第9話 エピローグ 悪魔の派生商品
『第73回』と染め抜かれた横断幕が、前よりも太いワイヤで張られている。あの事故から何年か経って、橋の桁は補強され、歩道側には新しい欄干が増え、風速ポールは常設になった。紙灯籠の行列は、陸側にいったんたまってから、係員の合図で十人ずつ渡っていく。祭事中は車は通行禁止だ。誰も無理をしない。誰も走らない。けれど、川面にはあの夜と同じように、小さな火がいくつも揺れていた。
「——行こっか」
浴衣姿のライダー——もう“ライダー”と呼ぶより、ただの中年男になった淳一が、隣にいる玲奈の手を取る。玲奈も紺地に白い朝顔の浴衣で、髪に細い白いものが混じっている。かつて記事を書くために駆け回っていた記者には見えない。けれど背筋はまだまっすぐだった。
「橋、混んでない?」
「大丈夫。いまは“十人ずつ”だってさ」
二人は係員の合図を待ち、声の届く距離で会釈する。係員の腕章には「交通整理/土木」とある。
少し離れたところで、その様子を見ている男がいる。反射テープのついたベスト。胸には市の土木事務所のワッペン。隼人だった。昔よりも頬が痩せ、白髪が耳にかかっている。それでも目の動かし方はあの夜と同じだ。風速表示を見て、歩道側の荷重を数えて、若い警備員の立ち位置をひと目で直す。
「歩道、間隔一歩広げて」
「はい、隼人さん」
若い警備員が照れ笑いしながら動く。その背中を見送り、隼人は手帳を指先で押さえた。手帳の端には、あの日からずっと変わらない癖の字で「救護 陸側」「重量物 禁止」とだけ書いてある。理由はもう書いてない。けれど行動だけは残っている。
橋のたもと、今年の仮設救護テントは、前よりも広い。白い天幕の下、冷房が軽くかかっていて、酸素ボンベは番号順に並び、封印シールはどれも新しい。一番奥で、白衣に法被を羽織った白崎が、若い看護師と並んで様子を見ていた。
「熱中症、いま二人。すぐ水分で返せるから、ここまで運んで」
「はい、先生」
白崎も年を取った。こめかみの白い筋は増えたが、声はよく通る。テントの入口の柱には、あの日の付箋を大きくしたような紙が貼ってある。
赤は先。迷ったら上。
酸素は残量を声出し確認。
逆走禁止、導線一本。
見慣れた三行だ。若い看護師がそれを指でなぞる。ここにいる誰も知らないが、それはこの町が一度失ったものを取り戻すための“おまじない”でもあった。
「先生、橋のほう、きれいですね」
「ええ。——」
白崎はそう言って、目だけで橋を見た。灯りを持った子どもたちの列の中に、浴衣の男女がいる。玲奈と淳一だ。二人は本当に夫婦のようだった。周りの人もそう思っている。誰も、あの二人がいちど婚約して、いちど別れて、またこうして並んでいるなんて知らない。
橋の中央にさしかかったとき、川面の風が二人の浴衣をふわりと揺らした。足もとはしっかりしている。あのときみたいに沈まない。歩道板のつなぎ目は全部新しい。
欄干には、亡くなった人たちの名前を刻んだ小さなプレートが並んでいる。
赤いリボンを結んでいく人もいた。
玲奈はそっと指でその一つを撫でた。誰の名前かまでは知らない。ただ、この橋で一度町の時間が止まったことだけは掌でわかった。
淳一が短くうなずく。川の水音が聞こえるだけで、ほかの音が少し下がる。祭のざわめきは遠くなる。白崎のテントの白だけが、川をはさんでまっすぐ立っている。
橋の下手、陸側の人混みの端に、反射ベストの男がひとり立っているのを、玲奈はちらりと見た気がした。ヘルメット、フェイスシールド。けれど次の瞬間にはもういなかった。
「ねえ」 「ん?」
「ちゃんと、続いたね。祭り」
「うん」
玲奈は笑った。淳一も笑った。川面に灯りの帯ができる。子どもたちの「きれいー」という声が上がる。テントの中で白崎が胸ポケットの付箋を確かめ、橋のたもとで隼人が風速計を一度見上げる。
崩れない。今度は、崩れない。夏の夜が、静かに落ちていった。魔の派生商品




