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デビルズ・デリバティブ ~悪魔の派生商品~  作者: 小澤文庫


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第2話 白い光の72時間

 その夜、第66回川辺まつりの最中、川辺の陸橋が一部崩落した。

 紙灯籠を手にした人びと、渋滞の車列——傷病者が各所から一斉に搬送されてくる。ここは県立中央病院ER。トリアージのボードには、赤・黄・緑が並びはじめている。白崎智子しらさき ともこは現場の仮設救護所で初期トリアージを切り、先着の救急車に同乗して病院へ戻った。サイレンの残響と川の湿気がまだ白衣に張り付いている。

 同乗していた担架の一つは、幼い女児だった。現場で白崎が黄タグを掛けた子だ。指先は冷え、意識はある。白崎はサチュレーションの数字を見て、到着までBLS継続と酸素投与を指示した。 

 救急搬入口の白い光は、昼よりも硬い。スロープを上がるストレッチャーの列。トリアージボードには救急車が着くたびに『正』の一文字一文字が刻まれていく。赤の欄にまた一本、線が増えた。だが別の手がその患者のタグを黄に返すと、ボードの赤の印は乱暴に消されて、黄のカウントへ移される。ボードのペン先が、いやな音で鳴る。

 到着直後の搬入は数名だけだった。クラクションの尾を引きずって入ってきたストレッチャーに、白崎は数秒迷った。呼吸は浅いが応答はある。病床管理が「ベッドが——」と口を開いた瞬間、彼女は短く言った。 「……黄で一時待機」 タグが黄に返され、ボードの赤は消された。胸の奥がわずかにざらつく。


「最初の色は……赤だった」 白崎は小さくつぶやき、顔を上げた。酸素飽和度計の数字が跳ねる。救急隊員がバルブを開いた。 「さっき満タンのボンベを持ってきたのに……」  


 レギュレータの指針は一瞬だけ上へ揺れ、そのまま落ちた。患者の胸郭は浅く痙攣する。白崎は躊躇わなかった。 「再評価、赤。BVM。アドレナリン、準備。——トロリーA-2、持ってきて」言い切った一拍、白崎ははっとした。

 A-2の配置、青タグ、封印シールの浮き——思い当たる。 「ここ数分、ベイ3は任せる。タグ満なら回して。ログは後で。私は裏口を確認する」ナース長に短く告げ、手袋を替え、消毒の匂いを残したまま裏廊下へ。リネン庫と酸素庫の間のサービス通路は冷え、金属の匂いが濃い。自動扉を抜け、搬入ヤードに出る。

 裏口の検品表に、細い文字があった。『黒瀬設備』。白崎はペン先を紙に触れたまま止める。


* * *


 六月九日(事故の三日前)

 裏口の検品場所。雨上がりで床がまだ滑る。シャッターの隙間から湿った風が入り、無機質な蛍光灯の唸りと台車のキャスターが擦れる音が細く続く。荷捌きのための飾り気のないコンクリートに、擦り切れた白線だけが残っている。白崎は扉の覗き窓を背に立ち、受領印の朱肉に指先を軽く触れた。目の前に立ったのは、黒瀬設備の若手社員——いつもの担当ではない。


「代わりに来ました。課長から言われてまして……『満タンタグはこっちで』『封印シールは予備を多めに』『回収はまとめて』って」

 白崎は短くうなずく。(誰が来ても同じ穴の貉)と心のどこかで思い、淡々と応じた。

「ええ。——タグはそちらで付け替えて。封印シールは予備を多めに。回収伝票は空欄のまま束ねて、あとで一枚にまとめる」

 若手は胸ポケットから青い“満タン”タグのロールを少しだけ覗かせ、不慣れな手つきで芯を回した。「予備です。課長が今週末の祭事の案件で手が回らなくて……」

 白崎は視線を落とし、封印シールの浮きを親指で押さえた。 「ロット表記は通しで。——病棟側の帳合はこちらで合わせます」

 若手は「はい」と頷き、伝票の角をきれいに揃え、空押印のスペースを作った。筆圧の浅い文字が伝票に残る。

 そのとき、半開きの防火扉の向こう——検品場の中から内科医の声が飛んだ。 「白崎先生、輸血、今週分の増量、検討できます? O陰性とFFPが心許なくて……」  

 白崎は肩の角度を変え、若手と自分が同じ画角に入らないように立ち位置をずらした。

「分かった。必要事項をメモにして、その受付棚に置いておいて。担当に回しておくから——」

 声だけに答え、白崎は受領印を先に押し、書類の端を素早く整えた。若手は何も言わず、小さく会釈した——


 * * *


 いま、この紙片の前で、あの軽い返事が胸の奥で鉛のように沈む。LOTの表記と封印シールのロール——どこかで手順の齟齬が起きたのかもしれない。三日前に頼まれた輸血増量のメモは受付棚の隅で裏返ったまま、オーダーは出ていない。

 白崎は院内PHSを耳に当て、ナース長に短く指示を飛ばした。

「ボンベの在庫、ロットと封印番号を突き合わせて確認して」 「輸血の在庫も全系統。O陰性とFFP、状況だけ報告を」  

 靴音が走り、ERの空気が少し張り詰める。

 搬入の列が切れた一拍、白崎は壁にもたれて息を整えた。ホワイトボードの右端には、応援要請のコードが小さく丸で囲んである。床のゴムを踏む音

 —— 「ベイ3、黄が急変! SpO2 72、チアノーゼ!」  白崎は反射で走った。ベイ3。黄タグの若年女性。満タン札の青タグが付いたボンベにつながれ、指針はゼロの下で止まっている。封印シールはわずかに浮き、印字された LOT: B-03。BVMは膨らみが浅い。 「第2系へ切替! 新しいボンベ! 

 ——挿管準備、薬、規定量」  臨床工学の若手がサブマニホールドへ走る。切替弁の固い手応え。圧の戻りが遅い。白崎は喉頭鏡を入れ、声を短く重ねる。 「1分30。

 ——気道確保、チューブ固定。サチュレーション?」「70台後半」「胸郭、上がらない」 「アドレナリン、用意。CPR開始」  金属の台がぶつかる高い音。再評価。波形は平坦に近い。2分、3分。白崎は時計の文字盤を一度だけ見て、頷いた。

「——ここまで。死亡時刻、記録」  誰も声を出さなかった。白崎は黄タグの面を指でゆっくり撫で、裏にある赤面の色を一瞬だけ見てから、そっと戻した。胸の内側で何かが軋む。

 ナースステーションの収容マップが同時に四点、点滅した。「ベイ1」「ベイ7」「処置室B」「観察C」。SpO2が同時に落ち、アラームが重なる。いずれも青い満タンタグ、LOT: B-03。さっき、白崎は「タグ満なら回して。ログは後で」と口にしていた  

——喉の奥で何かが沈む。軽くした判断の結果が、波のように押し寄せてくる。


 顔を上げたとき、反射ベストの男が、処置室の影に立っていた。臨床工学技士のような格好、透明なフェイスシールド。誰も気づかないはずの姿が、白崎にははっきり見えた。

「三日前なら、行ける」 声は平板だった。事務連絡みたいに。

「……誰?」

「悪魔。とだけ名乗っておく。あなたが望む“戻りたい日”そのものには戻せない。三日前。時刻まで指定できる。その代わりに、あなたの残りの寿命の半分を引き落とす」

 白崎は首を振った。否定ではない。 「戻りたいのは、今夜の搬入が始まる十分前。トリアージの第一声が書き換えられる前」

「規約上、送るのはそこから三日前の同時刻」

「分かってる」

 男は薄い板——白崎にだけ見える契約書——を空中へ差し出した。

「ここが大切なので、再度“道具”でお見せします。契約事項の説明義務、三点」 板の縁が音もなく光り、文字が浮かぶ。  


 『戻った瞬間から七十二時間(三日間)、本契約の記憶が残る』

 『再訪(今日と同じ日)に契約内容と余命を告知。告知後も七十二時間だけ記憶が残る』

 『自分以外の寿命は変わらない(亡くなり方や場所は変わり得る)』


 七十二時間ルールを伝えておく。


「ひとつ目——戻ってからの七十二時間に、第三者へ“悪魔との契約”を口外すれば、契約そのものはなかったことになる。元の時点へ巻き戻り、俺もあなたも忘れる。この段階では寿命の引き落としは発生しない。しかし、同じ後悔のど真ん中に舞い戻って同じ景色を楽しむこともできる。」

「ふたつ目——再訪(告知の日)からの七十二時間に口外した場合も、契約はなかったことになる。ただしこの時点では半分の寿命はすでに引き落とされており、戻らない」

「メモは残せる。ただし『悪魔』『契約』の語は自動的に消える。残るのは“何をするか”という行動指針だけだ」

 白崎は、息をひとつだけ整えてから尋ねた。

「……あの事故そのものを、起こらないように——できるの?」

「あなた次第」と、反射ベストの男は即答した。「それを試みた人もいたかもしれませんね。いたらよかったですね。あなた、七十二時間以内にできますか?」

「でも、私がやれる範囲でやれば——」

 白崎の視界に、あの夕刻の一瞬が閃く。テントの口で担架が揺れ、膝をついて子の手を握っていた土木作業員風の男。反射材の擦り切れたベストと泥の跡。救急車の赤色灯がその頬に斜めの帯を落としていた——名前も知らない。あのとき私は、前だけを見て通り過ぎた。

「あなたが戻って七十二時間でできる振る舞いは何でしょう。どんなに頑張っても、七十二時間後にはなぜ戻ったか忘れてしまう。行動だけが残る」フェイスシールドの奥で、男はうすく笑った。

 白崎は一度だけうなずいた。空調の風が一瞬だけ逆に流れ、モニター音の高い部分が遠のく。消毒液の匂いが薄まり、白い光が朝の角度へ傾いた。

 白崎は右手を上げ、空中の板に自分の名を書いた。指先にガラスのような冷たい抵抗が走る。第三者から見れば、虚空に文字を書く奇妙な仕草だ。板は水面の反射のように、ふっと揺れて消えた。

「やる」


 * * * 


 六月九日 夕刻(事故の三日前)

 三日前の世界は、驚くほど静かだった。白崎は自分の机に腰を下ろすと当直表と在庫一覧を睨みつけていた。

「......書かなければ、忘れる」

 白崎は小さなメモ束を広げる。理由は書かない。書けば滲んで消える。残すのは“やること”だけ。

 ——輸血・製剤:O陰性/AB型/FFP/血小板。必要量を見積→直発注→納入日前倒し→到着確認・受入記録。 —

 —薬剤・資材:アドレナリン/ノルアドレナリン/TXA/晶質液/止血帯。ER・詰所・救護所に事前配備(補充表を作成)。

 ——酸素系:ボンベ在庫棚卸(3か月)/ロット・封印番号の二重確認/中央配管の供給圧ログ取得/切替弁(B系)シール交換・作動確認。

 ——受入動線・検収:裏口→検収室→酸素庫の動線整理(不要物撤去・台車確保・臨時ラック設置)/鍵の所在を統一。

——詰所・救護所:医師・看護師の常駐ローテ確定。詰所に救急セット常備(BVM・AED・酸素ボンベ〔ロット/封印二重確認〕・気道器具・止血キット)。

 ——トリアージ:ボード再掲「赤→黄→緑」。迷ったら上(赤)。酸素源が一本しかない場合は赤患者に接続。黄患者はBLS・体位管理・観察で対応。

 ——監査・業者対応:黒瀬設備の受入停止(仮)/監査ログ保存(KSE_quipment 綴り注意)/納入時の立会い徹底。


 インクが乾くのを待たず、メモをポケットに分散して入れる。その足で端末を立ち上げ、発注申請システムの画面を開く。輸血製剤と薬剤は必要量を見積って申請登録、希望納入欄には『三日後の午後便まで』と入れる。酸素系の消耗品は分割で申請、最短ロット優先。

 白崎は院内PHSで資材課に一報を入れた。「いま申請を流しました。輸血と薬剤は三日後の午後までに。ボンベと付属品は分割です」

 資材課の若手が受話器越しに問う。「先生、こんなに一度に?」

 白崎は肩をすくめた。「最近はお祭りではしゃぎすぎる方が多いみたいですしね。念のため」

 間を置いて、別の事務が小声で付け加える。「黒瀬さんとこ、また早いですね……」

 「入札枠の都合よ。規定どおり。それとボンベは——今日の受け取り分、私が立ち会っている。先に確認の電話も入れておくわ。納入は裏口直入で検収室まで直通。受入記録だけ確実に残して」PHSを切り、今度は黒瀬設備の課長へ電話した。

 ナースステーションの照明は昼白色で、冷えた白が紙の縁を硬く浮かび上がらせる。白崎は看護師長に声をかけた。 「在庫の棚番6-6列から。バーコードの読み取りは二人一組で。——トリアージの掲示、“赤は先”を強調して貼り替えます」  

異論は出た。一か月前付の点検報告書が『昨年同様・適合』を保証していると。だが、言葉は要らない。数字が欲しい。白崎は供給圧ログの取り出しを臨床工学の若手に頼み、リストアップされた“黒瀬設備”の納品分に赤丸を付けた。

夕刻、休憩室のテレビでは、明後日開催の第66回川辺まつりの特集が流れている。 紙灯籠の行列、橋のシルエット。白崎は音を消し、カップに水を入れた。


 六月十日(事故の二日前)

 白崎は電話、内線、メールを立て続けに打った。祭事本部、県警地域課、土木事務所、防災危機管理課。提案は一本だ——今年は紙灯籠の橋渡りを見送る。河川敷の周回に変更するか、渡橋人数と荷重の制限、車列の徐行徹底。  

 返ってくるのは、決まり文句だった。「点検は一か月前に完了しています」「所管外なので」「決裁ラインが間に合わない」。電話の向こうで、誰かがため息を落とし、受話器の向こうの沈黙が長い。


 それでも白崎は手を止めない。受け入れ体制は別ルートで積み上げる。病棟ベッドの前倒し退院調整、会議室の臨時観察エリア化、救急カートの再詰め直し、トリアージの五分ハドル、救急車導線のテープ貼り直し。薬剤・輸血の申請状況を再確認し、色付きリストバンドと識別タグを箱ごとナースステーションへ移した。

 合間に、黒瀬設備の課長から電話が入る。「先生、橋の件、いろいろ言い回ってるって聞きましてね。うちの若いの、ちょっと怯えてまして……変な噂にもなりますし」

「業務連絡の範囲で伝えただけです。受入検査は厳格に。——納入時の立会いも続けて」 白崎が短く返すと、受話器の向こうで乾いた笑いがした。「先生、少しおかしいって話も出てますよ」

「提言が通らないなら、準備を厚くするだけです」通話を切ると、事務方の視線がいくつかこちらに跳ねて、すぐに逸れた。

 『起こらないように』のルートは塞がりつつある。なら、『起こった時に壊れすぎないように』を最大化する。白崎はチェックリストの次の枠にペン先を移した。


 院内を見て回っていると切替弁のシールが微細に破れていた。白崎は指先で触れ、顎を引いた。 「ここ、換える」  見積の欄外に『黒瀬設備』のスタンプ。臨床工学の若手が苦い顔をする。 「入札枠が埋まってて、急ぎは同じ業者になります。そのほうが白崎先生には都合よいですもんね」と目くばせをしてくる。  

 白崎は書類を返しつつ、肩をすくめて軽くあしらった。「受入検査を厳格に。何か勘違いしてそうー」


 その日の夕刻、外来は落ち着いていた。研修医がホワイトボードの前で立ち止まり、遠慮がちに聞く。

「こういう時って、黄に落としてベッドを空けるべきなんでしょうか」  

 白崎はマーカーのキャップを外して机に置き、ゆっくり答える。

「順番はベッドじゃなく生理。迷ったら上へ。赤→黄→緑。色は診療の優先権で、資源の都合で色をいじると、後で取り返しがつかなくなることがある」 「例えば?」 「気道、出血、意識。それと“歩けるか”。酸素源が一本しかない場合は赤患者に接続。黄患者はBLS・体位管理・観察で対応。黄はBLSで繋ぐ」  

 研修医はうなずき、ボードの端に小さく赤↑・黄→・緑↓と矢印を書き添えた(自分用の覚え方だ)。白崎は止めなかった。

     

 六月十一日(事故の前日)

 午前、白崎は病院内の“受け入れ側”をもう一段積み上げた。空床の再確保、会議室の臨時観察エリア化、救急車の導線テープを貼り直し、トリアージボードを入口の目線の高さに再掲。「酸素源が一本しかない場合は赤患者に接続。黄患者はBLS・体位管理・観察で対応。」と太字で書き添える。詰所には救急セットの黒いコンテナを一つ置き、内容物を写真で記録してから鍵をかけた。


 昼、祭事本部と土木事務所に最後の電話を入れる。「紙灯籠の橋渡りは今回は見送りを。渡橋人数と荷重の制限だけでも——」。返ってくるのは、決まり文句のやわらかい否定だった。白崎は受話器を置き、チェックリストの“できること”に線を引く。


 午後、白崎は橋へ向かった。風は弱く、欄干の影は薄い。歩道脇の風速観測ポール3号が静かに首を振り、数値は低いまま——白崎は一拍だけそこへ視線を置いた。詰所の前で、反射ベストの男がバリケードの鍵を指先で確かめているのが見えた。泥に擦れた布、胸ポケットのペンの位置、視線の置き方だけが妙に整っている——互いに名を知らないまま、すれ違う。

 ちょうどその時、黄色い幼稚園バスが交差点を横切った。窓の中で、子どもが運転席の後ろから背伸びをして外を見ている。白崎は胸ポケットのメモに、詰所の在庫と搬送ルートの再点検時間を書き足した。


 病院へ戻る途中、黒瀬設備の課長から連絡が入る。「先生、あちこちに『橋は危ない』って。うちの若いの、神経質になってまして」——白崎は淡々と告げた。

「受入検査は厳格に。納入時の立会いは継続。——それだけです」


 夕方、ERの手洗い場で指先の泡を払う。明日のいまごろ、自分は“なぜこれをやっているのか”を忘れているのだろうか——その想像が胸の奥を冷やす。だから、メモに行動だけを残す。「詰所在庫 再点検/搬送導線 足元強化/救急カート 再封印」。理由は書かない。書けば消える。


 六月十二日(事故の当日)

 白崎は詰所の医療担当に自ら名乗り出ていた。考えるより先に、手を動かす。

 詰所へ運び込んだのは、通常の救急カートに黒いコンテナ二つを足し、携帯酸素を一本余分に、BVM×2/AED/気道器具一式/止血キット/TXA/ノルアドレナリン希釈シリンジ/晶質液/予備の酸素回路、それから識別タグの束と油性ペン。肩ひもが骨に食い、掌の汗で樹脂の持ち手が滑る。

 同行の看護師が苦笑する。「詰所に置くには多すぎません?」  

 白崎は短く答えた。「念のため。いまは理由はいらない」

 机上にトリアージボードを開き、救急セットの中身を写真に撮ってから封印シールを貼る。入口の導線をテープでなぞり直し、救急車の停車位置を一歩下げる。段取りは頭に刻んでいる。

 白崎はこのあと何が起こるかを知っている。目の前の惨劇から目を背けたい衝動を押し殺し、あえて詰所の外へ出た。橋へ流れる人の帯に向かい、声を張る。

 「いまは無理に渡らなくていい。陸側からでも十分きれいに見えます。広場で灯籠を——」。足を止め、引き返す人が少なからずいる。それでも、耳を貸さずに橋を目指して歩く人の列は途切れない。私が何を言おうと、助かる人、助からない人はもう決まっているのだろうか——やるせなさが喉の奥に残った。


 橋の入り口では、腕章を巻いた職員が「ゆっくり、間隔をあけて、橋に負荷がかからないように」と声をからしている。彼も、これから何が起こるか知らない——と白崎は心の中でつぶやいた。


 闇が一瞬、音を飲み込んだ。  同時に、砂が崩れ落ちていく感覚。


 ——そして、現実が戻ると、テントの匂いだった。

 仮設救護所の中は、消毒液と汗と湿ったビニールの混ざった匂いで満ちている。担架が並び、番号札が並び、泣き声が行き場をなくしている。

 白崎は声の高さを変えずに、短句で指示を飛ばした。「黄は広場側、赤はテント内右列、緑は外のベンチへ」「BVMは三分ローテ」「AEDは入口側に一台置き替え、見える位置に」「酸素、残量針を必ず声出し確認」「逆走禁止。救急車導線は一本」  立ち尽くす一般客の肩をそっと押して役割を渡す。「このテープに沿って、黄タグを広場へ誘導してください。番号だけ読み上げを」「毛布は外のベンチへ。冷やさないで」

 テントの口で、膝をつき子の手を握っている土木作業員風の男が目に入った。反射材の擦れたベスト。泥の跳ねた裾。白崎は屈みこみ、素早く一次評価を入れる。「呼吸二十八、浅い。末梢冷感。キャップリフィル遅延……」  少女のタグをつまみ上げ、赤を宣言。「搬送優先。BVM——酸素はマスクで10」「ゲージ良好、圧計正常。流量反応あり、稼働確認できました」と隊員。白崎はうなずき、ストレッチャーの足元を押さえてテント外へ走らせた。

 担架が上がり、救急車のストレッチャーへ移る。白崎は乗り口で一瞬だけ反射ベストの男と視線をかすめ、すぐに車内へ身を滑らせた。ドアが閉まり、サイレンが重たく立ち上がる。

 病院の救急口——到着直後の搬入は数名だけだった。だが、すぐに次の波が来る。赤タグの少女は受付を飛ばして処置室へ直行する。搬入リストは後回しで構わない、と記録担当にだけ告げ、白崎はストレッチャーの足元を押して中へ走った。次の救急車の赤色灯が、壁に揺れた。


 ERの白い光は、あの夜と同じ硬さで周囲を照らす。搬送のサイレンが重なり、トリアージのホワイトボードに『赤 5/黄 7/緑 4』が並ぶ。白崎は声を飛ばした。 「在庫、今すぐ棚卸し。点検記録、全部——過去三か月ぶん」

 救急車が横付けされる。ストレッチャーが連なり、受付台には持ち物袋が積み上がる。白崎はすぐに視線を外し、患者へ戻った。

「赤。搬入後すぐ、BVM。サチュレーション、連続で」

「さっき満タンのボンベを持ってきたのに……」  隊員の声。白崎はうなずく。 「ボンベは別ロットに交換。中央配管を第2系へ。——トロリーA-2」  看護師が走り、臨床工学の若手がサブマニホールドへ向かう。満タンのボンベは一本だけ。白崎は手元の行動メモをポケットに押し込み、患者の胸郭に手を置いた。

 ホワイトボードの右端で、誰かの手が『黄』を指し、担架のタグも一瞬、黄面に返された。 「どっちに一本?」若手が問う。  

 白崎は即答した。「気道が落ちるほうに。——赤に一本。黄はBLSで繋ぐ」  

迷いが走り、すぐに消えた。白崎はタグを赤へ戻させた。

「最初の色は、赤」

 救急車のドアが閉まり、いくつかのランプが同時に点滅する。白崎は、その光が橋の欄干の灯りに重なって見えるのを、意識のどこかで拒む。

 

 六月十三日 未明(再訪の刻)

 搬入の波の対応処置が一段落し、空も薄ら明かりが見えたころ、反射ベストの男が、ストレッチャーの影に立っていた。 白崎はその存在に気づき、眉をわずかに寄せて低く問う。「……どなた?」

 男は帳面を開きもせず、簡潔に経緯から述べた。

「あなたは悪魔であるこの私と、『“戻りたい日”の三日前に戻る契約』を結んだ。いまはその“再訪”の日だ。契約の記憶は消えているが、説明義務により要点だけ伝える。戻る前、あなたは救護テントからERへの搬入初動で酸素供給の滞りとボンベ系の管理不備を目撃し、黒瀬設備の納入・検品に甘くなっていた自分の姿勢も含めて悔いた。さらに現場で一次トリアージを黄に傾けた自分の判断を悔やみ、初療開始の十分前に戻ることを望んだ。規約により、実際に送ったのは三日前・同時刻だ」

「——告知だ。本来の余命と、契約により引き落とされる半分について。この時点で自動引き落としが実行される。告知から七十二時間だけ、いま話した事情は覚えている」

「本来の余命は五十一年。引き落としはに二十五年半。——残る人としての寿命、二十五年半」

 白崎は短く復唱した。「本来の寿命はあと五十一年。半分二十五と半分が、いま引き落とされる」

 瞬間、彼女の視界のコントラストがわずかに落ちた。こめかみに白い一本。頬の皮膚に細い影。手袋の中の指が、さっきより冷たい。

 男は指を三本立て、淡々と付け加えた。

「告知後の七十二時間、いま話したことは記憶に残る。ただし、この間に第三者へ“悪魔との契約”を口外すれば、契約はすべて無効。時間もあなたも契約前へ戻る。——引き落とされた寿命は戻らない。メモは残るが、『悪魔』『契約』の語は消える」

 白崎は短くうなずいた。遠くでストレッチャーの金属が鳴る。搬入が再開されつつある。


 男——悪魔Aは、帳面のようなものを出し、誰にも見えない頁に目を落とした。  頁の中央に『25.5』が一瞬だけ灯り、すぐに溶けて消えた。続いて『報酬:151/240』が、スマホの自動輝度がふっと上がるみたいに一瞬だけ白く跳ね上がり、すぐに沈んで低い明度のまま残る。数呼吸ぶん、その薄い表示が紙面に張り付き——ふっと消えて、ブラックアウト。紙はただの白に戻る。

 彼は何も言わない。


 そのとき、搬送口の向こう側で、反射ベストの男がもう一人、と並んで立つのが見えた。白崎は一瞬だけ視線を上げたが、すぐに患者へ戻る。

「先生——」

 看護師が後ろから覗く。彼女の視線が一瞬、白崎のこめかみに止まった。

「……髪、どうかしました?」

 白崎は微笑んで、マスクの紐を結び直した。

「歳を取るのは、順番だから」

 声に出した瞬間、言葉が喉の内側で小さく転んだ。順番。半分。いずれ消えるはずの記憶の縁だけが、舌に触れる。

 白崎は、白髪の混ざった髪を耳にかけ、ペンのクリップで軽く留めた。

 ERに戻る前に、彼女は短く祈る代わりに、付箋を一枚、受付の端に貼った。

「赤は先。——次、入ります」

 白い光が、夜の端を押し戻していた。


 六月十六日 朝(事故から四日目)

 病院の宿直室に、朝の白がにじむ。薄いカーテンを通った光が、壁のデジタル時計で一瞬止まり——6:06の表示が、かすかに瞬いてまた進んだ。  

 白崎はゆっくり身を起こす。首の付け根が少し固い。髪を束ねる手が思ったより重く、こめかみに白いものが増えている。目の下の影は浅くなったのに、笑い皺だけが一段深い。指先には、細い震えがほんの少しだけ残っていた。

 胸の奥は不思議と軽かった。何か長い坂を登りきって、ふわりと下りに入ったような軽さ。理由は思い出せない。思い出せないこと自体が、救いになっている気がした。

 机の上に小さな付箋が一枚、斜めに残っている。  

 ——詰所在庫 再点検/搬送導線 足元強化/救急カート 再封印。  

 行動を示すばかりの箇条書き。自分の字だ。書いたときの顔も、息づかいも、何一つ浮かばないのに、やるべき順だけが身体に馴染んでいる。付箋を二つ折りにして白衣の胸ポケットへ入れる。

 ふと、メモ帳の下にもう一枚、自分の筆跡ではない紙片があるのに気づいた。ナースからの言付けだと思い、拾い上げる。

 

 ——娘が最後に、ありがとうと言ったと、伝えてくれた方へ。


 彼女はカードを胸に当て、しばらく目を閉じた。心臓の音は、静かだった。

 赤い付箋は、ただの紙になり、いつの間にか誰かのルールになった。


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