそこは渡らせないだろう。

 それでも人の寿命は変わらない。先輩の孫が無事かどうかも、もう決まっている。三日前に戻っても、そこだけは動かせない。

 だったらせめて、紙だけは動かす。紙は人より長く残る。玲奈はポケットの中のメモをもう一度確かめた。インクの薄いところは指でなぞり、行動のところだけを頭に入れなおす。

 川面が、あの夜とはちがう角度で光った。

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