9.幻惑の戦い
西の空が血のような赤に染まり始めていた。カグリス村の廃墟に立つ四人の影は、まるで古い絵物語の一場面のように夕闇の中で静止していた。崩落した地下空間から立ち上る土埃が、最後の陽光を受けて金色に輝き、それはこの世のものとは思えない幻想的な光景を作り出していた。
レオンは膝に手をつき、荒い息を整えていた。先ほど体内に入り込んできた他者の魂の残響が、まだ彼の内側で微かに震えている。それは異国の歌を聞いた後のような、理解できないが確かに心に残る旋律に似ていた。自分という境界線が一度溶け、再び形を取り戻したばかりの不安定さ。世界の輪郭が以前とは違って見える。
「生きてるか、坊ちゃん」
ユリウスは杖を地面に突き立て、その重みに寄りかかるようにして立っていた。額に浮かぶ汗は、単なる肉体的な疲労からではない。魔術師としての彼の感覚が、何か巨大な存在の片鱗に触れたことを告げている。それはまるで、深い森の奥で古代の獣の足跡を見つけた狩人のような、本能的な畏怖だった。
「あの男……リオスは、ただの研究者じゃない」
ユリウスの声は夕闇に溶けていくように低かった。その顔には普段は見せない不安の色が浮かんでいる。長年の魔術研究で培った知識が今まで出会ったことのない種類の力の存在を警告している。
「あいつ、一体何なのよ……」
セラフィーヌは銃を腰のホルスターに戻しながら、崩れかけた石壁にもたれかかった。赤茶色の髪が夕風に揺れ、汗で額に張り付いた髪を無造作にかき上げる。その手は微かに震えていた。妹のことを思い出させる光景を目の当たりにして、古い傷が再び開いたような痛みが胸の奥で疼く。
「魂を器から器へ……まるで水をグラスに移すようにいうなんて……」
彼女の呟きは自分に言い聞かせるようでもあり、世界への問いかけのようでもあった。この世界の理が根本から揺らいでいるような不安。それは、大地が溶けて無くなるような、足元の確かさを失う恐怖だった。
「どうしてこんな非道な事を……」
ノエルは、胸に抱えたマリアの魂が入った容器を見つめていた。硝子の中で揺れる灰色がかった光は、まるで消えかけた蝋燭の炎のように頼りなく、それでいて必死に存在を主張している。彼の灰銀色の瞳に映るその光は救いを求める者の最後の希望のようでもあり、自分の無力さを突きつける残酷な現実のようでもあった。
「マリア……必ず、必ず元の姿に」
ノエルの祈りは神に向けられたものか、それとも自分自身への誓いか。巡礼者として多くの土地を歩き、多くの苦しみを目にしてきた彼にとって、この小さな魂の叫びは消えることのない罪の烙印を表していた。
崩れた地下への入り口から、まだ微かに青白い光が漏れている。それは解放されずに瓦礫の下に埋もれた魂たちの最後の輝きのようだった。あるいは、この世界に留まることを拒み、別の世界へと旅立とうとする者たちの別れの挨拶かもしれない。
風が吹いた。
それは普通の風ではなかった。灰の臭いと共に、古い記憶や失われた時間、そして、これから起こる出来事の予感を孕んだ風だった。
「動けるか」
ユリウスはレオンに手を出すと、ゆっくりと立ち上がり、仲間たちを見回した。レオンの瞳には一介の風紡ぎではない責任感と、一人の人間としての不安が入り混じる。彼の中では、いずれ戴くことになる地位ある人間としての自分と、まだ若い青年としての自分が、絶えずせめぎ合っていた。
「この村に留まるのは危険だ。日が落ちる前に、せめて別の村の外へ」
その言葉に皆が頷く。しかし、動き出そうとした瞬間、空気が凍てついた。
嵐の前の静けさにも似た異様な緊張感。鳥たちが一斉に飛び立ち、虫の音が止む。世界が息を潜めたような、不自然な静寂が村を包み込んだ。
「来るぞ」
ユリウスが杖を構えた。魔石が激しく明滅し始める。それは、強大な魔力の接近を告げる警告だった。
村の中央、かつて広場だった場所の空間が歪み始める。まるで水面に石を投げ込んだような波紋が空気中に広がっていき、その波紋の中心から人影が現れた。
リオスだった。
しかし、先ほどまでの飄々とした研究者の姿ではない。白衣は脱ぎ捨てられ、代わりに古い時代の魔術師が纏うような深い藍色のローブを身に着けている。煤けた茶髪は夕陽を受けて赤銅色に輝き、眼鏡の奥の暗灰色の瞳は底なしの深淵のような闇を宿していた。
「逃げ出したかと思ったんだが」
セラフィーヌが銃を抜いた。その動作は流れるように素早く、長年の実戦で磨かれた無駄のない動きだった。
「まだやる気? 懲りない男ね」
リオスは微笑んだ。大人が子供の遊びを見守るような、どこか憐れみを含んだ笑みだった。
「逃げる? どうして逃げる必要がある。ボクはただ場所を変えただけさ」
彼が手を上げると、周囲の空気が震えた。いや、震えたのは空気ではない。空間そのものが、彼の意志に従って形を変えていく。
突如、村の景色が変貌し始めた。
崩れていた家々が、まるで時間を巻き戻すように元の形を取り戻していく。いや、違う。これは修復ではない。幻術だ。しかし、その幻術のあまりの精巧さに四人は息を呑んだ。
石畳は磨かれたように輝き、枯れた噴水からは清らかな水が湧き出る。家々の窓には温かい灯りが点り、どこからか人々の笑い声さえ聞こえてくる。まるで、この村がまだ生きていた頃の幸せな記憶が形を持って現れたかのようだった。
リオスの声が、幻想の村に響く。
「これが、この村の本来の姿だ。人々が幸せに暮らしていた頃の」
レオンは双剣を抜いた。刃が夕陽を反射し、オレンジ色の光を放つ。しかし、その手は微かに震えていた。目の前の光景があまりにも生々しく、本物のように見えるからだ。
「幻術か」
リオスが一歩前に出た。その足音は、確かに石畳を踏む音を立てている。幻術でありながら物理的な実体を持っているかのような奇妙な存在感。
「この村に残された最後の幸せな記憶。ボクはそれを形にしただけさ」
ユリウスの顔が青ざめた。魔術師として、彼はこの術の異常さを理解していた。通常の幻術は見る者の知覚を欺くだけだ。しかし、リオスが作り出したこの幻想は過去の記憶そのものを現実世界に投影している。それは時間と空間の法則を歪める、禁忌中の禁忌の術だった。
「これほどの術を……一体、お前は何者だ」
ユリウスの問いにリオスは答えなかった。答えの代わりといわんばかりに、彼の周囲の景色はさらに変化していく。
幻想の村人たちが、一人、また一人と姿を現す。農夫、商人、子供たち。皆、幸せそうな笑顔を浮かべている。しかし、その笑顔のどこかに微かな違和感がある。まるで、絵画の中の人物のような生命を持たない完璧さ。
「もっと見せてくれよ」
リオスが杖を掲げた。赤い石が激しく輝き、幻想の村人たちの目が一斉に赤く光り始めた。
「キミたちの戦いを」
幻想でありながら実体を持つ不可能な存在たちが、四人に向かって動き出した。
ノエルが聖印を掲げ、祈りを捧げようとしたが、金色の光は幻想の村人たちをすり抜けていく。存在しながら存在しない。そんな矛盾した敵に、通常の聖術は通用しないようだった。
「これは……どう戦えば」
ノエルの困惑にリオスが答えた。
「簡単さ。君たちも幻想になればいい」
その言葉と共に、四人の足元から奇妙な模様が広がり始めた。
セラフィーヌが発砲し、弾丸は確かに幻想の村人を貫く。だが、撃たれた村人は、まるで水のように形を崩し、すぐに元の姿に戻ってしまう。
「これじゃ無駄よ!」
彼女の焦りに妹の記憶が重なる。あの時も現実と幻想の境界が曖昧になり、何が本物で何が偽物か分からなくなった。その恐怖が再び彼女を襲う。
「セラ! 落ち着くんだ!」
レオンは剣を振るいながら、必死に考える。幻想と戦うには、どうすればいい。物理的な攻撃が通用しない相手に、どう立ち向かえばいい。
その時、ユリウスが叫んだ。
「皆、目を閉じろ!」
その声には、今まで聞いたことのない切迫感があった。仲間たちは反射的に目を閉じる。
次の瞬間、激しい光が爆発した。
ユリウスが放ったのは破壊の術ではない。幻想を幻想として認識させ、現実との境界を明確にする術。それは、高度な精神魔術の一種だった。
光が収まり、目を開くと村は元の廃墟の姿に戻っていた。幻想の村人たちも消えている。
しかし、リオスだけはそこに立っていた。
ノエルが持っていたはずのマリアの魂を抱えて。
「なるほど、君もなかなかやるじゃないか」
リオスの声には感心したような響きがあった。その中には大きな余裕も感じられる。リオスに取って、これはただの戯れでしかないのだ。
ユリウスは先ほどの術でかなりの魔力を消耗したのだろう。息を荒げ、額に浮かぶ汗は夕陽を受けて赤く染まる。
そして、彼だけが感じ取っていた。
リオスから放たれる、微かな殺意を。
それは、他の仲間たちには向けられていない。ユリウス一人に針のように鋭く向けられた、冷たい殺意。なぜ自分だけが標的なのか。その理由は分からない。しかし、同じ術者としての直感が告げている。この男は、いずれ自分を――
「面白い」
リオスが呟いた。
「キミたちとなら、もう少し遊べそうだ」
彼の姿が、再び揺らぎ始めた。今度は撤退するつもりらしい。
「待て!」
レオンが叫んだが、リオスは振り返らなかった。
「また会おう、風紡ぎ諸君。次は、もっと面白いものを見せてあげる」
そして、彼の姿は夕闇に溶けるように消えていった。
残された四人は、再び静寂に包まれた。
戦いは終わった。しかし、誰もが感じていた。これは、始まりに過ぎないと。リオスという男の真の力、真の目的。それらはまだ厚い霧に包まれている。
ユリウスだけは、自分だけに向けられた殺意の意味を考えていた。胸の奥に小さな棘が刺さったような違和感。それは、これから起こる悲劇の最初の予兆だった。
陽が完全に沈み、夜の帳が下りようとしていた。星が寂しげに瞬いている。それは希望の光というよりは、孤独な魂の最後の叫びのようにも見えた。
四人は無言で歩き始めた。村を後にした。
背後では廃墟となったカグリス村が闇に沈んでいく。
そこに眠る百の魂たちの運命は、もう誰にも分からない。ただ、風だけが彼らの最後の囁きを運んでいるかのように四人の背中を押していた。
夜道を照らす月はまだ昇らない。星明かりだけが頼りの道を四人は歩き続ける。それぞれが今日という日の重みを背負いながら。明日という未知への不安を抱えながら。
幻惑との戦いは静かに終わりを告げ、遠くで狼の遠吠えが聞こえた。それは、この世界がまだ生きている証でもあり、闇の中に潜む危険の警告でもあった。